第八話

幼い頃何度か訪れた父親の生家には、小さな屋根裏部屋があった。
その昔父親もお気に入りだったというその部屋は、家中で一番太陽に近い場所にあるせいか、いつもぬくまった闇に満ちていた。低い斜めの天井、かすかな埃のにおい。甘やかすような静寂はひどく心地よくて、そこからどうにも離れがたく思ったのを覚えている。
いつだったか、いつまでもそこでひとり、壁に背を付けて外側のあたたかい光を感じていたことがあった。麻痺した時間の中、呼ばれる声にも無視をして脈を打つ自分の音だけをうっとりと聴く。そうしていると、何故か外の世界は信じられないくらいどうでもいいものに思えた。
階下から何度も呼ばれていた自分の名は、返事をしないでいると諦めたのか段々と聞こえなくなっていった。いい気になって知らんぷりを決め込んでいた心が、急に挫けだす。このまま呼ばれなくなったら。忘れられたまま、ドアが開かなくなってしまったら。
そんなのはありえないと思っても、想像してみたら急に怖くなってきた。規則正しかった鼓動が乱れ出す。立ち上がって、ズボンについた埃を払って、おどけながらドアを開ければいいだけだ。頭ではわかっているのだけれど、足が石になったように動かない。
どうしよう……どうしよう。
動かない。動けない。
誰かドアを開けて。手を引いて――ここから出して!
――追い詰められた瞳に涙の膜が出来たところで、光が差し込んだ。
大きな金色の影。広い肩。穏やかな声で、自分の名が呼ばれるのを聞く。
ああ、見つけてもらえた。よかった。
あのまま見つけてもらえなかったら、どうしようかと…

……夢の中であげられた自分の嗚咽に、ナルトは目を覚ました。目の奥がぼんやりと熱い。投げ出した手の先が、おかしいほどこわばっていた。
随分と古い記憶だった。夢を見るということさえも、なんだか久しぶりなような気がする。

     ☆

(――なんじゃこりゃあ)
散乱した色とりどりの可燃物に、ナルトは指に食い込むビニールの重みを一瞬忘れた。
青い印刷物、白い紙トレイ、赤い菓子のパッケージに黄緑の紙袋。クシャクシャに縒れて汚れたそれらの真ん中で、機械的な動きで黙々と散らばったゴミを拾い集めている後ろ姿がある。
右手のゴミ袋が、ガサリと鳴った。音に気がついた黒髪が、背中を伸ばしながら立ち上がる。
白いマスクに半分覆われた顔がこちらを向き、「…おぅ、おはよう」と若干草臥れ気味の挨拶が、不織布越しに聞こえた。目の色が冴えない。
「どうしたんだってばよ、これ」
「やられた、あいつらに」
顎が向けられた先に目を凝らすと、空をまたぐ電線に数羽のカラスがキョトキョトとガラス玉のような目でこちらをうかがっている。その内の一羽が、ナルトと目が合うと呼応するかのように「アー」と鳴いた。
積み上げられたゴミ袋の山にはカラス避けのためのグリーンのネットが掛けられていたが、つつかれて穴を開けられたゴミ袋はどうやらそのネットの外に置かれていたものらしい。
ゴミを出す際にはネットの中に入れるのが規約だったはずだが、面倒がった誰かがそのまま適当に置いていってしまったのだろう。他にも数名の便乗犯がいたらしく、中身を暴かれたゴミ袋が三つほど、集積場のコンクリートに転がっていた。
「あいつら、ホント隙がないんだ。回収車がもうじきに来るから、それまでに纏めちまわないと」
そう言って、管理人は再び手にしたトングでゴミを拾い出した。中途半端に腰を屈めた姿勢がキツそうだ。いいようにつつき回されたらしいゴミ達は、面した道路にまで引きずられ広げられていた。食べ残しの生ゴミが、見るも無残な姿にされ点在している。時間に追われ、急ぎ足で駅に向かう通行人達が、迷惑そうにそれらを避けていった。
その様子を横目に、ナルトは休みなく動く背中の後ろでしばし佇んでいたが、網がけされた山に持っていたゴミ袋を押し込むと、丁寧にそのナイロンで出来た網の端を捲り上げられないよう整えた。今日のバイトは夕方から。就活の予定も入ってないし――というか、そもそもここのところ取り急ぐような用事なんてあった日なんて、ほとんどないのだ。
決心してひとつ息をつくと、ナルトはダブつくトレーナーの腕を捲り、踏んでいたスニーカーの踵を正した。まずは、道路に広げられてしまったゴミから片した方が良さそうだ。
気配に気づいた管理人が、軽く顔をあげた。ほんの少し、驚いたような目がまたたく。
「……手伝うってば」
ゴミ袋、もう一枚ない?言いながら道路にまで広がった紙クズの群れに手を伸ばすナルトに、管理人は動きを止めたまま呆気に取られていたようだった。が、急に気がついたかのように慌てて「おい、素手はやめとけ、今軍手持ってくっから」と言う。
「別に、後で手ェ洗えばいいってばよ」
「ダメだ。ちょっと待っとけ」
そう言って、手にしていたトングを下に置くと、腰を伸ばして横顔だけでこちらを見た。軍手の指先で引っ掛けたマスクの下から、ほどけた口許をのぞかせる。

