evergreen 3

思い出すのは、真暗な空。
星の無い夜の下、動かない体で仰向けになっていると、だんだんと天も地も無くなって全部が真っ黒に塗りつぶされてしまうような気がした。谷を抜ける風が、ごうと鳴る。滝の音が遠く近くなり、一度散り散りになった水が集まり、再び元の流れを取り戻したのを知った。喉はカラカラなのに口の中には鉄の味がジワジワと広がり続けている。時折ゴクリと音を立て、唾液と混じったそれが張り付く喉を下る。
体中が、笑ってしまうくらい痛い。
ことに痛むのは、最後に消し飛んでしまった右腕だった。切断面から這い上がってくるようにずくんずくんと脈打つ熱い痛みが、闇の中、自分の存在をはっきりと際立たせる。
「――う……」
小さな呻きに、はっとして横を見た。
どうやら単に少し声が出ただけらしい。真横で仰向けになったままの彼は、まだ目覚めない。
流出する血が気にはなったけれど、落ち着いた呼吸と伝わってくる気配に、確かな彼の命が感じられた。長い睫毛がごくたまに、微かに震える。横目でそっと見る寝顔は呆れる程あどけなくて、下がった眉や、邪気もなく開いてしまっているその口許を見ていると、なんだか妙な可笑しさが段々と込み上げてきた。スカしたイケメンヤローも、こうなったら形無しだな。ふと浮かんだ感想に知らず口元が笑えば、さざ波みたいに広がった疼痛に、思わずイテテと声が漏れる。見えないけれどぼこぼこに腫れ上がっているらしい自分の顔も、とてもじゃないがヒトの事言えたような状態では無いらしい。どうも奥歯もいくつか欠けてるみたいだし。

(あー……こりゃ完全に、『あいこ』だなァ……)

おかしなことにそう思えばいっそう気分は満たされて、痛みもお構いなしに頬は勝手に緩んだ。
右腕に宿る鮮烈な痛み。暗闇に閉ざされた空の下、隣で静かに息をたてている確かな存在感が、なんともいえず心強い。
風が吹き、ゆっくりと雲が晴れたところから、まっしろな真円の月が姿を現す。
世界中が甘い夢に微睡む中、あの晩オレはたぶん、間違いなく幸福だった。

  * * *

「おい、起きろナルト、出番だぞ!」

パチン!と鼻先で鳴らされた手にはたと意識が戻ると、目の前に立っていたのは、今現在、講師として世話になっているカルチャースクールの理事長だった。
仕立てのいい高級ブランドのスーツが、グラマラスな彼女のスタイルをより艶やかに見せている。声にも肌にもピンとした張りがあるし、ぐんと反らされた胸は重力に逆らい豊満そのものだったけれど、これでいて実は亡き祖父の元同級生なのだというから驚きである。
「……ばーちゃん」
「ばーちゃんじゃない。理事長だ」
半分寝ぼけたような声で呼びかけるも、それは即座にぴしゃりと叩き落とされた。組んでいた腕を解き、苦く笑う。つい以前の記憶のまま彼女には呼びかけてしまうけれども、この呼び方は現世ではすこぶる評判が悪い。もしも彼女にも記憶が残っていればきっとすんなり呼ばせてくれていただろうとか思ったりもするのだけれど、でももしそうだったとしても、今世でまでこの私に向かって『ばーちゃん』などと呼ぶなとやっぱり怒られそうな気がする。
ごしごしと目を擦る。白昼夢から戻った時特有の妙な浮遊感を足にまとわりつかせたままパイプ椅子から立ち上がると、ぐらりと斜めに体が傾いだ。おっと、と呟きつつ、体勢を直す。奥に設置された撮影用のブースに入りスツール椅子に座ると、電子音と共に立て続けに三回写真が撮られたようだった。写真屋に指示されるがままに少し顔を上げ、目線をカメラに合わせる。
「お前な、もっとシャキッと締まりある顔が出来んのか、シャキッと。遠足のスナップ写真を撮ってるわけじゃないんだぞ」
まだどこかぼおっとしたままの所へ言われた辛辣な茶々に、へえへえと答えナルトはほんの少しだけ居住まいを正した。前世(不確かだが、こう呼ぶのが一番しっくりくるような気がする)で上司だった彼女は、今世でも中々に厳しい。
チ、という音と共にシャッターが切られる。
ストロボの強く白い光が網膜に焼き付き、それはどこか、遠くで見た閃光と重なった。

