第五話

無理矢理引っ張り上げるようにして階段を昇っていた時には目も開けられなさそうだったのに、平らな廊下にまでくると彼は幾分意識が戻ってきたらしかった。
目が覚めた途端、世話なんているかと言い放ったその男が、千鳥足で欄干にしがみつきつつ前進する様を呆れた思いで眺める。傲岸不遜なその態度に、さっきまでの殊勝な詫びの言葉も彼の中では既に忘却の彼方なのではないだろうかと怪しんでいると、突然、不穏な雰囲気と共にふらついた足が動きを止めた。
もしや、と押し寄せてくる嫌な予感。
慌てて丸められた背中に近寄ると、はたして青ざめた顔がゆっくりと振り返った。
「ヤバい。吐きそ…」
「わああ、待て待て!」
丁度そこは恩師の部屋の前であったが、流石にここで決壊させるのはよろしくないだろう。いっそ担ぎ上げるような勢いで管理人の両脇に腕を差し込むと、片手で口許を抑える管理人を出来うる限りの全速力でズルズルと引き摺った。やっとの思いで表札のない端の部屋までたどり着き、預かった鍵でドアを開けると足をもつれさせながら男は部屋に雪崩込む。口を抑えたままもどかしげに履いていた靴を脱ぎ捨てると、焦った様子で玄関脇にあるトイレへと駆け込んだ。
やがて暗い部屋に嘔吐する音が漂い出したのを聴くと、一気に全身を襲ってきた脱力感に、ナルトは狭い玄関に座り込んだ。

     ☆

初めて足を踏み入れた管理人の部屋は、ナルトの部屋と造りはほぼ同じのようだった。
玄関先から全貌が見渡せてしまう小さなワンルーム。若干の後ろめたさを感じつつもそこからの景色をつぶさに観察してみれば、嘘みたいに何も物がないのに驚かされた。調度品らしきものは全くなく、小さな箪笥がひとつ、取り敢えずといった感じで置いてあるだけだ。
窓際に設置された小さな文机の上にもペン差しと共に数冊の文庫本が立てられているばかりだったが、何故かその横に華麗な装飾を施された小箱と、その中に収められた銀色の物体が見えた。カーテンが開け放たれたままの部屋で、月明かりが金属の上に鈍く跳ねる。
(――時計、かな?)
澄んだ光を載せた文字盤は、大きさから推測するに懐中時計のようだった。がらんどうとした部屋の中、不似合いな程恭しく飾られたそれはやけに目に付く。
「……あんま、ジロジロ見んな」
決まり悪そうな顔でトイレから出てきた管理人は、アルコールを吐き出したお陰で、先程よりは幾分思考がまともに戻ってきたのだろう。さすがに負い目があるのか、憎まれ口にも勢いがなかった。
「…まあ、正直助かった。もう大丈夫だから」
「そう?」
「ああ。帰っていいぞ」
「な、あの時計。スゲー、キレイだな」
つい口にした賛美の言葉に、力の抜けていた管理人の表情が僅かにこわばった。
薄い唇が引き締められ、月明かりを背にした姿が黒ずんで見える。
「……メッキだ。ただの」
「え、そうなの?でもなんか大事そうに置いてあるから」
「いいから、お前。もう帰れ」
押し出されるように廊下に出ると、さっきよりも空気が冷たく感じられた。軽く軋む音と共に閉められてゆくドア。
完全に閉じきる間際、管理人の密やかな声が付け足すように「…サンキュな」と言うのが、最後の隙間から漏れ聴こえた。



「銀時計?」
警備員のバイトの帰り。再び一緒になったシカマルに尋ねると、友人は腕組みして目を閉じ、古い記憶を丁寧に検索してくれたようだった。
しかし、しばらく待った後の「悪ィ、覚えがねえな」という回答に、つい小さく息が漏れる。落胆の色をみせたナルトに、シカマルは「サスケんち、なんか格式高いっていうか。あんまり子供が気軽に出入りできるような感じじゃなかったから」と弁解じみた慰めを言った。
