evergreen 5

人で賑わう商店街を抜けて河沿いのアスファルトを踏んで行くと、最初に見えるのがその朱塗りの鳥居だ。
低い住宅街の中でにょきりと突き出したそれは、震災や空襲からも奇跡的に免れたもので、聞けば江戸の頃からもう三百年近くもここいらの住民達から信仰を集めてきたらしかった。ほんの少し黒ずんだ色調の広がる東京の下町に、明々として点る朱。一番最初、書き込み過ぎで見にくい事この上なかったナルト作の地図を頼りにここへ来たサスケの目には、その色がなにより頼もしく映ったものだった。ここに来るまでの道順にはすっかり慣れたけれど、なんとなく今でも目印にしてしまう

「あれっ、サスケ?」

慣れた足取りで参拝の石段を登る。下町のごたつきの中ぽっかりと広がる境内に踏み込めば、初っ端から庭先で気合を入れるかのようにストレッチをしているナルトと目があった。いつもは墨を警戒して濃い色の服を着ているが、今日はその心配がない為か楽なハーフパンツに真っ白なTシャツ姿だ。快晴の空の下、上背のある大きな体と夏らしいその格好は、実に健やかそうに彼をみせている。
「おっかしいな、オレってば今日はバイトじゃねえから、サスケは来るの昼頃でいいって言わなかったっけ」
そう言ってストレッチの手を休めたナルトは、早々現れたしんからサスケが意外なようだった。
早過ぎだってばよ?と傾げられる金髪に、夏の朝の光が明るく弾んでいる。
「ごめんな、オレ時間言い間違えてたか?」
「いや、そんなんじゃなくて……」
「ん?」
「…………まあ、暇だったから」
どことなく歯切れ悪くなるサスケにも、ナルトは特にこだわりを見せなかった。
ええ~!?などと歯を見せるが、その顔は純粋な嬉しさにみるみる輝いていく。
「なんだソレェ、オレんとこ来ンのは暇潰しかってば!」
微妙な言い訳にも冗談めかした笑いで返しながら、ナルトはどことなく視線が定まらないサスケの頭ににゅっと腕を伸ばした。またもや問答無用で掻き回される髪。クセ毛を気にしているサスケが髪を触られると怒るのを、知った上でわざとやってきているのだ。
「馬鹿、やめろって!」と手を振りほどこうとするも、ニヤニヤするナルトは執拗だった。「やなこった」などとうそぶきながら、暴れるサスケを適当にかわしつつぐしゃぐしゃとまだやっている。
「い……いかげんに、しろ!!」
はなせ!と一喝してようやく逃れると、乱されまくった前髪の下サスケは目を尖らせた。ナルトはしつこい。しかも面倒な事にやめろと言えば言うほどに燃え上がる質らしく、冗談だとわかってはいても正直、時々は本気で腹が立つ。
折角来てやったというのに恩を仇で返しやがって、と内心の苛立ちを込めて抗議に口を開こうとすると、ふと離された右手がやわらかくサスケの頬をつまんだ。
――うそ、うそ。来てくれてすごく助かるってばよ。
夏の光を背にさりげなくそう言われてしまうと、悔しい事に何も言い返せなくなってしまう。
「……の割に、言ってる事とやってる事が全然合ってねえだろ」
悔しさ紛れにどうにか憎まれ口をひねり出すも、ナルトは全く意に返さないようだった。「んー?だってしょーがないってば、お前の髪つやっつやで、触るとすげえ気持ちいいんだもん」と乱れた髪を撫で付けられれば、うっかり大嫌いだったクセ毛がほんの少し悪くないように思えてきてしまうから恐ろしい。
サスケ、と呼んでくる声の親密さに、顔を上げる。
夏の空を背景にしたその輪郭はあんまりにも大きい。そうしてつくられた安らかに大きな影の中に、サスケはいつだってすっぽりと覆い隠されてしまうのだ。

  * * *

「あっ、来た来た……ばあちゃーん!」

続々とやって来る親子連れは責任者に任せ、家の中にあるコンロの前で火の番をしていると、開け放った引き違い窓の向こうで一際よく通る呼び声がした。煮え立つ湯の中、投入したばかりの乾麺が踊るのから目を離し外を見る。
鳥居の前に寄せられた高級車から降り立ったのは、ひとりの女性だった。僅かに小柄ではあるが遠目にも、随分とメリハリのある身体つきをしている。
ひと言ふた言、親しげに言葉を交わすとナルトはその女性を先導してサスケのいる屋内へと上がってきた。「荷物はいつもどおりそこら辺においといて」などと言う口振りにも気安さが窺える。

