第四話

(……なんでこうなった……)
狭い空間に漂う空気は、熱をあげるふたりのせいで奇妙に温まっているように思えた。
目の前に座る男は、黒髪を乱して項垂れたまま、先程からずっと動かない。
なんか話したほうがいいのか?それともこのまま息を潜めて、空気化を狙うべきなのか?
煩悶しながら、膝の上で組まれた手を盗み見る。白い指先に見えたのは、短く切られた形のいい爪だった。古くなって黄ばんだ蛍光灯が、頼りなげに光を揺らす。いよいよ早まっていく心臓が、今にも喉から飛び出してしまいそうだ。
それでも辛抱強く沈黙を守っていると、突然見下ろしていた頭ががばりと翻った。びくぅ!と大袈裟なほど飛び上がってしまった肩が、我ながら情けない。
こちらを見詰める瞳は、潤んで濁っているようだった。陶器のような肌が、赤く染まっている。

「……よォ、お前かよ、ウスラトンカチ」

呂律の回らない怪しげな口許が、にいっと両端を上げるのを見た。
声と共にアルコールの匂いがまた充満したのを感じて、ナルトは深く溜息をついた。

     ☆

「そりゃあ、デキてんだろな」
根拠の知れない自信に満ちたその回答は、ほわほわと立ち昇るコーヒーの湯気を前に、一昨日目撃してしまった一部始終をナルトが報告し終わったところで出されたものだった。さも当然であるかのように言い切る悪友を、ナルトは茫漠とした頭のまま見詰める。
もそもそと味気ない夕食を食べていた、日曜の夜。渡したいものがあるからちょっと出てきて欲しいと連絡してきたキバに指定された待ち合わせ場所は、駅前にあるセルフ式のコーヒーショップだった。ひっきりなしに客の出入りのある店内は、一日の最後をここで締めくくろうとする客で埋められている。喫煙ゾーンとの境目あたりに席を取ったために、ふたりが座る禁煙スペースのはずのテーブル席には本来はないはずの煙草の匂いが立ちこめていた。
「旅行の荷物に、車に、夜立ちに、慣れた仕草。間違いねえだろ」
カカシか、あれはなんかにおうとオレは前々から思ってたんだ。
キバは高校から大学まで、揃ってアイスホッケーで上がってきた仲間だ。スピードもパワーもあるキバは、高校時代からナルトとはエースの座を競い合った一番のチームメイトであり、氷の外でも常につるんでは悪ふざけをした仲だった。しかしナルトと同じく高校の恩師であるはずのカカシを捕まえて、そんな事まで言い出したキバにナルトはあんぐりと口を開いた。ニオウ?ニオウって、何が?
「そりゃお前、あれだ。男が好きそうなってやつだ」
「でもオレってば、カカシ先生の部屋上がらせてもらった時、女の子のグラビア本見つけたってばよ?」
「フェイクじゃねえの」
「プールん時、紅先生の水着姿覗いてたし」
「いや、それでも間違いねえ!オレ実はお前がカカシに誘われて同じアパートに住むって言った時、あ、ダメだコイツもう食われちまうって心配してたんだぜ?」
オレァそのテの事には特別鼻が利くんだよ、などと恐ろしい発言を真顔で言ってのけた友人に、衝撃を覚えたナルトはその身を竦めた。
こいつ、なんという想像をしていたのだ。っていうか、そうならそうと早く言って欲しかった。