じゃあやっぱりあれは最近になって手に入れたものなのだろうか。そう思っていると、「あ、」とシカマルが気が付いたかのようにこちらを向いた。
「それ、もしかしてあいつの兄ちゃんのじゃねえか?」
「え、アイツ兄弟いんの?」
「ああ、幾つ上だったかな。少し年の離れた兄貴がひとり」
兎に角べらぼうにデキる人だって聞いてるけど。
そう教えてきたシカマルの妙に近しい物言いに「会った事あんの?」と尋ねると、「…いや?」と答えたシカマルがおどけたように肩を竦めた。
「でも結構な有名人だからさ。あいつの兄貴」
「有名人?どこの?」
「あー……うちのガッコの」
言い渋るようなシカマルの言い方に、ナルトは小さく苦笑した。十分誇っていい事だと思うのに、この友人は自分の大学について語る時、何故か非常に言葉を濁そうとする。今だって、まるで「不本意ながら」とでも付け足したそうな顔だ。
「俺は在学期間が重なってないから実際会ったことはねェけどよ。うちの学部でも『うちはイタチ』の名を聴かずに卒業するやつはそうそういないんじゃねえか?」
「そういやシカマルって、何学部なの?」
「薬学部。サスケの兄ちゃんは、医学部だったんだけど」
医学と薬学では教授同士の交流も結構あるらしく、以前嫌々ながらもゼミの飲み会に出席した際、シカマルは教授の話の中でその名を聞いたらしい。管理人の兄の名は優秀な人間ばかりがひしめいている大学の中でも中々に通った名前だったらしく、その場でもちょっと話題に登った途端、彼を知っているという人間がいくらも出てきた。
曰く、トップ入学・主席卒業の秀才、在学中から書き上げる論文は教授顔負け、メスを握らせてみれば最初から神がかった辣腕を予感させる天才だった、等々。プライドの高い優等生の多いあの学校で、これだけ名前が話題に昇るという事はそれだけでも相当な人物だったのであろうというような事を、歩きながらシカマルが説明した。
「会う機会はなかったけど、昔っからサスケのやつスゲェ兄貴のこと崇拝してたからよ。名前だけは何度も聞いてたから、大学入ってから同じ名前聞いた時はちょっと驚いた」
「今、その兄ちゃんは?」
「さあ?そういや、最近の話ってのは聞かないな」
「ふーん」
「あ、もしかしたらサスケが今いる部屋、兄貴が昔大学通うのに住んでたとこなのかもな。サスケのやつ、こっち帰って来てからまだ三ヶ月くらいだって言ってたし」
前を向いたまま話すシカマルの横顔を眺めながら、ナルトは生活感のない管理人の部屋を思い出した。主が定まっていないような、趣味や嗜好が伺えない空間――なんだか、仮住まいのような。生きている人間の痕跡を極力残さないよう、気を使っているような部屋。
「……で、銀時計だ」
「おう?なんか急に話が戻ったってばよ」
「なんだよ、こっちが本題だろうが」
呆れたように笑って、シカマルが言った。細い眉が片側だけきゅっと上がる。
お前『恩賜の銀時計』って知ってるか?と問われたナルトが首を横にふるふると振ると、まあそうだよなと端からわかっていたかのようにシカマルが続けた。
「うちの大学、主席者には卒業する時に銀時計が贈られる習慣があんだよ。多分サスケの兄貴もそれ貰ってたはずだから、もしかしたらその懐中時計は兄貴のかも。きょうび懐中時計なんてわざわざ買う奴そんなにいないだろうしな」
「あー、確かになんかスゲェ特別そうな箱に入ってた」
「だろ?多分それだわ」
「でもさ、なんでそんな貴重なモンを弟にやるんだってば?普通そういった物って、大切に自分の懐で保管するもんじゃねえの?」