――自分の中に、知らない筈の記憶がある。
それを自覚しだしたのは、まだ小学校に上がったばかりの子供の頃だった。
始まりは忘れもしない、小学校の入学式の日だ。式に列席する両親と別れ、教えられた自分のクラスへと向かったナルトは一歩そこに踏み込んだ途端、目に飛び込んできた教室の光景に、まったく行ったことがない他の教室のイメージを見た。
「なあんだ、あたし知ってるそれ。『デジャブ』っていうんだってばね!」
サクラ舞う通学路を、履き慣れない革靴で歩いた帰り道。入学式用のスーツを暑苦しく思いながら、ついさっき得た疑問を訊ねると、隣で手を繋ぐ母は迷う事なく言い切った。普段はあまりしない化粧が、あの日はなんだかまばゆくて。結い上げた髪がほんのりほつれ、ベージュのスーツの肩にふわりとかかっていたのを覚えている。
「知らない筈の場所とか、やったことない事を、まるで一度経験したみたいに感じるんでしょ?」
「……うん」
「やっぱり。そういうのデジャブとか、既視感とかいうの。よくある事だってばね」
あたしだって時々そういう事あるもん、と自信たっぷりに断じた母に、ナルトはぷうっと頬を膨らめた。
そういうのとは、ちょっと違う。
だってその記憶にある教室は、さっきまでいた平坦で四角い机を人数分並べた教室ではない。広々と掲げられた大きな黒板は同じだったけれど、そこは段々畑のような傾斜のついた、長机とベンチで構成された場所だった。床だってあんな中途半端なアイボリーのビニル床なんかじゃなく、沢山の足裏に擦られてささくれた、古い木製の床で。
教えてくれている先生も、グレーのフレアスカートと眼鏡の、年配の女性教師ではなかった。
うろ覚えではあるけれどもその教室で教壇に立っていたのは、カーキ色のベストにキリリと鋼付きの額宛てを締めた、若々しい男の先生だ。
「でもそういうのって大体錯覚なのよ、『そういう気がする』ってだけだってばね」
笑う母親に(そうなのかなあ、絶対そんなんじゃないような気がするんだけど)と首を捻っていると、そんなナルトの頭にぽんと大きな手のひらが乗せられた。仰ぎ見る、逆光の金髪。これまた滅多にお目にかかることのないスーツ姿で柔和な微笑みを浮かべている父は、釈然としないままのナルトに「まあまあ」と甘く言った。そういう事があっても、オレはいいと思うけどね。そんな風に言ってはくれていても、やっぱり本気で信じてはくれていなかったのだと思う。
あやすような笑顔に子供心にも優しい父親の気遣いが感じ取れてしまって、そのままその話は有耶無耶になってしまった。けれど、どうしたって広がったイメージはただの妄想とも思えなくて。
不思議な白昼夢を時折見るようになったのは、その頃からだ。
見る夢はいつも同じ世界の物語だ。そこにはチャクラという人智を超えた力を持つ人々と、強大な力をもつ尾を持った幻獣が生きていた。

