evergreen 1

――今いるこの世界は本当に、本物の『現実』なのだろうか。
小さい頃、眠る間際にふと湧いて出たそんな疑問に、おかしなほど取り憑かれた時期がある。
眠っている時にみる「夢」の事を、オレは今「夢」だと思っている。けれどそれを「夢」だと断定するには、いったいどうしたらいいのだろう。こうして考えている現在も、これが夢の中でやっている事なのか現実にオレが考えている事なのか、その決定的な区別がオレには説明する事ができない。だってほっぺたを抓ってみれば確かに痛いけれど、夢の世界でなら痛みがないとどうして決められるのだ。人間の脳は本当は夢であってもちゃんと痛みを再現出来るのかもしれないし、空腹や重力や、その他諸々の人間の肉体を縛る様々なものを感じさせられるのかもしれないではないか。
もしかしたら夜毎日替わりで見る無秩序な世界の方が、『世界の本来の姿』なのかもしれない。
今いるこの世界の方が、『夢』なのかもしれない。
突拍子もない展開やワケの解らない事が繰り広げられている世界が夢で、シビアで毎日連続している世界が現実だなんて、本当のところは誰にも断定できないのではないだろうか。

「なるほど。それは『自己とは何か』という、人にとっての永遠の問題とも繋がるテーマだな」

きっとこんなのまだ誰も思いついたことないだろうと得意満面で披露した考察に、当時中学生だった兄は付き合いよく、ひとしきりううむと唸ってくれた。
よくそんな難しい事を考えたな。ちゃんと筋道もたってるし、いい説明だったぞ。
そんな風に感心してくれる兄に顔を火照らせる。5つ年上の兄は、サスケにとって常に憧れだ。
そんな兄に褒められのぼせていたサスケだったが、しかし次の瞬間には、その熱は呆気なく引いていった。胸を張るサスケを前に申し訳なさそうに眉を下げた兄が、「……でもな、」と告げたからだ。

「残念ながらその問いは既にデカルトによって、300年以上も前に考えられているんだ」
「え?」
「あとな、シミュレーション仮説という考えもあって。オレ達の脳は本当は全員なにか大いなる力の管理下にあって、今いる現実は全てシステムが作り出したシミュレーションであるかもしれないという、……」

  * * *

「サ~スケせんせ!」
おしゃまな呼び掛けと共に差した影はちょんちょんと元気よく跳ねたツインテールで、すっかり覚えたそのシルエットに、サスケはゆっくりと顔を上げた。
ふわりと鼻先を掠める、墨汁の香り。子供達のおしゃべりとオレンジの西日で溢れかえる部屋の中、半紙を広げた卓の向こう側でにこにこと立つ彼女は、週に二度設けてある小学生クラスの中でも一番目立つませた子だ。
できました!という張り切った声にサスケが手にしていた筆を置くと、正面に立つ少女は(くふふ)とどこか浮かれたような含み笑いを漏らした。そうしてからもったいぶるかのように後ろに持っていた半紙をそろりと前に回し、「見て!」と言いながら胸を張る。
「どう!?上手に書けたでしょ!」
「あー……そうだな」
「ここのね、『はらい』のとこが難しかったんだけど。でもこないだサスケ先生に教わった通りにやってみたらね、かなりいい感じにできたよ!ね、ね、先生もそう思わない?」
「そーか、」
それはなにより、と素っ気なく告げただけだが、頬をつやつやとさせた少女は全く気にならないようだった。合格?合格だよね!?と覗き込んでくる目に軽く頷きつつ、着ている作務衣の裾を捌きながら、正座していた腰を上げる。くん、と足首に力を入れると圧迫されていた足の甲に、じんとした熱い痺れが広がった。かれこれ小一時間程座りっぱなしでいたのだから、そうなるのも仕方がないだろう。
それでも最初の頃に比べたら随分と長く保つようになったものだ。
『彼』が聞いてもきっと、同じ事を言って笑うだろう。


