第六話

散々悩んだ末にかけたフリーダイヤルは、混み合っているらしく中々繋がらなかった。
余りの待ちの長さにいい加減諦めようかとした頃、聞き飽きたコール音がやみやっとオペレーターの応答に辿り着く。要件を述べようとすると、先回りした声が「粗大ゴミの回収申請でよろしいですか?」と事務的に話を進めた。
「棒状のものは五本までを一個数として回収できますが、一本だけでよろしいですか?」
「あ、ハイ」
「では、五十センチ以上百八十センチ未満のものですので、五百円のゴミ処理券を購入してください。受付番号は9572436です。購入していただいた処理券にこの番号を記載の上、それをよく見える所に貼りつけて当日朝八時までにゴミ集積場に出しておいてください。」
「八時…と、」
「回収日ですが、生憎回収作業が大変混み合っておりまして、次の回収日は一番早くても二週間後の火曜日となります」
「えっ、来週の回収日には持っていってもらえないんスか?」
「申し訳ありません、申し込み件数が多くて、回収車に乗り切らないものですから」
形式的な受け答えを終えて電話を切ると、壁に貼り付けてあるカレンダーの日付に丸を付けた。
指定された五百円という金額は、高いのだろうか、安いのだろうか。よくわからない。
とりあえず、この世の中には金を払ってまで捨てたいゴミというのが、順番待ちしなければならない程沢山あるらしい。――それはつまり、それと同じ数だけゴミを出そうとしている人間もいるという事で。
そう考えると、なんだか免罪符を手に入れたような気がした。
処理しきれないゴミを出すのは、オレだけじゃないんだ。

     ☆

週の真ん中にきた祝日は、くたくたと寝て過ごしているだけで訳無く終わった。
雪崩込むように次の日もかったるさに任せて何もしないままグズグズと夕方まで過ごす。面倒ついでに生まれて初めてバイト先にズル休みの電話をしてみたら、案外自然に嘘が言える自分がいてちょっとショックだった。あんまりにも呆気なくエスケープできたので、このままどこまで弛れていけるのか試してみようかとも思ったのだけれど、そんなくだらない実験にも三日で飽きてしまった。かといって、今更無法地帯と化した部屋を片す気概も起こらない。
そんなどうにも気力の興らない数日の間にも、鏡のような黒い瞳は時折亡霊のように浮かんできてはちくちくとナルトの胸を刺した。彼の目に、自分は一体どう映っていたのだろう。それを考えることは、なによりも怠惰に溺れる心を苛んだ。
果ての見えない自堕落に自分でも少しだけ辟易して、ちょっと外の空気でも吸うかと思ったら、次の日は朝から雨が降りだした。
花冷えの雨。足止めの、雨。
「ナルトー、いる?」
間延びした訪いに、ここ数日ずっと着たままのパジャマの下を引き上げながらのろのろと出ると、呆れ顔して立つ恩師がそこにいた。なーに、その顔、ヒドイよ。顔を合わせた途端、いきなりそんなコメントを出される。
「携帯鳴らしても出ないし。なに、その格好も」
「あー…携帯、最近充電してなかったから、電池切れてるかも…」
「こんな早い時間から寝るの?それともずっと寝てたの?」
「うーん、寝たり、起きたり、みたいな」
「おーい、おいおい……オマエ、大丈夫かァ?」
少しだけ心配そうな顔をするカカシに、半分呆けた頭でいい加減に返事をする。欠伸を噛み殺しながら、多分、今日は自分のほうが余程ボンヤリした顔だろうなと遠く思った。
「…なに、何の用?」
「あ、うん。あのさ、お前ちょっとこれから俺のとこ来てくんない?」
「先生ンち?なんで?」
ボリボリと腹を掻いてやる気の出ないまま聞き返すと、とろんとしたタレ目がにっこりと弧を描いた。
「バイトの斡旋。保護者会用の資料を冊子にするの、手伝って欲しいんだ」
「えー…」
「なによ、その様子だと、唸る程時間余ってんでしょ?ちょっと働きにきなさいよ」
「ちゃんとバイト代出んの?」
「そうだなぁ、一楽のラーメン位はご馳走するよ」
好物を引き合いに出されると、すっかり重くなっていた腰がぐらついた。まあ、そろそろ少し出てもいいかなと思っていたところだし。おもむろに「…チャーシュー大盛りにしてくれってばよ?」と答えたナルトに、「了解」と笑いを含んだ声で言って去ろうとしたカカシは、ちょっと立ち止まってパジャマ姿のままの全身を見渡すと言い足した。
「ちゃんと着替えて、顔洗ってから来なさいね」
「…ふぁい」
欠伸混じりの返事と共に軽く手をあげて、手応えのないドアを閉めた。何だか視界が濁って見える。あげた方の手でムズつく目頭を擦ってみると、ぼろりと大きな目脂が取れた。
……なるほど。
確かに自分で思ってる以上に、ヒドイのかもしれない。