「ワリィな。――助かる、マジで」

朝日を受けた頬が、いつも以上に白く見えた。
冴えなかった瞳の色が少し和らいだのがわかって、ナルトはどぎまぎしながら鼻先を擦った。



引っ掻くようなエンジン音を響かせて走り去る収拾車を見送り、水を打ったコンクリートの床をデッキブラシで擦り終わると、ぽたりと顎を伝って汗が落ちた。ブラシを片付けて、外の水栓で手をすすぐ。暑苦しくなったトレーナーは脱ぎ捨てて中のTシャツ一枚になると、張り付いた背中に触れる新鮮な空気が心地よかった。共同玄関のステップに腰を下ろすと、思わず「よいしょ」という年寄りじみた呟きが漏れる。
ジーンズの足を投げ出して、ナルトはのけぞるように腕をついて空を見上げた。掃除の間にすっかり高くなった日は燦々として、空の端にはちぎった綿菓子のような雲がぷかぷか浮いている。
弱い風が、汗で束になった首筋の髪の間を抜けていった。
いい天気だ。
「――ご苦労さん」
ぼんやりと映る長閑な光景に、うっすらと曇るペットボトルの底が写りこんできた。
顎を上げると、しゃがみこんだ後ろから、頭越しにお茶を差し出す管理人の顔が逆さまに見える。先程から姿が見えなくなったのは、一旦自室まで戻ってこれを取ってくるためだったらしい。
…ども、と小さく言ったナルトが白い指先にぶら下げられたペットボトルを受け取ると、そのまま淀みない動きで管理人が隣に座った。表面の結露が呼び水になったのか、ナルトは自分が思った以上に喉が渇いている事に気がつく。すぐに開栓して、欲しかったうるおいを喉に流し込んだ。グリーンのラベルのよく冷えた表面が、力仕事で熱くなった手のひらに心地よかった。
「暇そうな仕事が意外とキツくて、驚いただろ」
まさに思っていた通りの事を言い当てられて、思わず口に含んでいた水分がゴクリと下がった。冷たさが喉にしみる。その様子を可笑しそうに眺めると、管理人は「俺も最初そう思った」と言った。
「俺の前なんて、ちっこいじいさんひとりで管理業務全部やっててさ。中身の詰まったゴミ袋は重いし、窓拭きとかも背がないと結構キツいし。どうやってたんだろなって」
「その人も、親戚かなんか?」
「いや、昔からの知り合いだけど親戚とかじゃなくて。猿飛さんていう人なんだけど。昔からここで住み込みで働いてくれてたんだけど、リタイアされてからは地方に住む娘さん夫婦と一緒に暮らしてる」
今しがたナルトが見上げていたのと同じように空を眺めながら、管理人は手にしていた自分のペットボトルの蓋を捻った。回されたキャップが「クキッ」と鳴る。
薄い唇が、白い飲み口にあてがわれるのをなんだかドキドキしながら見守った。
「そんなことより。手、大丈夫だったか?」
ゆっくりと数口飲んだだけですぐに離されたペットボトルを脇に置くと、かすかに気遣いの混じる瞳がこちらを向いた。盗み見を見咎められたようで一瞬肝が冷えたが、ナルトはすぐに「ああ、こんなん全然平気だってばよ」となんでもない事のように言った。
管理人が「素手はやめろ」と言った意味は、作業を開始し始めてすぐにわかった。両手で掴み上げた紙クズを袋に押し込めようとした際、何かがナルトの手のひらに突き刺さったのだ。「……っツ、」とかすかに漏れた息に、素早く反応した管理人が紙クズを広げてみると、アルミで出来た小さなピンがころりと出てきた。新品の靴下を束ねているようなアレだ。
その後にも、折られた割り箸や割れたプラスティック容器など、意外と皮膚を痛めるようなゴミが一緒くたになって袋に詰め込まれていたのに驚かされた。どれも市の規約上は分別に問題があるわけではなかったが、知らずに素手のまま作業していたら確かに多少の怪我は間違いなかっただろう。悪意はなくとも、知らず知らずの内に他人を傷つけるようなものを自分達は日々排出しているのだ。顔を合わせたばかりの頃の管理人が、ゴミの分別に躍起になっていた理由がなんとなくわかった。
「大丈夫。オレってば、手のひらの皮厚くなってるし」
「いいから、見せてみろ」
ひらひらと手を振ってみせると、無表情でその手を掴まれた。長い指に、無骨な手のひらが確かめるように広げられる。冷たい指先が思っていたよりもずっとしなやかで、ナルトは急にソワソワした気分になり腰が落ち着かなくなった。
