第十話

たとえばの、話ですが。
ラフなポロシャツにスラックスを合わせたその人は、榛色の短髪を軽く掻きながら碧眼を覗き込むと、試すような目つきをした。首から下がるネームタグには、くっきりと印字された「店長」の文字。深みのある声は清潔感のある小部屋で心地よく広がると、壁際に積まれたダンボール箱に吸い込まれて消えた。
「明日からすぐに入ってくださいとか言われたら、それは可能ですか?」
「は?明日から……ですか?」
ポカンとしていたナルトは、一旦言われたことをオウム返しに繰り返すと、ほんの少しだけ口を閉じた。乾いた喉に唾を飲み込み、「はい、もちろん」とだけ答える。
「では、明日の九時、またここに来てくれるかな」
手にしていたクリップボードを膝に載せて、店長は言った。頼もしい肩の上で、人の良さそうな笑顔がこぼれる。

「採用です。――これからよろしくね、うずまき君」

     ☆

管理人との試合観戦の翌日。
会社説明会の帰りにふと飛び込んだ「正社員募集」の張り紙に、そのまま立ち寄ったその店で、ナルトはいきなり就職が決まった。
全国にチェーン展開する、大型スポーツ用品店を経営している会社だ。
実体験に沿った接客を志すという社内方針に基づいて、販売員に元スポーツ選手を積極的に登用しているというその会社は、持ち歩いていた履歴書をそのまま差し出すと、そのたった一度の面接だけでナルトの採用を決めてくれた。
「えっと、あの、こんな簡単に決めてしまっていいんですか?」
「決めない方が良かった?」
「いえっ――そんな事はないですけど」
あまりにも好都合すぎる展開に、怪しみながら確かめるナルトを、穏やかそうな二重まぶたがにっこりと受け止めた。
「野球やサッカーをやっていた人ってのは結構いるけど、アイスホッケーってのはレアだからね。メジャースポーツ以外の経験者からの意見ってのも、きっとこれまでとは違った切り口で聞けるものがあるんじゃないかと思うんだ」
面接をしてくれた店長は、キツネに抓まれたような顔をするナルトに向かいにこやかにそう告げた。聞けば、彼も元プロテニスプレーヤーだったのだという。
「僕も怪我で、戦線を離脱することになってね。でもこの仕事だって本当にやり甲斐あって楽しいから。やめた事に、後悔はしてないよ」
最初は販売員からだけど、うずまき君は人あたりもいいから。きっとすぐ接客にも馴れるよ。
そう言って笑う店長に見送られて、アパートまでの帰り道をゆっくりと歩いた。身に着けたリクルートスーツにやわらかなシワが寄る。
やっと熟れてきたってところで、これを脱ぐ事になるんだな。
嬉しいというよりもホッとしたという気持ちが大部分を占める頭の中で、そんな事を思う。折角だから祝杯でもあげようかと、道すがら立ち寄った行きつけのコンビニで冷えた缶ビールを数本買って、レジ袋の鳴る音を快く耳で感じながら足を進めた。
角を曲がると、すっかり見慣れたアパートの茶色い壁が見えてくる。するとその前で、携帯を片手に立っている引っ詰め頭が見えた。
「シカマル?どしたんだってばよ?」
「おー、ナルトか」
メールを送り終えたらしい携帯をカバンにしまって、シカマルが笑った。なんだか機嫌がいい。
「なんだよ、今日面接だったのか?」
「あっ、そーなんだって!オレってばやっと就職決まったの」
「マジか!よかったじゃねえか」
心から喜んでくれている様子のシカマルに、ナルトの相好も崩れた。
そう、よかったのだ。これまでの経験も活かせる仕事のようだし、ボスとなる人もなかなかの好人物のようだった。取り敢えずは今日面接してくれた店舗が勤務地になるらしいから、すぐに引越しを考えなくて済みそうなのもありがたい。
「シカマルは?もしかしてオレを待ってたの?」
「いや、今日はサスケの方に用があって。これから、一緒に飲みにいく約束してんだ」
そう言ってるそばから、階段を下りてくる軽い足音が聞こえてきた。昨日と同じ黒のカーディガンに中だけを替えた格好の管理人が、共同玄関の奥から現れる。
どうやらあまり衣装持ちとはいえなさそうな管理人に、そういやコイツの部屋ってあんな小さな箪笥一個しかなかったっけななどとぼんやり思っていると、そんなナルトに管理人がちょっとだけ目を留めた。
「……よォ」
「……ども」
着ているスーツがやけに気まずくて、ごく短い挨拶をしあった。昨日、結局お互い最後まで無言を貫いたまま帰宅してしまったこともあり、一体どんな顔をしたらいいのかがわからない。
そんなふたりをシカマルは興味深そうに観察していようだったが、ふと「あ、なあサスケ、どうせならナルトも一緒にどうだ?コイツ、やっと仕事決まったんだってさ」と提案してきた。さもいい考えが浮かんだとでも言いたそうな顔だ。
「せっかくだから、就職祝いに一杯奢ってやろうぜ」
雰囲気を読んでいるのかいないのか、気軽に提案するシカマルに対し管理人は「いや、今日はふたりで行こう」と愛想なく言った。「相談したいこともあるから」と言い訳のように添えられた言葉に、うっすらと裏切られたような気分になる。
「いーってばよ、シカマル。オレの事は気にしないで、行ってこいって」
ふやけた笑いを浮かべてそう言うと、「そっか?」と心なしか三白眼が申し訳なさそうに細められた。管理人の表情は、変わらないままだ。
「――決めたのか?」
ポツリと落とされた質問の先が自分だと気がつくまでに、少し時間がかかった。
上目遣いに見上げると、凪いだ目をした管理人がこちらを向いている。
「……ん。決めたんだってばよ」
なんとなく真正面から彼を見ることができないままそう答えると、管理人が「そっか」と小さく言ったのが聞こえた。平坦な声に、込められた感情が読み取れない。
じゃあ就職祝いはまた改めてな、と言いながら繁華街のある駅の方角へと消えていく二つの背中を見送って、ナルトは共同玄関のステップに足を掛けた。今日も曇りひとつなく磨かれているガラス張りのドアを見渡すと、出入りの際にでも誰かがつけたのだろうか、丁度肘辺りの高さにぺたりと指紋が残されているのを見つける。
ちょっと考えて、ナルトは着ているスーツの袖口を引き伸ばすと、誰のものとも知れないその痕跡を、ぎゅっと力任せに拭い取った。汚れたって構うもんか、どうせもう当分、着ることはないのだ。
明日は火曜日。指定されていた粗大ゴミの回収日だ。



