第七話

頼りなく軋んだドアの音に、カカシは背中のまま間延びした声で「おかえりィ」と言った。
一瞬開かれたドアから流れ込む空気に、雨の余韻を感じる。いつまでも返事を返してこないのを不思議に思い、ぐるりと首を巡らすと、玄関先の暗がりに幽霊のように立ち尽くす教え子を見つけた。
「どしたの、お前。ただいまくらい、言いなさいよ」
「カカシセンセー……さっきの話の続き、ラーメン食いながら聞かせてくれるって言ったよな?」
「さっきの話って、サスケの?」
「約束、したよな?」
「……そんな大袈裟な話だっけ?」
「話だったってばよ!」
力を込めて上げられた顔には、並々ならぬ意思が漲っているようだった。あれ?この子のこういう顔、久しぶりに見たような気がするな。
「兎に角、オレってば今からすっげー頑張るから。夜までに頼まれた事、全部ちゃちゃっと終わらせるから」
「は?いや、まあ、それはありがたいんだけど」
「――だから、絶っ対に、今夜、ラーメン食わせてくれってばよ」
奇妙な決意表明に、カカシは伸びっぱなしの髪が跳ねた頭を小さくかしげた。一応「…そんなにお腹空いてたの?」などと言ってみたものの、さっさと靴を脱いで仕事の前に座ったナルトに軽く無視をされる。
年長者に対して、その態度はどうなのよと苦言めいた事を吐きつつ、宣言通りてきぱきと動き出した手に呆気にとられた。さっきのやる気の無さは、どこ吹く風だ。
変な子だなあ。要領を得ないまま、カカシは黙々と言いつけられた作業をする教え子を眺めた。
何なのよ、急に。外でなんか、あったわけ?

     ☆

「そうかァ……それは確かに、先に言っておかなくて悪かったなあ」
話を聞き終えたカカシが思いやるように言うと、折りよく注文したものがカウンターに並べられた。カカシご推薦の駅前にある小さなラーメン店は、この街に越してきてからのナルトの一番のお気に入りだ。初老の親父と、その娘らしき女性の二人だけで、いつも活気ある店内を切り盛りしている。熱い陶器の肌に注意しながら、大きなどんぶりを傍へ引き寄せると、揃って手にした箸をぱきんと割った。
どちらともなく会話を止めて、湯気のたつ麺をひとしきり啜ると、咀嚼した熱が胸を満たす。
しょっぱい湯気が目にしみて、ムズつく鼻が、すん、と鳴った。