「サスケ」

ひと声掛けて捲られた暖簾に一瞬緊張すれば、それも解けぬうちにすぐ金髪頭が覗いた。こちらは流石に染めているのだろう、同じ位明るく染められた頭がその横には並んでいる。
「ゴメン、今ちょっといい?」と言われ体ごと向き直ると、真正面にふたつの明るい影がずいっと進み出た。どういう説明がされてあったのか、ナルトの祖父と親しい間柄だったというその妙齢の女性は最初からサスケに興味津々な様子だ。
「んっん~!え~~ご紹介するってばよ!」
じいっと観察し合うふたりを引合わせると、何故か張り切った様子のナルトは畏まって咳払いをした。しかし芝居がかった仕草で「こちらが~」とやりだすやいなや、揃って開かれた口に邪魔される。
「知ってる」
「私もだ」
素っ気なくも鮮やかな了解に、出鼻を挫かれたナルトは「ほぇ?」などと妙な声をあげた。
鍋の中からは、ぐらぐらという催促するような煮え湯の音が消えないまま聞こえている。
「なんで知ってんの?」
「だってお前、この前本校に来た時言ってただろう。先週この会の件で電話してきた時だって、散々話してたじゃないか」
「……サスケは?」
「オレも……何度も、聞かされてたし。あとお前この前、チラシ出してきてこの人だって見せてきただろ」
口を開けるナルトにスラスラ説明すると、その女性は呆れたように腰に手をあてた。自宅の新聞に折り込まれる前にナルトから見せられたチラシのサンプルに写っていた通り、驚くべき若々しさだ。多分ナルトの祖父と同い年だというからにはもう還暦にも手が届くかと思われる筈だが、緋色の唇から放たれる声には艶っぽい張りがあった。くびれた腰に掛かる手はシンプルだけれどきちんとお金をかけていそうな爪先をしている。賢そうな目と明るく染めた髪色が彼女の気質の強さを物語ってはいたが、それもカルチャースクールの経営者というポジションを彩るにはそれも頼もしいように思われた。紹介したナルトは「ああ、そ、そっか……じゃあサスケもばーちゃんって呼べばいいってばよ」などと言ったが、見た目をとってもその気風の良さをとっても、サスケにはそんなシワの寄ったような呼び方をするには勇気が足りないようだ。
あ~……そっかぁ、とちょっと気分を削がれたらしいナルトを余所に、その妙齢の美女はニコリと笑うと、サスケに「どれ、」と言って顔を寄せてきた。ふわりと漂う香水の香りは見た目の艶やかさとは裏腹に、意外にもすっきりとしたグリーンノートだ。

「――お前さんが『サスケ』だね?」

尋ねられるというより確かめるようなその声に、こくりと頷く。するとその仕草に彼女は「ふうん」と楽しげに応じた。
「いいねえ、なかなか素直そうじゃないか」
「えっ……いやいやばーちゃんそんな事ねえって、サスケはさ」
「ちょっと黙ってなナルト、あたしゃ今この子と話してるんだよ」
ずいずいと前に出ようとする金髪頭を、またもや鮮やかな一声がぴしゃりと制した。ぐうっと不満気な顔が黙る。出番を頭ごなしに潰されるばかりなのは気の毒だったが、ちょっと気味がいいようにも思う。いつだって輪の中心で自由に振舞う彼をこんなにも見事に押し込められる人物は、他に見たことがない。
「17だって?」
「……はい」
「若いねえ、高校二年?」
「いえ、三年です」
端的に、尋ねられた事だけに答えると、ぴんと目尻をはねさせた瞳がじろじろとサスケの全身を見た。
「なるほどねえ、確かに聞きしに勝る別嬪じゃないか。しかし見たところ、こんな所でバイトするより街中の洒落たカフェあたりで働いてる方が似合いのようだが」
いきなりぶつけられてくるそんな試してくるような口振りに、つい負けじと睨み返す。
静かではあるが明瞭な態度をみせたサスケに、細く整えられた眉が(おや、)と上がった。ルージュの唇が端っこだけをニヤリとさせたかと思うと、少し色素の薄い瞳がそそられたかのように輝く。
「**市から来てるんだって?遠いのにご苦労だね」
「別に……電車に乗ってしまえば、一本ですから」
「17なんて遊びたい盛りだろう。もっと街中でする賑やかなバイトでなくていいのかい」
「そういうのはあまり好きじゃないので」
「でもだからってこんな墨にまみれるような職でなくてもいいだろう?」
「どんなバイトだって面倒はある」
「時給だってそんな大層な額じゃないんだろう?まだ若いんだし、探せばもっと割のいいバイトもあるんじゃないかい」
「……特別安いってわけでもないし。不満を言う程じゃない」
ぽんぽんと打ち込まれてくる質問にも怖じる事なく返していくと、そんなサスケに麗しの女性経営者はどこか愉快げに目を覗き込んできた。そうして最後にふと間を置くと、「そうかい、なら、書は好きかい?」と最終問題のように尋ねてくる。
「好き……かどうかは、よくわからない」
ちょっと考えつつ答えると、それまで黙って成り行きを見守っていたナルトが(ええ~)という顔をするのがわかった。それには無視をしたまま、口ごもりつつも返事を探す。
「……けど、墨の匂いや、紙を筆が滑る音は嫌いじゃない。あと、まあ……ここのガキ共も」
考えつつそう言うと、女性の横で突ったっていたナルトが、「あの、ガキじゃなくて、一応生徒さんな?」とぼそぼそ訂正を入れた。開け放ったままの台所の窓の向こうには、わあわあと賑やかに椀と箸を配り合う一団が見える。
そのままなんとなくじいっと黙ってしまうと、そんな場を壊すかのようにふいに「じゅっ」という何かが蒸発するような音がした。ハッと察しがついて横をみれば、果たして麺を茹でていた大鍋からは真っ白な噴き溢れがあわあわと盛り上がっている。
「うわっ、やべえサスケ火!火!」
言われるがまま慌ててコンロのつまみを回し鍋つかみを使うのもそこそこにシンクに据え置いた大ザル目掛け中身をあけると、盛大な湯気がぶわっと視界を白くした。それに目を閉じさせられつつ大急ぎで水道の蛇口を捻る。派手に立ち上る湯気は覗き込む三人の顔をまだ包んでいたが、どうどうと最初から勢いよく冷水を落とされるとあっという間に収まっていく。
「やっべ、茹で過ぎたか」
「そうめんは一瞬だからねえ」
「あ、でもこれ普通のそうめんよりはちょい太めのやつ選んでるし。茹で時間も長めだから」
「そうなのか?」
「ん、その方が子供らの箸に引っかかりやすいからさ。流しそうめんて結構センスが問われんだ」
「ああ……確かにいかにも取れなさそうなヤツいるからな」
言い合いつつちゅるりと三人して摘まみ上げた一本をすすり上げてみると、確かにいわゆるナントカの糸のような高級極細麺よりはしっかりとした太さの麺は程よい硬さを保っているようだった。さっぱりとした味わいを残しながらつるつると喉を下っていく麺に、なんとなく三人して顔を見合わせる。
口が塞がった途端、急にまた静かになってしまった場が可笑しかったのだろうか。くく、という息の漏れに目を遣ると、完璧に装われた白い顔が肩を震わせているのが見えた。娘のようなその仕草に思わずぽかんとなると、そんなサスケにくろぐろとした長いまつげがぱさりと上がる。