長く突き出したスティックはそのままで、可能な限り丁寧にダンボール箱の蓋を閉じた。どうしたって半分口が開いたままのような形になってしまうが、これはもう仕方ないだろう。ガムテープを駆使してがっちり固定をしてしまえば、グラグラと飛び出していたスティックも何となく収まりがついたようだった。
一通りの梱包を終えると、ナルトは冷蔵庫から先程購入してきた缶ビールを取り出した。冷えた表面で手のひらを湿らせて、プルタブに引っ掛けた爪先で炭酸の吹き出る音を愉しむ。祝杯というよりもどちらかといえば慰労会のような感覚だったが、今夜はひとりでも少しばかり飲みたい気分だった。先程別れたシカマル達も、今頃は酔いが回っている頃だろうか。
窓の外を見ると、僅かに欠けた月が霞のような雲に包まれている。吹き込む風にはもうひやりとした冷たさはなく、あたたかな大気が街に満ちていた。
このアパートに来てから一ヶ月。なんだか色んな事件が一気に起こったようで、ナルトはそれらを思い返して苦笑した。ボロアパート、持ってかれていないダンボール、シカマルと一緒に帰ってきたバイト明けの朝。意味深なカカシの言動に勝手にやきもきさせられた夜があって、人をくったような笑い声をあげる妖怪ばあちゃんと知り合いになった。
どれもこれも、数ヶ月前の自分には想像もつかなかった事柄たちだ。腹がたったり、振り回されたりもしたけれど、今となってみれば間違いなく愛すべき記憶達。
――そして、その中心に、彼がいた。始めて出会った時の、険悪な顔を思い出す。