「あれ、今日って学校休み?……あ、開校記念日か」
「そう。懐かしいでしょ?」
「珍しいってばよ、カカシ先生が仕事らしい仕事してんのって」
「…ちょっと。それってどういう意味なの?」
招かれた部屋で指示された通り、広げられた簡易テーブルに積まれた印刷物を端から拾い上げながら、屋根に落ちる雨の音を聴いていた。藁半紙の感触を指先で試しながら揶揄するようにそんな事を言うと、フェルトペンが紙を滑る音が一瞬止まる。先程から休む事なく向かっている窓際のデスクには、答案用紙と思わしき紙束が山積みになったまま一向に減る気配がなかった。その更に向こう側、窓の外には相変わらずぼやけた灰色の空が果てしなく広がっている。細く頼りない雨の糸が、時折少し曇った窓を叩いて伝った。
「だって、学校でもいーっつもエロ本ばっか読んでるからさ。あれ、カバーしててもバレバレだってばよ」
「えぇー、そうなの?」
校長にも叱られたから、せっかくカッコイイ皮のカバーまで掛けたのに。ピントの外れた解決法に、ナルトは小さく苦笑した。気の抜けた声に、反省の色は見当たらない。
「しょーがないでしょ、紅先生が新婚旅行で来週までいないんだから。人手不足なのよ」
「あ、そっか。紅先生先月結婚したんだっけ」
緩く波打ったロングヘアを思い出し、ナルトは納得した。
ふっくらとした唇にいつも赤いルージュを差していた女性教諭は、ナルトが卒業した高校の英語教諭だ。放課後になると水泳部の顧問として水着になって指導していることも多くて、そのスタイルの良さと何とも言えない色気を目当てに、プールのフェンスに張り付いている男子生徒も多かった。中には結構、本気だった奴もいたはずだ。そんな母校のマドンナ的存在である彼女が同僚である体育教諭と電撃結婚する事になったと聞いたときには、ナルトもかなり驚かされたものだ。
「アスマ先生、どうやってあの紅先生を口説いたんだろうなー。ていうか、どんな顔してプロポーズの言葉とか言ったんだろ」
「さあねぇ。先生はあれで案外ロマンチストだから」
バラの花束捧げて跪く位はしたかもね、と振り返らないままカカシが言った。ベタな告白って、なんやかんや言っても効果高かったりするんだよねェ。そんな科白と共に、サリサリとペンが紙面を擦する音が再開する。
「カカシ先生は、彼女とか欲しくないの?」
「普通、最初は『彼女いないの?』って訊くもんじゃない?」
「……『彼女いないの?』」
「俺はいーよ、そういうの」
「なら、あの管理人とは、どういう関係なの?」
「――ねえ、この流れでその質問っておかしくない?」
赤ペンを持つ手が止まって、今度こそくるりと若白髪の顔が振り返った。質問の主は、分けて置かれたプリント用紙の山を睨んだままだ。口先は尖っているし、心なしか、頬も少し赤い。
「サスケは、昔俺が家庭教師をしていた教え子の弟だよ。ホント、それだけ」
「…それだけにしては、随分と仲良さそうだってば」
「まあ、あの子がまだ甲高い声したガキの頃から知ってるからねぇ」
お前、誰に入れ知恵されたの?と言いながら、再びカカシは背を向けた。顔は見えなくても、その声だけでニヤニヤとした笑いを浮かべているのが容易に想像できる。
キバめ、と小さく毒づきながらナルトはきりきりと奥歯を噛んだ。アイツ、何が鼻が利くだ。今度会ったら覚えてろ。
「俺ン家と、サスケ達がいたうちはの本家はすぐ近所でな。あいつらの叔父さんにあたる奴が、俺の親友なんだ」
「へえ」
「そのサスケのお兄ちゃんってのが、ちょっと尋常じゃない位賢い子でね。学校や塾の勉強だけじゃ物足りないってんで、当時天才の呼び名を欲しいが侭にしていたこの俺に、特別講師をして欲しいって親友から依頼されたってわけ」
「天才?カカシ先生が?」
「そう。この俺が」
んふふ、と肩で笑う猫背の後ろ姿を信じられない思いで見上げた。信頼に足る人物なのは疑っていないけれど、相変わらず謎の多い人だ。ていうか、多分これは誇大評価だろう。なにしろ本人談だし。
知らず手元が留守になっていたナルトに「手ェ動かせよー」と促しながら、その元・天才は続けた。
「イタチに――あ、サスケのお兄ちゃんの名前ね――教えに行ってた頃、サスケはまだ小学生でさ。まあこれがものすっっごいお兄ちゃん子で。越してきたばかりでまだ周りに友達がいなかったってのもあったんだろうけど、どれだけ邪魔だと言っても、なんやかや理由をつけては勉強してるイタチの傍から離れようとしないわけ」
「ほー」
「まあ、サスケ自身も頭の出来は人並み以上だったし、元々知識欲の旺盛な子だからね。外に追い払ったところでどうせ中の様子に聞き耳立ててるんならってんで、そのうちイタチの横で一緒に勉強させるようになったんだけど」

