evergreen 2

「なあ、どうすんだコレ?これから何があるんだ?」
先に行ってて、オレってばこいつらの親御さんとこに連絡入れとかなきゃなんねえから、というナルトに訝しみつつも、盛り上がる子供達に引っぱられ連れてこられたのは教室と同じ敷地内にある、今はもう使われていない、神社の拝殿の中だった。ナルトの生家はかつて小さいながらも、きちんとひと柱の神を祀った神社だったらしい。分社とはいえそれなりに由緒はあったらしく、ナルトの祖父(この人はまた、ナルトに書を教えてくれた師匠でもある)がずっと神主を努めていたそうだ。しかしナルトが神職に就かなかった事もあり、一昨年その祖父が亡くなったのを機に祀っていた御神体も総本宮に返してしまってからは、もう一切祭儀のようなものは執り行われてないらしい。鳥居と塀に囲まれた敷地には、ナルトがひとりで暮らす古い平屋と書道塾を開くために彼の祖父が建てたプレハブ小屋、そして空っぽの社が残るだけだ。
連れて行かれた拝殿からは、振り返れば緑の木々が生い茂る境内が広々と見渡せた。
いつの間にかすっかり日は沈みきってしまい、石造りの短い参道の上にはしっとりとした紺色の影が広がりだしている。
そんな中、サスケは何故か両面テープを持って、子供達に倣い板間の床に這いつくばっていた。
準備はお前らに任せるな、覚えてんだろ?というナルトからの言い付けに張り切って頷いていた彼等は、どうやらこれから始まる事について全て承知しているようだ。
「なにって、ナルト先生が今から『書』を書いて見せてくれるんだよ」
「……書くって、こんなでかいとこにか?」
「でかい?まだまだ、これで半分だよ。あともう半分繋げないと」
それでも先生には足りない位だよ、と腰に手を当てる子供は知った様子でその手の両面テープを引っ張り出すと、慎重な手付きで足元に広げられた大きな白い紙(多分これも書道用紙なのだろう、触ってみると一応サラサラした面と僅かにザラザラした面とに分かれていた)の淵の部分に、びいーっとテープを貼り付けていった。そうしている横では、他の子達がまた更にもう一枚、ロール状になった書道用紙を引き出し、先に広げられたものと同じサイズでカットしている。どうやらそれらの端を合わせては貼り合わせようとしているようだが、それにしても随分な大きさだ。まだ半分だと言った面積だけでもすでに、大人がゆうに3人は上で大の字になって寝られるだろう。TVのニュースで年末、どこかの寺の和尚が今年の一文字などといって巨大な半紙に文字を書いたりするのを見た事あるが、目の前にあるこれは、それさえも可愛らしく見える程のスケールだ。