「よし、これで全員分か。結構スムーズに終われたな」
想定していた段取りが、思った以上に順調に進んだせいだろうか。予定よりも早くに終了しそうな撮影作業に、普段は厳しい理事長も今日はかなり上機嫌な様子だった。その声にはたと気が付いて、スツールから降りる。なんだか今日は、思考にとりとめがない。こうして普段はしないような事をしているからだろうか。
今日は水曜日。本来ならば講義がなく、来るはずもない曜日にわざわざこの都心にあるカルチャー教室の本社にナルトが来ているのは、ひとえにこの理事長からの命令によるものであった。曰く、夏休み前に一度スクールで新規入会キャンペーンを打ち出す予定なのだが、その広告に使うため、登録している全講師の写真を撮るのだという事らしい。普段は来ない曜日という事で、皆あれこれ予定を動かしながら都合を付けてきているのだろう。同じように呼び出されたらしい他の講師達も、撮影が終わったと同時にいそいそと帰っていく。
「ご苦労だった。最後まで待たせて悪かったな」
相談を終えた写真屋を見送ると、戻ってきた理事長は部屋にまだ残るナルトに向かい、そう言ってニッコリと綺麗な笑顔になった。チャクラがなくとも、この人は現世でも若作りだ。
「チラシの方が出来たら、お前にもまた何枚かやるからな」
「え?ホームページの方だけじゃねえの?」
「ホームページの方が先にはなるが、新聞にも折り込みで入れる予定なんだ」
「ふうん、結構大々的にやるんだな」
感心したようなナルトの声に、「ああ。日付はまだはっきり決まってないが、来月頃には入るはずだ」と答えると、理事長はすっと壁に掛けられた時計に目をやった。
お前この後暇か?待ってられるなら、夜に美味い鰻でもご馳走してやるぞ。上機嫌の勢いついでなのか、飛び出したそんな気前のいい言葉に、つい体が前のめりになる。
「えっ、マジで!?」
浮かれた声に、アイラインの瞳が細くなった。ああ、畳の座敷で特上の鰻重を食わせてやるぞ。そんな風に言ってにんまり誘う赤い唇に、思わずゴクリと喉が鳴る。
「あー……でもゴメン、食いてえのは山々なんだけど……」
一瞬乗りかけたけれどすぐに思い出した予定に、ナルトは直ぐさま身を引いた。今日はさ、もうじきウチにちっさいのがいっぱいくるから。その言葉に、すぐに意を解した理事長が「ああ、」と笑う。
「そうか、今日は書道教室の日だったか」
どこかしみじみとしたその言い口に「うん」と笑うと、塾長はゆったりとその目を細めた。きっとその頭の中では、懐かしい太い声が思い出されているのだろう。子供向けの書道教室は、神社の神主でもあった祖父が、その晩年なにより生きがいとしていた仕事だ。
誰もその夢の話を信じてくれない中、たったひとり真面目に取り合ってくれたのが、今は亡きその祖父だった。皆が「またそんな夢の話をして」と呆れる中、祖父だけは「いいじゃないか」と認めてくれたのだ。聞けば、自分の名前を付けてくれたのも、やはりこの祖父だったらしい。生まれたての孫の顔を見た瞬間『この子の名前はナルト以外にない!』と思ったのも、もしかしたらその前世がある証拠かもしれんしのう。そんな風に豪快に笑ってくれる祖父は、フォトグラファーとして世界中あちこち飛び回っていた両親に代わり、幼いナルトの面倒を誰よりも見てくれた人でもあった。
「どうだ、ちゃんとお前経営できてるのか?」
斟酌のない問い掛けに「なんだよそれ~当たり前じゃん!」と慌てて返すと、美貌の塾長はニヤリと不敵に笑った。たぶん祖父が教室運営をしていた頃、ドンブリ勘定が祟って何度も教室が潰れかけたという過去の事実を、暗に踏まえて言っているのだろう。
「大丈夫だって、いい反面教師がいてくれたお陰で、オレってばそっちは結構しっかりしてっから」
「そうか、そういえばそうだったな」
「エロ仙人みてえに女遊びもしねえし」
「成程。そこは確かに重要だな」
堂々と胸を張った発言にぷっと吹き出すと、理事長はクククとそのまま小さく笑い出した。年を感じさせない若々しい笑い声に、釣られるようにしてナルトも笑い出す。本人は気が付いていたのかいないのか定かではないが、この美貌の女性経営者は祖父の生涯の憧れの人だった。散々女性関係では問題を引き起こしてきた祖父だけれど、彼女といる時だけは妙に大人しく、格好つけていたものだ。
「まあ、しかし……ひとりで無理は、しないようにな。お前最近、外での仕事も増えてきてるだろう。手が必要な時はいつでも遠慮なく言うんだぞ」
ふと笑いやんだかと思うと、不意にそんな気遣いに満ちた声を掛けてくる彼女に、ナルトもそっと口を噤んだ。や、外での仕事つったって。そんな毎日お呼びが掛かってるわけじゃ、ねえってばよ?口に出してみると微妙に照れたような気分になって、つい所在なくなった手がうなじを掻く。