……不快な思いを、させたと思った。思い返してみれば、サインはいくらでもあったのだ。
カカシの話の中でもサスケの兄に関しては完全に過去の思い出として語られていたし、シカマルから聞いた華々しい経歴は途中でふつりと途切れていた。
そして、あの夜。彼から漂ってくる弔いの気配を、自分は確かに知っていたはずなのに。
どうして気がつけなかったのだろう。考えてみたら、彼について知っている事は本当に僅かしかなくて、会話になるとついそのささやかな情報に縋るように、彼に兄の話を向けてしまってきたような気がする。
これまで、なんて無神経な発言をしてきてしまったのだろう。どんな思いで、答えてくれていたのだろう。
凪いだ横顔がこちらを向くのが恐ろしかった。考える前にごめんという言葉が口をついて出ようとする。しかしそれさえも先回りした管理人に「謝らなくていいから」と言われてしまうと、今度は逆に困り果ててしまった。一言でも謝罪させてもらえたら幾分かは楽になれるのにと情けなく思う裏で、いやむしろそれが狙いで断りを入れられたのだろうかなどと勘ぐり出すと、否応なしに不安が増した。
「本当に、知らなかったんだな」
声にざらつきがないのが不思議だった。
顔を下げたままおそるおそる隣を見ると、苦笑混じりの穏やかな瞳に迎えられる。お前、ホントわかりやすい。喉の奥で笑いを噛み殺したようなその言いぶりに、阿呆みたいに一瞬口が開いた。
――カマを、掛けられたのだ。
徐々にわかってくると、顔が赤く染まっていくのを止められなかった。
「知らなかった……知らなかったに、決まってんだろ。ゴメンってば」
「だから、謝る必要ねえって。――そういうの、お前もわかンだろが」
言われて、やっと腑に落ちた。確かに自分も、全く何も事情を知らない他人から両親の事を聞かれても、別段気にする事なく答えられている事に思い至る。そこに罪はないのだから、質問の主を憎むいわれもないのだ。
管理人の言葉がすんなり入ってくるのと同時に、彼が兄の死をもうきちんと受け止めているのが感じられた。もし死者の記憶をたどるのに苦痛を伴う時があるとすれば、それは多分、そこに消しきれない悔恨や未消化のまま沈んだ願いがあるからだ。
物語が昇華され、未完は未完のままでそれがあるべき姿として落ち着いてしまえば、再びそれを紐解く事はさして難しいことではない。
(でも、もしそうなら)
羽音の消えた空を見上げる、管理人の横顔は平穏そのものに見えた。……しかしそれなら何故、あの部屋で銀時計について言及した時、避けるような仕草をとったのだろう。
「帰れ」と言った声は確かにあの時、揺れたものとしてナルトの耳には聴こえた。――なあ、なんで?あの時計って、お前にとって一体なんなの?
隣に立つ彼に、その場で訊いてみたい気がした。しかしそれは酷く残酷な事のような気もして、ナルトは締りの悪い口を誤魔化すように奥歯を噛んだ。
「兄貴やうちの実家の事も知ってるみたいだし、俺もお前のこと、こないだカカシから聞かされてたから。だからそっちはそっちでもう話が全部いってんのかとも思ったけど。やっぱ、違ったみたいだな」
遠のいていた頭が、ネタばらしでもするかのような、かすかに得意がかった声に呼び戻された。……それにしても、また随分ときわどい悪戯を仕掛けてきたものだ。
管理人の目論見通りに反応してしまったのだけが今更ながらに少し癪で、「なら、勝手に聞いても良かったのかよ」とモゾモゾと言い返すと、「へえ、ちゃんと遠慮ってもんも知ってんだな」などとうそぶかれる。やっぱコイツ、何言っててもどことなくオレ様だ。言われてみれば、そのぎりぎりの意地悪さも実に彼らしく思えて、ナルトは腹が立つというよりもなんだか呆れてしまった。
「まあ別に、兄貴の事は隠さなきゃいけないような話ではないし――でももし、知ってんのを隠した上で、わざわざああいう事言ってきてるようだったら、返り討ちにしてやろうと思ってたけど。お前、どう見てもそんな器用な真似ができるようなタイプじゃなさそうだったからな」
にやりと企みに成功してほくそ笑む子供のような顔を残して、管理人が踵を返した。完全に手の内で転がされていたらしいという事実に、開いた口が塞がらない。カカシのやつ、あんがい口が堅かったんだな、と独り言じみた呟きを投げかけられながら、背後で開かれた管理人室のドアがか細い音をたてて閉まるのを聴く。
してやられた、という悔しさは驚く程湧いてこなかった。
立ち尽くしたナルトの脳裏には、最後に見せられた管理人の子供じみた笑顔だけが、ただひたすらに焼きついて離れなかった。