「――いいね、合格だよ」

そう愉快そうに言うと、彼女は呆気に取られたままのサスケに激励するかのように、ばしっとひとつその二の腕に活を入れた。そんな細い腕のどこに蓄えているのか、半袖Tシャツから出たその部分に残るその手形が意外なほどに熱い。
「……アッ、ばーちゃんそれセクハラ!!」
はたと気がついたかのように上げられたナルトの叫びが、薄暗い台所に場違いのように響いた。
間をおかず「やかましい、黙っとれ!」といういなし慣れた声ともうひとつ「ぱしん!」と高い位置にある金髪頭が叩かれる音が、じゃあじゃあと流しっぱなしになった水の音に混じった。


茹で上げた時(いくらなんでも子供相手にこんなには絶対無理だろう)と高をくくっていたサスケだけれど、始めてみれば他愛なく無くなっていく白い麺に驚く事となった。一体この小さい体のどこに入っているのだと確かめたくなる程に、大ザルに収まりきれない程山盛りになっていた素麺が、他愛なく子供達の胃袋に収められていく。

「サスケ先生遅いよ、早く流してよ」

そんな風に催促する声に、せっせと手を動かす。炎天下の下、まだかまだかと大勢に詰め寄られるかのようにして始められた流しそうめんは思っていた以上の賑わいぶりで、大ザルを持って現れたサスケはまるで持ち上げられるかのような勢いでスライダーのスタート地点へと立たされた。炎天下の下、ひっきりなしに麺の投入を求める声に、汗を拭く余裕すらない。セッティングされた竹のスライダーには、知った顔ぶれがぞろりと並び、小さな肩をぎゅうぎゅうと寄せては夢中で箸を流水に突っ込んでいる。
「んー、そことそこ、ちょっと場所入れ替わりな?ちっさい子前にしてやって」
流す係をサスケに任せ、ナルトは全体を回ってはあちこちに指示を出しているようだった。彼の祖父が生きていた頃は、きっと今のサスケの役がナルトのポジションだったのだろう。
「ナルトせんせ~~取れないい~~~!」
半べその声に呼ばれて向かう背中が、その度に丸くかがみ込む。こうでさ、こうやって箸を斜めにさせっと、うまいこと麺が引っかかるんだってばよ?そうやって教えるやり方もすっかり慣れた口調だ。
「なーにアンタ達はこんなとこでそんなズルしてるんだい」
一喝する声に見ると、スライダーの末端でしゃがみこむ野球帽が三つ。スライダーの最後、幾十もの箸の林にも引っかからなかった麺を掬い受けるザルの所で文字通りおこぼれを拾って食べようとしている少年達に、仁王立ちの美女が見下ろしている。
「違うよズルじゃないよ、この方が勿体なくないしさ」
「そうだよ賢いだろ?」
「そうかい心がけは結構だけれどね、でもそこにあるのはあたし達大人が後でどうとでもするから」
さあ、小さくても男だろう、最初から勝負に参加しないなんてつまらない事言うんじゃないよ!
そうお尻を叩かれれば、すっかり丸くなってのんびりしていた少年達も黙ってはいられないようだった。ムッと頬を膨らませつつも椀と箸を構え、するすると乳白色の麺が滑っていく水の流れに立ち向かう。