「そりゃまあ、前よりはちっと行動範囲は広がってるけど。けどそんな言う程、大変じゃねえし」
「……そうか」
「それに今、教室の方はひとりじゃねえんだ。言ってなかったっけ?実は春先からひとり、手伝いに来てくれてるやつが……」
「なにっ、そうなのか!?」
それは聞いてなかったぞ、と話半ばで飛び込んできた横槍にキョトンと目を向けると、そこには何故か目をキラキラと輝かせた理事長が、期待に満ちた表情でこちらを注視していた。そうやって頬を赤くさせると、ますます彼女は年齢不詳になる。
「やるじゃないかお前!」と勢い込んでくる彼女に「へ?ああ、まあ、そ、そう?」と曖昧に頷くと、どう解釈したのか彼女はうむうむと納得したように深く頷いた。「そうかそうか、ようやくお前も目覚めたか。いくつだ?どんな子だ?お前意外と面食いだからな、さては中々の別嬪なんだろう」などという矢継ぎ早な質問に、(あー、)と気が付いたナルトは溜息をつく。
「えーと、その、一応17だけど」
「17!」
「うん。高校生」
「なんだと、高校生!?ナルトお前、ようやくと思ったらなんてけしからん事を……!」
「……や、つかばーちゃん違うって。手伝いって、彼女じゃねえよ?」
男だから、とあっけらかんと告げると、途端に盛り上がっていたスーツの肩はピタリと止まり、やがてがっくりと落ちた。「なんだ、そうなのか」という気落ちした声がやけに申し訳なくて、今度はぽりぽりと頬を掻く。
「男か……」
「うん、そう」
「男なのか」
「バイトでさ、来てもらってんの」
今はまだ週二日だけだけどな、などと付け足しつつひとつ伸びをすると、大股で部屋を横切ったナルトは隅に置いておいた自分のリュックを取り上げた。ざっくりとそれを右肩に掛けると、手首のダイバーズウォッチを確かめつつ「んじゃオレ、そろそろ」と言う。実際の教室の時間にはまだ間があるが、その前にちょっと寄りたいところがあった。きっと驚くであろう彼の事を想像すると、思わず笑みがこぼれ出る。多分最初は怒るんだろう。でも絶対、嫌なばかりじゃない筈だ。
「ごめんなばーちゃん、またな。次また美味いもん食わせてくれってばよ」
「ああ、まあ、それはいいんだが」
「ん?なに?」
「……あのなぁ、ナルト」
なんとなく含んだ言い方にキョトンとすると、そんなナルトに理事長はふかぶかと溜息をついた。なんだってばよ?と首を傾げると、掛けたばかりの肩当てがずるりと僅かに落ちる。
「あの馬鹿は、確かに年中盛りすぎだったが。けどお前はお前で、問題あるぞ?仕事熱心なのは結構だが、たまには彼女のひとりでもつくったらどうだ。大昔に一度付き合ったきり、もうずっといないだろう?」
相手が見つからないなら紹介してやるが、という申し出にも苦笑いで首を横にすると、理事長はあからさまにがっかりしたようだった。 「お前な……」という溜息混じりの声を遮るように、大袈裟な身振りで手首に巻いた時計を見る。
「あーっと、ゴメン!オレってばホント、そろそろ行かねえと!」
「またそうやって、お前は逃げる」
「や、そんなんじゃねえって!……けどまあ、そういう話は今はナシな?興味もねえし、全然困ってもいねえから!」
それにオレにはもう、決まったヤツがいるからさ。
さらりと付け足された締めの言葉に、今度こそ理事長は呆れ果てたようだった。
まだそんな、世迷い事を。
一向に聞く耳を持たない様子のナルトに、そんな途方に暮れたようなひと事が呟かれる。
「まったく、お前は……」
「え?」
「……いい加減目を覚ませ。それは夢だろう?」
「んー?さあ、どうだろなァ。誰にもそれは言い切れないってばよ?」
腰に手をあて諭してくる彼女に、ナルトは素知らぬ顔で空とぼけた。きっと伝えたところで、彼女には信じてもらえないだろう。それどころか反対される可能性も少なくない。決して悪意があっての事ではないとわかってはいるけれど、もうしばらくは穏やかに、誰にも邪魔されず彼との時間を過ごしたい。
そんな事を考えつつ、大股でドアを潜りながらふと思いついたナルトは、最後に「ああそうだ」と振り返った。素知らぬ顔で出ていこうとするナルトにムスッとした理事長に目を合わすと、それでも、これだけは言っておかねばと、強引に口を開く。
「あのさ、その、バイトの子な」
「あぁ?」
「確かに男ではあるんだけど――中々どころか、もンのすげえ別嬪だってのは、当たってるってばよ」
今日この後会えるであろうその人の姿を思い浮かべれば、どうしたって頬はふにゃりと緩んだ。
やっぱオレ、面食いなのは間違いねえのかも。
そんな事を言いつつひらひらと手を振ると、理事長はまた「はぁ?」と首を傾げた。