知りたいと思った。彼を、もっと知りたい。
引っ掛けられた意趣返しのつもりはなく、それはただもう、ばかばかしい程単純な願いだった。
「もう不用意な事は言いたくないから」という言い訳は、素晴らしく便利だった。その一言は、まるで彼の物語を手に入れる権利を、自分が得たかのような錯覚をナルトにおこさせる。これまで遠慮や自尊心に阻まれていた思いが、正直になった途端、開き直ったかのように溢れてきた。
……ああ、そうだよ。オレってばずっと、アイツの抱えてるものが知りたかったんだ。
傲岸そうな表面の内側にある、ヒビの入ったものが何なのか、確かめたかったんだ。
「まさかそんなにふたりが仲良くなっているとはね。いや、まあそうなってくれたらいいなァって、期待はしてたんだけど」
箸を置いたカカシは穏やかにそう言うと、ふわりと笑った。
「……いや別に、仲がいいってわけでは」
食べ終えたどんぶりを少し脇に避けながら、遠慮がちに言うナルトに、カカシは真面目な顔をする。
「いーや、あの子が管理人室に他人を入れるなんて、それだけでも驚きだよ。あんな狭くて距離の近くなる場所に。アイツベタベタ触られるのとか、一番嫌がるからさ」
「最初は単に、不可抗力だっただけじゃねェの」
「ああ、そうだったっけ。――うん、あの日は、イタチの一回忌だったんだよ」
ああ、やっぱりそうなんだと朧ろ気に感じながらも、ゆるゆると語られ始めた物語はたやすく胸に落ちた。それはうっすらと予期していた話で、驚きはない。酔った彼の上着を持った時薫った、香のかおりが蘇る。アルコールに絡め取られた彼は、なんだか自分を苛んでいるように見えた。
「イタチが医学生だったってのは、言ったっけ?」
置かれた水差しから半分程になったグラスに水を注ぎながらあらためて確認するカカシに、ナルトはこくこくと頷いた。
「大学を卒業してから、うちはの病院にインターンとして入るために、イタチは一度実家に戻ってきたんだ。本来なら、研修生はお世話になった大学と繋がりのある病院に行くことが多いらしいんだけど、イタチの場合はご両親のたっての願いでね。ちょうどサスケは高三になる頃で、受験前にいい家庭教師が戻って来てくれたと嬉しそうにしていたよ」
あの子も、イタチと同じ大学を目指していたんだよ、とカカシは懐かしむように言った。その言葉に、じゃあもしかしたら、彼はシカマルとは大学で再会していたのかもしれないのかとぼんやりと思う。
光射すキャンパスでシカマルと並んで歩く管理人を想像してみたらあまりにも似合いで、何故だかその光景にほんの少し嫉妬した。
「病院に入ってみても、あいつの優秀さは、他のインターン達を圧倒していたよ。一族はもとより、うちはの親父さんは本当に鼻が高かっただろうな。インターンが終わったら最先端の医療を学ばせるために海外へ行かせようかという話もあったみたいだけど、イタチがこの先親父さんの跡を継いだら、病院の規模も名声も更に大きくなっていくだろうなというのは、誰もが思い描いていたはずだと思う」
――そんな輝かしい未来に繋がっていたはずの日々を崩すきっかけを最初に見つけたのは、他でもないイタチ本人だった。
研修の一環として、自らをサンプルにした癌検診の検査を行ってみたところ、思いも寄らない結果が出たのだ。
「医者の不養生、だなんてホントに使い古された言葉だけれどね……気がついた時には、もういくつかの転移もみられてて。イタチの身体に巣食った癌細胞は、既にかなり進行してしまっていたんだ」
医学の分野には全く明るくないナルトにも、若者の方が癌の進行は早いという知識位は持ち合わせていた。実際、治療を開始してみても、その成果ははかばかしくなかったのだという。兄を誰よりも慕っていたという管理人は、兄の身体を蝕む病を知って、どれほど胸を潰しただろう。
「うちはの人達って、みんな医者ばっかなんだろ?誰も、どうにもできなかったの?」
「医者だからって、なんだって治せるわけじゃない事くらい、お前にもわかるだろ?ただ……そうだな、病に罹ったのがイタチだったから。あるかなしかの希望にでも、縋り付いてみればもしかしたら奇跡が起こるかもしれない。そんな風に思わせるようなところが、確かにあの子にはあったよ」
イタチを取り囲んでいたうちはの親族達は、二分したのだそうだ。
一方は、微かな希望に賭けて、是が非にでもイタチを生き存えさせようとする人々。そしてもう一方の人々は、イタチに対しては早々に見切りをつけ、その代わりとして、弟であるサスケに過剰なまでの期待を寄せ始めた。
――これまでは兄の影に隠れがちだったけれども、弟の方もよく見てみれば中々見込みがあるじゃないか。
兄がダメでも弟をこれから上手く育てれば、うちははこの先も安泰だ。