「よーし、じゃあそろそろ交代!今度は大人の番な」

ひとしきり子供達が平らげた頃、ナルトがおもむろに言った。すると待ってましたとばかりにわらわらと、それまで周りで我が子を見守っていた親達がスライダーに群がりだす。どうやらこれも恒例らしい。どの顔もうきうきと、非日常を楽しむ笑顔で満ちている。
顎から滴ってくる汗が麺に落ちないよう庇いつつ、すっかり熱された脳天にちょっとくらくらしていると、流し係として立っている台の上にずいっとナルトが上がってきた。「さー、じゃあこっからが本番だってばよ」と声をあげ、さっと横から抱えていたザルを引き受ける彼に、待ち受ける観衆から「え~!」と不満じみた声があがる。
「へ?『え~っ』て何だってば??」
「なんで交替すんの、私達サスケ先生に流して貰いたいんだけど」
ね~、サスケせんせ!などと黄色い声で手を振ってきては悪びれる事なくそんなリクエストを出す母親達に、ナルトは唖然としたようだった。しかし段々と意味が飲み込めてきたのだろう。気合と三角巾と両方を兼ねているいつもの墨染の手拭いの下で、早くもすっかり夏色になった顔がぶすりとしかつめられていく。
「ダメダメダメ!大人はオレの担当だってば」
「ええ~~~」
「サスケは今度は食うの担当!――お疲れさん、サスケ。手伝ってくれてありがとうな」
お椀と箸、取ってこいってば。そんな言葉に、一度は(なーんだ)とぶうたれていたご婦人方の表情がさっと現金に復活した。俄かに色めきだったかと思うと豊かなジーンズのお尻がぶつかり合いながら、「あっ、そういう事ね!?じゃあここ、ここにおいでよ!」などと場所をあける。
「……お前はどうするんだ?」
手伝いよりも遥かに面倒くさくなりそうな予感に小声で尋ねれば、ナルトは「ん?」とこちらを見た。「ああ、オレはいいの。いつも最後残っちまったやつを食ってるから」という言葉に、「残ったのって、完全にのびてるだろそれ」と眉を寄せる。
「うまかねえだろ、それじゃ」
「ああいや、そのまま食うんじゃねえから」
「?」
「揚げて固焼きそばみたいになったやつにあんかけしてくれたり、カレー粉と炒めて焼きビーフンみたいにしたり。いっつも最後にばーちゃんがそうやって、残った麺をリメイクして食わしてくれんだ」
見た目によらず意外と家庭的だろ?というナルトについ頷こうとすると、間髪入れず耳聡いその人から「『意外と』は余計だ!」という一喝が飛んできた。迫力あるそれにびくりと跳ねた肩が同じタイミングで、見合わせた顔からは思わず苦笑いが溢れる。
じゃあオレもそれで、と言うと、ナルトはちょっと驚いたようだった。「えっ、サスケも?」という彼にこくりと頷くと、立っている台の上からひょいと地面へと飛び降りる。
「あ、ちょっ……どこ行くんだってば」
「それじゃ量足りねえだろ。もうちょい茹で足してくる」
先程の経験を踏まえナルトの抱えるザルを指差すと、サスケはくるりと踵を返した。「やだぁ、食べないの?」などと憚らず惜しむ声に短い礼だけを残し、逃げるように母屋へと戻る。
人気のない屋内へと入ると、知らずほおっと息が漏れた。落ち着きに満ちた静かな暗がり。先々代の神主からそのまま受け継いでいるというナルトの家の玄関は、広々とした土間にひんやりと湿気た空気を溜めている。
靴を脱いで台所へと戻ると、サスケは再び登場の大鍋をシンクに据えて、迷いなく水栓を捻った。金の底を打つ水の音が跳ね、やがてどうどうという頼もしい音になる。ふと振り返ったダイニングテーブルの上には、大袋いっぱいに詰め込まれた子供向けのカップゼリーがどかりと置かれていた。流し素麺大会の締めは、この小さなデザートらしい。「あいつら、コレ流すと麺の時より必死になるから」などと笑っていた、ナルトの言葉を思い出す。
水の落ちる音にぼんやりと耳を傾けていると、突然「サスケ!」という極彩色の声が飛び込んできた。脱ぎながら適当に放ったのだろう、玄関先から騒々しく家に上がる音がして、次いで(かこん、)と下駄が転がされる音がする。

「ナルト?」
「わり、いいってばもう。後はオレがやるから」

そう言って現れたナルトは強引にシンク前の場所を代わろうとしたが、サスケはそれをするりと躱した。「代わらなくていい。つかお前、あっちで流し係しなくていいのか」と首を傾げれば、「平気平気、今ばーちゃんがやってくれてるから」と日焼け顔が破顔する。
「サスケが行っちゃってからも、かーちゃんズがあんまり煩かったからさ。ばーちゃんが癇癪起こして、『だったらこのアタシの手で流してやるよ』って」
まったく、みんなヒトんとこのバイトに、気安くセクハラしすぎだってばよ、などと憤然とするナルトに「セクハラ?」と笑えば、薄闇にもくっきりと青いその瞳がじとりとサスケを見た。これだからなあ、という溜息が、ふたりきりの台所でふかぶかと落とされる。
「大体がさ、出欠取ってた時点でおかしいと思ったんだ。いつもだったら親の参加は生徒の半分位しかないのに、今年はほぼ全参加だし」
「そうなのか」
「そーだってば、それにさあサスケが来てからあの人達、やけにキレーにしてお迎えに来るようになった気がする」
なんかやたら早くから来て見学してくようになったしさあ、などとぶつくさ言い腐るナルトに苦く笑うと、サスケはいっぱいにまで捻ったままの水栓に手を伸ばした。きゅ、という音と共に水が完全に止まったのを確かめてから鍋を持ち上げようとするも、取っ手を掴む前にナルトがさっさとそれを持ち上げる。
がこっ、という重たげな金属音を響かせ、五徳に再び大鍋が掛けられた。
そのままつまみが回されたコンロの口からは、かっ・ちっちっちっちっち、というどこかまどろっこしい音と共に、青い炎が立ち上る。
「相変わらず、モテるよなぁ」
ふと漏らされたそんな呟きに、ああまたかと思う。『サスケ』が子供の頃からアカデミーと呼ばれる学校やそれ以外の場所で、やたら異性から持て囃されていたというのは、もう何度も聞かされた話だ。