(まったくもう、ばーちゃんってばすっかりお見合い婆みたいになっちまって)
コインの投入と同時にぱっと一面に点いたグリーンのランプを眺めつつ、ナルトはやれやれといった思いでひとつ溜息をついた。祖父がいなくなってからというもの、彼女との会話の最後は大体このパターンだ。心配からの言葉であることは、よくわかっている。そもそも自宅の書道塾と書家の活動だけで生活していこうとしていたナルトに、スクールで社会人向けのクラスを持つのを勧めてきたのも、今にして思えば女性との出会いの場を作ってやろうという狙いもあったのだろう。
途中下車した地下鉄のホーム。 気を取り直すかのようにランプのひとつを押すと、普通の飲み物よりもふたまわり程も小さいその缶は、機械音を伴いつつ受け取り口に落ちて転がった。常に省エネモードに設定されているのだろう。久しぶりに見た抹茶色の自販機は相変わらずの薄暗さで、人影のまばらなその駅の構内で商品を吐き出すと、愛想なくすぐにまたバックライトを消してしまう。
(でもなー、オレってばもう、『見つけちゃった』からなー)
腰を屈め、転がり落ちてきたその缶を拾い上げると、ナルトはニヤリと口の端を上げた。
そう、自分はようやく見つけ出したのだ。
半年前、ここの駅で。長年ずっと、何度も夢で見てきた『その人』に。
(いやーあン時のサスケ、マジ容赦なかったよなあ……)
あの日オレンジのダウンジャケットの鳩尾部分に残された見事なスニーカーの足跡がふいに思い出されると、ナルトはくくくと喉の奥を鳴らした。
――彼を見つけた日。それは灰色の雪雲が空を覆っていた、二月のある日の事だ。
これまで一度も降り立った事のないこの駅にナルトがいたのは、本当にただの偶然だった。偶然書家としてのナルトの作品を気に入ったという和食店が所在していたのがこの駅の近くで、あの日はその打ち合わせの帰りだったのだ。
底冷えのする地下鉄の構内で、ぼおっとひとりきりになってしまった家に帰る事の憂鬱さを燻らせていた時。唐突にその人は、ナルトの前に現れたのだった。