「そん…な、だって――あいつは、どう思ってたんだよ?兄ちゃんの病気を治す手伝いがしたかったんじゃねえの?」
話の中、思いがけない形で湧いて出た管理人の名前に、ナルトは思わず軽く吃りながら言った。いつだって完璧で、憧れてやまなかった兄。自分が彼の立場だったら、きっとそうする。病そのものが治せないものであったとしても、それでも一秒でも長く、その息遣いを聴いていたいと思うはずだ。
「もちろんお前のいうように、サスケは自分の事なんかよりイタチの看病に必死だったよ。……間の悪かった事に、イタチの病気が見つかったのがサスケの入試の直前でね。当時はもう、うちはのご両親もサスケ本人も酷く混乱してしまっていて、もう受験なんて言ってる余裕はまるでなかった。そこがまたサスケに対して非難めいた干渉をされるきっかけになってしまったのは、本当に可哀想な事だったと今でも思うよ」

『お兄さんのように、いや、君はその兄以上になるべきだ。それこそが別れ逝くイタチに対する、なによりのはなむけになるだろうからね』

美談めいた進言は、どこまでもまっとうに聴こえるが果てしなく無責任だ。
しかしそれは着実に、死に向かっていくイタチに寄り添う彼をじわじわと追い詰めていった。
まるで躍起になったかのように治療を進めようとする大人達の中、過酷な闘病生活に身体をすり減らしていく兄。それを一番近くで見つめながら、片側では彼の代わりになれとせっつかれる日々。
確かに、囁かれた言葉には完全に否定しきれない部分もあった。自分がしゃんとしている所を見せる事で、イタチを少しでも安心させる事ができるのかもしれない。そう思い、サスケは再び学業に打ち込もうともしたのだそうだ。しかし、飛び抜けて目立っていた天才肌のイタチと比べると、どうにも凡庸にしか見えない自分。どれだけやったところで、それは遥かな高みにいた兄との距離を、虚しく思い知らされるための材料となるばかりだった。
――イタチとの差を見て取った親族達からも、落胆の声が漏れ始めるまでには、そう時間はかからなかった。兄弟といえども、やはり同じようにはなれないものだな。無遠慮な声は鉛となり、やがて足掻く彼を縛り付ける鎖と化す。
そうしてサスケは、次第に身動きすらできなくなっていった。


「なんだよ、それ……アイツ、全っ然、悪くなんかないじゃんか」
憤りを隠さないで言うと、そうだよね、とカカシが深く息をつきながら相槌をうった。
「大体が、サスケだって比べる対象がイタチでさえなければ、充分よく出来た子なんだよ。何もないままだったら、多分目指してた大学もすんなり合格できていただろうし。……結局、周りの大人達が、寄ってたかってあの子を潰してしまったようなものだよ」
ゆっくりと氷の溶けていくグラスに視線を落としたまま、ナルトは静かに語るカカシの声をどこか遠く聴いた。ふいに蘇る、ぼやけた蛍光灯と、甘ったるいミモザの香り。
――あの夜。
酔った彼が、一体何から逃げていたのか。ほんの少しだけ、それがわかった気がした。
無遠慮な言葉や落胆の溜息よりも、なにより彼を苛んだもの。それは、なりたかった自分になれないままの、他ならぬ自分自身の姿だったのではないだろうか。
――その苦しみに、ナルトは覚えがあった。よく、知っている。そんな気がした。
話しながら俄かにざわつきを増した空気に気を取られたカカシが、ぐるりと席を見渡した。部活帰りの高校生だろうか、店の入口に人だかりができている。
このままここで話を続けて、席を占め続けるのは店の迷惑になるだろう。そう判断すると、「ちょっと、歩きながら話そうか」と言いながら伝票を手に立ち上がった。
「……ナルト?」
そっと促した声にも、悔しげに口許を引き絞ったままの教え子は、気が付かないようだった。