「……あの『ばあちゃん』って人は、出資だけじゃなくいつもああやって手伝いにも来てくれるのか?」

随分と父兄にも慣れているようだったが、と不自然さが出ないよう気をつけながら話を変えると、ナルトは「ああ、」と言ってこちらを見た。
遠くを見つめていた碧眼が、すうっと近くに戻ってきたのを感じる。
「うん、じいちゃんが生きてる頃からずっとな。毎年あんな感じ」
「そもそもあの人がこの会の出資をしてくれるのは何でなんだ?いまいち筋がわからねえんだけど」
「うーん、その件については結構古い話になって……元々はじいちゃんが、若い頃やんちゃし過ぎて教室を潰しかけたせいというか」
話し始めはしたものの、いきなり言い淀むナルトに「はあ?」と聞き返すと、いつにないサスケの素っ頓狂な声は思いがけず外にも響いたようだった。食べ終わり庭で好きに遊び出している子供達の何人かが、チラリとこちらを見ると「せんせ~!」と手を振ってくる。
細長い台所の窓越しに手を振り返すと、ナルトは「よっ……と」と呟きつつ、立ったまま後ろのダイニングテーブルへと尻を凭れかけた。火に掛けた大鍋を前にそのまま腕組みで待ちの姿勢に入ったナルトに倣いつつ、サスケもそっとテーブルの縁に体重を預ける。

「実はオレんとこのじーちゃんって、ほーんと何もかもがざっくりどんぶり勘定な人でさあ。その上酒も女も大好きだったもんだから、まああっちこっちで色々やらかしてくれたらしくて」

結構昔にという言葉の通り、語られたナルトの話はどうも今から三、四十年程前にまで遡るらしかった。戦後の高度経済成長の中開校したはいいけれど、その祖父である人のあちこちでの粗相が祟って、あっという間に教室の土台は傾いてしまったらしい。
「だいたいがさ、生徒もそ当時は全然集まらなくて」
「?なんでだよ、お前のじいさんてその筋では、結構有名な書家だったんだろ」
「やー、だってさあ今だったらネットとか情報誌とかもあるからいいかもしんないけど、その頃はもう集客するっていったら全部がクチコミだから。そうでなくともオレのじいちゃんってば見た目は結構いかつい感じの人だったからさ、そうそう子供が寄ってくるような雰囲気じゃなかったんだってばよ」
そんなこんなで、生徒不足と資金繰りに困り果てた先代に助け舟を出してくれたのが、件のスクール長であった。
幼馴染であった彼女は「だったら子供が寄ってきたがるような場所だとわからせればいい」と結するとずかずかと先頭きって隣近所の家々へと向かい、夏休みに家で退屈している子供らとそんな子供に倦んでいる大人達へ、ちょっとした行事があるから遊びに来ないかと誘って回ったらしい。
「つまり、素麺をエサに教室見学に誘ったってことか」
「エサって!そこはせめて『ダシ』って言わねえと」
そのものズバリなサスケの物言いに一応の配慮を見せつつも、ナルトは(しょうがねえなあ)といったように眉尻を下げた。腕組みに盛り上がるTシャツの肩が、今にも触れてきそうな距離で愉快そうに揺れている。
そんなこんなな奮闘の甲斐あって、ナルトの祖父の書道塾はどうにか廃業の危機を免れたらしい。しかしその後も集客とご近所付き合いを兼ねて、年に一度、このイベントは欠かさず行ってきたのだという。
「でもそれじゃあやっぱり、あの人はボランティアで出資と手伝いをしてくれてるんじゃないか?」
長い話の最後にそう聞くと、ナルトはそんな疑問にもニヤリと口の端を上げた。いや、そこんとこはばーちゃんもやり手だからさ。あそこでついでに、自分とこの教室の勧誘もしてるんだ。
「自分とこのって、スクールの?」
「そう。見てろよ、ああやって盛り上げてるけど、最後にちゃっかりスクールの大人向け短期講座やイベントの宣伝もしていくからさ」
これがまた、結構みんな面白そうだっつって参加するんだよなあ、などとぼやぼや呟かれた言葉に、サスケはなんだか納得した。確かに。誘いあえるママ友達がそろい踏みしている所に、ピンポイントでいかにも興味を持ちそうな話題を持ち込めば、新聞の折り込みチラシよりもずっと申し込む確率は上がるだろう。スクール長本人の気持ちのいい気風も、きっと母親達からは魅力的に映る筈だ。
よく出来たからくりに「しっかりしてんな」と呆れると、隣からは「まあな」と小さく肩を竦める気配がした。「そうでなきゃやってけませんから」などといつになく世間ずれした事を言うナルトが、妙に新鮮に思われる。
「……あの人、結婚は?」
ふと思いたって尋ねると、ナルトはちょっと困ったような笑いを浮かべた。
若い時一度したんだけど……すぐに旦那さんが病気で亡くなって。あのスクールも元々は旦那さんが始めたものでさ、ばあちゃんはそれをそのまま引き継いでるんだ。
「ずっと再婚もしなかったのか」
「そう、だってばあちゃん今でも死んだ旦那さん意外、完っ全に眼中にないもん」
「……すげーな」
「な?じいちゃんがよく言ってた。どれだけ誘ってもあの人からは、鼻もひっかけられなかったって」
「誘ってもって、お前のじいさんだって結婚してたんだろ?」
「ううん、うちのじいちゃんは生涯独身。オレのかーちゃん、養女でさ。本当の両親は事故で亡くなったらしくて、子供の頃遠い親戚だったじいちゃんに引き取られたんだって」
だからじいちゃんはずっとばあちゃん一筋だったんだけど、まあ……こればっかは、しょうがねえよなあ。
やるせないような溜息と共に呟くと、ナルトはちょっと取りなすかのように頭を掻いた。それでもただの友達であれば、いくら宣伝込みだといえどもなかなかここまではしてくれないだろう――例えそれが、何十年という付き合いのある幼馴染であったとしても。