「サスケ先生、ナルト先生が自分の『書』を書くの、まだ見たことなかったんだ?」

意外そうに言うツインテールにうっすら頷くと、彼女は(ふうん……そうなんだ?)というように小首を傾げた。大人びたその仕草は、小学生といえど中々の婀娜っぽさだ。教室にバイトで来るようになってから、サスケとてもちろん何度か彼が筆を持つところに居合わせた事はあったけれど、それらは全て子供達に手本を示したりするような場面で、彼自身が作品をつくる所に立ちあった事はなかった。以前見た彼が載る雑誌にも、端の方で小さく何か漢詩のようなものが書かれた作品の写真が掲載されていただけだ。教室には額に入れられ飾ってあるいくつかの作品があったが、それらは全て彼の師匠である祖父の手によるものばかりだった。
「あたしね、サスケ先生がここに来る事になったのって、ナルト先生が書くのを見たのがきっかけなのかと思ってた」
「あァん?」
「だって時々教室に来るんだよ、先生の『書』にひと目惚れしたから、弟子にしてくださいって人」
男の人も女の人もどっちも来るんだよ、先生モテモテだから。そんな思いもよらぬ一言に、サスケは思わず這いつくばったまま吹き出した。「はあ?何言ってんだお前」とてらいもなく笑い捨てるサスケに、気分を害したらしい彼女が立ち上がり語気を強める。
「なんで、本当だよー!」
「だってなんであいつに……」
「そりゃ先生いつもはダメダメかもしんないけど!でも本気出したらすごいんだから!すごいカッコイイんだから!!」
「へぇー?」
カッコイイ、ねえ……?と一生懸命らしいが褒めてるのか貶してるのかよく解らない力説に薄ら笑いを浮かべていると、そんなサスケに少女は(むー)と頬を膨らめた。しかし思い直したかのように一度「ふ、」と息を整えると、真ん中に寄せていた顔を一転させ、澄ました様子でサスケを見下ろす。
「…………そんな笑ってるけど、いいのかなあ?サスケ先生」
「何が?」
「先生、安心しきっちゃってるんでしょ?ナルト先生がいつもいっぱいサスケ先生に向けて、スキスキ光線出してるから」
ニヤニヤ笑いで仕返しされた言葉に思わず両面テープを貼り付けていた手元が狂うと、見逃さなかった少女はここぞとばかりに「やっぱり。先生もナルト先生の事、『ニクカラズオモッテル』なのね!」と頷いた。「……お前、どこでそんな言葉覚えてくるんだ」と低く唸るサスケに、よく喋る桃色のませた口は「ママ!こないだここに迎えに来てくれた時、先生達見てそう言ってたよ!」と嬉しげだ。
「ママ達もね、ずっと心配してたんだよ」
「心配?」
「うん。大先生がいなくなってから、ナルト先生ずっと元気なかったから」
先生のお父さんとお母さんはお仕事でずっと外国にいるし、こんな敷地内でひとりだけでいるなんてきっと寂しいよねえって言ってたんだぁ、という言葉に、サスケは何気なさを装いながら曖昧に返事をした。大先生というのは、ナルトの祖父にあたる人の事だ。本当はちゃんとした名前があるらしいが、どういう経緯なのか彼は自分の祖父の事を『エロ仙人』と呼んでいる。理由を以前訊いた事もあるのだが、その時にも意味深な笑いと共に「ん?だってエロ仙人だから」としか教えてもらえなかった。……どうやらその人は、丁度思春期にあたる時期を海外で暮らす両親と離れて過ごしたナルトにとって、祖父であり保護者であり、察するに色んな意味での『師匠』であるらしい。

「ん?てかあいつ…………元気、なかったのか?」

去年の冬、電車待ちしていた駅のホームで急襲を仕掛けてきた満面の笑顔を思い出しつつ訝ると、他の子と息を合わせようやく巨大な書道用紙を完成させたらしい少女は、勢いよく顔を上げ嘴をつくった。そうだよ、黙ったまま何か考えてたり、遠くばっか見てたり。ゴハンだってね、ひとりだけになっちゃったからってカップ麺ばっかになっちゃったから、いい加減彼女でもつくんなきゃねってママ達いつも話してたんだから。
「だからねー、サスケ先生が来た時は、みんな大騒ぎだったんだよ」
という少女に「は?」と首を捻ると、ぷりぷりとしたほっぺたが(むふふ)と笑って盛り上がった。『ようやく捕まえてきたと思ったらあんな若い子に手を出して、悪い先生ね~』ってみんな言ってたの、という続けられた言葉に、あんぐりと開いた口が閉じられない。
「…………あのな、よく見ろよ?オレらどっちも男だろうが」
あずかり知らぬ所での自分の話に、思わず深い溜息を付けて訂正すると、したり顔だった少女はキョトンと目を丸くした。オレはただのバイト、あいつとは別にそーゆー変な関係じゃねえよというサスケの言葉に、聞いた途端、驚いたかのように飛びついてくる。
「そんなあ、付き合ってないの!?」
「付き合ってねえよ」
「照れなくても大丈夫だよ、アヤカみたいな子もいるしナルト先生に憧れてる子もいるけど、でも基本的にはみんな先生達を応援してるから!邪魔したりもしないから!」
「だから、応援とかいらねえから!」
憤然と言い返すも、少女はまだ納得いかないようだった。「ええ~……そんなの、ウソだあ……」という未練がましい口振りに、「嘘じゃねえって」ときっぱり言う。そう、嘘ではない。確かに単純に友達というにはちょっと違うとは思うが、だからといって自分達は、いわゆる『お付き合い』をしているわけではない。多分ナルトだってそこのところは同意見の筈だ。
「だってナルト先生の方は絶対、サスケ先生の事好きなのに」
あれは間違いなく恋してる目だって、ママだって言ってたよという少女の言葉に、サスケはそっと口を噤んだ。…………確かにそう言われるのも、理解はできる。理解はできるのだが、そう単純な話でもないのだ。
「なんで?どこがダメなの?」という少女に困っていると、ハッと気が付いたかのような彼女が「あっ年!?ナルト先生の方がずっと年上だから?」と先回りした。「……や、そういう事じゃなくて……」と言い淀むサスケに、桃色の唇がつんとする。