「リビングウィル?」
耳慣れない単語に、聞き返した声は頼りなかった。うん、と答えたカカシは目の前にきた水溜まりをひょいと避けながら、もう一度言う。
「リビングウィル。日本語で言うと、『尊厳死宣言』っていうんだけど」
「……ソンゲンシ」
即座に漢字変換できない頭で繰り返すと、カカシは少し困ったような顔をした。背後の小さな交番に掲げられた赤灯の光が、細い顔の輪郭を赤く浮かせている。
会計を終えて出た店の前の歩道は水捌けが悪いらしく、昼間降った雨の置き土産があちこちに点在していた。交番の前の大きな水溜まりを壁に寄って避けると、貼り出された掲示板の太文字が目に入る。「春の全国交通安全運動」「ひったくり注意」「空き巣被害多発中」。黒く打ち出された文字からは差し迫ったリアリティさが感じられず、ナルトはたいした感慨も持たないままで、それらを読んだ。事故も、病気も、どれだけ注意を喚起するように言われても、身に降りかかるまではやはり他人事だ。それらは、確かに、ごく身近に存在していたとしても。
「それを書面にしたものが『尊厳死宣言書』っていうものなんだけど、いつの間にか、あいつはそれを用意していてね。まあ医療に携わる人間として、元々持っていた知識なんだろうけど」
幾分乾きの進んだ路面になったところで、隣に並んだカカシがおもむろに切り出した。
以前よりもひどく身体が薄くなってしまったイタチが、それを提示したのは、迫り来るその日の、半年前だったのだという。
「それって、どういう……」
「簡単にいえば、過剰な延命治療を止めて、出来る限り苦痛を和らげて穏やかな死を迎えられるようにして欲しいという、患者側からの意思表示…とでも言えばいいのかな」
――もう、終わりにしたいんだ。
その日。唖然とする親族達を前に、痩せた身体を凛と張って、イタチはそう宣言したのだという。

『本当は、もうずっと前から、思ってた。こんな自由のない生き方には、もううんざりだ。せめて、最後くらいは、自分で選ばせて欲しい』

「――ウソだろ?」
これまで伝え聞いていた、出来た兄としての姿とはあまりにかけ離れたその発言に、目をむいたままのナルトが押しつぶした声で訊いた。意味もなく、あたりに人がいないのを確かめる。
思わず口をついて出た科白に、カカシが「いや、ホントなんだなァ、これが」と苦く笑った。
「カカシ先生も、その場にいたの?」
「うん、あの日はイタチから、大切な話があるからって俺も呼び出されてね。まあ、ホント、最後の最後でどでかい爆弾を落っことしてくれたもんだよ」
完全無欠の優等生を疑われることがなかったイタチが投下したその発言は、文字通り家族や親族をまとめてひっくり返す騒ぎになった。まだこんな決断を下すのは早すぎる、研修中とはいえ医者の端くれとして、最後まで戦うべきだとどれだけ周りで説得しようとも、一旦思いを吐き出したイタチは頑として宣言を撤回しなかった。
それどころか、医者にだって、なりたくてなったわけではないとまで言い放ったのだという。
「……まあ本来、リビングウィルには法的な拘束力はなくてね。しかもイタチの宣言書は家族の同意が記載されてない、公的証書としては不備のあるものだったから、ナアナアの内にそれを揉み消す事も、同じ親族内でのことだからやりかねないとも思ったけど――でも多分、最初からあいつは宣言書そのものの効力なんてあてにしてなかったんだろうね。あの日、自らああいう形で宣言する事で、あいつの意思はもう誰にも無視できなくなっちゃったんだから」
カカシの推測の正否はさておき、確かにイタチの宣言は書類を以てしなくても、十二分に効果を発した。……そもそも、既に手の施しようもないところにまで、病は進んでいたのだ。
それまで続けられてきた、苦痛を伴った積極的な治療は止められ、緩和ケアチームによる治療が始められた。さらにその後、在宅でのケアを望んだ彼は長く過ごしていた病院を出て、家族と暮らす自宅での訪問看護を受けるようになる。そしてそのまま、終わりの時もその場で迎えたのだという。
最後の一ヶ月は、一族が息を詰めるように見守る中、イタチひとりだけが飄々として過ごしていたのだそうだ。
皆、多かれ少なかれ、衝撃だったのだ。あのいつだって穏和で、常人からしたらとてつもなく高く越えるのが困難な壁も、軽々と飛び越えていたように見えていたイタチが。
その彼が自分の本音だと言った事が、思いがけないものだった事が。
綺羅星のように輝いて見えた彼の人生を、彼自身が「うんざりだ」と評した事が。