「しかしそうか、カカシにはもう相手がいたんだな。よかったじゃねえか、これでお前の後ろの純潔は守られた」
「――待って、なんでオレが掘られる方!?」
「なんとなく」
「オレってばそーゆー趣味はねえって、オマエはよく知ってんだろが!」
「んじゃなんでそんな悄気てんだ?その管理人だって、別にお前の友達でもなんでもないんだろ?」
「それはっ……そうなんだけど、さ」
カップの中で、融かしたミルクが渦巻き模様を描くのを観察しながら、ナルトは煮え切らない様子で口篭った。
金曜の夕方に出て行ったきり、ふたりが戻った様子はないままだった。あれから車の行き先を必死で思い描いてみたが、思い浮かぶのは支離滅裂な想像ばかりで。自分が管理人の事はおろか、カカシのバックグラウンドさえも何一つ知らない赤の他人なのだという事を、嫌になるほど確認させられただけだった。その上その虚しい事実を抱きかかえながら、コソコソと二階にあるふたりの各々の部屋の前を、灯りが付いていないか確認するためだけに三往復程してみただなんて。キバ相手でも、流石に言えない。
……どうしようもなく、気になった。
一緒に過ごすことに慣れている様子だったふたり。閉ざされたふたりだけの空間で、どんな事を話すのだろう。
シートに沈んだ管理人の、横にいるカカシに全てを任せることを可しとしているのがわかる、どこか安心したような表情。
あれはシカマルに見せた少し身構えた所の残る笑顔とは、また全然違っていた。
(オレには怒るか、無視するかだけなのに)
黙々とやるべき仕事をこなしていた後ろ姿。容赦ない怒り。ナルトの事をを歯牙にもかけていない、冷たい横顔。
自分の知っている管理人は、まだたったこれだけしかない。
「まーそいつらの事はもうほっといてよ。お前、マジでホッケーやめていいんだな?」
どうでもいい話題だと判断したのか、ふたりの話を脇にやったキバは急に姿勢を正すと、声色を変えて詰問するようにそう言った。いつになく真剣な悪友からの真っ直ぐな視線に挑まれると、とりとめもない思いに捕らわれていた思考が急に冷やされる。
「ん。いいんだ、もう大学だって辞めちまったんだし」
「そういう事じゃなくて!手術すりゃ、またプレー出来んだろ!?なんで…っ」
「治したところで、永遠に満足のいくプレーが出来ない脚抱えて、この先ずっといけっての?」
自嘲するように小さく鼻を鳴らして上目遣いでこちらを睨む顔に視線を合わせると、途端にキバは言葉に詰まったようだった。
それでもしばらくじっと碧眼を睨めつけるようにしていたが、やがて無理矢理押さえつけた憤りを吐き出すかのような溜息をつき、持ってきていた紙袋を差し出す。
「……これ、マネージャーから預かってきた分。ヒナタが見た感じでは、多分これでお前が部室に忘れてきたもんは全部だと思うって」
空々しい音をたてる紙袋を押し付けるように渡すと、キバは思い切るように席を立った。最後にぽつりと、「ヒナタ、お前の事心配してたぜ」と言い残すと、もう目を合わすこともないまま出口へ向かう。
惰性のような笑いを浮かべ、ナルトはその硬い後ろ姿を見送った。隣から流れてくる靄のような白煙が、虚ろな視界を更に濁らせた。