サスケが『彼』の頼みで子供向けの書道塾でのバイトを始めてから、そろそろふた月になる。
『彼』――うずまきナルト。
去年の冬、高校からの帰宅途中電車待ちをしていたサスケの前に現れた、金髪碧眼の大男。
今年26になるという本来であればもうそろそろ分別もついているであろう年齢の彼は、本人曰く、
『前世が忍者で、そして前世でのサスケにとって最も親しかった人物』
なのだそうだ。ただしこれはあくまで、本人の弁だ。いったいどこまでが本当なのかは、正直わかったものじゃない。
出会ってすぐの頃自信満々にそう告げられたのだけれど、実際のところサスケは完全にはその話を鵜呑みにはしていなかったし、そもそも前世というものがあるという事ですら怪しいものだと思っていた。なぜならナルトは前の人生で起こった事を全て覚えているらしいが、サスケはその内容をひと欠片さえも覚えていないからだ。ここのところがまた更に、この話の真実性を薄れさせている。だいたいがナルトの語る忍者の物語は、あまりに自分の知る『忍者』とはかけ離れた派手さで彩られている。サスケの認識にある忍者は黒ずくめで影から影へと音もなく飛び抜けていくイメージだが、ナルトが言うには自分はオレンジのジャージを着て任務に行っていたのだという。…………いったいぜんたいどうやって、彼は忍び隠れていたのだろうか。敵から見つからないように隠密行為を働くのが、忍者というものの本来の仕事ではないのだろうか。

(――やっぱオレ、こいつのフカシにのせられてんのかな)

出会って半年。語られても語られても一向に覚えのない話に、サスケはうっすらと思うのだった。
ただ、ナルトが自分を見詰めてくる瞳には、確かなあたたかさを感じる。
快活な笑い声には、どこか懐かしさにも似た安堵を感じる。
胡散臭いなあと思いつつもつい彼の話を聞いてしまうのも、その眼差しにどこかどうしようもなく惹き込まれてしまうからだ。晴れた空色の瞳のどこをどう覗き込んでも、サスケを騙そうとしているような嘘の端は、欠片も見当たらない。
それに…………

「ねーサスケせんせ、今日ナルト先生は?」

また外のお仕事?という質問にはっと意識を戻され、サスケはまた自分があの金色にぼんやりさせられていたのに気が付いた。慌てて「ん、」と短く答え、受け取った少女の作品を教室の壁際に張り巡らされた洗濯ロープにピンチで丁寧に留める。先生などと一応は呼ばれているが、サスケのここでの仕事はあくまでナルトの補助だ。普段ナルトがいる時は墨をすったり生徒達の作品を纏めたりなどの、雑事を中心に手伝いをしている。

「なんか個展とか開かれちゃってから、妙にゲイジュツカみたいな扱いされちまってさー」

最初出会った時にはプー太郎だと思い込んでいたナルトが雑誌で特集を組まれるほどの人気書家だったと知った時、サスケは彼に、さぞや持て囃され派手な仕事をしているのではないかと思ったものだった。が、実際のところは日々の生計のほとんどは祖父から引き継いだ書道塾の運営と、都内にある大人向けのカルチャー教室の講師業で立てているらしい。この講師の仕事に行く途中で、ナルトは対岸のホームにいるサスケを発見したのだそうだ。
……聞けば本当に彼は、もともと芸術家としての『書家』を目指していた訳ではなかったのだという。
子供の頃から塾を開いていた母方の祖父の影響で、書道はずっと学んでいたらしい。が、今のようになったのはたまたま二十歳頃にナルトが書いた作品を、外国人である父親が友人に披露したのがきっかけだったのだそうだ。それがなんともいえず独特で、目を引くものだったらしい。妙にその筋の人々にウケてしまい、そこからあれよという間に今のようなポジションに就くことになったのだという。
「どーも外国の人って、ホンットこーゆーの好きらしくて。書いてあるもんはあんま関係ねえのかな、墨と筆の組み合わせだけでもう『オー、ジャッパ~ン!!』ってなるみてえでさあ」
なんかオレにはよくわかんねーけど、ま、これも一時だけのブームだろ。今だけだって。
時折塾宛に掛かってくる取材の申し込みに、取次ぎがてら軽く突っ込んでみるも、そんな風に自分を揶揄しつつ当の本人はあっけらかんと笑うばかりだった。
自分の本業はあくまで、『習字の先生』である。それが一貫したナルトの主張だ。
(……なんて、いくら口では言っててもなァ、)
立ったついでに干した雑巾の位置を変えつつ、古びた壁時計に目を遣ったサスケは、また溜息をついた。本人の主張はともかく、横で見ていてもナルトは飽きられるどころか、逆に日に日に出掛けることが多くなっているようだ。今日だって地方のどこかで開催されている展示会の開会式に特別ゲストとして招かれたとかで、彼は朝からずっと他出しているのだった。しかも今回は開催者側のミスで式の時間がずれ、ナルトが考えていた夕方からの算段にも狂いが出てきてしまったらしい。「どうしよ、これじゃ今から帰っても教室の時間までに間に合いそうもないってば……!」という途方に暮れたSOSに仕方なしに合鍵を預かっているサスケが少し早目に出勤し、どうにか事なきをえたのだ。三十分程の遅刻でなんとかなると思うから、などと電話では言っていたが、もうすでに教室を開けてからかれこれ一時間程が経っている。とりあえずナルトが来るまで各自で自習!と言い渡してはあるものの、さすがにもうそろそろ子供達も集中力の限界だ。まがりなりにも『塾』と銘打っている以上、やはりどう考えてもこの状況はまずいだろう。
(……ったく、あの野郎。いつか月謝返せって訴えられても知らねえからな)
洗濯鋏で吊るされた「あおぞら」の文字を眺めつつ(課題はナルトからの指定、手本は前から準備してあったらしく、指示通り彼の机の引き出しを開けてみるとしっかりと生徒の人数分用意してあった)心の中で苦言を呈していると、背後で突然ガシャン!という何かがぶつかり合うような音がした。
「キャ……!」という掠れた悲鳴に、サスケは慌てて後ろを振り返る。

