第九話

本当はあまり好きではない帽子を、目許が隠れる程に深く被った。
手持ちの服の中から出来るだけ落ち着いた色を選んで、ごくごく平凡な組み合わせで身に着ける。普段好んでよく着るオレンジは絶対にダメだ。極めつけに昔洒落で買った伊達眼鏡を、待ち合わせに指定していた駅のトイレで装着すると、鏡の中には見たことのない自分が完成した。
「なんだそれ。変装のつもり?」
すっぽかされるのではないかという若干の懸念を余所に定刻通りに現れた管理人は、改札前で所在なく立つナルトを一目見るなり鼻白んだ。
「なんだよ、どっか変?」
「変っていうか、似合ってねェな」
たぶん場末の探偵事務所の下っ端調査員って、そんな感じじゃね?悩んだ末のコーディネートを一刀両断に切り捨てられて、ナルトはがっくりと肩を落とした。
そう言う管理人は今日も無駄に爽やかで、一緒にいるだけで隣がキラキラしている気がする。
(全く、人の気も知らないで)
心の中で恨み節をあげながら、ナルトは斜めに掛けたボディバッグの位置を直した。「スポーツ観戦って実は初めてなんだ」という声は能天気に明るくて、今にも知り合いが通るのではないかと内心ビクついている神経を逆撫でする。
こんな目立つ男を連れて人知れずアパートまで戻るなんて、可能なんだろうか。
そう考えたら、今すぐにでも引き返したい衝動に駆られ、前に出す足が重くなった。
かけ慣れない眼鏡のツルが、もうこめかみに痛い。
     