「まあ……そうやって沢山の人に助けられて、どうにかここはやってきたんだってばよ」

なかなかどうして、世の中には色々あるってば、などと妙に分別臭い事を言うナルトに「……ふうん」と相槌を返すと、サスケはそっと視線を下に落とした。いかにも昭和な雰囲気を漂わせる抹茶色のビニール床に、色合いの違うふたりの裸足の指先が、微妙な距離で並んでいるのを眺める。
そのままなんとなく黙ってしまうと、頃合をみたかのようにコンロに置かれた大鍋の中から「ごぼっ」という音がした。続けてぼこぼこと大きな気泡が噴き上がり出した水面に、「お、沸いたな」と身を起こしたナルトがざらりと麺を落とす。
「今年は参加者多いし、全体的に茹でる量多いなあ」
コンロ前に立ちながら、のんびりと、ぼやくでもなくナルトが言った。サスケ目当ての母親達云々はさておいても、ナルトの教室に最近人が増えているのはサスケも感じていた事だ。サスケが入っている週に二回の小学生の時間帯はそう変化はなかったが、その他の曜日にある大人向けのクラスは以前と比べると、このところぐんと生徒数が増えてきているらしかった。どうやらその殆どは外でのナルトの仕事に感化されて、わざわざ遠くから門戸を叩きにやって来た人達らしい。言われて表を見れば、見知った母親達の一団から少し外れたところで、穏やかに笑い合う大人のグループがいる。和を好むナルトの事だ、きっと彼らにも外す事なく声を掛けたのだろう。
「麺はこれで終わりか?」
「うん、あとはデザートだけだな」
「……ならあとはもう、本当にオレひとりで大丈夫だから。やっぱお前、向こうに行ってろ」
聞かされたイベントの由来に、ますますいつまでもホストがここにいるのは良くないなと思いナルトの横に立つと、そんなこちらの気遣いにもナルトは「え~?」と口を尖らせた。随分な大人のように見えていたその顔が、そうしてみると一瞬でガキ臭いものになる。
「いいって、ばあちゃんいるし」
「また怒られるぞ」
「平気平気、オレ怒られんの慣れてるし。ガキの頃、オレってばここいらじゃちょっと知られた悪ガキだったんだぜ」
堂々とそんな主張をするナルトに「そういう問題じゃねえだろ」と鼻を鳴らし、サスケは自分より少し高い位置にある金髪を見上げた。空色に映るきらきらとした好奇心に、じっと納得する。いかにも鼻っ柱の強そうな顔つき、バネの強そうな四肢。更に付け加えるならば悪戯好きなのは、今もなお健在だ。

「――なるほど、いかにも質の悪そうな顔してる」

仕返しのようにニヤッとすると、途端にナルトは「なんだそれ~、そういう言い方はねェってば!」などと軽く拳を突き出してきた。冗談めかしたその攻撃を受け止めようと咄嗟に利き手を出すと、軽口を叩いていたナルトの顔がふいに引き締まり、逃げる隙もなく手首を掴まれる。
「……どうした、ここ。赤くなってる」
想定外の動きに動転するサスケに、ナルトが言ったのはそんなひと言だった。人差し指の付け根辺り、指の横腹あたりにほんのり残るなりそこないの火脹れのような赤みに、真剣なまなざしを落としている。
サスケ自身も気が付いていなかったそれは、どうやら一度目の茹で上げで慌てて湯を捨てた際、熱く焼けた鍋肌に触れて出来たものらしかった。たぶんあの時噴き溢れに泡を食う余り、鍋つかみをきちんと使わなかったせいだろう。
痛い?と問うナルトに「全然、」と答えると、青い眼が疑わしげに細められた。
「本当に?」という尚もしつこい念押しにやれやれとなりつつも、「本当。今まで気付きもしなかった」と溜息をつく。ナルトは時々、極端に心配性だ。

「……消えねえなぁ、やっぱり」

こういうのもさ。前のオレだったら、一瞬で消せるのに。
どれだけ睨んでも消えない痕に、悔しさを滲ませナルトは言った。肌に残る赤い痣はどうという事もない小さなものだったが、それにも我慢がならないらしい。チャクラとかいう力は、医療行為に応用される事もあったのだそうだ。以前何かの折に、ナルトからそんな話も聞かされた事がある。サスケはいまだに、ナルトの話の全部を信じているわけではない。けれど(まあそういう世界を信じてみるのもアリなのかな)という位には、ナルトの語る世界に感化されている。
「便利なものだな」
「だろ?スゲー便利、疲れを一発で取ったりとか、なくした目を再生させたりとか」
「どんな怪我や病気でも治せるのか」
「あー……いや、そういうのとはまたちょっと違うんだけど。傷も自分から敢えて残す時とかあるし」
なんとなく濁した言い振りに「敢えて残す?」と首を傾げると、そんなサスケに、ナルトがほんのり苦笑した。無骨な右手が、サスケの左手を丁寧に持ち上げる。普段筆を持ち、飛びついてくる子供達を抱き上げ時々は跳ねたクセ毛を面白がって掻き混ぜてくるその手が、サスケは好きだ。皮膚を通して伝わってくる親密なあたたかさに、体の一番奥にある部分がじわりと溶けてしまいそうになる。
――きれいな、手だな。
ナルトが呟いた。正午の日差しが照り返す境内に、子供達の笑い声が高く伸びる。微温い湿度と薄闇で満ちた台所は、明るいその世界からはよけられ、完全に隔離されているかのようだ。呼吸する音さえもが響いてしまいそうで、隣にいるナルトとの距離を意識した途端、なんだか急に喉が詰まる。