「なによ、違うの?」
「……」
「じゃあなんで?男の人同士でも付き合ってる人っているんだよ、結婚できる国もあるんだから!」
「……その位は知ってっけど」
「そりゃあね、ナルト先生は確かにちょっとガサツだよ!?先生のくせに時々字も間違えるし、遅刻も忘れ物も多いし……」
「……」
「大先生譲りのスケベだしみんなが集中してる時オナラしちゃうし夏場時々足クサかったりもするけどっ、でもいいじゃないそんな事!愛があればニオイなんて……!」
「――ごめん……あんがとユウナ、応援してくれて」

でもそン位でもう、充分だってばよ……と脱力した声に振り向けば、拝殿の奥の間から、がっくりと肩を落としたナルトが現れた。右手に持つのは墨の入った大ダライ。そうして左の脇には子供の腕であれば一抱えもあるような、丸太のような大筆を抱えている。
これまで見たことのない巨大な筆に言葉を失っていると、床に新聞紙を貼り付けていた教室で一番小さな少年が、「せんせー、準備出来た!」と叫んで駆け出した。そうして子供に飛びつかれた広い背中は、若々しく力の張った素の肌だ。
奥で脱いできたのだろうか、裸足に黒のカーゴパンツ(これはさっきまで着ていたのと同じものだ)だけになった彼に、「なんだそりゃ、寒くねェのか?」と尋ねると、少し伸びた前髪の隙間で青い目がきゅうと細まった。特別聞いたことはなかったが、実は普段から鍛えているのだろうか。裸の胸板は厚みがあり、盛り上がった肩には硬そうな筋肉がしっかりとのっている。
「寒くなんかねえよ、もう5月だし」
鉢巻の代わりなのだろうか、カーゴパンツのポケットから墨染めの手拭いを出したナルトはなんでもないようにそう言うと、ぎゅっと額をそれで締め上げた。実際、これが通例なのだろう。周りに集まってきた子供達も、上半身を脱いだナルトに別段騒ぎ立てていない。
「……そーかよ」
「上着てたら汚れちまうし。まあお望みとあらば、下も脱ぐけど」
見たい?と悪ふざけするように腰を揺すって笑うナルトに「アホか、見ねえよ」と切り捨てると、後ろにいた少年達の数人が「え~、見たい!見して!」とゆるく腰穿きしたズボンの裾に取り付いた。「ばっ……よせ!ジョーダンだってば、ジョーダン!!」と慌ててズリ下ろされそうになったズボンを押さえるナルトに、クスクスと女子達が笑いを漏らしている。