     ☆

「現地集合な」とあっさり言われたその駅は、アパートの最寄駅から小一時間程電車に揺られた場所にあった。大学チームがいつも練習に利用しているアイスアリーナは、そこから更にバスで40分程走った街の郊外に所在している。
黄色いラインの入った市バスに揺られ、流れる町並みに頬杖をつく。バスの中から遠目に見えた薄紅の街路樹は、近付いてみるとハナミズキだった。
とうに、サクラの季節は終わっているのだ。今更ながらに気が付いて、ナルトは隣に座る管理人の、七分丈にたくし上げられた袖をぼんやりと眺めた。
本来は企業チームがメインで使っているそのアリーナは、白い大きなドームの下に赤い文字で企業名が入った、本格的な施設だった。バスから降り、その前に立ったナルトは心持ち緊張した面持ちでそこに描かれた企業のロゴを見上げる。最後にここを訪れてからまだ2ヶ月も経っていなかったが、久しぶりに見るその光景は、ナルトの目にやけに余所余所しく映った。
「おぉ、中はやっぱ冷えてるんだな」
アリーナの観客席に足を踏み入れると、管理人はいやに盛り上がった声をあげた。
寒いのが好きなんだろうか、カーディガンの二の腕をさする顔がなんだか妙に嬉しそうだ。その姿は初雪を喜ぶ子供のようで、固くなっていたナルトの頬をほんの少しだけ緩ませた。
広々とした天井を見上げて、深呼吸する。
慣れ親しんだ冷気が胸一杯になって、身体の芯がピリリとしびれた。
眼下に広がるリンクには、見慣れた赤いユニフォームと一緒に、初めて見る青いユニフォームの選手達がリンクに描かれたコートに散らばっている。二色が入り乱れながら滑り回る様は、まるで一斉に弾かれたピンボールのようだ。直線と曲線を自在に操りながら動くプレーヤー達を、息を詰めて見渡した。
ただの練習風景をちらりと覗いたら、管理人を連れてすぐに退散しようと画策していたのだが、偶然にもその日は他校を招いての練習試合が行われているようだった。普段よりも遥かに多い観客が、アリーナの席を埋めている。
試合はとうに始まっていて、ひっきりなしにあがる大きな歓声が、絶え間なく高い位置にあるドームを震わせていた。激しく動き回る選手達の動きに誘われて、管理人が前へ出ようとする。それを牽制するかのように、ナルトは早速釘付けになっている管理人を先回りして、最後列のシートに滑り込んだ。
「ん。これ、使えってば」
予期していた通り、アイスアリーナの寒さを甘くみていた様子の男を見て取ると、ナルトはボディバックから小さく丸めたブランケットを引っ張り出した。冷えた座席に身を竦ませていた管理人の相好が崩れる。
「おお、サンキュ」と短く言うと、管理人は受け取ったブランケットをいそいそと体に巻きつけた。寒いのが好きなのと、寒さに強いのとは別問題なのだろう。かちかちと歯を鳴らしながらも、その瞳は活き活きとして再び氷上を動き回る選手たちに注がれていた。
「スゲェな、なんか、スゲェ迫力あんのな!」
興奮した口調の管理人に、ナルトは気のない様子で「そーね」と相槌をうった。全く、この間までの無愛想が嘘のようだ。
……チヨばあの一件から、なんだか管理人は随分と表情が明るくなったような気がする。
気が晴れた、とでも言ったらいいのだろうか。兎に角、どことなく浮かれた雰囲気が楽しそうだ。
数日前、待ち合わせ時間の相談をしに寄った管理人室での会話にもそれは現れていて、「本気で見に行くの?」と恐る恐る確認したナルトに、「ダメなのかよ?」と逆に訊き返してきた顔には、深い意図はなさそうだった。ただの好奇心、と言っていたのはやはり真を突いているのだろう。今も隣で興味深そうに捲られるスコアボードを観察している管理人に、ナルトは横を向くとこっそり溜息を漏らした。
何考えてんだろう、この人。
……オレがここに来にくいと思ってる事とか。ちょっとは、察してても良さそうなのに。
そんな事を考えながら、にわかに大きくなった歓声に、ナルトは視線をコートに戻した。シューズがリンクを削る音と、パックを打つ音がこだまする。
響き渡るホイッスル。小さなパックを求めて、大きな防具を付けた男たちが猛烈な速度でぶつかり合う様を、黒い瞳が熱っぽく追っている。そういえば来る途中、スポーツ観戦は初めてだと言っていた。「氷上の格闘技」などといわれるだけあって、アイスホッケーはスポーツ観戦に慣れた人間でも初めて見た時はその荒っぽさにかなり圧倒される競技だ――いわんや、観戦初心者ならば。そうでなくとも、ここにきて少しずつ管理人のキャラがわかってきたナルトには、彼がこの競技をきっと気に入るだろうという予感があった。負けず嫌いで、好戦的。意外と子供じみたところも多くて、際どい悪戯にも躊躇しない。……表面上の性格は正反対でも、割と自分達は好みが似ている気がする。そう思えば、予感が確信に変わるのは不思議ではなかった。