「――ん、確かに赤くもなってねェな」
検分が終わって離された手に、ホッとしたような残念なような複雑な思いを抱いていると「しかしお前、手ェでけーな」と感心したような声が聞こえた。「皮も硬いだろー」とナルトが自慢げにすると、「ああ、スポーツやってたからか」と管理人は急に気がついたように言った。
「まーね。競技中はグローブするけど、ずっとスティック握ってたから」
「いつからやってんだ?」
「チームに入ったのは小学生の頃だけど、スケートを始めたのは六歳からかなあ」
初めて履かせてもらったスケート靴の、ぐらぐらと不安定だった立ち姿を思い出しながらナルトは言った。締めた靴紐がキツくて、あの後足首が大変な事になったんだっけ。
「なんかかーちゃんが日本古来の言い伝えとか忠実に守るのが好きな人で。習い事ってのは六歳で始めるのがいいとか、昔からいわれてるんだってさ」
「ああ、『風姿花伝』?」
管理人の口からさらりと出た単語に首を傾げていると、「世阿弥だろ?」と重ねてきかれた。ぜあみ?とオウム返しのように言うナルトに呆れたような顔をして、管理人が溜息をついた。
「世阿弥くらい、日本史の授業で習っただろーが」
「あーッ、…ゼアミね!そんくらい知ってるに決まってんだろ。――ええと、なんか魚採るのに使う道具かなんかだっけ?」
当てずっぽうの知ったかぶりを発揮すると、呆れ顔の管理人に「お前、さては頭の方はドべだろ」とあっさり見破られた。
人を小馬鹿にしたような言葉の響きにムッとすると、隣の白い顔に何度も見た不遜な笑いが浮かんでいる。やっぱり、コイツこっちが本性だろ。しんから楽しそうなその様子に、声には出さずに確信する。
「……そーゆーうちはサンは、お勉強が大変よくお出来になられたそーですネ」
「あ、やっぱお前、あの後カカシのやつに色々聞いたんだろ」
つい自分で口にした買い言葉からあっけなく転がり出たボロに自身で怯んでいると、管理人が「単細胞め」と更にそれをあざ笑った。なんか色々と悔しい。それでもカカシに話を聞いた事を彼があまり気にしていないようなのを感じて、ナルトは密かに胸をなでおろした。
「まあでも、そうだな。勉強は、結構好きだったな」
空の高いところまでを見通すような目をして、顔を上げた管理人がぽつりと落とした言葉に、ナルトはすかざず「うえー」と呟いた。今度はそれを耳ざとくそれを拾った管理人の方がムッとする。
「ベンキョーが好きだなんて、オレってばいっぺんも思った事ねーなァ。なんか不健全だってば」
「なんだ不健全て」
「正しい男子生徒の姿じゃないって」
「テメェの勉強嫌いを正当化すんじゃねェよ」
すっかり掃き清められたエントランスに、言い合う声がこだました。偶然前を通りかかっただけの通行人が、奇異なものを見るような目で二人を見ていく。
「このドべが。勉強を勉強だと思うから、お前みたいなバカにはその面白さがわからないままなんだよ」
投げかけられた視線に、心持ち声量を落とした管理人が言い聞かせるかのように言った。傍らのペットボトルに手を伸ばし、喉を湿らせる。
「たとえばだ。スケートリンクに立ってるお前の目の前で、コーチがスゲェ新技を披露したとする」
急に教鞭をとる先生のような口調になった管理人が、前を向いたまま語りだした。「スゲェ新技ってどんなん?」と口を挟んだナルトに「知るか。勝手に想像しろ」と話を投げる。
……親切なような、やっぱり不親切なような。
今ひとつ想像がつかなかったので、ナルトは取り敢えず小学生の頃、初めてのシュート練習をした時の事を思い出すことにした。確かまだ、あの頃背丈は母親の肩にも届いていなかったはずだ。
「それをカッコよく決めたコーチに、『んじゃ、今度はお前がやってみろ』と言われたらどう思う?」
「そっりゃァ、すんげーワクワクするってばよ」
「んで、練習してそれができるようになった時は?」
「……ドキドキする!!オレってばすげェ!って気分になる」
「だろ?勉強だって、それと同じだ」
俄かに興奮してきたナルトの方へ、跳ねた黒髪がふわりと向いた。
険の取れた瞳。形のいい口許が、しめたとばかりに弧を描く。