「――っしゃあ!んじゃ久々に……」

そう言って、巨大な半紙の前で仁王立ちになったナルトに、サスケの横にいたツインテール(いつもその髪型だからサスケが勝手にそう呼んでいるだけで、彼女にも本来は『ユウナ』というちゃんとした名前がある)が「あっ、先生ヒゲ!ヒゲ忘れてるよ!」とちょっと急いだ風に言った。「え?いや、今はもう神サン返しちゃったし、あれはいらねえって」と言うナルトに、身を乗り出した観客達から一斉にブーイングが漏れる。
「なんで、描いてよ!」
「え~?」
「じゃあオレらが描いてやるからさ!顔貸して!」
「……そっか?じゃあ……」
張り切る子供達に引っ張られぺたんとその場にしゃがまされたナルトに、細筆を持ったアヤカがそっと近付いた。それに気が付いたナルトが「あ、アヤカ、スカートの事母ちゃんに伝えといたからな」と言う。「……怒ってた?」と不安げになる少女に、ナルトはニコリと笑いを浮かべた。「まーな。でももういいってさ。どうせだったらいっそもうそのスカート、真っ黒に染め直してきちゃいなさいだって」というナルトの言葉に、ようやく安堵したらしい。含羞みを浮かべたアヤカは気を取り直したように顔を上げると、手を伸ばしナルトの頬に筆先を滑らせる。

「…………なにやってんだ、あれ」

見たところ、まるで動物の顔を模したかのような三本線に、あっけに取られたサスケはとりあえず一番近くにいた子供に質ねた。「なにって、ヒゲだよ」というあっけらかんとした返答に、「そりゃなんとなくわかるんだが……」と眉を寄せる。
「なんであんな事を?」
「え~?よく知らないけど、オマジナイ??みたいなものなんじゃない」
「いつもああなのか?」
「ううん、ココで書く時だけ。他所で書く時はしないよ」
曖昧な説明に首を傾げたままでいると、斜め前にいたユウナがようやくこちらを振り返った。「前……大先生が生きてた頃はね、ここオキツネ様のお社だったの」という説明に、ぼんやりと敷地内にある短い参道に並ぶ、対の石像を思い出す。そうか、あれは狛犬ではなく、狐だったのか。朽ちてすっかり形が欠け崩れていたから気が付かなかった。
「それでヒゲ描いてオキツネ様の真似するんだよって、前にママが言ってた」
「ふぅん」
「本当はね、お祭りの時はお化粧もするの。鼻のとこに流星いれて、目の端っこ赤く塗って。すっごいカッコよかったんだから」
けど去年からは、そのお祭りもなくなっちゃったんだけどね……という心底残念そうな少女に、サスケは黙ったままそのつむじを見下ろした。話から察するに、どうやらここでは祭神への捧げ物として、書を奉納していたらしい。うろ覚えだがサスケも以前TVか何かで似たような神事のニュースを聞いた事があった気がするから、珍しいが無い話ではないのだろう。その時の再現を、子供達は彼に強請ったらしい。
そうしてサスケがなんとなく納得しているうちに、ようやく準備が整ったのだろう。いつの間にか紙の前に正座していたナルトが、そのまま静かに目を閉じた。
途端、それまであちこちでおしゃべりを繰り広げていた子供達が、一斉に口を噤む。
息を殺し、固唾を飲んで待つ彼等が見詰めるのはナルトの引き締まった背中だ。賑々しく膨れ上がっていた社内の空気が突然澄んだ湖面のように静まりかえっていくのを感じながら、サスケは開け放した拝殿の入口から流れ込む、青みがかった初夏の風を鼻先で嗅いだ。


――だん!!


一歩。
スッと正座の腰を上げたナルトが右足を出すと、剥き出しの踵が床を踏み、力強い音を響かせた。
そのままもう一つ、ドン!という重い音。見れば大きな大きな筆尻が真っ直ぐに床に打ち立てられ、それを柱にするかのようにナルトが勢いよく立ち上がる。


「とざい、とォざァァ――ィ!」


出し抜けに叫ばれた東西声に、びくりと肩が竦み上がった。
――只今の奥狐火の段、演じまするは妙木山蝦蟇の精霊仙素道人自来也が弟子うずまきナルトなる者、大筆振りにてご覧にいれまする。そのため口上左用、東西、東西!
一同に睨みをきかせつつ、朗々とした大声量が天に伸び渡った。押し寄せてくる圧倒的な気配に、作務衣から出る腕がビリビリと容赦なく痺れさせられる。
「よっ、うずまき屋ァ!!」
茶々を入れるかのようなシュウの合いの手に、大筆がぐるりと高く旋回した。
フサフサと毛羽立つ鷲羽色の筆先がどぶりと大ダライに浸けられ、大柄なナルトの体がしなって動く。