「な、アイスホッケーってポジションとかあんの?」
思ったとおり、熱心に氷上のコートを観察していた管理人が浮ついた声で訊いてきた。
「キーパー、ライトディフェンス、レフトディフェンス、ライトウイング、センターフォワード、レフトウイング。コートの中に居られるのは6人だけど、ベンチには22人位入れンの」
「なんだそりゃ。じゃあすげェ補欠が多いってことかよ?」
「じゃなくて、試合中の入れ替わりが多いんだってば」
「ホントだ。やたら選手が出たり入ったりしてんな」
「滑ってるだけでもかなり疲れるから、みんな一分位でどんどん交代すんの。間違えて6人以上出過ぎちゃうのはもちろん反則」
ほうほう、と納得したように頷く管理人に、ナルトは(あー…やっぱりなァ)と内心で呟いた。迫力ある光景に、好奇心旺盛なこの男はすっかり魅了されているようだ。
しかもその様子を、前の方で観戦していた女の子達がチラチラと振り返っては何やらヒソヒソと話し合っている――大方、きゃあ見て見てあの人チョーカッコいいんだけど!とかなんとか言ってるんだろう。まるわかりだ。
出来るだけ目立たないよう、存在感を消すよう散々腐心してきたのに、その努力は隣のイケメンのせいで全て水の泡になっているようだった。うんざりした気分で、更に目深に被った帽子を引き下げる。
……ヤバイな。どうも、簡単には帰れなさそうな気がしてきた。
「あの、胸んとこにマークがある奴はなんなんだ?」
今度は動き回る選手のユニフォームをつぶさに観察していたらしい管理人が、気がついたように訊いていた。随分と目がいいんだなと少し感心しながら、億劫そうに答える。
「Cのマーク?ああ、あれが主将」
「Aは?副将?」
「そーそー」
いい加減に返事をしていると、ブランケットに包まれた美形が不愉快そうに睨んできた。
……そんな顔したところで、オレはもうリンクから離れるって決めたんだっての。できることなら、もう今すぐにでも帰りたい位なんだってば。
「な、もう気が済んだだろ?そろそろ帰ろうってば」
観客のあちこちで見知った顔を見つけると、ナルトは弾け飛ぶパックに再び目を輝かせる管理人に遠慮がちにそう誘いかけた。聞こえているのかいないのか、弱々しい進言は熱い試合風景を前に無視される。
深く息をつきながら、ナルトはリンクの中央で一際目立って動く、左胸にCのエンブレムを付けたプレーヤーを見つけた。パワーのあるあの動き――キバだ。
力強い音でリンクを刻むように動き回る悪友を、遠くからぼんやりと見詰めた。
一緒にプレーしていた時よりも、スピードが格段に上がっているように思える。威圧感も増して、敵を圧倒しながらどんどんゴールを攻めている。
ああ、やっぱりオレの抜けた後は、アイツがCマークを付けるようになったんだな。この前それを教えてくれなかったのは、もしかして気を使われたからなのだろうか。そんな事、気にすることないのに……全然、気にしなくてもいいのに。
「お前はどこのポジションだったんだ?」
プレーの合間に入るホイッスルをどこか遠くに聴きながら、流れるように動くキバを眺めていると、ふいに管理人がこちらを向いた。パックを弾くスティックの音に負けないようにするためか、声を幾分張り上げている。
管理人の科白に、前の方で陣取っていたスポーツ関係者らしき数名がちらりとふたりを振り返った。帽子からはみ出た金髪を見つけると、同業者同士で声をひそめて何事か言い合っているのが見える。
――ああ、やめて欲しいな。そんな大きな声。
そううんざりとしながらも、センターフォワード、とぼそぼそと答えた声は、巻き上がった歓声に一瞬でかき消された。こちらを見ていた管理人も、コートの盛り上がりに顔を前に戻す。キバのシュートが決まったのだろうか、片手でガッツポーズを取りながらコートを一周している悪友の姿が目の端に入る。
「は!?何?」
ナルトの呟きを拾えなかった管理人が聞き返してきた。突き飛ばすような大声が腹立たしい。
「聞こえねェ、もっとハッキリ言えよ」
偉そうな態度に苛々する。まったく何なんだよその言い方は。お前の好奇心なんぞに付き合ったせいで、なんでオレがここでこんなにビクビクしてなきゃならないんだ。こんな所、もう来たくなかったのに。
「おい!聞こえてんのか!?」
前を向いたままで追い討ちをかける声に苛つく。
ちらほらと、こちらを振り返る人間が増える。知っている顔もある。どうしよう。もし声を掛けられても、どんな顔をしたらいいのか解らない。
無神経に口を尖らせている整った横顔を見る。視線はずっと、リンクに注がれたままだ。こちらの様子など、さっきから気にも留めてくれない。自分の興味にばかり夢中で、波立つ心を解ろうともしてくれない。
――もう嫌だ。オレはもう帰りたいってずっと言ってんのに!