「……?、どうした?」
「せんせぇ、硯が……!」
「硯?」

甲高い声にそちらを向けば、今し方サスケに半紙を持ってきた生徒と同じ学年の少女が、堪えるかのように唇を噛んだままスカートの端を掴み、机の脇に立っていた。見ると、そのピンクのスカートには無残な黒の班点模様。何かの弾みで滑り落ちてしまったのだろうか、足元にはひっくり返った硯が飛ばした黒い点々と共に、床にひとつ転がっている。
なンだこれどういう事だ?と尋ねようとすると、それを先回りするかのように、その立っている少女の周りにいる子供達から「あ~シュウ君がアヤカを泣かした~!」「いっけないんだあ~!」という声があぶくのように湧き上がってきた。そうしてその向こうに見える、睨み合う二つの顔と顔。日に焼けたボサボサ頭のどんぐり眼と、手入れの行き届いた青いフレームの眼鏡が、今にも額をぶつけるかの勢いで鼻先を突き合わせている。
(…………ああ、またこいつらか…………)
毎度お馴染みとなったその組み合わせを確かめると、サスケは(はァァ……)と深い溜息をついた。どんぐり眼はシュウ、ブルーの眼鏡はユウト。どちらも同じ学年の少年達だが性格は見事に正反対で、それがお互いどうにも気に入らないのか、何かにつけてしょっちゅうケンカをしては手を焼かされているコンビなのだ。