「……あ、」

止められた時間の中、ふと窓の外を見たナルトが声を出した。
釣られて顔を上げさせられたサスケが「あ?」と視線の先に目を凝らそうとすると、隙を狙ったかのようにペロリと、ナルトがその痣を舐める。

「なっ……!!?」
「へへ、消毒」

舌先を覗かせあっけらかんと言うナルトは、整ったサスケの顔を真っ赤に変える事に成功したのが、実に痛快らしかった。
――サスケ、色んなとこから狙われてるからな。今のうち唾つけとくってば。
悪びれる事なくしれっとそんな事を吐く彼に、驚きと恥ずかしさでわなついたままのサスケは、もうろくに声も出せない。
「~~~~~っ、おま、なに言……っ」
「お、そろそろかな?サスケはもう手ェ出すんじゃねえぞ、オレが今消毒したばっかなんだから」
ぐらっと表面を盛り上げようとする大鍋に直前で火を消すと、そう言ってナルトはさっさとそれを持ち上げた。サスケとは違い家事にも慣れているらしいその手は、素手でも平気で取手を掴んでいる。
開いた口を閉じられないまま、顔を火照らせ立ち尽くすサスケを背に、ナルトは上機嫌に勝手仕事を続けた。煮え立つ湯ごと麺をシンクのザルに流し、水道の蛇口を捻る。どおっと最初から最大量で吹き出す水で湯気を上げる麺を一度掻き回すと、ぬめりを取るように手早くそれをもみ洗っては流れ続けている清水で締めた。びっ、びっという水跳ねを響かせて、大ザルを揺さぶる腕が力強く動く。
頬に飛んできた水滴に思わず肩を竦めると、気配を察したナルトがちらと振り返った。
跳ねた黒髪の顰め面にどこか嬉しそうにしながら、「そういえば、さっき」と思い出したかのように言う。
「さっきばあちゃんに年訊かれた時、なんで言わなかったの?」
「?……言わなかったって?」
「17だけど、すぐに18になりますって」
――来週、サスケってば誕生日だろ?7月23日。
不意打ちで当てられた言葉に、再びぽかんと口が開いた。伝えてもいないそれを、どうしてナルトは知っているのだろう。

「……なんで、」

一足先に出ていこうとするナルトに驚きを隠せず尋ねると、墨染めの手拭いの下、空色の瞳が得意げに細められた。にこりとその唇の両端が上げられるのを、何かに化かされたかのような気分でぼおっと眺める。

「やっぱり。当たりだろ?」
「教えた事なんか、ないのに」
「うん?あ、んーとな、オレが10月10日生まれだから、きっとサスケもまた、7月23日生まれなんじゃないかなあって」

……そんだけ!と晴れやかに言い切ると、ナルトは伸ばした指先で、サスケの頬に跳ねたままだったひと雫をちょいと拭い取った。火照っていた頬に、ひやりとした痕が残る。目を大きくするサスケにひとつ笑み崩れると、大きな足が気持ちよさそうに、床を踏み鳴らし台所を出て行く。
「誕生日には、なんか一緒に飯でも食おうな。素麺以外のもので!」
笑いながらそんな冗談めかした事を言い残す後ろ姿に、サスケは何も言葉が出てこなかった。『また』って、ほんと、なんなんだよ……!ぶつけようのない苛立ちに、拳を握る。
空回りする思いに胸の中がすうすうと冷える。なのに頬に残る少し濡れた指先の感触だけは堪らなくリアルで、埋めようのないそのずれが、どうにもやるせなかった。
そもそもがこの気持ち自体、自分自身の意識から生まれたものなのかさえ、もうわからない。
まったく、存在しているのかどうかさえ定かでないのに、なんて奴だろうと思う。大事な記憶はひとかけらも残してくれやしないくせに、結局は何もかもが『サスケ』に支配されているようだ。

(あいつ。10月生まれなんだな…………)

体育の日かよ、と呟くと、サスケは深い溜息と共に弱々しく笑った。
オレはまるで知らなかったなと自嘲するように思いながら、ちょっと考えて、テーブルの上に残されたカラフルな水菓子の詰まる袋へと手を伸ばした。


