最終話



……あれ?これってゴミにする前は、なんて呼んでたんだっけ。



     ☆

「こんなボロアパートでも、空き巣って入るんだな」
這いつくばって土の落ちた畳を拭いていると、散らかされた衣類を拾い集めていた管理人がぼそりとこぼした。
キツく絞った雑巾を動かす手を止め、ナルトはここぞとばかりに、
「なんだ、やっぱり自分だってボロアパートって思ってンじゃん」
と突っ込む。それを聞いた管理人は(…しまった)というように眉をしかめると、かすかに口を尖らせた。
「なんだよ、ボロはボロでも、ここはただのボロアパートじゃねえんだぞ。うちのひいジイさんが、戦後金も暮らす場所もなくて困っている若者達のために私財を投じて建てた、歴史あるアパートなんだからな」
いわば、由緒正しきボロアパートだ。
そう言って小さく鼻を鳴らす管理人に、ナルトは微妙に笑うと再び休めていた手を動かしだした。由緒正しきボロアパートねぇ。要は兎に角古くて安いだけという気もするけど。まったく、モノは言いようだ。
「ゴメンな。アイツ、とっ捕まえられなくて」
微かな会話の糸口に、ナルトは小さくわだかまる無念を伝えた。警備員のバイトまでしてんのに、と申し訳なさそうにすぼまれた口に、管理人がぼつぼつと応える。
「いい。他に、取られたものも特にはないし。元々ここには大した物も置いてなかったんだから」
まあ、部屋汚されたのはムカつくけど。低く付け足す管理人に、ナルトは「でも、」と言い募る。
「なァ、ホントに、よかったのかってば?」
「あ?――ああ、時計?」
「うん。あれ、大事なものじゃないのかよ」
集めた衣類を洗濯機に放り込んできたらしい管理人(一度他人に引っ掻き回された服はなんとなくそのままでは着たくないというその心理は、ナルトにも理解できた)は、そのまま流しに立つと置かれていたケトルで湯を沸かし始めた。つい先程までここに来ていた警官にも、特に取られたものはないと説明していた彼がずっと気になっていたナルトは、その背中におずおずと確認する。
ちょっと言葉を選ぶように黙った彼は、じっくりと噛み締めるようにして言った。
「いいんだ。どうせ、そろそろ手放そうと思っていたところだったし」
頃合だったんだよな、と言ったきり、それ以上は語ろうとしない後ろ姿をぼんやりと眺めていると、ふわりとコーヒーの安らぐ香りが漂ってきた。湯気の立つマグを両手にひとつずつ持って振り返った管理人に「もう、そのへんでいいぞ」と声をかけられる。まだかすかに湿る畳を避けるように壁際に腰を下ろした彼が「ほら」とそのひとつを差し出すと、ナルトはそれを受け取りながら壁に凭れる彼に倣いその隣におさまった。
熱いマグに口をつけながら、そっと同じようにコーヒーを味わっている横顔を見遣ると、白い肌にさっき付けられたばかりの傷がくっきりと浮きあがっていた。繊細そうな皮膚に走る赤が痛々しい。
「……そこ」
「?」
「目のとこ。まだ、痛む?」
――見ても、いい?顔色を伺いながら小さくそう尋ねると、「ん、」と言って意外なほど素直に端正な顔が差し出された。緊張する指先で、そっと流れ落ちる前髪をすくって、薄い耳にかける。
長い睫毛に縁どられた黒硝子のような瞳のすぐ脇を、打たれた鎖の跡が細く赤い三日月のように一筋走っているのが見て取れた。未だほのかな熱をはらんだようなその傷に、刺激しないよう微妙な距離で指先を沿わせ、ナルトは切ない溜息を落とす。
「……こんな傷。せっかく、キレーな顔なのに」
「別に。目に入らなかっただけマシなんじゃねェの?」
自分の容姿に頓着しない管理人の様子に、もうひとつ息をついた。まあ、彼の言うことにも一理ある。この澄んだ瞳にもしあの鎖が打ち付けられていたらなんて、想像さえしたくない。
「そだな……こんなキレイな目、絶対に潰されたくないってばよ」
思わず考えたことをそのまま口に出してしまうと、それを聞いた管理人に「はァ?」と鼻先だけで笑われた。急に気恥ずかしくなり、少しだけ目を下に逸らす。
「キレイかどうかっていう話なら、お前の目の方が上だろ」
そう言うと、断りもなしに管理人の手のひらが小麦色の頬に添えられた。そのまま耳を掠め、先程の揉み合いから乱れたままの金髪に指が差し込まれると、くっとナルトの顔がわずかに引き寄せられる。
(うっ……わあああああァァァ……!!)
同じ高さからまっすぐに瞳を覗き込まれると、一気に脈が上がるのを感じた。
淡い光をのせたすべらかな頬に、声が出ない。
「やっぱ、不思議な色だな」
感心したような呟きに、湧き上がる熱が耳の先にまで届いたようだった。はやる心臓が抑えきれなくて、鼓動に揺さぶられた身体がくらくらと振れる。
(そういえば、前にもコイツにこんな風に見つめられたことがあったな)
浮上してきた記憶に、硬直していた身体がほんの少しだけ緩んだ。あの時も、無遠慮な手が自分の髪に触れていたのだっけ。
ニセモノの方がキレイに見えると言った、彼の言葉が蘇える。
盗人に盗られるよりも前に、兄の時計を手放す事を決めていたという管理人の、そのまっさらになった視線を受け止めた。酔いつぶれていたあの晩の、砕けた笑顔。無理をして、チヨばあの手前兄の真似をしようとしていた、不自然すぎる彼を思い出す。