「――せェーのォ!!」

子供達の揃った掛け声で、再び筆先が唸りをのせ宙を舞った。
びっ、びっと墨が飛び、それを顔で受け止めた最前列の子供らが笑い混じりの歓声を上げる。
気合の声と共に中心に一筆目を置いたナルトは、そこからは一切の迷いがなかった。
一気に進ませる線を大股で踏ん張り、力の漲る腕で丸太のような大筆を軽々と扱いながらぐるぐると渦巻き模様のようなものを書き上げたかと思うと、そこから徐々に文様のような崩し文字を放射状に広げていく。文字というよりもこれは、確かに何かのデザインのようだ。そうやって勢いのあるパフォーマンスに圧倒されながら見る背中は動く度に筋が張り、野生動物のような野蛮さと圧倒的な力を持つ者だけが許される優雅さに満ちている。
墨を足すためにタライに戻る度、たっぷりと滴る墨が景気よく飛び散る。
それらが見守っている子供達のワクワクした顔を、服を、盛大に汚していく度に愉快げな悲鳴があがり、ひゃあひゃあという笑い声と共に嬉しげな地団駄が床を鳴らした。その様子にサスケはようやく理解する。なるほど、これは確かに親達の許可が必要なわけだ。何も言わずにこの出てだちで帰ったら、どれだけ寛容な親であっても流石にちょっと唸るだろう。
飛んでくる黒い飛沫を子供達で避けながら、サスケはそっと、その額を締めた横顔を見た。真摯に筆先を見詰める、いきいきと明るい蒼天の瞳。結ばれた唇はほんの少しだけ端が綻び、僅かに白い歯を覗かせている。
……彼が男にも女にも好かれるのなんて、本当はサスケにもよくわかっているのだ。
だってこんなの、誰であろうと惹かれないでいられる訳が無い。好ましく思わない訳が無い。
人があたたかな陽だまりを好むように、晴れた空を見上げたくなるように。
誰であれ幸せを求める心を持つ人ならば、きっと当たり前のように彼を好きになる――好きにならずには、いられないだろう。

(――けど、オレは――)

「よし、できたァ!!」という最後の一筆と共に再び(どん!)と筆尻が床を衝くと、あちこちを墨で斑模様にした子供達から明るい歓声が湧き上がった。その声に、ハッとサスケはまた気持ちを戻す。目の前に出来上がったのはやはり書というよりも、どうかすると魔法陣のような、なにやら不思議な意匠の文様だ。紙の上でダイナミックな渦巻き模様が、飛び出せとでも言わんばかりに勢い余ってはみ出している。
「先生終わり!?」
「ああ、」
「じゃあもういい?いいよね!?」
「いいぞー」
仕上げは頼むってばよ、という言葉にわあっと盛り上がると、斑模様の子供達は手に手に筆を持ち、我先にと紙の上へと飛び出してきた。そうしてそれぞれの場所に陣取ると、筆やら指やら、そのうちに腕や足の裏まで使いだしながら、思い思いの印を残していく。
サスケ先生も入んなよ!という誘いを笑って断ると、サスケはそっとその場を抜け出した。
入口で所々ひっくり返っている山のような履物の中から自分のスニーカーを見つけ出し、無造作に足を入れると、すっかり闇に溶かされた境内に立つ。
拝殿の中から聴こえてくる収まる気配のないはしゃぎ声に、一度だけ柔らかく鼻を鳴らす。そうしてからサスケは藍色に澄んだ夜気に背中を伸ばし、静かに顎を上げて天を仰いだ。