(――あ、)

みつけた、と。
その瞳と視線が交わった瞬間、気付けば唇が勝手に動いていた。
あの時。なにか、強力な力に引き寄せられるかのように目を向けた、ホームの向かい側。
制服に身を包んだその少年はたったひとり、薄暗い地下鉄の構内でナルトを見ていた。
身につけていたのは地元の高校の制服らしきチャコールグレーのブレザーで、それは夢の中で見た彼の装いとはまったく違うものだった。髪もほんの少し短い。体つきも記憶の中にある彼よりも随分と華奢だ。
けれどその凛とした佇まいが、まっすぐに澄んだ眼差しが。
白い肌も、艶やかに跳ねる黒髪も、寸分違わず魂に刻まれた『彼』のものと同じもので。
…………途端、ぼんやりしていたナルトの中では眠っていた心臓がようやく目覚めたかのように、体中が熱い歓喜に溢れた。サスケだ……サスケだ。ああ、どうしてこれまでこの名前を忘れていられたのか。はるか遠い昔から、自分はただ彼を見詰めるために生まれてくる事を約束していたのに。何もかも、全てを投げうってでも、彼といる事を望んできたのに。
水脈を掘り当てたかのように、ナルトの中に『その世界』の記憶がどんどん湧き上がってきたのもその時だった。チャクラという人智を超えた力を持つ人々、尾を持つ幻獣達。これまで断片的だったイメージはするすると集まっていき、パズルのピースが嵌っていくかのようにその記憶は完成された形となった。言葉で説明するのはとても難しい。けれども『サスケ』とひとつ声に出してみるだけで、体の芯から喜びがどんどん溢れ出てくる。
矢も盾も堪らず駆け上がった対岸のホームで、黒い瞳を驚きでまん丸にした少年に、辿り着いたナルトは両手を伸ばし迷う事なくその名を呼んだ。しかしその日喜び勇んで決行したファーストコンタクトは、結果的には散々な失敗に終わったのだ。ダウンジャケットの鳩尾部分に、見事な足跡を付けられ、彼は厭味なうすら笑いと共にひとり乗り込んだ電車と共に去っていった。後から聞いたところによると、サスケはナルトの事を最初狂人かストーカーだと思っていたらしい。「だっていきなり大声で名前叫ばれるし、抱きつかれるし。どう考えたって普通じゃねえだろ」と言ったサスケは流石に申し訳なさそうな風情ではあったが、しかし確かに当時のサスケの容赦ない仕打ちを思い返すと、本気でそう思っていたらしい事がうっすらと伺えてくるのだった。
けれどもまあ、それは……仕方ないのかもしれない。
てっきり自分の方は一瞬で記憶が戻ったし、そもそもサスケの方が先に自分の事を見ていたようだったから、最初は彼も当然ナルトの事を覚えているのかと思ったのだけれど、何故かサスケは1ミリもその世界での事を覚えていなかったのだから。