ナルトはかつてホッケーで入賞した時に獲得した、自分のメダルやチームのトロフィーを思い出し、不思議に思った。特別な人間にのみ贈られる、特別な品。それはいわば、自分にとっての勲章のようなものだ。
自信の根拠に繋がる大切な物証。
それを弟とはいえ、他者に渡すという意味を、ナルトは不可解な気分で想像した。
「さァ?まあおっそろしく優秀な人らしいから、そのご利益にでも与れるように、とか?サスケからしたらお守りみたいな感じでもらったのかもな」
シカマルの言葉に、そういうもんかな?と小さく引っかかりつつも曖昧に相槌を打っていると、通りの先に茶色いアパートが見えてきた。今日は火曜日だ。燃えるゴミの日ではないが、もしかしたらまた窓を拭く管理人に遭遇できるかもしれない。
酔い潰れた管理人を部屋まで送り届けた夜から数日。カカシからは次の日の朝に礼を述べるメールがきたが、当の本人からは特になんのコンタクトもなかった。
ほんの一時介抱をしただけなのだから、当然といえば当然なのかもしれないが、何となく落ち着かない。
下手をすると、あの晩の記憶そのものが管理人の中から抜け落ちている可能性さえ否定できなくて、それを考えるとどうにも残念な気がした。あれから何度か、ゴミ出しや買物などで外にでる機会もあったのだが、管理人に遭遇する事は一度もない。
(……会いたい、のかな?)
胸の内で自問して、結局(よくわかんねェな)とナルトは結論付けた。もっと話してみたいような、でも会ったらまた変に萎縮してしまう自分もいそうで、何だか複雑だ。
管理人本人にしたって、偉そうに上から物を言ってきたかと思えば、妙に素直に謝ってきたりして。
いいヤツなのか、やなヤツなのか。
未だに判別つきかねる。
(でもなァ……)
仕分けできない感情に、ナルトは再び思う。どうしたいのかは、自分でも正直よくわからない。――けれど、あの毅然と伸びた背中の内側にあるものを。黒い瞳の奥に見えた、強いものを。
空虚な部屋で暮らしながら、淡々と日々を過ごす彼が、一体何を思っているのか。
それを、知ってみたい。そんな気はした。
……無意識の期待を胸にシカマルと並べた足を進めていたが、古いアパートの前には誰も出ていなかった。
今日は資源ゴミの回収日であったらしく、集積所にはすでに綺麗に纏め上げられたペットボトルやアルミ缶が積み上げてある。相変わらずのキッチリとした仕事ぶりに感心しつつ、密かに管理人室の方も伺ってみたが、やはりそこにも人の影はみとめられなかった。
「あれ、今日はサスケのやついねえのかな?」
適当に束ねただけの頭を小さく掻きながら言ったシカマルは、そのまま遠慮することなくアパートに入っていくと管理人室の磨りガラスを何度かノックした。応答がない。「やっぱいないみたいだな」
そう言いながら振り返ったシカマルは、少し思案すると持っていた鞄から手帳を取り出し、挿してあるペンを取って空白のページに何事かを書き付け始めた。英数字の羅列と、何か小さなメッセージ。書き終わってから手早くそのページを破り取ったかと思うと、「ん、」と言ってナルトにその一枚を差し出した。
「へ?何?」
「俺のメアド。こないだサスケの連絡先きくの忘れちまったから、これ渡しておいてくんねえか?」
「なんでオレが!」
「いやだって、俺んち本当はこの道通らない方が駅から近いんだよ。だからあんまこの道使わなくてさ、せいぜいお前と帰る時くらいなもん?そのお前とシフト合うのも、次いつになるかわかんねえし」
「……ここに置いときゃいいんじゃね?」
「なんだよ、こういうのって間違えて誰かに持ってかれたりでもしたら嫌だろ?」
いいだろ、どうせお前もサスケも、毎日ここにいるんだから。