――とにかく、夢みたいに仲のいい兄弟だったよ。

まるでそこにナルトがいる事を忘れているかのような、懐かしみを混じえた独白が、吐く息と共に少し湿った空気にとけた。真昼間から付けている電灯が、机の上に輪郭のない影を落とす。思わず紙を捲る手を止めて、ナルトは丸まった背中を見た。
「俺は自分に兄弟がいないから、比べようがないんだけど…でも、あんなにお互いの事を思い合っている兄弟は、他に知らないよ。誰にも入り込めない程の近い距離で、お互いがお互いの居場所を築きあっているみたいに、俺には見えた。サスケのイタチに対する憧れ方もすごかったけど、イタチはイタチで弟を本当に溺愛していてね。一番最初の授業の時なんて、見ず知らずの人間にサスケを見せるのは嫌だからって、俺達わざわざ家から離れた図書館で待ち合わせしたんだよ?」
あれは地味に傷ついたなあ、という呟きに、当て推量をしたキバの話が一瞬頭を掠めた。どうやらあの一件は、この恩師が知る前に秘密裏のうちに闇に葬り去った方が良さそうだ。
「兄弟喧嘩とかも、あるにはあるんだけどさ、なんていうか…こう、地を固めるために雨を降らす、みたいな感じで。まあ、それも殆どイタチがサスケをあやしてるようにしか見えないような喧嘩なんだけどね」
――ほらほら、また手が休んでるよと言われて、慌てて意識を紙を繰る指先に戻した。頭の中に広げられたイメージに引き摺られて、作業に集中がいかない。
「うちはの家ってのは、代々医者の家系でね。一族で大きな病院を経営しているんだけど、サスケの父親はその病院長なんだ」
「その、カカシ先生の親友って人も?」
「ああ、あいつは自分で個人医院を開いて、そこで小児科医をやってる。剽軽なヤツで一族の中ではちょっと異端児扱いされてるんだけど、サスケ達兄弟とは昔から馬が合うみたいで、よく懐かれてたよ」
「ふうん」
「イタチは小さい頃から跡取り息子として一族全体からもすごく期待されてたし、実際期待以上に優秀な子だった。サスケはずっと、そんなイタチの姿に憧れて、後ろを追いかけてばかりいたよ。兄弟だから比べられることも多くて、多分悔しく思う事も少なくはなかったんじゃないかと思うけど、それでもあの仲の良さには陰りがなかった。きっとこの先もずっとそのままで、いつかは兄弟でしっかりと病院を背負って受け継いでいくのを、疑う奴はいなかったよ」
ぽつぽつと落とすようなカカシの言葉を、ゆっくりと咀嚼するように聞きながら、ナルトは一対の絵のような兄弟を想像した。シカマルが教えてくれた、余りにも完成されたサスケの兄の経歴。あの自尊心の強そうな管理人が、そこまで心酔するイタチという人物に思いを馳せてみる。
闇の中で光を纏っていた銀時計。あれはやはり、管理人にとっては憧れと理想の象徴のようなものだったのだろうか。
「――ハイ、じゃあこの話はひとまずここまで」
唐突に打ち切られると、思わず「ええーっ!?」と抗議の声が出た。不満だらけの顔で睨んでいると、回転椅子がくるりと回ってカカシがこちらを向く。
「ダーメ。お前、さっきから全然手が動いてないんだもん。こんなんじゃ何時までたっても終わんないよ」
「そんなァ。だって、じゃあなんでアイツは今ここで管理人なんてやってんだってば?なんか中途半端な終わり方で、気持ち悪いってばよ」
「任務遂行が最優先でしょ」
ぴしりと言い切られると、もう恨めしげな視線もどれだけ送ろうとも効果はなさそうだった。渋々と作業に戻るため、揃えた用紙を束ねて整える。
置かれていたホッチキスに手を伸ばし、かちりと紙を噛ませるとその手応えの無さに首をかしげた。
「センセー、ホチキスの針がもうないってば」
「……道具にまでやる気のなさが伝染ったかな」
溜息をつきながら、引き出しを開けて何か小袋のようなものを取り出すとカカシはそれをナルトに放って寄越した。弧を描きながらナルトの手のひらに収まったそれは、コインケースのようだ。適度な重みをもつそれを指差しながら、カカシが言った。
「それ持って、気分転換がてらそこのコンビニまで替えの針を買いに行っておいで」
戻ってきたら、キリキリ働きなさいよ。そう言うと、再び回転椅子が回り少し草臥れた様子の背中が向けられる。
「続きはそうだなあ、報酬のラーメンでも食べながら、かな」
「……先生、やっぱりタダ働きさせるつもりなんだろ?」
疑いの眼差しをたっぷりと送りながら低く言うと、そんな事なーいよ、と歌うように言う声が返ってきた。(怪しすぎるだろ、それ)と恨めしげに口を尖らせて思っていると、ギィ、と椅子が軋んで横顔だけでカカシがちょっと笑った。
「気になる?サスケのことが」
「ばっ…違うってば!全っ然、そんなんじゃねェし!」
「でも、そんな嫌なヤツではなかったでしょ?」
「それは…そうかも、しんないけど。ただ、妙に鋭いっていうか……なんか、嘘、付けない感じがして」
――やっぱ、ちょっと苦手だってば。
そう小さく白状するのを聞くと、右半分だけの目が三日月のように細められた。苦笑する口許に、軽く歯が覗く。
まあ、そう言わず仲良くしてあげてよとカカシが言うのを、掴んだコインケースをポケットに仕舞って立ち上がりながら聞き流した。
いつの間にか雨は止んでいて、薄い雲を透かしてうっすらとした光が濡れた屋根を明るく照らしているのが、窓の外に見えた。