「――なにまたこんなとこで、そんな久々な事やってんだお前は」

飛び込んできたしかめつらな声に、ナルトはふとその意識を止めた。
コツンと蹴られる足先。そっと見上げればそこにはいつかと同じ、澄んだ切れ長の瞳があった。
「……サスケ」
声に出すと、それは思った以上に嬉しげな響きになった。待ち人の到来に、思わず目が細くなる。
地下鉄の白じろとした光を背に、すらりと痩せたその制服姿の少年は、すこぶる不機嫌そうな表情で立っていた。初めて見る夏服がなんだかまばゆい。丁度今日からが衣替えだったのだろうか。ベストを重ねた真っ白な半袖シャツはまだおろしたてらしく、ぴっしりとプレスがされた襟が清々しい。
「いいだろ、待ち伏せ。懐かしいだろ」
「懐かしくねえよ、ストーカー野郎」
ニヤニヤするナルトに、サスケはザックリと言い捨てた。「はあー?なんだそれ、ひっでえの!」と言い返し、ナルトはパッと組んだ足を解く。不穏な単語は、二人の間では今では笑い話の種になっているものだ。大変不名誉な事に、出会ったばかりの頃ここで毎日下校するサスケの事を待っていたナルトに対し、彼の周囲では「サスケが男ストーカーに狙われている」という噂がたったらしい。「なんだよもう、折角来たのに」と僅かに拗ねると、「誰も頼んでねえよ」というにべもない言葉が返ってきた。だいたいがもう、ここで待ち伏せはすんなって前に言っただろうが。憮然としてそう言うのは、多分そのストーカー疑惑のラストが『サスケが男ストーカーに落とされたらしい』で終わっているからだろう。
「ようやく変な噂も消えたのに」
「変て。いいじゃん勝手に言わしとけば、別にそんな間違ってもいないし」
「間違ってるだろ!噂されるオレの身にもなれ」
抑えた声で怒るサスケを余所に吊るされた構内の時計を見上げれば、黒い針は既に三時を回っていた。閑散としていたホームにはいつの間にか人が増えている。そのうちの半数はサスケと同じ高校の制服を着た学生だ。
「わかった。じゃあ待ち伏せはもうやめる。そん代わり、お迎えにするってば」
そんならいい?とへらりと笑って言い添え、ナルトはぐんと前に屈んでその顔を覗き込んだ。見られたサスケは一瞬たじろいだかのように息をのみ、きゅっとその形のいい唇を結ぶ。くろぐろと輝く瞳がまばたかれ、舌打ちと共にふいっとその顔が横を向く。その仕草は大変にぶっきらぼうなものであったが、そっぽを向く頬は僅かに赤らんでいた。なんだ、やっぱり本心では嫌じゃないんじゃないんだ?そんな素直じゃない一連の行動もまた彼らしくて、ああ、やっぱりサスケだなあとまたしみじみ嬉しくなる。
立ったままの彼に「ん、」と鼻で言いすぐ横に置いていた缶ドリンクを退かすと、つんとした横顔が目だけでちろりとこちらを見た。照れているのか、それともやはり周りの目が気になるのか。こちらの言わんとしている事は伝わっているはずなのに、半袖の夏服は未だに無愛想に横を見たままだ。
「ほら、座れって」
「…………」
「あんまそこに立ったままでいると、逆に不自然で目立つってばよ?」
そのひと言が効いたのだろう。憮然顔のサスケは執念深くまだナルトを睨んでいたが、そのうちにどすんとベンチに腰を落としてきた。間にひとつ、席を開けている。やはり少しずつホームに増えてきた、自分と同じ高校の制服が気になるのだろう。
愛想ゼロでもそれでも隣にきたサスケに、ナルトはそっと前に向き直った。退かすために手にしていた缶を、かしゃかしゃと数回振る。そうしてから軽い音を立ててプルタブを引くと、それをひと口啜ったナルトはいきなり「んんっ」と目を大きくした。
「?……何だへんな声出して」とつい声を出してしまった彼に、「ヤバイ。これウマイ」と大真面目な顔で振り返る。
「……お前この蒸し暑いのにまたそんな暑苦しいもん飲んでるのか」
「暑苦しくねえって。だってこれ『つめた~い』だもん」
ほれ、と書かれた商品名が見えるようぶらりと缶をぶら下げるように見せると、それを見た途端、サスケは派手に眉を寄せた。「冷やし大納言?」と読み上げた声にも、(うわー)といった敬遠するような響きがありありと浮かんでいる。
「なんだそれ、冷やした善哉?」
「うーん、いや善哉じゃなくどっちかっつったら汁粉だな。餅とか入ってねえもん」
「……不味そ……」
「不味くねえって。なんだろ、『あったか~い』のより甘くてサラサラしてんのかな?」
飲んでみる?と尋ねるも、夏服の彼はしかめつらで首を振るだけだった。形のいい唇が、拒否を示すかのようにぎゅっと結ばれている。前世で甘いものが苦手だった彼は、今世でも引き続きその嗜好を貫いている。
拒否されたけれどなんだかその嗜好の変わらなさも嬉しくて、ひとつ笑ったナルトは再び悠々と足を組み直した。少し距離があるせいで、横からの彼がよく見える。やっぱり今の彼の方が昔の『サスケ』よりも華奢だ。けれどそれでも歪みのないその姿勢は、昔も今も変わりない。
「半袖。初めて見たな」
しげしげと眺めると、まっさらな白のカッターシャツにナルトは再び目が細くなるのを感じた。
似合うってばよ、とさらりと口にすると、またもや小さな舌打ちで返される。
シャツから伸びた腕がすんなりと細い。痩せ過ぎじゃないかと思われるほど華奢なその腕ではあったが、それでもいかにもすべすべとしていそうな肌は、その隅々までに十代らしい瑞々しさを張っていた。それにしても相変わらず、日差しを浴びたことがないかのような色の白さだ。ほくろ一つ、シミひとつ見当たらない肌は、完成されすぎてなんだか本当につくりもののようだ。
…………そういえばかつての『彼』と別れたのも、丁度今の彼の年の時なんだな。
改めてそれに気が付くと、ナルトはまた感慨深くその横顔を見た。すっきりと通った鼻筋に、いつかの記憶が重なる。
恩赦が決まったと同時に旅に出る事を彼が打ち明けてきた時、自分達はまだ、17歳だった。
大きな戦争が終わり、同じだけの痛みを分けあって。当然このまま彼は里に残ると思っていたナルトに対し、サスケが選んだのは外の世界へと出て行く事だった。
秋の終わり、鮮やかに色付いた里の木々から、木の葉舞い落ちる頃。
あてのない、確証もないその『約束』だけを残して、あの日サスケは里を出ていった。