『俺を責める前に、自分の整理をつけろよ』

(整理なら、もうついてるってばよ)
昨日彼に言われた事を反芻しながら、玄関先に置いたダンボール箱を見詰めた。
これでいい。間違ってはいないはずだ。きちんと自分で仕事を見つけてきたのだ、非難されるような謂われもない。
……なのに、どうして。どうしてこんなにも、踏ん切りがつかないのだろう。
(なんだよ……なんで、アイツがどう思うかなんてことばかり、気にしなきゃなんないんだよ)
先程の管理人の、深い瞳が脳裏に現れた。何も言わない視線が、かえって心に苦しい。
真っ直ぐに伸びた、きれいな背筋が浮かんだ。
いつだって正しく、しゃんとしていた背中。怯むことなく、つんとすまして前を向いた顔。淡々と、しかし自分に誇りを持って日々を送るその姿勢は、どこまでも彼らしくて。
きれいだと思った。あんな風にいられたらと思った。
……出会いから彼に向けてきた視線が、憧憬を含むものだったのだというのが、今となってわかる。あの凛とした佇まいに、自分はどうしようもなく憧れていたのだ。
『好きになっちゃったんでしょ?』と冗談めかしたような、カカシの声を思い出した。
認めるのは、なんだか悔しいような気もする。でも。
(けっこう好き、なんだよなァ――やっぱ)
揺るぎない事実に、ナルトは降参の溜息をついた。端正な顔立ちも、その顔に見合わない口の悪さも。厳しさの中に垣間見える、優しさも。
いいな、と思う。好きだな……と思う。
友達だと思っているのは、自分の方だけかもしれないけれど。近くにいけたのが、嬉しかった。他愛ない会話が出来るようになったのが、この上ない奇跡のように思える。
――もしも、自分のこの選択が、彼の意にそぐわないものなのだとしたら。
彼はこの先、どんな目でオレを見るのだろう。やっと近づけたと思ったのに、また遠ざけられてしまうだろうか。隣に立つ事を、許してもらえなくなるだろうか。
もうあのきれいな微笑みを、見せてくれなくなってしまうだろうか。
「いやいやいや……そんな事で、折角ついた決心を左右されちゃダメだってばよ」
多分、そういう事ではないのだ。ついさっきまみえた鏡のような瞳に、ナルトは思った。
どんな仕事を選ぶのかとか。彼は、そういう事を問題にしているわけじゃない。責めるわけじゃない。そうではなくて、彼が言いたかったのは、多分……

「――…あーっ、やめやめ!やめたァ!」

それ以上を考えようとしたナルトは、急に言いようのない怖さを覚え、思考を止めた。手にしていた缶ビールをぐいぐいと飲み干して、近くに置いたままの携帯で時間を確認する。
いつの間にか、もう日が回っている。明日からは決まった時間にきちんと起きて、遅れることのないよう就職先に赴かなくては。
つらつらとそんな事を考えながら、玄関先にあるダンボール箱に目を遣った。
明日の朝、慌ただしくそれを集積場に出していくのを想像すると、なんだか胸が締め付けられた。それに万が一、その場で管理人にでも会ってしまったら。なんでもない事のように、このダンボール箱から立ち去る事ができるだろうか。それをした後、これまでと同じように、彼に話しかける事ができるだろうか。
考えれば考えるほどに、それをやりきる自信は湧いてこなかった。そもそも、彼の見ている目の前で、自分はあのゴミを出していけるだろうか。
もう一度、携帯の画面に浮き出る日付を確かめた。
今日はもう、火曜日なのだ。
カラスに散らかされるような生ゴミが入っているわけでもないし――明日の早朝でなくとも、今のうちに集積場にこれを置いてきたところで、そう問題はないだろう。
決意して、ナルトはゆっくりと座り込んでいた窓際から立ち上がった。空になった缶をクシャリと潰し、通りすがら流しに置く。
両手でダンボール箱を抱え上げると、昨日帰ってから脱ぎ捨てたままだったスニーカーに裸足の足先を突っ込んだ。密やかな音をたてながら、玄関からそろそろと頭を出す。
突き出たスティックが、ドアに当たってこつんと鳴った。
頼りないその音を閉じ込めるように、ナルトは後ろざまにその扉を押し閉じた。