「サスケ!」

呼び掛けてくる声にも振り返らずそのままでいると、カラコロという雪駄の音と共に、隣にあたたかな気配がくるのを感じた。
空気が揺れ、陽だまりのような乾いた甘さが、ふわりと鼻腔を撫でる。
「いいのかってば?あっちに混じらなくて」
そんな風に訊いてくるナルトに「……いい。後が面倒そうだし」とサスケはすげなく答えた。軽く手や体を拭いてきたらしい。墨の拭われたその肩には、彼が普段から着ているジャージの上着が羽織られている。
「ちょっと風が出てきたな」
「ああ」
「平気かサスケ?寒くねェ?」
「寒くなんかねえよ。もう5月だからな」
意趣返しのようにそう呟くと、それを聞いたナルトはちょっと肩をすくめた。髪と同じ色の眉がやわらかく下がる。その様子はつれない返事にガッカリしているというより、むしろどこか嬉しげだ。

「――でっけェ月だなぁ」

サスケに倣うようにして空を見上げたナルトは、ひと呼吸おくと溜息をつくように言った。境内に植えられた、緑の葉を茂らす木々は今は真っ黒な影絵のように辺りを取り囲み、そこからぽっかりと開けた夜空には煌々と輝く月が昇っている。
「どうするんだこの後、あいつらあのまま帰すのか?」
きゃあきゃあとまた上がっている嬌声にそっと振り返ると、全開に開け放たれた拝殿の中で、今もなお夢中になって大きな紙の上で這いつくばっている子供達の墨まみれの顔が見えた。汚れてるのはともかく、こんな時間に子供だけで歩かせんのはまずいんじゃねえのという言葉に、同じく後ろを振り返ったナルトが「ああ、そりゃ……」と頷く。
「一応な、さっき親御さん達に連絡して、7時半に迎えに来て貰うようお願いしたから」
「……そうか」
「無理なとこはオレが後で送ってくし。心配ねえよ」
慣れた様子で笑うナルトに、サスケは「あっそ」とまた前を向いた。クチコミだけでやっているナルトの書道塾に通うのは、殆どがごくごく近所に住む子供達ばかりだ。
「そんな事よりもさ、サスケこそ良かったのか?こんな時間まで付き合って」
同じく前に向き直りながらカーゴパンツのポケットから腕時計を出して、ナルトが言った。ごついダイバーズウォッチが示しているのは既に7時を過ぎている。本来ならばサスケのバイト時間は、もう終了している時刻だ。
「あとはもうあいつら帰すだけだし、時間も時間だし」
「…………」
「今日は最初っから迷惑かけまくっちまったしさ。これ以上残らせんのも悪いし、もしなんならお前はここで先に帰っても……」
「帰れというなら、そうするが」
帰って欲しいのか?と僅かに体を捻って確かめると、目が合ったナルトは何故だか急にちょっと赤くなった。「えっ、いや、その……っ」と大きな体が狼狽える様に、気持ちのどこかがうんざりするほど甘くなる。
「その、そういう意味で言ったんじゃなくて」
「…………」
「……サスケさえよければ、むしろ帰って欲しく、ない……っていうか」
「じゃあいいだろ。後片付けだって残ってるし」
素っ気なく言いながらまた空を見上げると、言われた事の意味がよくわからなかったのか、顔を赤らめたナルトは一瞬ぽかんとした。しかしすぐにそれも理解したのだろう。わかった途端、ふにゃりとそのほっぺたが嬉しげに緩む。
「片付けまで付き合ってくれんの?」
「……まあな」
「そっか~ごめん、ありがとな!」
にわかにうきうきとし始めたナルトにも無表情のままでいると、そんなサスケを全く気にしない様子のナルトが「あっ、じゃあさ!」と唐突に呟いた。「せめて帰りになんかメシ奢るってばよ。ラーメンとか……ラーメンとか、ラーメンとかさ!」という言葉に、呆れつつも僅かにポーカーフェイスが崩れてしまう。
「その前にお前、そのヒゲ落としてくの忘れんなよ?メシはなんだっていいけどさ」
拭き残してるぞ、それ。自分の頬で示しながら伝えると、言われたナルトは(あ、そっか)とばかりにきょとんとした。尻ポケットから垂れ下げていた手拭い(さっきまで頭に締めていたものだろう)を手にしつつ、しみじみとした様子で「まさかなあ」と言う。
「こっちの世界ででもヒゲが生えるとは思ってなかったよなあ」
「?なんの事だ?」
訝しむサスケに、ナルトは突然思い付いたかのようにニンマリと口角を上げた。悪戯じみた笑いを浮かべ、「なあなあ、」とサスケを覗き込む。
「これ見てもさ、何にも思い出さない?」
「はあ?」
「ほら、この顔。頬に三本、キツネのヒゲ」
「……ヒゲって……ただのヒゲだろ?」
自らの鼻先を指で指し期待に満ちた表情で質問してきたナルトだったけれど、相変わらずわからないままで眉を寄せるサスケに気がつくと、気落ちしたかのようにほんのり肩を落とした。そっかー、やっぱ思い出さねえよな!という空元気な笑顔に、つい先程まで温まっていた胸がひゅっと冷める。