――なあ、今でもまだ、そう思ってんの?
ニセモノの方が、なんて。オレはやっぱ、どうしてもその意見には賛成できないってばよ。
だってオレってば、そのままの、ありのままのオマエの方が絶対に――

「……おい」
かけられた声に、上の空になっていた頭が戻された。「ハイ?」と答えた自分の声が、間抜けに響く。
気が付くと、さっきよりも随分と近い位置に、わずかに眇めた双眸が迫っていた。かすかに触れる鼻先。知らず、自ら距離を詰めてしまっていたらしい事にやっと気がつく。
ゆるやかな彼の呼吸を顎先に感じる。湿った赤い唇に、思わず息が止まった。
「なぜ、こんなに近づいてくる」
「はっ――ナゼ、といわれましても」
ス、スミマセン。そう口の中でもごもご謝ると、「ふーん?」と品定めするような返事が返ってきた。自分でも不思議な程後ろ髪を引かれながら前のめっていた身を引く。いけないいけない。いくらこの傲岸不遜な男の顔が魅力的だからといって、こんなコトしてしまうなんて。最近のオレってば、まったくどうかしちまってる。
躙るように後ろに下がると、窓際の文机に肘が当たった。無駄な物がない机上に、カラー印刷のパンフレットらしきものがいくつか重ねられているのに気がつく。そういえばさっき、空き巣に荒らされた部屋を片していた彼が、ばらまかれたそれらを拾って束ねていたような。自分の記憶が確かなら、数週間前ここに訪れた時にはこの机の上にはなかったものだ。
印字されている文字は、どうやら大学受験に備えるための予備校のもののようだった。「これって、」と言いかけたナルトに「ああ、それ?」と応えると、ややふてくされたような管理人が苦く目を細めた。
「うちはさんが?」
「そう。とりあえずは、大学受験からやり直し」
「え?……あ、シカマルに相談って」
「こっちの方の予備校って、全然調べてなかったからな。パンフ見ても実際のところはよくわからなかったから、アイツに訊くのが一番早いかと思って」
お医者さんに、なるの?
ふわふわした声のままそう尋ねると、「まあ、そういうことになるな」とむすりとした顔が答えた。
「ああー…嫌だな。ブランクもあるし、次落ちたら、ホント洒落になんねェよ」
憂鬱そうなその言いようが彼らしくないような気がして、思わずまじまじとその顔を確認してしまった。「でも、ベンキョーは好きなんだろ?」と確かめるような問いにも、「それとこれとは別問題なんだよ」と歯切れが悪い。
またなんか色々言われるんだろうなァ、とボヤく管理人に、ナルトは目を丸くした。
意外だった。冗談かと思った。しかしぐずぐずとした浮かない顔は、演技とは思えない。
「…うちはさんでも、そんなウジウジしたこと言うんだ?」
「はァ?言っちゃ悪いかよ」
お前な、うちの田舎のやつらのやかましさときたら半端ねェんだぞ?
そう言ってくせのある髪を乱暴に搔く管理人を、初対面の人物と出会ったかのような思いで見詰めた。尖る口。なんだか、拗ねたガキみたいだ。
「そんなにイヤなのに、なんでまたやんの?」
するりと出た問いかけに、黒い瞳が何度かまたたいた。
別に、ここでずっとアパートの管理人をしてたっていいんじゃないかと思う。
この街で、この場所で。穏やかに、無理のない範囲で、やれる事をやって生きていくのも。けっして、悪くない選択なんじゃないだろうか。
「なんでって――そりゃあ、やられっぱなしで終わンのが気に入らねェからに、決まってんだろが」
前を向いたままそう言い切る管理人は、先ほどとは打って変わり強い意思に満ちていた。その横顔は、なんでそんなこともわからねェんだこの馬鹿が、とでも言っているようだ。いっそ清々しいほど高姿勢なその態度に、ナルトは呆れるのを通り越して羨望すら感じた。
「それが、理由?」
「そうだ。なんか文句あるか」
囁きのような確認に、喧嘩腰な返答がかえってきた。ズ、とコーヒーを啜る音がする。
「ウジウジしてて悪かったな。決めたからには本気でやってやるけど、イヤなもんはイヤなんだからしょうがねェだろ」
開き直ったような言い分に圧倒されていると、唐突に管理人が口を結んだ。そのまま何か考えていた様子だったが、そのうちに曲げていた脚を投げ出して天井を仰ぎ、ふー、という深い溜息を長い時間をかけて吐き出す。