「……っから、ワザとじゃねえって言ってんじゃねえか!」

語気荒く弁解するシュウに、真正面から向かうユウトは「嘘つけ、自然とそんなに机が動くわけないだろ!」と顎を上げた。言い合う少年達にうんざりしながらもこれも職務だと自分に言い聞かせ、「どうした?」と取り敢えず尋ねてみる。が、直ぐ様こちらに顔を向けてきたのは、興奮に顔を赤くするユウトの方だけだった。腕組みをして立つシュウの方は、むうっと膨れた顔つきのままチラリと横目でこちらを見ただけだ。
「先生!」
「なにがあったんだ?」
「あの、さっきコイツが立ち上がった時机が動いて!」
「……ん、」
「それでそのせいでアヤカの硯が机から落ちてスカートが汚れたんだけど、コイツそれを無視して勝手に教室を出て行こうと……」
「――違う!」
腰に手をあて、賢しげにつらつらと罪状を述べるユウトを、黙って面白くなさそうに睨んでいたシュウだったが、話のある一点にくると、途端に弾かれたかのように声を上げた。
違うって、硯が落ちたのにすぐに気がつかなかっただけだって!
声変わり前の甲高いトーンでそう抗議するシュウに、「そんなわけあるか。音だってしたのに」とユウトはにべもない。
「音は、そりゃ……したけど!でもそりゃ机の上で何かがぶつかりあった音かと……!」
「どうだか。だいたいがなんでまだ出来てないのに勝手に立つんだよ、そこからしておかしいだろ」
「ンだよ、そんなのテメーに関係ねーだろ!」
「先生、それにね?コイツさっきからずっと先生から言われた事やってなくて。座ってるだけで何にもしないし、紙広げてもグダグダさぼってるばっかだし。机揺らしてくるし無駄話ばっかしてきてうるさいし、ほんっと邪魔っていうか来ても無駄っていうか……」
「……るっせーよ、この告げ口ヤローが!」
芝居がかった仕草で長々訴えてくるスカシ顔にいよいよ腹が立ったらしい。
――何かってェとすぐそうやってセンセーセンセー言いやがって、テメーじゃなんも出来ねーくせに偉そうにすんじゃねえよ!!
まるい鼻に苛立ったシワを寄せたシュウは小さな握りこぶしをつくると、腹の底から唸る。
「なっ……だって教室で困った事があれば先生に言うに決まってんだろ!何が悪いんだよ!」
「だァから、そーゆーイイコぶったとこがイチイチうっとおしいってんだよ、テメーはよ!」
吐き捨てられるように言われた言葉に、今度はユウトがぐっと黙らされる方だった。余裕が無くなった時の癖なのだろうか、ずれてもいないのに、しきりに眼鏡のツルを触り出す。
「……で、でもお前が急に立ち上がって机揺らしたから!だからアヤカの服が汚れたんだろ!」
「そりゃその……っ、そうだけど!」
「ならやっぱお前謝るべきだ!みんながやってんのに机揺らしたのもさ!」
「だァから、それはたまたま当たっただけだって言ってんだろ!」
「嘘つけ、たまたまであんな机が動くかよ」
「……あァン!?」
「どうせお前の事だから、つまんないからってわざと蹴っ飛ばしたんだろ」
「見てもいねーくせに勝手な事決めつけんなよ!」

(…………あああああ、めんどくせええええ!!!)

小さいながらも一丁前に睨み合うふたりにげんなりしつつも、サスケは(くそ……仕方ない。これも仕事のうちだ)とどうにか思い直した。なにしろ一応給料も貰っているのだ。いい加減なことはできない。
ひと呼吸おいてから「まーまーとりあえずお前ら、一旦離れて……」と間に入ろうとすると、腕組みをしたユウトはサスケが助太刀に入ってくれたと思ったのか、フン!とひとつ賢しげに鼻を鳴らしうすく笑った。小柄なシュウに比べ、ユウトは発育もいいのだろう。並んで立つふたりには、頭一つ分程の身長差がある。
「まったく。嘘つきはドロボーの始まりなんだぞ」
見下したような捨て台詞に、俯いていたシュウの顔が、かあっと一気に赤くなった。「おっま……ふざけんじゃねえぞコラ、泣かすぞ!!」という怒鳴り声と共に、上下ジャージの小さな体が床を蹴る。
小柄でも全体重をかければ結構な威力なのだろう。余裕ぶった態度で立っていたユウトだったが、それに勢いよく飛び付いてこられると呆気なくがくんと膝を曲げさせられた。派手な音と共に倒れこむ二つの体。巻き添えをくらった長机が大きく揺らされ、室内に満ちたオレンジの光の中、きらきらとした埃と共に宙に舞い上がった半紙が、一枚、二枚と落ちてくる。
「痛ってぇ……なにするんだよ!」
「うっせー黙れ!てめえボッコボコにしてやっからな覚悟しろよ!」
更に飛び散った墨に(あー……最悪。もうこいつら纏めて外に放り出してやろうか)などとサスケが思い始めた時、教室にしているプレハブ小屋のガラリ戸が開く音がした。
ただいま~!という明るく通る声。
次いで聴こえてくる「や~、ほんっと遅くなってゴメン!こんな筈じゃなかったんだけどさ!」などと言い訳しながらドタドタと上がり込んでくる気配に、血気が上がっていた場の空気が一気に鎮まっていく。
「……やべ、ナルト先生だ」
「おい、お前早くどけ!降りろって!」
さっきまでの威勢はどこへやら、慌てて離れるふたりに呆れていると、入口との間に間仕切り代わりに吊るされた藍染の暖簾が揺れ、背の高いシルエットが向こう側に立った。息を潜めるような空気の中、ひょこりと明るい金髪が顔を覗かせる。
「お前らちゃんと自習しててくれたかーって…………あれ?」
「おっ……おかえり先生!」
「……なにこれ、なんでこんな散らかってんだってば?」
「えっ?えーとそれはその、あの……っ」
「――こ、こいつが!こいつが悪いんです!」
一歩踏み入れた途端、散らかった惨状と緊張する子供達の表情を見渡したナルトに、下を向いていたユウトが耐えかねたかのように声を上げた。そんな彼に、ギクシャクしながらもどうにか誤魔化しつつ答えようとしていたシュウは一度ギョッと目を剥いたが直ぐ様奥歯をぐっと噛むと、負けてられないとばかりにナルトを見上げる。
「こいつが勝手に教室を出てこうとして、その時机を蹴って」
「だから蹴ったんじゃねえって!当たっただけだって!」
「でもそのせいでアヤカの硯が落ちて!服汚したのにコイツ全然謝ろうともしなくて」
「そりゃそうかもしんねーけど、でもわざとじゃねえって言ってんのに……!」
「……んん?どうなのサスケ、どーなってんの?」
口々に主張を訴える二人を見下ろしていたナルトだったが、双方言い分が異なっているらしいのを聞くと、確かめるかのようにきょろりとサスケの方を見た。溜息をつきつつ、とりあえずサスケはここまで聞いていた範囲で把握できた状況を、ふんふんと頷くナルトに説明する。