羽織ったパーカーのポケットの中で預かったコインケースを弄りながら、下へ続く階段へ向かった。ちゃりちゃりとコイン同士のぶつかり合う音が耳を擽る。久しぶりの他人との会話は自分で思っている以上に停滞していた気分を払拭したらしく、ナルトは軽い足取りで階段を踏んだ。
最後のステップを気分よく着地して、方向転換しながら共同玄関のあるエントランスに目を向けると、窓の外でピンクとラベンダーのランドセルがふたつ、おしくらまんじゅうでもしているかのように肩をくっつけあっているのが目に入った。今の子のランドセルって随分カラフルなんだなと感心する。単身者の多いここのアパートでは、滅多に見ない光景だ。
何かあったのか?――と近づいていこうとした時、管理人室のドアが小さく軋む音を耳が拾った。思わず慌てて今しがた降りてきた階段に身を隠す。なんでこんな逃げるような真似しなきゃいけないんだと微かな憤りを感じつつも、中から優雅な足さばきで出てきた管理人がランドセルのふたりに声をかけるのを、柱の影からそっと盗み見た。
「どうした?これって……鳥?」
玄関の大きな窓ガラスの下に取り残されたかのように落ちている灰褐色の塊を見下ろして、管理人が肩を寄せ合うふたりに声を掛けるのが聞こえた。
突然現れた救いの手に、一瞬ぽかんとした少女達だったが、すぐに気を取り直すと真っ赤に染め上げた頬を擦りながら、少し上擦った声で懸命にしゃべりだした。

「あのっ、さっきからこの子ここにずっと落ちていて、」「全然動かないし、なんか変な形で固まっちゃってて、」「もしかしたら、しっ、死んじゃってるのかもしれないなって、思ったんだけど、」「でもなんか、まだちょっとだけ、お腹の辺りは動いてるみたいで、」「助けたかったんだけど、こわくて、さわれなくて――」