そうあっさりと言われてしまうと、もう意固地になって言い返す余地はなさそうだった。のろのろと差し出した指先で、ナルトは忸怩たる思いを抱えながら紙片を受け取った。


業務時間が4時までだったのを思い出し、思い切るように腰を上げて紙切れを手にスニーカーを履いたのはその日の夕方前だった。外の日差しはまだかなり明るい。4月に入ってからますます日が長くなった表通りからは、何がそんなに可笑しいのか、下校途中らしき小学生達の高く通る笑い声がこだましていた。
(『管理人さん、これ、シカマルからです』……いやいや、今更敬語もなあ)
(『サスケくん、こないだの事、覚えてるかってばよ?』……ダメだ、これじゃただの嫌味だ)
言葉にあぐねたまま小窓の前で立ち尽くしていると、こちらの気配に気がついたのか不意を打って向こう側から鍵を外す気配があった。
からりと穏やかな音をたてて、磨りガラスが開く。
「なんだ、何か用か?」
「――うちは、さん」
咄嗟に出た呼び方が適切であったのかが判らなくて、不自然な程どぎまぎしてしまった。しかしそんなナルトを気にした様子もなく、黒髪の青年が顔を出す。
波の立っていないその表情からは、あの夜ほどのくだけた様子はなかったが、これまでのような突き放すような冷淡さも消えていた。少しほっとして胸を撫で下ろすと、ナルトは長く手にしすぎて変に皺が寄ってしまった紙切れをついっと差し出した。
「これ、シカマルから。また時間ある時にでもここに連絡くれって」
「……ああ、そうか」
想像していたよりも興味のない様子で紙片を受け取った管理人は、軽くその書き付けに目を落とすと着ていたパーカーのポケットに無造作に仕舞った。明り取りのない小部屋の中は、外の陽気に相対するかのようにほの暗い。
「そのー…あの後、大丈夫だったかってば?」
「ああ、……その節は、どうも」
恐る恐るの質問に、幾分言葉を濁しながらも管理人は返した。その様子に(あ、一応記憶はあるんだな)と思っていると、「実はあんまりよく覚えてねェんだけど」と付け足されがっかりする。
「後でカカシから聞いた。お前が部屋まで連れてってくれたんだろ?」
「まあ、そうなんだけど」
「なんだよ、俺、何かしでかしてたか?」
微妙な顔つきをするナルトに、探るように管理人が碧眼を覗き込んだ。全くもって後ろめたさのない様子のその目に、ナルトは諦めにも似た境地を悟る。
てことはきっとこの管理人室でのやり取りとかも全部、コイツの中では夢みたいな事になってるんだろうか。すげェな、酔い方までなんか偉そうだ。
「しでかしたっていうか…全っ然、覚えてねェの?」
「なんか廊下を引きずられた覚えだけはある」
「ああ、そ……いや、まあいいってば」
うやむやな返事の後、たっぷり口籠ってから勇気を振り絞って発した「あのさ、」は、声が変に上擦った。どうにも締まらない思いを叱咤して、怪訝そうな顔をする管理人をぐいと見据える。
言おうかどうしようか迷う気持ちを吹っ切るように、立つ足に力を込めた。
「この前、シカマルといた時。あれ、言い過ぎだった。嫌な事、言った。――だからオレも、オマエに謝るってば。悪かった、な」
「オレ『も』?」
「……覚えてねェなら、別にそれでいいんだけどさ」
とにかくそれ、渡したかんな。
ドクドク鳴る心臓を押さえつけながら、それだけを一気に告げた。気負いが解けて、肩の力が抜ける。
知れず出た深い溜息と共に踵を返そうとすると、おい、と引き留める声がした。
はあ?と振り返ると、窓から覗いていた黒髪が一瞬消える。かと思うと、すぐさま隣のドアで開錠する音がした。不思議を見るような気分でそれを眺めていると、ほんの少し急いたような顔の管理人が、そこを開けて顔を見せる。