コーヒーショップを出ると、すっかり闇が濃くなっていた。
住宅街を抜けていくと、一軒、土塀から大きく張り出すミモザの木を植えている家がある。煙るような暖かい香りを吸い込みながら、カサカサ鳴るコンビニの袋を指先に引っ掛けて戻ったアパートの前に、覚えのあるセダンのシルエットが見えた。
(――戻ってきた!!)
知らず走り出そうとした足に気がついて、ナルトは慌てて自制した。駆けていったところで、どうしようというのだ。多分、近付いていったところでまた華麗に無視されるだけだというのに。
(バッカじゃねェの、オレ)
惨めさを噛み締めてそう思うと、早まっていきそうになる歩調を抑えながら注意深く共同玄関を潜った。すぐ横にある管理人室を見遣ると、僅かに開いたままのドアから、中の灯りが漏れ出しているのに気がつく。
確かな人の気配。ぼそぼそと交わされる声のひとつは、どうやらカカシのものであるのは間違いないようだ。
覗いてみたいという欲に負けて伸ばされたナルトの手が、寄る辺なくかすかに軋むドアにかかろうとしたその時、ドアの内側で携帯電話のコール音が響いた。
一際跳ねた心臓がそのまま凍りつく。電子音が止まると同時にドアが勢いよく開けられると、驚いた様子のカカシが携帯を耳にあてたまま目を剥いて金髪を見下ろした。
「ナルト!?どしたのお前」
「あっ、いやっ、今ちょっと外から帰ってきたら、なんかセンセの声したからっ……」
「?…ま、いいや、ちょっとこいつ見ててやって」
ナルトの返事を待たずに管理人室の中を指差しながら急いでそう言うと、「スイマセン…ハイ、大丈夫です」と通話相手に詫びながらカカシは外に出て行った。恐る恐る中を覗いてみると、パイプ椅子に凭れるようにして座り込む黒い塊。バラけた黒髪が傾いたその顔半分を覆い隠してしまっていたが、半開きの唇と仰け反った白い首が上気して赤く染まっているのだけはよく見てとれた。
(―――酒くっせー…!)
二畳程しかない管理人室に溢れかえる酒気の元が、この青年であることは間違いなさそうだった。
元来アルコールには弱いタイプなのか、それとも相当量を飲んでしまったためなのか。いずれにせよ、前後不覚になるまで彼が酔い潰れていることは間違いなさそうだった。
(あれ?でも、この匂い)
アルコールの中でほのかに漂う酒気とは違う香りに気がついて、ナルトは隣にある小さなデスクの上に放られた上着に目を遣った。鈍い艶のある黒いスーツ、焚き染められたような香の香り。
嫌が応でも思い出される記憶。これは―――。
(……喪服だ)
よくよく見てみると、大きく緩められた細身のタイも漆黒のものだった。崩されたノットの上で、浮き出た喉仏が上下しているのが見える。
「ゴメンゴメン、こんな時に限ってエマージェンシーコールきちゃってさ」
通話を終えた携帯を片手に戻ってきたカカシが、頭を掻きながら溜息をついた。注意して見てみると、カカシの身につけているのも黒一色だ。
聞けば電話の内容は、どうやら羽目を外しすぎた教え子が、騒動を起こして警察のお世話になってしまったらしいというものだった。両親には連絡がとれないからという事で、担任であるカカシの所へ身元引き受けの依頼がきたのだという。
「ナルト、悪いんだけど、このままもうしばらくこの子見ててくれる?」
「は?」
「あれ?無理?」
「や、無理とかじゃないけど……」
「じゃあ頼むよ。もう吐きそうだとか言うからとっさの緊急避難でここに入っちゃったんだけど、落ち着いてきたらあとは自分の部屋に放り込んでおいてくれたらいいから」
――サスケ、サスケー?
意識不明の管理人の耳元に、カカシが大声で呼びかけた。んあ、と呻きとも返事ともつかないような声が、酒臭い息と共に漏らされる。
「俺さ、ちょっと出てくるから。あとはナルトに頼んだから、いい加減しっかりしなさいよー?」
頷いたのか単に重力に負けただけなのか。カカシの声に仰け反ったまま横を傾いていた頭がガクンと下を向いた。しかしそれもそのまま寝落ちたかのように動かなくなる。
その様子を見下ろしてから、これ、こいつの部屋の鍵ねと言ってシンプルなリングに通されただけの鍵をデスクに置くカカシを、腑抜けになったようにナルトはただ眺めていた。
しかし「じゃ、あとよろしく」と告げる声にはたと我に返る。立ち去ろうとするカカシの腕を慌てて掴み、あたふたとしながら声を顰めて叫んだ。
「ちょっ……無理!やっぱ無理だってば!」
「なによ、お前らせっかく同い年なんだし、いい機会だからちゃんと顔合わせときなさいって。結局入居の挨拶だってまともにしてないままだったんだって?」
「そ…だけど、でもさ!」
「頼むよ、ナルト」
こいつ、俺なんかが一緒にいても、永遠に救ってやることはできないからさ。
痛みを堪えるような笑顔で、カカシは囁くようにそう言った。いたわるような手付きで、項垂れたままの頭をそっと撫でる。
なんで、という言葉が即座に浮かんだが、何となくこの目の前の酔い潰れた青年の前ではしてはいけない質問のような気がして、代わりにナルトは小さく尋ねた。
「――こいつ酒飲むと、いつもこんな風になんの?」
ふと思いついた問いに、カカシの表情が僅かに歪むのがわかった。しかしすぐにそれもつくられた苦笑が取って代わる。
「いや。ここまでになるのは、俺も初めて見たよ。今日は聴きたくない話も沢山聴かされたせいかな」
結構、わかりやすく現実逃避するタイプなのかもね。
それだけ言うと、脇に置いてあった鞄を手にカカシは大股で外に出て行った。パタムと閉じたドア。遮断された小部屋には、沈没した酔っ払いと訳もわからないまま固まる金髪頭だけが残された。
―――そして話は、冒頭へと戻る。