「……本心、だったのかな」

アパートに近付くにつれて、路地には水溜まりがほとんどなくなってきた。距離が一定になった二つの背中が、街灯の光によって朧ろな影を伸ばす。
それはしばらく考えてから遠慮がちに言った言葉だったが、そんなナルトの疑問に対して、カカシは重さのない声で「さあねェ」と返した。
「でも、イタチのその言葉が、サスケにのしかかっていた過度なプレッシャーを和らげる契機になったことだけは確かかな。特にサスケのご両親は、その事に関して本当に気にかけてくれるようになってね。イタチがいなくなった後、酷く沈んで家に篭りがちになってしまったサスケに、たまたま管理人を探してたこのアパートに来るのを勧めたのはあいつらの叔父さんなんだけど、それにもきちんと了承してくれて。――きっと本当ならば子供を喪ったばかりの今は、サスケだけでも手元に置いておきたかっただろうにね」
角を曲がると、視線の先で、見慣れたアパートの黒い大きなシルエットが夜を切り取るように建っていた。
古ぼけた看板に書かれた『木の葉荘』の文字が、白い門灯に淡く浮き出されている。ふいに気になって、共同玄関で別れる間際、ナルトはカカシに小さく尋ねた。
「なァ、こんな深いとこまで、オレに喋っちまってよかったのかってばよ?」
アイツ、嫌がンじゃねえ?
俄かに不安をよぎらせる教え子に、カカシは一瞬きょとんとした顔になった。次いで、あ、それもそうね、などと鷹揚に言う。
「怒るかなあ?」
「……今更オレに訊かれても」
「そーね、やっぱちょっと、嫌がるかもね。まあ、そうなったらなったで俺が怒られとくし、お前は気にしなくてもいーよ」
なんでもないことのように言うカカシがいつになく親切過ぎる気がして、ナルトは何故こんな求められるがままに教えてくれたのかと、ニコニコしたままの恩師に問いかけた。
ちょっと考えたら、あの管理人が嫌がりそうな事くらいすぐに気がついただろうに。面倒をはぐらかすのは、この人の専売特許だったはずだ。
「なんで、ねぇ…?そうだなあ、お前があんな一生懸命な顔してるの、久々に見たからかな」
――ちょっと、好きになっちゃったんでしょ、サスケのこと。
落ち掛かった前髪の下で、いつも穏やかにゆるんでいる目許が三日月になった。直球の指摘に、声が出ない。
「ちがっ……ちがうってば!!」
と、絞り出すよう出した否定は頼りないことこの上なくて、面白がるようなカカシの笑いに他愛なくかき消された。
「お前って、ほんっと、わかりやすいねェ」
本日二度目の科白を聞かされ、ナルトは耳まで赤くなるのを感じた。そんなに、わかりやすいんだろうか。流石に気にする。
「いいじゃない。好きに、なってあげてよ」
ワイシャツの猫背が、ガラス越しの月明かりに照らされて銀色に見えた。夕方から少し出てきた風に、空に残っていた雲は、あらかた流されてしまったらしい。明るい夜だった。
「なーんか、お前ら、いい友達になれるような気がするんだよねェ」
付け足された言葉には、あたたかな余韻が重なった。熱をあげた首筋がなんだかムズかゆい。
返事をしないまま、そおっと見上げた階段の先には、ぽっかりと開いた夜空が見えた。