すらりと伸びた脚を半歩踏み出して、彼は唐突に尋ねてきた。
「なあ、お前――甘いもん、好きか?」



コポコポと音をたてて気泡をあげる電気ケトルを、何かに化かされているかのような気分で見詰めた。開けっぱなしのドア。狭い小部屋は、丸椅子を二つも置くともう余計なスペースはなくなってしまった。
先日は観察する余裕さえもなかったが、改めて見渡してみると管理人室の奥には簡易的ではあるが小さな給湯施設が設置されていた。
普段から小窓の下に置かれたデスクをテーブル代わりにしているらしく、そこには今まさに問題となっている小さな包みがぽつねんと置かれている。
そのうちに部屋に漂いだした、緑茶の青い温かな香りを鼻先に感じても尚現実感を持てないまま、ナルトは置かれた椅子の片方に座っていた。
「助かった、コレ貰ったはいいけど食えなくて困ってたんだ」
なみなみと緑茶が注がれた大振りなマグカップをふたつデスクに置くと、向かいの丸椅子に腰掛けて、管理人は紺色の包み紙を開きだした。現れ出たのは、ぽってりとした大きな牡丹餅が二つ。並んで鎮座するそれは、つやつやした餡をたっぷりと纏っていていかにも美味そうだ。
小皿なんて気の利いた用意はないらしく、透明なプラスチックの折り詰めをパリパリと軽い音をたてて開封すると、管理人はひとつを指で摘み上げて、残り半分を折り詰めごとナルトに差し出した。
この前の礼だ、遠慮なくいけ、などと言う管理人に、こういうのってお礼とは言えないんじゃないかなと内心で苦言を呈しながらも、ナルトは黙ってそれを受け取った。
「餡子、苦手なのかってば?」
「いや、甘いもんは全部ダメだ。匂いだけでも吐き気がする」
でもまあ俺にくれたものなんだから、一応、俺も口には入れないと悪いだろ。摘んだ牡丹餅に早くも顔を顰めながらそう言う管理人は、なんだかやけに幼く見えた。アイツ、全然イヤな奴なんかじゃなかったぜと言った、シカマルの言葉が蘇る。
子供の頃の管理人は、もしかしたらこんな顔をしていたのではないだろうか。
そう思いつくと、なんだかナルトは尻がムズムズするような、くすぐったい気分になった。
「苦手なのに、なんで貰ったんだ?」
「207号室のばあさんがさ。俺を甘いもの好きだと思い込んでて、時々こういうの差し入れしてくれんだよ」
人違いに気がつかねェみたいでさ、と言った声が存外に情けなくてつい見ると、管理人は持て余しているかのように指先の塊を角度を変えては、ぐずぐずと検分していた。
「それって、兄ちゃんとってこと?」
小さく尋ねると、黒い瞳が驚いたように見張られた。
「シカマルが、うちはさんには兄弟がいるって言ってたから」
「……ああ、そうか」
合点がいったらしい管理人は、大きくひとつ息をつくと手を伸ばしてマグの中身を一口飲んだ。なんとなくつられて、ナルトも熱い茶を一口を含む。
マグを持ったまま、再び「シカマルがさ、」と喋りだそうとしたら、ぼんやりとした瞳がゆっくりとこちらを向いた。
――ほら、険がなければこの目はやっぱりちょっと可愛いンだって。
そんな再確認がちらりと頭を掠めて、慌てて自制する。何が『ほら』だってば、簡単に転ばされてんじゃねえよオレ。……けどまあ、確かに、思ってたよりもいいヤツっぽいけどさ。
「ここには、もしかして昔は兄ちゃんが住んでたんじゃないかって」
「シカマルか。あいつ…スゲェな。ガキん時から妙に鋭いとこはあったけど」
驚きを隠せない様子の管理人が、降参したかのように小さく笑った。
気の抜けたその笑顔に、思わず釘付けになる。