「知らなかった事を知るのって、ドキドキするよな?」

やわらかな声に、にわかに胸が甘苦しくなってきた。通り抜けるそよ風に揺らされて、少し伸びた前髪が軽くめくれる。すべらかな額があらわれて、普段隠されているそこの、無垢な白さが目に焼き付いた。
「……ベンキョーをそんな風に考えた事なんて、今までなかったってば」
声を出してみると、喉が異様に乾いて張り付いた。突然の喉の渇きに、ナルトは手にしていたままの飲料を一気に飲むと、ふはァ、と思い出したかのように息をする。
屈託なく笑う彼に見蕩れながら、ナルトは先程の「勉強は結構好きだった」という言葉を思い出した。
じゃあ、今は?
今はもう、そんな気は起こらないという事なのだろうか。
「うーちはサン」
後ろから歌いかけるような呼びかけに、揃って首を巡らした。しゃがれているのに、妙に甲高い声だ。
「――おチヨさん」
渋いピンクの毛糸帽を真っ白な頭にちょこんとのせた老婆が、玄関でちんまりと佇んでいるのを認めると、管理人の表情がわずかに曇った。子供ほどに小さな手のひらの上に、なんだか見覚えのある小さな紙包みを持っている。
「…このばあちゃんて、あの例の?」
「…そう、あの例の」
コソコソと頷きあっていると、「おやまあ、珍しい」と感嘆するような声と共に、梅干みたいな顔がさらに皺だらけになった。落ちた目蓋に隠れてしまっているが、多分その奥の目は糸のように細まっているのだろう。全体的に縮んでしまっているような姿は相当な年輪を重ねているようだったが、ぴんしゃんと伸びた腰のせいか不思議と年齢不詳のようにも見えた。
「うちはサンのとこに、お友達が遊びに来てるなんて!」
「いえ、こいつはただここに住んでるだけで、」
102号室の、うずまきさん。
潔いほど簡潔な説明に、老婆の言った『お友達』という単語に敏感に反応してしまっていたナルトは、肩透かしをくらったような気分になった。
そーか、そうだよな、オレってば『ただここに住んでるだけ』の店子なんだよな…そう考えると、なんだかうら寂しいような悲しいような、拗ねたような気分になる。もしかしたらコイツ、オレの下の名前さえも記憶していないのかも。管理人の性格を思えば、それも十分にありうる話だった。
「こちら、207号室にお住まいの」と紹介しようとする管理人を先回りするように、老婆は「おチヨですぅ、チヨバアって呼んでね」と自ら名乗った。はにかむ老婆に、ナルトは曖昧な挨拶を返す。にいっと上がった口許にも深いシワが刻まれたが、枯れた声には妙に艶があった。
「これね、とーっても美味しい豆大福を頂いたから、うちはサンにもお裾分けをと思って。お好きでしょう、豆大福」
そう言って、ずいっと差し出された紙包みを管理人は口篭ったままで一瞬凝視した。 頬がひきつり、こめかみが緊張にこわばっている。
顔色だけで、老婆のいう『とーっても美味しい豆大福』を味わうのが、管理人にとっては相当な苦行であることが伺い知れた。縛られた唇が、困っている。
突き出された贈り物が喜ばれるものであることを疑いもしていない事が、好意の滲む老婆の口調からうかがえた。
きっと以前にも、こうして管理人の兄に渡したことがあったのだろう。もしかしたら、一緒の卓でその甘さを賞味し合ったのかもしれない。そんな事が、にこにこと先程から絶やされない老婆のほほえみから察せられた。
さあ、と甲高い猫撫で声が、受け取りを催促する。
(……また、受け取っちゃうのかな)
お兄さんの、フリをして?
そう思った時、整った顔に観念したようなか弱い愛想笑いが浮かぶきざしを見た。なんだか鳩尾の辺りがひどく疼く。全くもって彼らしくない表情に、胸がむかむかした。
なんだよ、その顔。
そんな違う人間のような顔しちゃって。いつもの偉そうな態度はどこいった?
似合わない――そんなの、ぜんっぜん、お前には似合ってねェよ。