不思議そうに見守っているナルトに聞かせようとするでもなく、独り言のような呟きが「あーあ」ともらされた。
「やっぱりどうやったって俺は、兄さんと同じようにはできねェや」
吐露するかのような本音が、今しがたナルトがきれいにしたばかりの青畳の上にほろほろと転がった。そのまま染み入る声に、ナルトはマグを運ぼうとしていた手を止める。
「兄さんはさ、どんな時でも潔いんだ。なんだって完璧にできたし、文句なんて言わない。こんな風にあの人がウジウジしてるとこなんて、一度だって見たことねェよ。いつだってすごく高い場所で、ひとりで悠然と立っているみたいだった。選ばれた人間てのは、そういうことなのかな…」
しみじみと語られる言葉にどこか違和感を覚え、ナルトは持っていたマグを両手で包みなおすと、その中身に目を落とした。半分飲みかけのコーヒーに、渦巻き模様にかき乱された電灯の月が揺れている。
最後を迎えるその前に、彼の兄が言ったという『うんざりだ』という言葉を思い返してみた。カカシから話を聴いた時は、弟のためについた嘘ではないかと思われたその発言だったが、本当のところはどうだったのだろう。管理人の話しぶりから察するに、彼もきっと、兄の言葉をそのまま信じてはいないのではないかと思われた。きっと今でも、彼の中では完璧な兄のままだ。しかしいつだって毅然としていると思われた管理人が、今目の前でクダを巻くようにしているのを見ると、ナルトはその考えが全てではないような気がしてきた。
それほど完全な人間が、果たして存在するだろうか。どれだけ欠点のない人でも、そんな高い場所にたったひとりで立ち続けていられるほど、人は多分強くない。
「……お兄さんだって、きっと、似たようなものだったんじゃねェの?」
ためらいながらもはっきりとした口調で言うと、管理人はわずかに驚いた様子で動きを止めた。見開いた目で数回まばたきをすると、こちらを射るように見据える。どういう意味だよ、という声に、少し怒りが混じった。
「お前、兄さんを侮辱するつもりか?」
「や、違うって、そんなんじゃなくて!なんていうか、やっぱり、お兄さんも色々思いながら生きてたのは、おんなじなんじゃないかなって」
「……もしカカシからリビングウィルのことまで聞いててそんな事言ってるんなら、そりゃあテメエの見当違いだ。あんなの、兄さんの本心のわけない。俺のために嘘をついてくれただけだ」
「そうかな、そんなの本人以外わかんないだろ」
チリチリと弾ける放電のような怒りをまといだした管理人を慌てて制しながら、ナルトは一息に言った。殺気立つ気配が怖い。聞きしに勝るブラコンっぷりに身の危険を感じつつ、慎重に言葉を選んだ。
「だってさ――人の気持ちは、モノじゃないんだから。要るか要らないかってだけで、簡単に捨てることなんてできねェって。どんなに才能のある人だって、嫌だなとか、しんどいなとか思うのはきっと同じだってば。それを全部抱えたままで、ずっと頑張ってたってだけじゃねェの」
ちょっと違うかもしれないけどさ、と断りをいれて、ナルトは考えながら語りだした。
うまく、伝えられるだろうか。
「オレさ、ちっさい頃からずっとアイスホッケーやってたけど、やっぱ楽しい事ばっかじゃなくって。試合中オレがしたミスのせいでボロクソに負けた時もあったし、どーしても上手く動けないような時もあった。もう止めてやる!って思ったことはこれまでも何度もあるってばよ。でもさ……父ちゃんとか母ちゃんとか、大切な人が見てると思うと、もうちょい頑張ろうって思えたんだってば。いいとこ見せてやる!ってさ」
懸命に話していたつもりだったが、管理人からの合いの手は「だから?」という愛想のないものだった。
やり辛いなァと思ったがすでに後には引けなくて、胸の内でひとつ気合を入れるとナルトは話を続ける。
「えーと……だから、さ。お兄さんだって、おんなじだと思うんだってば。お兄さんには、うちはさんがいたから。憧れてくれる弟がいたから。その視線がすごく嬉しくて、絶対に手放したくなくて、だからやせ我慢してでも、カッコいい兄貴でいたかっただけじゃねェの」