「センターフォワード!!」

腹立ち紛れに息を大きく吸うと、ナルトは黒髪のかかる耳に絶叫を叩き込んだ。急に冷たい空気を吹き込まれた肺が痛む。急に出された大声に、喉がヒリついた。
結構なダメージがあったのだろう、息をのんでしばらく耳を抑えていた管理人はゆらりと立ち上がると、
「こンの馬鹿が……耳が潰れんだろが!」
と怒鳴りながら、帽子で隠された頭を横様に思い切りはたいた。
あっ、と思う。かけていた眼鏡がずれる。
時はもうすでに遅く、被っていたキャップが宙を舞った。少し伸びすぎた金髪が虚空に散らばり、飛ばされた帽子がコンクリートの床にふさりと落ちる。
「……ナルト君?」
最前列の席でスコアブックを付けていた、長い髪が立ち上がり振り返った。色素の薄い、大きな瞳がこわばった碧眼をとらえる。ついこの間まで親身になってあれこれ世話をやいてくれていた物静かな容貌が、驚いたように固まった。次いで、見る間にそれが朱に染まる。
「――ヒナタ」
チームに在籍していた頃と寸分違わない様子のマネージャーに、ナルトは諦めとも安心ともつかない声で応えた。顎がぎくしゃくとして、うまく動かせない。
「……見に、来てくれたんだね」
まろやかな腕を振りながら階段を駆け上がってくると、ひたむきな双眸が嬉しそうに笑った。重たげな髪が流れて、かすかな甘さが空気を揺らす。
近くに来てからやっと隣にいる人間の存在に気がついたのか、ヒナタは特にニコリとするわけでもなく座ったままの男を見つけると、訝しげに会釈をした。それに対して一応といった様子で礼を返した管理人は、そのまま口を噤む。浮かれた様子はなりを潜め、整った顔が以前のような無表情に戻っている。どうやら、彼はこの状況を静観することに決めたらしかった。
「みんな、ナルト君がいなくなってすごく寂しがっていたんだよ?キバ君なんて、特に」
「……キャプテン、キバになったんだな」
嫌味のようにならないよう、注意しながら言った言葉にヒナタは小さく頷いた。
「うん、やっぱり、ナルト君とずっと頑張ってたのはキバ君だし。でもね、キャプテンを引き受けたのは、つい最近なの。きっと、ナルト君ならまたここに戻ってきてくれるだろうからって。ナルト君だったら、怪我だろうとなんだろうと絶対に乗り越えてくれるだろうって。キバ君ずっとそう言ってたんだよ?」
息継ぎもしないでそう言うと、ヒナタは感極まったように肩を大きく上下した。「ねえ、戻ろうよ」という声が、振り絞るようにして出されるのを聴く。
(――ああ、またか)
責めているわけではないのだというのは百も承知していても、言外に寄せられているものを敏感に感じ取って、ナルトは急に息苦しくなった。
きっとやってくれるだろう。
あいつなら大丈夫だろう。
どんな困難に出会おうとも、必ず乗り越えてきてくれるだろう……無責任に重ねられていく期待に、息が詰まる。追い詰められていく。
どうして、そんな事が周りに言い切れるのだろう。やれるかやれないかだなんて。どうして他人に決められるのだろう。
――できなかったら、どうなるか、とか。
そこまで考えた上での言葉なんだろうか。このままずっと期待に応えられなくても、同じような思いで、言葉で、オレを迎え入れてくれるという確証は、どこにもないというのに。
「戻るったって、どこに?オレってばもう、大学生でもないんだぜ?」
「プレーする場所なんて、どこだっていいよ。もう一回、リンクに戻ろう?」
「けどもう、シューズは不燃物に出して持ってかれちまったし。他の物も全部、粗大ゴミで申し込んじまったってば」
泳がせた視線のままで話すナルトに、ヒナタが食い下がるように一歩近づいた。これまでの彼女だったら、到底やらなさそうな行為だ。それはナルトを怯ませると同時に、彼女がどれほどこの機会に対して真剣に立ち向かっているかを知らしめさせた。
「ずるいよ、ナルト君。そんなの、ナルト君らしくない」
目を合わせようとしないままのナルトに向かい必死で語りかけるヒナタは、悔しそうにその唇を噛んだ。声が震えている。握り締めた小さな拳が、食い込む爪で白く変わっていく。
オレらしい?
オレらしいって、一体どんなんだよ――こもる声で、そう言おうとした、その時。