「ふぅん、なるほどー。そんでこうなったんだな」

ひとしきり説明を聞くと、ナルトは「よいしょっ……と」などと小さく唱えながら、口を引き結んで立つ二人の前にしゃがみこんだ。じいっとその顔を見比べつつ、「さーて……じゃあまずは、お前の方からだな、」とシュウの方に顔を向ける。
「……机を動かしたってのは、本当か?」
「……うん」
「わざと?」
短い問いに、うつむき加減だった少年はパッと顔を上げた。「違う!」という力一杯の答えが、事の成り行きを見守ろうと静かになったプレハブ小屋の中でキッパリと響く。
「わざとじゃねえし、蹴ったんじゃなくて本当、足が引っかかっただけ!」
「けど、それが理由でアヤカの硯が落ちたのも本当だな?シュウが机を揺らさなきゃ、そうはならなかったってのはわかるな?」
言葉こそくだけたものを選んではいたが、シュウを見据えるナルトの口から出る声は、言い訳を許さない厳しさに満ちていた。
わざとじゃなくても自分がやっちまった事で女の子泣かしっぱなしにすんのは、感心しねぇな。
ぴしりと言い切られた言葉に、ぎゅっと小さな手が握られるのを見る。

「……ごめん、アヤカ……」

本当に、わざとじゃなかったんだ。
じいっと考えていたシュウだったけれども、やがて納得がついたのだろう。そっと顔を向け、囁くように謝ったシュウに、まだ半べその少女がそれでもこくんと頷くのを見えた。それを確かめたナルトは今度は、「じゃあ後は、ユウトの方にも謝らねえとな」とさっくり告げる。
「えーっ、なんで!?」と俄かにまた頬を膨らめるシュウに、あっけらかんとナルトが言った。
「だってお前、ユウトに飛びかかってひっくり返したんだろ?」
「――でも!それは!!」
「くだらねえ悪口なんて相手にすんなっていつも言ってんだろ。お前は手が出ンのが早過ぎだ」
大概は先に手を出したほうが負けにされんだぞ、我慢も大事だってば、などと諭され悔しげに下を見るシュウに、それを横目にユウトはちょっとニヤニヤしていたが、そんな彼もくるりと向き直ってきたナルトの表情を見ると、すうっと笑いが引いていった。
「ぼっ……僕は別に何も悪い事はしてないです!シュウに注意をしてやっただけで……!」という彼に、ナルトがこっくり深く頷く。
「そうだな、確かにお前はこの件に関係してない」
「でしょ!?だから僕は……」
「けど、関係ないうえ見てもいなかったくせに、勝手にシュウがわざとやったと決め付け、責め立てたな?泣いてるアヤカを気遣ったのはいいが、そこまでしたのはなんでなんだ?」
「それ、は……!」
強い視線で真っ直ぐに覗き込まれると、これまでよく動いていた彼の口も次第に窄んでいくようだった。どうにか一矢を報いようとするかのようにあわあわと動いていた唇が、やがて貝のようにぴたりと閉じる。
しゃがんだままのナルトはそんなふたりをじいっと眺めていたが、ややあっとしてから「……よし!」と気合を入れるかのように呟くと、ニカリと笑い立ち上がった。「じゃあふたりとも、お互い今ここで謝りっこな!」という宣言に、黙りこくってしまっていた少年達が((うわっ……やっぱり!))と顔を顰める。なるほど、さっきのあの妙な息の合い様はこのせいだったのか。これを避けたいがために、彼等はさっきナルトからケンカを隠そうとしていたらしい。
「くそっ、やっぱそれか!」
「あったりまえだろ、お互い悪い事したんならちゃんとそれぞれ謝らねえと」
「嫌です。せめてこいつが先に謝るならいいですけど」
「はあ~!?いやだいやだオレだってぜってーコイツより先に謝るなんてしねえからな!」
急に気が合ったかのように揃ってわめきたてるふたりに、「あっそ、じゃあせーので同時に謝りゃいいじゃん。そんならいいだろ?」とナルトはあっさり提案した。
ぶすりと不貞てたように口を尖らせるふたつの顔を向かい合わせ、「ほら、いくぞ?せーの!」と合図を取る。