だって、兄ちゃんて、そういうもんだろ?

言葉を探りながら出した答えに、虚を突かれたかのような管理人の顔が、一瞬、ひどく幼くみえた。そのままかすかにしかめられたその顔が、確証を得ようかとするように青い目をじっと見る。
「そうなのか?」
「うん……いや、どうだろう。た、たぶん?」
「なんだそれ。どうせそこまで言ったならしっかり言い切れよ」
「だってオレってばひとりっ子だし。想像するしかないんだってばよ」
しどろもどろになりながらも言い訳していると、「説得力ねェなァ」とにべもなく管理人が言った。「…ああそうですか!そりゃあスイマセンね!」とついその素っ気ない感想にむくれてそっぽを向く。するとそれを見た管理人から、ふ、と息をはく気配があった。穏やかに緩んだ口許。その表情がなんだか久しぶりで、膨れていた頬はそのかすかな笑いを前にすると、他愛なくしぼんでいく。
――夜を閉じ込めた部屋に甘い静寂が漂っていた。湿り気のある風が細く開けた窓から流れ込む。
話が途切れた途端、出し抜けに訪れた沈黙にわけのわからない焦燥がじわりと腹の底からあがってきた。ついさっき至近距離で見た、やわらかそうな唇が何故かふわふわと思い出される。
長い睫毛が落とすほのかな影を見つめていると何故だかひどく背徳的な気分になってきてしまい、思わず外した視線で正面にある白茶けた壁を凝視した。しかし溶け出した頭は横の気配にばかり向かっていて、熱を上げていく体が落ち着かない。前を向く視界に、無防備な彼の素足が映った。薄く色付くつま先に、畳についた手のひらが、ざり、と鳴る。
「――お前、仕事が決まったとか言ってたな」
果てのないしじまを壊すように、管理人が口を切った。「…へっ?あ、うん」と答える肩が、ぴくりと跳ねる。
「いつから?」
「明日から。なんか、怖いくらいトントン拍子に話が進んじまって」
「お前はさ、もう、整理できたのかよ」
静かな問いかけに、ナルトはしばらく口篭った。
捨てるのは簡単ではない。でも、もう一度拾うには、意欲も決意も全然足りないというのが正直なところだった。
これまでのように気持ちを奮い立たせてくれてきた人達は、今はもういない。
それに、一度捨てたものを拾うなんて、なんだか格好がつかないような気がする。
「んー…まあ、オレはもういいってばよ」
へらりと笑ってそう答えると、管理人はその顔をじいっと検分するように見ていたが、やがて「そーかよ」と呟くと、興味を失ったかのように前に向き直った。文机の上に置かれた目覚まし時計が、退屈そうにコチコチという音を奏でる。