「ウスラトンカチ?」
言われた単語の意味がわからなくて小さく訊き返したが、言った本人はすでにそれに答える気は全く無いようだった。
代わりに白い手が軽く上げられたかと思うと、ひらひらと手招きするように長い指が空を掻く。訝しく思いながらも呼ばれるがまま、腰を屈めたナルトは注意深くにじり寄った。すると突然、宙に浮いていた手のひらがむんずと頭頂部の金髪を掴み上げる。
「―――いっででででで!!」
完全なる不意打ちに叫びをあげたナルトはしかし、そのまま鼻先が触れる程の距離にまで急接近してきた黒い瞳に覗き込まれると、思わず悲鳴を飲み込んだ。
アルコールにまみれた生温い吐息が頬に掛かる。艶めく黒の睫毛が、長い影を造っているのが見えた。アップに耐えうる顔、というものがこの世には確かに存在するのだ。解釈不能な状況下であるにも関わらず、視界一杯の美形はナルトに厳然たる事実を教える。
ふうん、と興味深そうな声をあげた管理人は、しげしげと狼狽える碧眼を見詰めた。
「…ホントだ。この目、カラコンじゃねえんだな」
「はあ!?」
「髪も。根っこまで、おんなじ色だ」
「てか、オマッ―――手ェ離せ、抜けンだろが!」
髪を掴んだままの手を払いのけるようにすると、いとも簡単に白い手のひらがぱたりと脇に落ちた。
訳がわからないまま警戒心剥き出しの顔で睨みつけていると、薄い唇を少し尖らせて整った顔がふいっと横を向く。
しばらくそのまま何やら考えていたらしき管理人は、ややあっとしてから微かに口を尖らすと、「わりかったよ」と呟いた。
「そうだその通りだってば!いきなり鷲掴みとか、マジしんっじらんねェ!」
「じゃなくて。その、頭とか、目とか」
「はァ?」
「こないだ。チャラチャラしてとか、言ったやつ」
「……ああ、あれ?」
カカシに、きいた。たどたどしく切られた言葉から、やっと何となく話の筋が見えてくる。多分、ナルトのルーツの事を元担任から聞いたということなのだろう。目に鮮やかな金の髪と青い瞳は、全てハーフだった父親から受け継いだものだった。
「まさか、全部ホンモノだと思わなかったから。嫌なこと言って、すまなかった」
横を向いたままぼそぼそと言葉を連ねる管理人に、今度はナルトがきょとんとする番だった。抑揚のない口調なのは、もしかしたら酔っているせいというよりも、気まずさを隠しているためなのだろうか。
「いや、別にそんなのは全然気にしてないってばよ?外見の事だったら、もっとひでェ事言う奴はいくらでもいるし」
「それでも。言うべきことじゃ、ないだろ」

――あんまり、キレイだったから。きっと、作り物なんだろうと、思ったんだ。

「え?」
区切るように紡がれた言葉が、静寂を閉じ込めた部屋に転がった。
「……オマエ、ニセモノの方がキレイに見えんの?」
思わず訊き返した声には、返事が返ってこない。
ただ一瞬、ふにゃりと泣き笑いのような表情だけ浮かべると、それ以上は語ることなく黒髪の掛かる首が再びかくりと折れた。やがて微かな鼾が漂い出すと、ナルトは大きく息をはきながらゆっくりと曲げたままだった腰を伸ばす。
長閑な呼吸音を聴きながら、言われた事の意味を改めて反芻してみた。頬が熱い。多分すごくおかしな顔をしているのが、自分でもわかった。
今しがた掴まれた髪の根元から、じんじんとした熱が広がっていくような気がした。