「お察しの通り、あの部屋は元々兄貴が住んでたんだ。どういう風でそうなったのか、ばあさんとは茶飲み友達だったらしくて。兄貴はすごい甘党だったから、こうやって時々評判の菓子を見つけてきてもらっては、ご相伴に預かってたらしい」
「そんな見間違われる程よく似てんの?」
「…いや、自分では全然似てるとは思わないけど」
でも、他人からはそっくりに見えるらしいなと言った声は、苦々しいというよりも途方に暮れているように聴こえた。マグを持つ手が白い。うっすらと筋が浮かぶそれを、少し落ち着かない気分で見た。
「外見はともかく、中身はまるで別人。俺なんて、あの人の足元にも及ばねェよ」
「……ふぅん」
独白のような科白に相槌を打ちながら、ナルトは大きく一口牡丹餅を頬張った。ねっとりとした甘さが舌の上に溶ける。
あ、これうまい。
つい出た言葉に、管理人が小さく笑った。
「お前の方こそ、すごかったんだって?アイスホッケー」
いきなり変えられた話題が予想外にも自分に降りかかってくるもので、ナルトは思わず二口目にいこうとしていた口許をそのままに固まった。
そおっと管理人に視線を戻すと、面白がるような顔で大きく開いたままの口を見ている。
「カカシが言ってた。スター選手になる素質、十分だったって」
「いや、そりゃカカシセンセ、言い過ぎだってばよ」
「でも、大学チームのエースだったんだろ?」
確認するような言葉に、曖昧に頷いた。既に管理人の話す言い方が過去形になっているのに、今現在の状況まで全てが伝わっているらしい事を察する。
カカシ先生、勝手にしゃべり過ぎだってばと思ったが、心のどこかで管理人に自分の事を知ってもらえていた事を喜んでいる部分があるのも否定しきれなくて、複雑な気分だった。
「脚、手術する事もできるって聞いたけど」
「まあ、プレーする事は出来るみたいだけど……でも今までのようには、動けないらしいからさ」
声に出してみると、自分の告白はなんだか随分と白々しく響いた。俄かに後ろめたいような気分にもなり、その原因はもしかしたらこの目の前にいる男のせいなのだろうかと苦く思う。
いつの間にか普段のそっけない顔に戻っていた管理人は、ふうんと気のない声をあげると再び指先の菓子に視線を寄せた。口を付けられないまま長く弄ばれたそれは、所々白い部分が覗きだしている。
「――よな」
「え?」
「違うよな。やめた、本当の理由」
急にしんとしてしまった部屋に、管理人の落ち着いた声が波紋のようにゆるやかに広がった。
思わず訊き返したナルトに、凪いだ双眸が向けられる。

「キツくなったんだろ?……ずっと、一番前を、走り続けなきゃならないのが」

すとん、と落とされた声があまりにも静かで、ナルトは反論さえも忘れた。
そこには責めも、批難もなく――ただあるがままの景色だけを映す瞳が、やがて震えだした青を容赦なく捉える。
感情が漂白されたようなその視線は、何故かがらんと片付けられた、彼の部屋を思わせた。
「なん…で。なんで、そんなこと、オマエにわかんだよ」
うわごとのような頼り無さで言い返すと、その内側を見透かすかのように黒の瞳が細められた。
縒れた微笑みが、整った口許をゆっくりと歪める。
永い痛みが、乾いて、固まったような。そんな、笑顔だった。
「……さあ。なんでだろな」
ぽつりと零して、管理人は緩慢な仕草で白く剥げかけた牡丹餅を一口齧った。ぬるまったマグが唇に運ばれて、噛み砕かれないままの糖分が無理に飲み下されるのを、停止した頭で見届ける。
開け放したままのドアから、低く差し込む春の日差しがあたたかい。
「…あっま」という管理人の呟きだけが、薄っぺらな白い壁に、しんみりと染み込んだ。