「――ごめ、」
「――。」
「――。」
「――。」
「――……~~てっめえ、なんで謝らねえんだよ!!」


出た声が自分だけだったのを敏感に察し、慌てて口を噤んだらしいシュウはじっと相手の出方をはかっていたが、やがて痺れを切らしたかのように「うがあっ!」といきり立った。そんな彼に、してやったりなユウトがニヤリと口の端を上げる。青い眼鏡の奥にある瞳は素直なシュウを嘲るように細められ、嫌味ったらしく歪んだ頬には、傍目にもありありと(ふん、バカめ)と言っているようにみえた。

「――ユウト、」

決して荒げてはいないけれど重みをもって呼ばれた名は、じっと腕組みで立っている、ナルトの口から出たものだった。
逃げを許さない、真っ直ぐな瞳。
目に見えて表情を変えてはいないが、春物のジャケットを羽織った肩は静かな叱責を載せている。
それを見た途端、うすら笑いを浮かべていたユウトはひゃっと身を竦ませたようだった。もそもそと居心地悪そうに指を揉みながら、そろりと真向かいにいる、シュウの顔を窺う。

「……ごめ……ん」
「…………ごめん、」

な、さい…………。
最後の語尾が揃ったのを聞き届けると、ナルトはそこでようやくニッコリと笑み崩れた。
よしよし、とまだほんの少し微妙な面持ちの少年達の頭を力任せに撫で繰ると、まだ鼻を赤くしているアヤカの方を振り返る。

「あとなー、アヤカ。お前さ、なんで今日はそんな服着てきたんだ?ここ来るときは汚れてもいい服でって、いつも言ってるだろ?これまではそんな事なかったのになァ……気に入ってる服なら、余計着てきちゃダメだってば」

そう言って首を傾げるナルトに、少女は言葉もなく下を向いた。しかし今度はそれを擁護するかのように、周りの女子達が声を上げる。
「バッカね~ナルト先生!アヤカはね、ここに来るからこそわざわざ着てきたんじゃない!」
「はあ?」
「サスケ先生に会えるのはここだけでしょ!女の子はね、好きな人の前では一番カワイイ格好で会いたいものなのよ!」
わかってないなあ!とばかりに鼻息を荒くする彼女達に、ポカンとしていたナルトはややあっとしてから(……ああ、そゆこと?)とまばたいた。そうしてから再び真っ赤になってしまった少女の前にしゃがむと、がりりと困ったように頭を掻きながら、「んっ、ん~~!」と態とらしい咳払いをする。
「……アヤカ」
「…………」
「あのさ、そのー……サスケはさ、そりゃ、憧れんのわかるけど。でもほら、一応ここには習字しに来てるワケだから」
「…………」
「服気にしてたら、書くのに集中出来ねえだろ?」
「…………」
「こんな風に、相手に悪気がなくても汚されちまう時だってあるし。そうなった時もお互い困らねえように、汚れてもいい格好でって言ってるんだってばよ?」
「…………」
だんまりになってしまった少女に困ったような溜息をつくと、ちょっと考えていたナルトはやがて、パッと気がついたように顔を上げた。きょとんと立ち尽くしたままのサスケをチラリと掠め見ると、にんまりとしつつその大きな手のひらで少女の耳元を囲い耳打ちをする。
「……あとな、ここだけの話……サスケはな、実は色の中で、黒が一番好きなんだってば」
「えっ?」
「ほら、サスケ見てみ?あいつもいつだって黒着てんだろ?あれ、気に入ってんだ」
「……そうなの?」
怪しみつつも、涙でまだ睫毛を湿らせたままの少女に見詰められ、いきなり話に巻き込まれたサスケは思わずギクリと、着ている作務衣の襟を合わせた。確かにここにいる時サスケは黒の作務衣に着替えているが、それはナルトからの借り物で、やはり服を汚してはいけないからという彼の配慮に依るものだ。