「――あのさァ、オレってばずっと考えてたんだけど」

この世界にはさ、自分達が気がついてないだけで、もしかしたらスゲー沢山の世界が存在してるんじゃねえかな。
そんな事を言い出したナルトに「またそんな妙な事を言い出して……」と顰め面になると、頬にヒゲを残した彼はちょっと居心地悪そうに顎を掻いた。……ええとな、つまり、世界ってのは想像する人間の数だけあるというか。パラレルワールドっていうの?そういうのが実は沢山あるんじゃないのかなって。
「なんかそういう映画あったじゃん。ほら、あのふさふさしたウナギイヌみたいなのが出てくる……」
「ネバーエンディングストーリー?」
「あっ、それそれ!それだ!」
あれをウナギイヌと呼ぶのはどうなんだろう、と突っ込みたかったが取り敢えず黙っていると、どこか満足げなナルトは両腕を天に向け広げ、大きな伸びをひとつした。あんなんみたいにさ、どっかで繋がってるんだけど見えないだけで、世界は本当はひとつじゃないんだってばという言葉に、黙ったままで横目を流す。
「だから多分、オレらが昔いたのも、その世界のうちのどれかひとつなんじゃないかなって」
「へー」
「……って、サスケってばまた信じてねえだろ?」
適当な返事しか寄越さないサスケをちょっと睨むと、ナルトはそう言って溜息をついた。そんな彼に、薄い笑いで返す。笑ってはいるが、なんとなくナルトの言いたい事はわかる。大昔、サスケにも似たような事を考えた事があったからだ。

「シミュレーション仮説」
「は?」
「……だったらオレらの存在自体も、本当は全部ただの夢なのかもな」

素っ気なく言うと、サスケは僅かにこわばる頬を無理に押し上げ、皮肉んだ笑いをそこに浮かべた。
こうして今ここにいることも、あの空に浮かんでいる月も。何もかもが嘘で、全部がまやかしなんじゃねえの?
「そう考えれば、お前の与太話にも納得がいくし」
余分に付け足すと、黙って聞いていたナルトが(うっ)と唸るのが聴こえた。見上げた月は、相変わらず沈黙したまま、強い光だけを地面に届けている。

「夢……かも、しんねえけど。少なくとも、嘘じゃねえよ」

穏やかな声がしたと思った瞬間、左手に触れてくる確かなぬくもりに、サスケは思わずぴくりと体を固めた。
節のある長い指。
無骨で大きな手のひらが、夜風で少し冷えた白い手を包み込むように握ってくる。
「だってオレってば、ずっとずっと。どうしてもお前に会いたかったんだ」
そう言って、宵闇の中でも澄んだ明るさを失わない青が、じっとサスケの目を見詰めた。
冴えざえとした月光が背の高い彼の金の髪の上でやわらかく跳ね、くっきりとその姿を照らし出している。

「会いたくて、会いたくて、会いたくて――」
「…………」
「本っっ当に、会いたかったんだってばよ?」
「…………だから、それは前にも聞いたって」

どこか不貞腐れたかのように憮然と返すサスケに、ナルトは「だからさ、この気持ちだけは絶対に嘘じゃねえってば。間違いなくオレ自身のものだかんな」と胸を張った。そんなナルトに、サスケはそっと緊張を隠し息をつく。
またそうやって、お前は……と逸らす目に、逃がさないとばかりにナルトが追い討ちをかけた。