「あ…おい、あれってちょっとマズいんじゃねェの?」

ふいに歓声の止んだ館内に、それまで黙ったままだった管理人の声がした。
段々と広がっていくさざめき。管理人か注視している先には、ゴール前で倒れている赤いユニフォームが見える。
ついさっきまで勢い付けて滑っていたはずの選手が、動けなくなった虫のように身体を丸めたまま、他の選手たちに取り囲まれている。小さく息をのんだヒナタが、すぐに選手控え室のある方へ駆け出した。
仰向けに倒れたせいで背番号は確認できない。
しかしその左胸のエンブレムをみとめたナルトが「……キバ」と小さく言った。
「あれって、お前の友達ってやつ?」
動かないキバを放心したままで見詰めるナルトに、管理人がさして深刻そうでもない口調で声をかけた。
「なんか、ゴール前の小競り合い中に、相手に突き飛ばされてたみたいだぞ」
「起き、上がらない、な…」
「ああ、でも、あの感じだとただの脳震盪じゃねえ?」
「そ、…っか」
「コートの中、5人になっちまったな。補充ってできんだろ?あの選手、ポジションは?」
「センターフォワード…アイツ、オレと、ずっと、ポジション争いしてて…」
「へえ。ああでも控えの選手がベンチに沢山いるんだっけ」
「……いや、キャプテンはひとりだけだし、専任はオレとキバしかいなくって……」
かけられた声に譫言のように答えながら、ナルトはふらふらと立ち上がるとゆっくりと階段を降りていった。ぎっしりと詰まっている最前列の座席にも目をくれず、リンクとの境界線にある柵に、手を伸ばす。掛けた指の、感覚がない。
赤いユニフォームは、まだ、立ち上がらない。
リンク外から、担架が運ばれてきた。収容されたキバが、外に運ばれていく。
管理人が自分を呼ぶ「おい、」という声を、遠くに聴いた気がした。口の中が変に渇く。胸がざわめいて、動き出そうとする足が震える。

「――ナルト君!!」

焦るような声に、遠のいていた頭が引き戻された。静かに振り返ると、不安げな顔をしたヒナタがすぐ後ろに立っている。
キバが、とあやふやな声でひとこと出すと、「うん、キバ君は、大丈夫」としっかりした口調で告げられる。
「もう、目を覚ましたよ。突き飛ばされて、昏倒しただけみたい。今日は一応試合から外れてこのまま検査しに病院へ行くけど、そんなに心配なさそうだよ」
「――そ、か……よかった」
どこか上の空のようなその声は、なんだか白々しく聴こえた。
センターフォワード、穴が空いちまったな。
緩く笑ってそう言うと、ヒナタは何故か言いにくそうに口許を歪めた。そのまましばらくためらう姿を、首を傾げて見詰める。
試合再開のホイッスルが鳴り響き、再びエッジが氷を削る音がコートのあちこちで聞こえてきた。前へ向き直り、元居たチームのベンチを見る。かつて一緒に練習し合った仲間達が、複雑な顔をしてヒナタといるナルトに注目しているのがわかった。ここまで来てしまったらもう逃げようがないと思い、ふにゃふにゃと笑顔をつくって小さく手を振ってみる。
「……キバの抜けたとこ、誰が入るの?」
手を振りながらヒナタにそう尋ねると、ふっくらとした唇が開く前にベンチから見知らぬ選手がストレッチをしながら出てくるのが見えた。
背番号も、知らない番号だ。
躍り出るようにリンクに滑り立つと、その選手はぐんぐんとスピードを上げて敵陣の方へ向かっていった。小柄な身体を活かして、スイスイと敵を縫って駆け抜ける。掬いあげるようにパックを捉えると、キレのいい動きでそのまま即座にゴールへ打ち込んだ。
「――誰?」
パワーはさほどではないけれども、技術力の高そうなその動きに、ナルトは圧倒された。溜め込んだ声で出した質問は馬鹿みたいに短かくて、すぐに興奮を取り戻したアリーナの熱にかき消されそうになる。
「今年、スポーツ推薦で入ってきた一年生で……木の葉丸君っていうんだけど」
――ポジションは、センターフォワードなの。申し訳なさそうにそう言ったヒナタが、小さくうつむいた。
ベンチに向けてひらひらと振っていた手から、力が抜けていく。
柔らかそうな胸に抱えられたスコアブックが、白い手のひらにほんの少したわめられるのを、ナルトは無声映画でも見ているような気分で眺めた。