歩くたび抱えたダンボール箱の中で、ぶつかり合ったヘルメットとスティックがカタカタ鳴った。アパートの周りをぐるりと巡るようにして、集積場に向かう。
辺りには生温い空気が漂っていて、なんだか視界がぼやける夜だった。湿度が高い。
(あ、――もう帰ってきてるんだ)
見上げた二階端の部屋の窓に動く影を見つけて、ナルトは小さく思った。灯りが点っていないところをみると、たった今戻ってきたところなのだろうか。案外、早く帰ってきたんだな。ほんのり安心したような気分にもなって、抱えたダンボールを持ち直す。
きっと彼はこうして、これからまた新しい繋がりを作っていくのだろう。そして自分も、彼とは関係ない場所で、新たな世界を広げていくのだろう。
ふと思い浮かんだ想像に、延々と広げられていく、透かした日にきらめくクモの巣を思い浮かべた。ああそうだ、これってあれに似てる。今日貰ってきた会社の組織図を思い出し、ナルトはいつか思った小さな引っかかりをやっと解く。
そうでなきゃいけないんだよなと思いつつもどことなく淋しくなるのを拒めないまま、スニーカーの足が集積場までたどり着いた。
一段上がったコンクリートの床の奥に、腰を屈めて丁寧にダンボール箱を下ろす。
(長い付き合いだったなあ、オマエ)
こころなしか丸くなった箱の角を眺めて、しみじみとそんな事を思った。
相当、邪魔だったけど。
けどまあ、だんだん、玄関先にオマエがいるのにも慣れちまったけどな。
「……じゃーな」
目の奥が熱くなってくるのを感じて、慌てて横を向いた。
振り返りたくなる気持ちを断ち切るように、伸ばした足で、そのまま集積場から通りに降り立った、その時。

「なんだお前、こんな時間に」

突如かけられた低い声に、度肝を抜かれた。宵闇に目を凝らすと、遠くの街灯に照らされて、ゆらゆらと駅の方から歩いてくる管理人がおぼろげに姿を現す。
いい感じに酔いが回っているのだろうか、先程まで羽織っていたカーディガンは既に脱いで小脇に抱えられ、一見いつも通りのすました顔も、よくよく見ればほのかに潤んで上気している。
「え?……あれ?」
今、帰ってきたの?
事態が飲み込めなくて困惑するナルトに、管理人が首を傾げた。「何のことだ?」と訊く声が闇に溶ける。
「いや、だって。ついさっき、うちはさんちの窓見たらさ」
「は?何ひとンち覗くような真似してんだお前」
「ちがっ……じゃなくて!窓に、人の影が見えたの!!」
「影?誰の?」
「…だからそれをききたいのはオレの方なんだってば!」
絶対、間違いないって!
言い切るナルトに管理人はしばし思案していた様子だったが、唐突にはっと気がついたようにアパートの自室を見上げた。
焦ったように身を翻し、そのまま共同玄関に走り込む。
ただ事ではなさそうなその様子に、やっと気が付いたナルトも慌ててその背中を追った。アルコールのせいなのか、まともな呼吸ができないまま駆け上る階段がとんでもなく息苦しい。
足音が廊下に響く。時間を考えればかなり迷惑だと思ったが、気にしていられない。
「――な、何!?なんなんだってば!?」
自室の前で鍵を捜してカバンを弄る管理人に追いつくと、ナルトは息も絶え絶えに膝に手をついた。
も、もしかして……幽霊、とか?
押し殺した声で言う。するとすかさず低い声に「んなわけあるか、馬鹿たれが!」と罵倒された。
「空き巣だ、空き巣!!最近ここら辺で多発してるって、今日警察が巡回しにきたばっかなんだよ!」
「は?いやまさか、こんなボロアパートに?」
半信半疑のまま言葉を返すと、ばん!と撥ね付けるような音をたてて、開錠されたドアが開いた。勢い余ったふたりの体が、押し合うように中へと転がり込む。
数少ない家具の引き出しが暴かれて、乱暴にぶちまけられた衣類が折り重なっているのが見えた。突然外から吹き込んだ風に、開けっ放しのカーテンが膨らむ。
生暖かい風が抜ける部屋の中、幽鬼のようなシルエットが佇んでいた。
窓を背に立つ痩せた影。逆光に、その全身が黒ずんで見える。顔は何かに覆われていて確認できないが、後ろで一括りにした長い髪だけが、透ける月明かりに白けて見えた。