「……ああ、なるほど」
もつれたソプラノで交互に説明する子供達を一歩下がらせると、管理人は軽く上を仰いだ。曇りなく磨かれたガラス窓の上部に、何かがぶつかったような痕跡が見える。
それを見て取ると納得したような顔をして細い身体を折りたたむようにしてしゃがみこみ、先程から下に落ちたままの灰褐色の羽毛の塊を手のひらでそっと包み込むようにして持ち上げた。
「ほら、あそこ、白っぽい跡があるだろ?そこに頭からぶつかったんだな、多分」
「……この子、死んじゃわない?」
こわごわ問いかける声に、管理人は指先でちょっと嘴を触ったり全体を見回したりしていたが、やがて心配そうに見上げるふたつの顔に向かいにこりと笑ってみせた。
「大丈夫。ぶつかった衝撃で、目ェ回してるだけだ」
力みのない笑顔に完全にあてられた様子の少女達を遠巻きに眺めて、ナルトは心の中で(…あーあー、…)と溜息をついた。管理人を見上げるふたりの眼差しは、既にどう見ても白馬の王子様を見詰めるそれだ。
いたいけな小学生相手に、その笑顔は破壊力ありすぎだっての。かわいそうに、あの子達、きっと今夜は眠れないぞ。
「目が覚めるまで、俺がちゃんと見ててやるよ。心配しなくていいから、遅くならないうちに家に帰りな」
失神したままの鳥を両手で包んだまま、管理人はそのまま外で少女達を見送ってやるつもりのようだった。名残惜しそうに並んだランドセルが何度も振り返っている。
物陰から頭だけつき出して、雨上がりの空にくっきりと立つ影に見蕩れていると、姿勢のいい背中が「おい」と言うのが聞こえた。
さっと全身に緊張が走ったが、呼びかけの相手が不確かでそのまま階段にしゃがみこむ。すると、さっきよりも低い声でもう一度「おい」と呼ばれた。
「お前だ、お前。そこの金髪」
「…オレ?」
「他に誰がいるんだ。自分だけ隠れやがって」
驚いて体を起こすと、管理人がゆっくりと振り返った。絵に描いたような憮然とした顔。先程までの爽やかさが嘘のようだ。
「なんでわかったんだってば」
「バカかお前。その頭、目立ち過ぎんだよ」
あれ、と顎で示された先を見ると、アパートの丁度真ん前に、カーブミラーが設置されているのに気がついた。鏡の中には、うんざりしたような顔の管理人とその奥で立つ金髪の間抜け面がしっかりと写りこんでいる。
観念して、溜息をつく管理人の横にもたもたと並ぶと、ナルトはその手の中にいる動かない温もりを覗き込んだ。硬直したように伸びた足が異様に映る。
「ったく、お前がいたんならあいつらの相手任せればよかった。顔が疲れちまったじゃねえか」
「あれ?さては、女子が苦手?」
「ガキも女も苦手だ。ウルサイし、しつこい。小学生女子なんて最悪」