歓声でまだ揺れるアリーナを抜け出すと、外ではゆっくりと日が傾き始めていた。
来た時と同じバス停のベンチに座り込み、ただバスを待つ。うつむくと、目深に被った帽子が視界に煩わしく映り込んだ。帽子も眼鏡も、今となっては滑稽以外のなにものでもない。むしり取った全部をカバンに突っ込むと、萎れたような金髪を晒したまま背中を丸めた。
「……なァ、……」
躊躇するようにかけられた声が、ざわつく心を更にささくれさせた。返事もしないで、時刻表の脇に立ったままの管理人から顔を背ける。
自分の居場所は、もうあそこにはないんだ。
とうに感付いていた事実を再確認させられて、ナルトは強い西日に痛めつけられる瞳を何度かまたたいた。
オレがいなくても、チームはちゃんと動いていた。
オレのいた場所には、キバがいた。
そのキバがいなくなっても、また他のヤツがいる。
きっと、そいつがいなくなってしまっても、また……。
永遠に続くような煩悶に、うんざりと頭を振った。自分は何を期待していたのだろう。倒れたキバに、ひとり分の席が空いたベンチに。
やっぱりオレがいないとダメだ、なんて。
そんな事を口々に言うチームメイトを、どこか夢みていた。拗ねたような顔をする自分を、誉めそやして、引っ張り出してくれるのを期待していた。
なんという、大バカ者。
「オレじゃなくても、別に困らないんだな……」
ぽつりと呟く。少し汚れたスニーカーのつま先を見下ろす。アスファルトに落ちた光が、足元に出来た影をぼやけて見せた。
「……そりゃそうだろ」
素っ気なく答える声に、小さな反感が生まれた。無表情のままの端正な横顔を見上げる。
冷めた横顔を見るにつれて、それは見る間に膨れ上がり抑えのきかない苛立ちと化した。
「どんな事だろうと、代わりなんていくらでもいるんだよ。そうでなきゃ、世の中回っていけなくて困ンだろうが」
バスの時刻表を見終わった管理人が、萎れた金髪を見下ろして片手間に言った。至極当然の事をしたまでというようなその姿に、悪びれたところはどこにも見当たらない。
「…ンだよそれ。オマエ、そんな事言いたくてわざわざオレをこんなとこに引っ張り出してきたワケ?」
ふざけんなよ、と唸るナルトに管理人は呆れたような溜息をついた。「なんだよ、俺は間違った事言ってないぜ?」という声にはゆらぎがない。
「あそこから逃げ出したのはお前だろ。それを決めたのもお前。変装までしなきゃ気まずくて見に来れないってのは、お前自身に後ろめたく思うような理由があるからだろうが」
俺を責める前に、自分の中の整理をつけろよ。
突き放した言い方に、はらわたが煮えくり返りそうだった。悔しさが無性にこみ上げてきて、握ったこぶしがぶるぶると震える。
言いたいことは沢山あるようなのに、わなつく唇からはそれらがひとつも出せないのが更に憤りを煽った。
「オマッ…オマエだって、逃げ出してきたのはおんなじの癖に!」
震えながらぶつけた声に、それまですましていた管理人の顔がこわばった。ゆっくりとこちらを向くまなざし。その双眸の奥に、瞬く焔のような怒りがひらめくのを、ナルトは睨んだ顔を緩めることなく見て取った。
「オマエだって、オレと大差ねェってばよ!自分ばっかりちょっと気が楽になったからって、上から目線でしゃべってんじゃねェよ!」
激昂から飛び出した科白は、予期していたよりも遥かに手酷く彼を打ちのめしたようだった。ぐっ、と一瞬詰まった様子の管理人が、その顔に血をのぼらせる。
「ただの好奇心?はァ!?中途半端に焚き付けやがって、オマエどんだけ人を馬鹿にしてんだってば!」
「ふっ…ざけんなよ!テメエ、なに俺に期待してんだ!自分が負け犬なのを人にどうにかしてもらおうなんて思ってンじゃねェぞ!」
「負け犬!?――オマッ、今なんつった!?」

――もう限界だ!!