「……ンの、やろォ!」

管理人の怒声に、男は表情を隠したまま後ろを向くと、土足のままの足を窓枠にかけた。すでに細く開けられていた窓が勢いよく放たれる。注視してみればその錠のあたりが、見事に丸く切り抜かれているのがわかった。不意にその暗闇で、弾かれた月光がちかりと掠めた。光の元を追った視線が、今まさに外へ出ていこうとしている握りこぶしから垂れる、銀の鎖にたどりつく。
「――あっ、おい、あれ!」
叫ぶナルトが指差す先に、管理人の動きが止まった。土足のままで歩き回られたらしい畳の上に、繊細な模様の入った小箱が中身を抜かれて転がっている。
隣で彼が、息をのむのがわかった。
声を失った喉が、ひゅっと乾いた音をたてる。
見開かれた瞳からは急速に光が抜け落ち、伸ばした腕が壊れたからくり人形のようにゆっくりと下がっていくのを、まるでスロー再生された動画のように青い目が映した。
「テメ…ッ、それ、返せってば!!」
全てが停止してしまったらしい管理人に気が付くと、ナルトは気持ちを奮い立たせるかのように低く唸った。声をあげながら男の胴体目掛け突進し、逃げ出そうとする腕を抑える。
焦りを帯びた男の足に肩を蹴散らかされ、鈍い痛みに呻いたナルトが「こっ・・・の!!」とその胸ぐらを掴もうとしたその時、握りこぶしをつくる男の腕が、身構えるナルトの顔目掛け大きく振りかぶった。
その動きに跳ね上げられた鎖は一旦宙で弧を描くと、そのまま鋭くしなって鞭のように振り下ろされる。ヤバい、避けなきゃ。考える前に本能で首が脇に逸れて、銀の軌道が後ろの虚空を切り裂くのが間近に見えた。
「――痛ッ…!」
ギリギリ避けた頭のすぐ裏で、短い叫びが聴こえた。
想定外の声に、愕然として振り返る。床に膝をつく人影。いつの間にか距離を詰めていた管理人が、その顔の半分を手のひらで抑えているのを信じられない思いで見詰める。
被さる髪に、表情が見えない。その姿に凍りついたナルトの腕から、一瞬力が緩んだ。
隙を逃さず男はそのままナルトを振り切ると、再び窓枠に身を乗り出した。驚く程の身軽さで外へ向かってその身を投げ出すと、一階の軒先を蹴って階下へ飛び降り、そのまま闇に紛れ込むように走り去る。
「ちょっ、待てって!!」
急いで男の後に続こうと窓枠に足を掛けたナルトの肩に、片目を手で覆ったままの管理人の空いている方の手のひらが、ふわりと乗せられた。
引き止めようとするには余りにも力のないその手に、思わず振り返る。
光のないその瞳は、まるで心をどこかに飛ばしてしまった夢遊病患者のようだった。やっと退けられた手の下に現れた左目のすぐ横をはしる、赤く滲む裂傷。血の気が抜けたその皮膚は、いつもよりも更に青白く透けてみえた。
「――追わなくて、いい」
落とされた声は捉えどころがないまま闇に掻き消えたが、確かな意思がそこにはあった。
虚空の中に彼が見ているものがわからないまま、それでも振り絞るように「でも、」とだけ言うと、ほんの少しだけ肩にかけられたままの白い手に力が加わる。
「いい。……いいんだ」
そう自らに言い聞かせるかのように繰り返す管理人に、ナルトは諦めた足をゆるゆると下ろした。窓の外、男の消えていった先に目を凝らす。
「なんなんだアイツ――忍者みてェ」
そう呟く声が、生温い風に流された。開け放した窓から、解かれたカーテンがハタハタと靡く。
既に男の姿はどこにも見当たらず、眼下には奥まった夜の街が広がるばかりだった。