連休明け、いつものように決められた時間にカルチャースクールへ赴いたナルトを待っていたのは、スクール長直々からの一本の電話だった。取次の事務員からPHP型の受話器を受け取ると、挨拶もそこそこに、「どうだった?!」と思わず質ねる。
『どうって、何かだ?』
「サスケ!ばあちゃんも気に入っただろ?」
息せき込んで畳み掛けると、電話の向こうでルージュの唇が(ああ、)と苦笑する気配がした。つい大きくなってしまった声に、スクールの事務所で何やら書類を作成している、若い事務員がこちらを見る。
『いい子だね』
「そうだろ?」
『生徒にも親御さん達にも好かれているみたいだし』
「好かれ過ぎなくらいだけどな」
『なんの、集客効果があっていいじゃないか。けど惜しいねえ、あれが高校生のバイトでなく正式な書家だったら、是非ともこの先も長く頼みたいものだが』
好印象とは裏腹なあっさりとした意見に、ナルトは肩透かしでもくらったかのようにポカンとなった。この先も長く?と繰り返す声が、人気の少ない事務所内で虚ろに響く。
「え?なんで、別に指導は出来なくてもサスケは……」
『ああ、お前の代わりをどうこうというわけじゃないがね。でも別にあの子は、書を仕事にしようと思っているわけじゃないだろう?』
すっぱりと割り切ったその見立ては、確かに間違ってはいないものだった。きょうびああいった折り目正しい子は貴重だよ。春からどんな進路を選ぶのか知らないが、ああいう子ならきっとどこに行っても重宝がられるだろうよ。厳しい彼女にしては珍しい程の太鼓判に、なんとなく割り切れない思いで「……まあ、な」と返す。
『なんだ、急に元気がなくなったな』
「……そんな事ねえけど」
なんとなく意気消沈してしまうと、受話器越しにもそれは如実に伝わったらしかった。慰めるかのような溜息が、ゆるく電波に乗ってくる。
『まあ……たしかに、お前が夢中になるのもわかるけどね。本当に綺麗な子だったし』
言われて、ついこの前も見た楚々とした佳貌が、ふと頭に蘇った。慎ましい唇、すっと伸びた鼻梁。生まれ変わっても、サスケはやはり美貌の人だ。生まれ育った環境が違うせいだろう、かつての『サスケ』のような鋭利な美しさはないけれど、優美な細面や繊細そうな眼差しは、いつか見た彼と同じものだった。相変わらず口は悪いけれど、それさえもいかにも平和な家族の末っ子として大事に育てられたらしい伸びやかな我侭さを表しているようで、なんとも言えず可愛らしい。
『まさかお前、ずっとああやってあの子を、バイトのまま雇い続けるつもりだったのか?』
呆れた口ぶりに黙っていると、ほんの少しだけ厳しさを混じえた声が『無理だぞ、そんなの』とぴしゃりと告げた。相当なお気に入りなのは、この前見ていてよくわかったけどね。いくらなんでも一生囲い込むなんて事、出来やしないだろう?

「…………わかってるってば」

突きつけられた現実に渋々答えると、向こうでも(やれやれ)と肩の力を抜いたのがわかった。
そんな事はわかってる。わかっているけれど、でもようやく再会できたサスケとこれ以上離れるのが我慢がならないというのも、現実の事で。
『……まあけどあれだ、お陰でお前の好みってのはよくわかったからな!今後に期待しておくといいぞ』
流れを打ち切るかのようにふと明るくされた声に、ナルトは首を傾げた。期待って?という聞き返しに、「くくく」と艶っぽい含み笑いが受話器から聴こえてくる。
『色白黒髪の和風美人か』
「は?」
『それで、出来ればちょっとキツめな感じだな。――よしよし、あたしに任せときな』
じゃあな、今日も講義頼んだよ。意味深な言葉を残し、回線が切れた。なんとなく不穏な予感を感じつつも、通話終了ボタンを押しながらそれを受付の事務員に返す。
「うずまきさん、これ。今日の生徒さん達の個人票と配布物です」
「ん、ありがと」
電話機と引き換えに渡された配布資料に目を通すと、いつもより一部全てが多いようだった。「あれ?今日って8人だった?7人じゃなかったっけ?」と自分の勘違いを疑いつつ確かめると、すっかり慣れた事務員が「あ、今日からひとり、新規の方が増えたんです」と答える。
「ふーん、今日から?」
「ええ」
「あ、そっか今入会金無料キャンペーン中だっけ。それ使って入ってきたのか」
「そうみたいですね」
会話を試みるも、無駄口を叩かない事務員に「お時間ですよ」とさらりと流され、ナルトは自前の道具を抱え教室へ向かった。カタカタと道具箱の中身が泳ぐ音を聴きながら、渡された新しい生徒の個人票にあるその名前を確かめた途端、大きく目を見張る。
思わず足早になってしまいそうになる歩みを必死で抑えつつ、教室の前に着いたナルトは緊張する胸で深呼吸をした。まさか、どうして……いや、でも珍しい苗字だ。名前こそ違っているけれど、たぶん間違いないだろう。記載された年齢からもそう確信を深めながら、ゆっくりと引き戸に手を掛ける。
予想した通り、果たしてその人物は教室の入口、一番手前に席を取っていた。
伸ばした黒い髪、黒い瞳。弟よりもほんの少しだけ彫りの深い面立ちも、以前と全く変わらないままだ。
……うちは、イタチ。思いの溢れる声音で名を呼ぶと、彼はゆっくりとナルトに目を向けた。
「こんにちは、うずまきナルトさん」と懐かしむように細められる目尻に「なんで、」と確かめると、整った口元がふわりと静かにほころんでいく。

「――弟が、お世話になっているとうかがったので」

やわらかく空気を震わすその声は、まるでいつかの世界から直接時空を越えて届けられたようだった。
驚きとも興奮ともつかない静かな感動に、ぶるりとひとつ、ナルトは背中を震わせた。




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