そう思うと、ナルトはすっくと立ち上がった。
そのままバス乗り場を出ていこうとするナルトに、管理人が「あっ、おい!」と声をかける。それでも振り返ることなく足を止めない姿に、丹精な唇から舌打ちが漏れるのを背中で聞いた。
苛立つ表情を隠すことなく、バス停に立ち尽くしたままの管理人を置き去りにして、ナルトは河川敷に沿ったバス通りを駅に向かってずんずん歩いていった。オレンジがかった日差しが、逆立つ背中を照らしている。しばらくしてから来たバスが、一瞬で後ろからその後ろ姿を追い越していった。座席の端に垣間見えた跳ねた黒髪を、忌々しく見送る。
バスの立てた砂埃が顔にかかる。軽く咳き込みながら、ナルトはむしゃくしゃする思いのまま「ケッ、…なんだよ、バカスケめ」と吐き捨てた。

「――テメェ、勝手に人の名前呼んでんじゃねェよ」

後ろから、舌打ちと共に毒づく声が聞こえた。
驚いて、振り返る。少し距離をおいたところで、ついてきている華奢な長身。
ズボンのポケットに手を突っ込んだまま歩く管理人は、目を合わせないようにするためか横を流れる河川の方を向いたままだった。ムスリとした顔さえ別にすれば、ゆったりとしたその足取りはなんだか気楽な散歩でもしているかのようだ。
「……なんで、バスは?」
「あー、最近運動不足だからな。ちょっと歩く」
「ちょっとって、結構、距離あるってばよ?」
「うるせェ、余計なお世話だ」
憮然としたままの管理人に、ひらべったい声で「…こんなんに、付き合うこと、ないってばよ」と進言すると「は?お前が俺の前を勝手に歩いてるだけだ、ドべが」という憎まれ口で返ってきた。それでも駅までは、このまま歩いたら一時間以上はゆうにかかるだろう。想定外の管理人の姿にナルトは困惑を隠せないまま、それでもまた前を向いて歩き出した。
「アイスホッケーって、スゲー、スピード感あんのな」
後ろから投げかけられた言葉が独り言のようにも聞こえて、黙ったままでいたナルトの足元に、コツンと蹴られた小石が転がってきた。それでもまだ無言を貫いていると、更にもう一個、蹴り飛ばされた小石が転がってくる。
「――…あ、そ」
仕方なく適当な相槌をうつと、また舌打ちが聞こえた。もしかして、慰めようとしているのだろうか。そう思いもしたが、先程の怒りはまだ熾火のように燻っていて、後ろを振り返る気にはなれなかった。
俺に期待するなと言った、管理人の言葉をあらためて噛み締めていた。
期待、していた……のだと思う。
あの瞬間。
5人になったリンクに、「早く行け」と言って欲しかった。可能なことかどうかなんて関係なく。背中を押して貰いたかった。
自分では、決めきれなかったから。他人である、彼に決めてもらいたかった。委ねてしまった。
――それが間違ったやり方だという事も、本当はわかっているのに。そんな風な決断の仕方を、彼がよしとしないだろうというのも、なんとなくわかっていたのに。
「あのシュートって、決まったら、スゲー気持ちよさそうだな」
再びの語りかけに、ナルトは長く溜め込んだ息をはくように、「……うん、気持ち、イイってばよ」とこたえた。不覚にも、声が揺れる。それでもやっと出せた言葉は、確かに彼のところにまで届いたようだった。
それっきり、管理人からの話しかけは止めになった。お互いに黙りこくったまま、ひたすらに駅までの道を歩く。
夕方の河川敷に吹く風が、熱くなる頬にひやりと触れては流れていった。整備された遊歩道に落ちた自分の影のすぐ隣に、後ろにいる管理人の伸びた影が並ぶ。
寄り添うようにも見えたその影は、それでもずっと、距離が縮まることはなかった。