「――あ、あのっ!」

腰を上げかけた管理人の隣で、金髪頭が弾かれたバネ人形のように立ち上がった。突っ走った声が変にひっくり返ったが、かまう事なく大きく息を吸い込む。
ぎくしゃくとした動きで回れ右をして老婆と向かい合うと、図らずも小柄な老婆を見下ろすような形になった。突然差した大きな影に、毛糸帽のおかっぱ頭がすっぽりと隠される。弛んだ目蓋の奥の目が、入道雲でも見上げるかのように細く眇められた。
「この人、確かに『うちはさん』だけど、『イタチさん』じゃないってば!」
大きく吸った息を一気に吐き出すように言い切って、ナルトは気をつけをするように真っすぐ立った。どくどくと心臓が跳ね回り、全身の血が駆け巡るのを感じる。
気負った様子のナルトに、呆気に取られた老婆は「えっ?」と小さく返した。
ぎょっとした管理人が、目をまんまるにしている。
「イタチさんの、弟。ばあちゃんが間違えてるだけなんだって!」
「……そ、」
「だからっ、この人は甘いもんとか、ホントは苦手なの!」
ゴメンナサイってば!と叫ぶような謝罪が、エントランスに響いた。大きな体が二つに折れて、高い位置にあった金髪頭がばたりと下がる。
二の句が告げなくなったらしい老婆に、ナルトは「でもっ!!」と畳み掛けるように言った。
「オレッ…オレは、甘いもん、大好きだってば!だからこれは、オレが貰ってもいいですか!?」
質問というより結論をぶつけるような断りをいれると、ナルトはシワシワの手から紙包みを奪い取った。そのまま、隠すように懐へ抱え込む。
微妙な沈黙が、三人の間を漂った。「ふー、ふー」という勢い余ったナルトの息遣いだけが耳に障る。
ちらりと横にいる管理人を盗み見ると、まばたきも忘れて黒い瞳を見開いたまま、半開きの唇が固まっていた。手にしたままだったペットボトルが、半分程中身を残したまま指をすり抜け、足元に落下する。ぼこん、と締りのない音がして、中の液体が先程掃き清めたばかりのタイルに見る間に広がった。
……自分で思っていた以上の大立ち回りになってしまったのを感じ、ナルトは今頃になって自らのしでかした事の異様さに気がついた。
うっわー、オレってば今超変なヤツだってばよ……!!去来する恥ずかしさに襲われて、思考が真っ白になる。
いっそこのまま走って逃げようかとも思い始めた時、ふくく、としわがれた笑い声を伴って小さな肩が小刻みに揺れ出した。
「……っあー、おっもしろいねェ、あんた。そんなの、最初っから知ってるわぃな」