「なんで、だって本当なんだもんよ。人の心は夢や想像じゃ作れないだろ?」
「わかんねえだろ、そんなの」
「わかるってば、オレにはわかる。絶対無理」
「……根拠は?」
「ないけど、ンなもんは後で考えるってば」

呆れるほどの強引さでそう言い切ったナルトに、サスケは(ハァァ)とまた溜息をついた。……どうもこの男と出会ってから、自分はこうして深々とした溜息をつくことが多くなった気がする。これまでの平坦で穏やか過ぎる程に穏やかな日々の中では、こんな事はなかった。たったひとりの人間にこんなにも色々なものを乱されるような事は、サスケの生きてきた17年の間では、まだ一度も経験したことがないのだ。
「…………あ、サスケ」
和らいだ声で呼ばれた名前に、頭で思う前にどきりと胸がひとつ弾んだ。
つい待ってしまう横顔に、伸ばされた指先が触れてくる。
「ここ、付いてる」
「え?」
「ほっぺた。サスケにもヒゲ、生えてるってばよ?」
避けきれなかった墨が付いていたのだろう。そう言って撫でられた箇所が、じんと熱をもって線になった。
けれどもまっすぐな青い瞳が見詰める先は、期待と緊張にこわばる白い頬ではない。
熱に溶かされそうになるのをどうにか堪えている、まっくろな瞳のその奥だ。

「――なあ、『サスケ』」

すれ違っていく青い瞳に胸が苦しくなりながらも、頬を撫でた指先でそのまま髪を梳かされれば、思わずその心地よさに体の芯がじんとあたたまった。
しかしふとその手を離し夜空を見上げたナルトが、世にもやさしい声で、その名を呼ぶ。
サスケは思う。
ユウナはナルトがオレの事を好きだという。彼の視線は、恋する者のそれだという。
確かにそれは間違っていない。いないけれど、だからといって正解という訳でもないのだ。だってナルトが見詰めているのはオレではない。最初からナルトは、オレなんか見ていない。
…………彼の目に映っているのは、今でもたったひとりだけだ。
オレの知らない、けれどもオレの中にいるという、ただひとりの人。
『ナルト』にとって無二の存在だったというその人に、彼は今でもずっと、独占され続けている。

「なんかさァ、ああいう月見るとさ」
「……?」
「――どーしてもつい、木登りしたくなっちまうよな!」

夜空に向け、気持ちよさそうにそう言ったナルトに「……なんだそれ。意味わかんねえよ」とぶっきらぼうに言い返したが、それでも嬉しそうにナルトは(ニシシ)と笑ってみせた。
わかんなくてもいいんだーという歌うような声に、繋がれた手のひらがぎゅっと握り直される。
そうして伝わってくるその途方もないあたたかさとやわらかさに、サスケはまた無性に泣きたくなった。
哀しいような、可笑しいような、虚しいような…………けれども絶対、手放したくないような。
そんなわけのわからない感情にもみくしゃにされ、どうしたらいいのかわからなくなる。

「………サスケ?」

訝しむ声に無言でうつむくと、覗き込んできたナルトの大きな影に、すっぽりと体が包まれてしまった。
すっと離され宙ぶらりんになった手が、どうしようもなくすうすうする。
「どうした?なんか元気なくねえ?」
「………」
「あ、そっかやっぱちょっと寒いんだろ?あいつらの母ちゃん達ももうじき来るし、そろそろ中に入るか」
笑いかけてくるナルトに強いて口角を上げてみせれば、安心したかのように彼は雪駄の踵を返した。カッコ・カッコと機嫌のいい音を響かせる背中に続きつつ、ふと振り返ってみたサスケは後ろを仰ぎ見る。
明るい夜空に掲げられたのは、見事に尖った三日月だ。
迫るような大きさのそれは境内の木々の先に僅かに引っかかりながらも、しろじろと輝いては、ふたり分の影を地面に長く伸ばしていた。