『――もしも、本当に』

その映像は、彼と再会する前から、繰り返し何度もナルトの白昼夢の中に現れるものだった。
夜明け間際、星達が眠りに就き始める黎明の頃。
ほの明るくなっていく世界の中、その淡い残像は次第に形をつくっていった。喉を枯らし、体全部で引き留めようとしたナルトに対し、別れを決めたその人は湖面のような瞳を濡らし、ただ静かに微笑む。こんなにも引き止めたいのにそれでも彼がまもなくいなくなるという現実が、息が出来ないほど苦しい。思わずしがみつくように抱き締めた体は痩せて細く、失った腕の分だけそれは更に感じられた。

『里とか、一族とか。そういう今背負ってるもん全部なしに、どこかで生まれ変わる事ができたら』

――だって、こんなに、お前のことが必要なのに。
肩の上、しがみついて乗せた頭の後ろを、彼の手が宥めるように撫でてくれた。
大丈夫だと言ってくれる、痩せた指が優しい。片方だけになってしまったその手は、嗚咽にむせるナルトの髪を丁寧に梳いた。大丈夫……お前はもう、大丈夫。離れてもオレ達は、ちゃんと繋がったままだから。駄々を捏ねる子供に言い聞かせるかのように、その声は低く甘い。

『必ずまた、会いにいくから』
『どんなに広い世界で、どんなにお前が姿を変えていたとしても。きっと見つけ出してみせるから』
『そしたら、その時は――』



「……ナルト!」
差し込まれてきた声にはっとすると、それは丁度轟音と共に待っていた地下鉄がホームに入ってきた所だった。いつの間にかまた浮上してしまっていた頭を慌てて引き戻す。どうもいけない。忙しさから頭が疲れているのだろうか、ここのところますます『そちらの記憶』に、思考を連れていかれ気味だ。
何故かやけに暗い目をしたサスケに「?」と首を傾げながらも、慌ててナルトは持っていた缶をあおった。甘い小豆をぐびぐびと飲み干すその様子に、(うぇ、)とサスケが人知れず眉を顰める。
大急ぎで空にした缶をゴミ箱に捨てると、停車する車両に駆け込んだ二人は扉横に揃って立ち並んだ。ナルトの自宅兼教室のある神社は、この二つ隣の駅だ。その間閉まりっぱなしになる奥側の扉に、ふたりして向かい合い寄りかかる。
「ワリィ、まーたボケっとしちまった」
ははは、とから笑いじみた声を上げると、そんなナルトにサスケは黙って静かな視線を送ってくるのみだった。タタン、タタン、という規則的なリズムに足元が揺れる。先ほどまでいた地下鉄のホームが、薄暗かったせいだろうか。四面を白い壁と床で覆われた車両の中は、明かりから何からが明るすぎるように感じる。
「……また、『前の世界』の事考えてたのか?」
小さく尋ねてくるサスケに「ん?まあな」とあっさり答えると、そんなナルトにサスケはまた黙りこくった。下げた目線が床の一点を見る。煌々とした白色の光が上から降り注ぎ、陶器のようなその頬に藍色の影を、やわらかく落としていた。
「なんか…………最近、多く、ないか?」
その声は彼にしては珍しく、随分と細く遠慮がちなものとして聴こえた。微妙に消えかける端々に、「え?」と聞き返してみても、やはりその顔は妙に浮かない。
「そっかな。そんな風に見える?」
「……ああ」
「なんだろな、暑くなってきたからかな。確かにちょっと、ボーッとしちまう時が最近あるんだよな」
それか寝不足かな!最近夜もちょっと片付けなきゃならない仕事が多くてさ、などと明るく言ってやれば、少し考えたらしいサスケはやがてそっと口を開いた。
――なんだかお前、そのうちに『あっち』に連れていかれそうだ。
ぽつんとそんな呟きまで落とすその顔は、僅かに俯いて表情が見えない。
「へ?あっち?」
「…………」
「あっちって、前世の世界?けどそれは無理じゃねえの、今ここにいる時点であっちのオレ、もう存在してねえだろ?」
「……そういう意味じゃなくて」
うん?じゃあどういう意味だってばよ?と訊き返しても、サスケは黙っているばかりだった。いつの間にか挟まれていたひとつの駅は通り過ぎ、目的の駅に着くのはもう間もなくだろう。
「――あのさ……教室の、方。もし大変なようなら、もう少し行く日を増やしてやろうか?」
何か思うことでもあったのだろうか。黙りこくっていたサスケは口を開いたかと思うと、突然そんな事を言い出した。まったく予期していなかったその申し出に、思わず「えっ?」と大きな声が出る。もちろんサスケは生徒に書の指南までは出来ないが、それでも細々とした雑務をやって貰ったり、のべつまくなしに話しかけてくる子供達の相手を半分受け持ってくれるだけで、ここのところ忙しくなってきた身としては十分助かる。それよりなにより、今以上にサスケと会える機会が増えるという事だ。こんな願ったりな申し出あるだろうか。
冬の頃、サスケに書道教室のバイトを頼んだのは、最初は単に、彼から帰りの待ち伏せを禁止されてしまったのが発端だった。毎日十数分の楽しみが駄目ならば、代わりに週に何回かでも、確実に会える機会が欲しかったのだ。 正直、サスケがかつての記憶を全て無くしてしまっていた事に、ショックを受けていない訳ではない。同じ記憶を分かち合えない事に、歯がゆさを覚える事もある。でも別に、そんなものがなくても自分たちは今一緒にいられていた。記憶なんてなくても、それだけで十分だ。
「なに、いいの?」と驚きつつも隠せない喜びに、こっくりと夏服の少年が頷いた。
ああ、今の曜日以外にも、学校終わってから行ける時には行ってやるよ。
照れ隠しなのか、ぼそぼそと歯切れ悪く続けられた言葉に、否応なく気持ちが弾んでしまう。
「マジで!?」
「……マジで」
「うわー、そりゃもう、目茶苦茶ありがてえよ!」
そんな事を言い合っているうちに地下鉄はすんなりと駅に着き、やがてナルト達の寄りかかっているのとは反対側の扉が、プシー、と抜けた音を立てて開いた。
「おっ、着いた。降りよサスケ!」
と何気なくそのむき出しになった腕を掴むと、びくりと一瞬サスケが身じろぐ。やっぱり細ェなあ、前のサスケは流石にしっかり鍛えてたからななどとふわりと思ったが、構わずナルトはそのままその腕を引っ張る。最初地下から乗り込むこの路線は、ここの前の駅からの区間中に地上に出る。そうして並んで降り立った降車駅のホームは、薄暗さを取り払う明るい初夏の日差しで溢れていた。
明るい日の下で改めて見ると、白のカッターシャツにベスト、チャコールグレーのズボンで構成されたその夏服は、実に彼を健やかに見せていた。首が細いせいだろう、少し泳いだ襟元にはゆるやかなゆとりがある。そこから見えるまっしろな首筋が、強い光のなか初々しく輝いていた。そこに冬の頃より僅かに短めになった襟足が、はらりとかかってはつやつやと跳ねている。
なあ、と声をかけると、呼ばれた黒い瞳がきょとんとして顔を上げてきた。
見上げてくるその澄んだ瞳。それは確かに、いつかみた黒と同じものだ。
「夏服、やっぱすげえ似合ってる。流石オレのサスケだってばよ!」
口に出すとなんだか物凄く満足な気分になってきて、大きく息を吐いたナルトは晴れ晴れと笑った。そんなナルトを、チラチラと通りすがりの人々が横目で流していく。
言われたサスケはぱちくりと目をまたたくと、それからぱっとその頬に赤を散らした。
後ろで出発する電車の警笛が高らかに鳴る。照れたような口先がごにょごにょっと何か返してきたが、響き渡る出発のベルに紛れ、よく聞き取れなかった。
「ん?なんて?」
腰を折りその口元に耳を寄せると、ぐ、とひとつまたサスケがその身を固めた。
やがて思い切るかのように息を吸った唇が、ひと呼吸分だけ間を溜める。
「………誰が『オレの』サスケだ、ボケ!」
へ?とポカンとしたところにがつんと脛を蹴られると、「うっ」と呻いたナルトは小さく体を屈めた。
そんなナルトに、やった方のサスケは(ふん!)と鼻を鳴らし先に歩き出す。やってることは横暴でも、やはり照れているだけなのだろう。風に前髪をめくられているその横顔は、耳の先まで真っ赤だ。
(まったく……こーゆーとこはホント、相変わらずだよな……)
子供じみた照れ隠ししかできない彼にちょっと笑うと、ナルトはゆっくりと体を起こしカバンを直した。
あっという間に大股で追いつくと、つんけんとした背中に「お返しだってばよ」と小声で落としてから、ハッと身構えたサスケの頭をぐしゃぐしゃっと掻き回した。