「「……は?」」
あっけらかんとした言葉に、ふたりの声が間抜けに揃った。
いや待て。このばーさん、今なんつった?
「そりゃあご兄弟だからよく似てはいるけれど、このワシが間違えたりする程ではないわ。イタチさんはもっと老成してたもの」
「……老成。」
「それに、お土産持ってったら必ず『一緒に召しあがっていきませんか』ってお茶にも誘ってくれたし。ほんと、あの人優しかったよねェ」
こっちの坊やの方は、受け取ったらはいサヨウナラって感じなんだもん。小娘のように口先を尖らせる老婆に、管理人がひくりと顔を引きつらせたのを感じた。……うん、気持ちはわかる。
「大体が、ワシはいっぺんも坊やの事をイタチさんなんて呼んだ事なかったじゃろが」
坊やが勝手に勘違いしてたみたいだったから、ワシはそれに乗っかっただけじゃよと言い捨てた老婆には、微塵の後ろめたさもない様子だった。
「――だってアンタ、いっつも俺ンとこに『これお好きでしょう』って言って持ってきただろうが!なんで知らない人間にそんな事言って持ってこれるんだ」
いつの間にか老婆を『アンタ』呼ばわりになった管理人が、怒りを堪えた声で言うと、シワだらけの顔が「ぎゃはは、ボケたフリ~」と笑った。さっきまでの可愛らしいおばあちゃんの風情は遥か彼方へ吹き飛ばされて、口調まで随分と変わっている。更に唖然とする管理人に追い討ちをかけるように、チヨばあは「だってアナタ、押しに弱そうだったし」などと言ってにいっと笑った。
「紳士的なイタチさんも大好きだったけど、ワシはこっちの坊やの方が若いし顔が好みだったからねェ。ついついナンパしちゃった」
ねえ?と突然同意を求められ、ナルトは思わず「う、うん」と答えてしまった。怒りを帯びた管理人の視線が、キッと自分にも向けられる。ひー、と内心で悲鳴をあげて、ナルトは思わず手にした菓子包みの端を握りしめた。
「あーあ、折角ボケたフリまでして色男に接近したのに、思わぬ伏兵のせいで思ったよりも早くバレちゃったわねェ」
外国人のように肩を軽くすくめるチヨばあに、二つの顔が絶句した。馬鹿げた真実に、あんぐりと開いた口が塞がらない。
じゃあ今度は唐辛子煎餅でも持ってお誘いするかねェ~と悪びれる事なく小首を傾げ、管理人に秋波を送ると、老婆はくるりと背を向けてするすると階段を昇っていった。
毛糸帽のてっぺんについた、ぼんぼりのような毛糸玉がゆらゆらと揺れる。なんとなく想像はついていたが、見た目を裏切る動きの良さだ。