「そう!だからさ、次からはそういうピンクじゃなくて、いつも通りの真っ黒で来な?サスケもきっと、その方が気に入るし。――な、サスケ?」

そう言ってこそりと目配せしてくるナルトに呆れつつも「ああ……ま、な」と軽く頷いてみせると、それを見た少女は昂然とした様子でまた顔を上気させた。「わかった、そうするね……ごめんなさい」という小さな囁きが、目を細めるナルトの影でふわりと掻き消える。

「あ、つーかさ、そういやシュウは、そもそもなんで教室出てこうとしたんだってばよ?自習用に置いといた分は終わったのか?」

万事目出度しで終わろうとしていたところでナルトが思い出すと、訊かれたシュウは再び憮然として頬を膨らめた。「ちげーよ、そんなんじゃなくて。飽きたんだって」という身も蓋もない言葉に、ナルトの口がぱかりと開く。
「つまんねーんだもん、習字。正座ばっかで足痛いし、動かせんの手だけだし。書いてる字も『あおぞら』とか『きぼう』とか面白くない言葉ばっかじゃん。かび臭いくてダッセェよ」
せめて書くのが『世界征服』とかだったら面白いのにさァ、などとぬけぬけと言い放つ少年に(おいおい……)と思いつつもどこか賛同していると、最後に彼はじっと上目使いで「それに、」とナルトを睨み上げた。
「……ナルト先生だって外に行っちゃってたじゃねえか。女どもは知らねーけど、オレらはサスケ先生の顔拝みにここに来てんじゃねえんだぞ」
などと、恨み節のような苦言を、ボソボソと尖らせた口先で付け足していく。

「先生のくせに生徒ほっぽり出して遅刻だなんてさ。それでいいのかよ」

そんな一言に、今度こそ内心でそうだそうだと頷きながら、サスケはちらっとアヤカの前でしゃがみこんだままのナルトを見た。思いもよらなかった生徒からの鮮やかな一撃に、空色の瞳はぱちりと見開き、厚みのある唇はぽっかりと抜けたように開かれている。

「……そっか」
「そーだよ」
「なるほど、それは……そうだな」

うん――そうだ。スンマセンでした。
そう言って、しゃがんだままカクリと折られた首に子供達同様あっけに取られていると、頭を垂れていたナルトが突然、がばっと顔を起こした。
いつもながらの突拍子もない行動に、周りを取り囲んでいる全員の肩がギクリと揃って跳ね上がる。
「でもさ!書道はつまんなくなんてないってばよ?」
「え?」
「正座ばっかじゃねえし、ダサくねえし!すげえ派手で、おもしれえから」
晴れ晴れとした宣言にポカンとさせられていると、気持ちよく日に焼けた顔がニヤリとひとつ口の端を上げた。「知ってんだろ?お前らだって」という挑発めいた口振りに、取り囲んでいる小さな肩が、ぐっと身を乗り出し輪が狭まる。
「えっ……なになに、もしかして」「アレでしょ、アレ!すごい、久々だァ」と色めき立つ子供達に、しゃがんだままのナルトが不敵に笑った。わかっていないのはどうもサスケだけらしい。興奮を抑えきれない様子のヒソヒソ声の中、取り残されたかのように佇むサスケを、可笑しげに鼻を擦ったナルトがほんのちょっと掠め見る。


「よっしゃ、じゃあ見せてやるってばよ、つまんなくない書道。――今日のお詫びな!」


そうナルトが言った途端、一拍の間を置いて、子供達から「わあっ」と大きな歓声があがった。
そこかしこで飛び跳ねる足に揺らされたプレハブで、硯の上で転がされた筆達の合唱が、ひとり首を捻るサスケの耳にガチャガチャと届いた。