「それなのにあの笑顔?ほとんど詐欺だってばよ、それ」
「しょうがねえだろが、怯えて泣かれるよりはマシだ」
微塵の罪悪感もない口調に(あ、泣かれた事あるんだ)と気が付くと、ちょっと可笑しかった。堪えきれないで少し鼻から漏れた息に、仏頂面が顰められる。
「どこで泣かれたんだってば?」
「……叔父貴のやってる、病院で。たまに手が足りない時、頼まれて手伝いに駆り出されてたんだ」
「ああ、カカシ先生の親友って人?」
「そう。あんときゃ絶対に小児科医にだけはなるまいと――お、気がついたか」
両手の中で小さく身じろいだ鳥に気がついて、途中で言葉を切ると管理人は目線の高さにまでそれを持っていった。
長い指の拘束から逃れようと、次第に暴れだす翼を抑えたまま、何度も角度を変え怪我がないのを検めると、最後によく磨かれたボタンのようなまん丸の目をじっと見る。虚ろそうだったその目にも、徐々に光が戻ってきたようだった。
「コイツ、なんであんなとこに突っ込んだんだろな」
「多分、雨宿りしようとして、ガラスに気がつかなくてそのままぶつかったんだろ」
横から疑問を挟んだナルトに「磨きすぎんのも問題ありだな」と自嘲で返した管理人は、柔らかい手付きで灰色の身体をひと撫ですると「でも、」と言った。
「大丈夫。嘴も折れてないし、羽も傷付いてない。お前はまだ、飛べるからな」

―――そら、行け!

そう言うと、管理人はその手をぱっと開いて、もがく翼を宙に放るように開放した。一旦はふらりと失速して高度を下げた灰褐色は、すぐに持ち直してあとは一直線に飛び去っていく。
まだ僅かに雲の残る空に、その姿はすぐに溶けて消えた。
「……よかった、大丈夫そうだな」
ナルトは気詰まりだった事も忘れて飛び去っていく姿に安堵すると、隣に並んだ管理人に笑いかけた。解き放ったのは彼のはずなのに、その横顔が置いてきぼりをくらった子供のように見えて、一瞬混乱する。引き戻したいような気分に襲われて、慌てて話題を探して口にした。
「あのさ、カカシ先生から聞いたんだけど、うちはさんとこの実家って、おっきな病院なんだって?」
「ああ、まぁな」
「じゃあ、お兄さんは今そっちにいんの?いいよな、オレってばひとりっ子だから、兄貴とかいるのスゲー羨ましいってばよ」
「……いや、あっちにはいない。というか今はもう、あいつはどこにもいねェよ」
色のない声が淡々とそう告げるのを、ろくに動かなくなった頭が記憶した。
風を打つ鳥の羽ばたきが、移ろいながら遠ざかっていく。

「兄貴は、死んだよ。――去年の今頃に」

――ああ、神様。つい意味もなく、そんな無駄な悔悛が脳内を駆け巡った。
どうして、オレってやつは。いつも、こんなにも、彼をざらつかせるような事ばかり言ってしまうのだろう。