「――なんだありゃ。妖怪か?」

ややあっとしてからぼそりと落とされた呟きに、座り込んだままの管理人を見下ろした。後ろにひねったままの身体が、微動だにしない。
「ナンパだって。あんな、ウメボシばーちゃんが」
見事な完敗に魂を抜かれたようなその様子に、ぶぶぶっ、と堪えきれなかった息が一気に吹き出してきた。止まっていた呼吸が再開して、腹の底から笑いがこみ上げてくる。
くはは、と吐く息で声をあげた。聞きつけた管理人に睨まれたが、すっかりやり込められたさっきまでの様子を思い出せば、もうさして怖いとも思わない。一旦綻びてしまえば我慢はもう全く効かなくて、「くはは」が「うはは」になり、ついにはチヨばあにもよく似た「ぎゃはは」という声になった。
憮然顔だった管理人の頬も、ナルトの爆笑に誘われたのか次第に緩みだし、不本意そうに歪んでいた口が波打つように震えだした。調子に乗ったナルトがトドメを刺すようにチヨばあのモノ真似をすると、とうとうその端から抑えきれなくなったような笑いが漏れ出す。おかしさはあとからあとからどんどん噴き上げてきて、終いにはとうとう二人で腹を抱え、のたうつように笑った。久しぶりの馬鹿笑いに、横っ腹が熱く痛む。
色男ってのも大変だなァ、と苦しい息の合間に言えば「フン、50年若返ってから出直してきやがれ」などと傲岸そうな唇が答えた。その口調がいかにも彼らしくて、おかしいやら嬉しいやらでまた息がつまる。
「はー……なーにやってんだろな、俺は」
滲んだ涙を拭いながら、管理人が未だ痙攣の収まらない腹筋を抑えて言った。笑いすぎで、喉が嗄れている。
水分を欲したところで、自分の飲料が足元に転がったまま全部流れ出てしまっているのを発見すると、断りもないままナルトの分に手を伸ばした。あっ、それオレの、と言う間もなく、ごくごくと飲みさしのお茶が白い喉に降される。
「似ていても、間違える程じゃないんだってさ」
腕を伸ばしながら立ち上がった管理人が、誰に言うともなく言った。「老成、だって」とひとり呟いて、またクククと喉の奥で小さく笑う。
「でもチヨばあは、こっちの方が好みだって」
合いの手を入れたつもりでそう言うと、管理人は思い出したように「あ、そうだよお前変なとこで『うん』とか言いやがって」と睨んだ。本気でないのはわかっているのに、なんだかドキドキする。
空は晴れていて、風があたたかかった。
向かいの戸建の屋根の上で、子スズメ達がなにやらつつき合っている。アパートの脇を走る電線には数羽のカラスがまだとまっていて、すっかり空っぽになった集積場を名残惜しげに見つめていた。
「…タイル、掃除したばっかなのにお茶こぼしちゃったな」
高鳴ってきた胸を誤魔化すように足元に視線を落とすと、灰色のタイルに大きなシミが広がっていた。おっと、と気がついた管理人が、シミの上に乗っていたスニーカーをどける。
ブラシを取りに行こうとしたのか、アパートの中へ戻ろうとした管理人がくるりと通りに背を向けると、先程から立ったままだったナルトと斜めに向かい合うような形になった。空色の瞳と、夜の色の瞳がかち合う。
「なあ、お前、あのダンボール、結局どうすンだ?」
今この場ではすっかり忘れていた事をふいに訊かれて、ナルトは思わず口を噤んだ。
粗大ゴミで、出す事にした。
ぼそぼそ歯切れ悪く言うと、ふうん、と興味なさそうな返事が戻ってくる。
「切断すんのは、難しそうだったから――粗大ゴミにすれば、ダンボールごと持って行ってくれるって」
「へえ。じゃあ貸してやった鋸は、そのうちに返せよ?」
うん、と半端な声で答えた顔を、管理人がじいっと覗きこんできた。何かを見定めるかのようなそのまなざしに、ナルトはどうしようもなく居心地が悪いような気分になってつい目を逸らす。
管理人はしばらくそうやって考えていたようだったが、おもむろに「いや、やっぱ今週末返せ」と言いだした。
「は?なんで、だって、日曜日って管理業務は休みだろ?」
「そうだ、だからこれは、単なる俺の好奇心」
意表をつく申し出に狼狽えるナルトを、電線のカラスが興味深そうに眺めた。小馬鹿にするようにアホウ、と鳴くと、屋根で跳ね回っていた子スズメ達が一斉に飛び去る。

「お前が捨てようとしてるもんを、見てみたくなった。――日曜も、やってんだろ?練習」

俺を、連れてけよ。
どこまでも尊大な態度でニヤリと笑うと、管理人は言った。