「……なァ」

ふと落ち着いた声と共に、右の腕に言いようのない温もりを感じた。
重みのかかる半身。そこに身を寄せるように寄りかかってきている華奢な肩を見つけてしまうと、ナルトの体は滑稽な程に固まった。黒髪からかすかにのぞく白い耳朶はただひたすらに目の毒で、今すぐにでもそこに触れて、そのすべらかな薄さを確かめたいという衝動をいたずらに駆り立てる。
「なっ――なんだってば?」
ひっくり返りそうになる声をかろうじて保ちながら問いかけると、やはり同じように並んだ足先に目をやっていたらしい管理人がそのままで言った。
「お前、大切な人に見ててもらえたら、もう少し頑張ろうと思えたって言ったよな?」
「言い、ましたけど」
不自然に緊張する舌を励ましながら認めると、その様子を全く気に留めていない様子の管理人が「じゃあさ」と言った。憎たらしくなるほど気楽そうな声だ。

「もし俺が、お前のこと見ててやるって言ったら。お前、どうする?」
「どうするって……なにが」

ぐらぐらと揺れる声で訊き返すと、ゆっくりと管理人の視線がこちらを見上げた。
伸びた前髪の隙間から覗くまなざしは、悪意のない悪戯を仕掛けているようにも、全てが計算ずくでこられているようにも見える。まるで、狡猾な子供のようだ。
心臓のリミッターはとうにぶち壊されていて、体内で盛大に鳴り響いている心音はきっと彼に筒抜けだ。もし全部わかった上でこうして話しかけてきているのだとしたら、なんて恐ろしい誘惑だろう。情けない程に震える喉で、思わずこみあげた唾液を飲み下した。
「…えっと…じゃ、じゃあ逆に、さ。オレが頑張ったら、うちはさんはなんかしてくれんの?」
誤魔化すために言ってみた科白だったが、管理人にとっては意表を突く質問だったらしかった。黒い瞳がきょとんと丸くなる。それと同時に肩から重みが消えて、ナルトは切ない気分でそれを惜しんだ。
「だから、見ててやるっつってんだろが。その上更に、何かして欲しいとか言ってんのか?」
「だってさ、なんていうか。――ご褒美、みたいなのがあった方が燃えるかなあ、なんて」
つい、甘えるような声になるのがわかった。みっともないなあと思う。自分でも恥ずかしくて、顔が赤くなるのを感じた。
そんなナルトの自虐を知ってか、管理人も一度は呆れたような目でこちらを見ていたが、少し考えてから「まあ、確かに目標がある方が燃えるってのはあるよな」とひとりごちた。
「だよな!そう、そういう事だってばよ」
打てば返すような勢いで言い募ると、管理人は小さく鼻を鳴らして顎をしゃくった。「なんかって、何してもらいたいんだよ?」と一応といったように尋ねる愛想のない声に、調子にのった本音が思いがけず引き出される。
「そりゃあ、こーゆー場面でのお約束っつったら、キ」
「――き?」
(ヤベ……今なんかスゲェヤバい言葉出そうだった…!!)
我にかえると、ざあっと血が逆流したようだった。変な汗が出る。
――キスして、欲しい。なんて。
(いくらなんでも、それはないってばよ……)
浮き彫りにされた願望があまりにも危うくて、慌てて自分で打ち消した。そりゃあ好きだけど。好きなんだけど。そのきめの細かいほっぺたとか触ってみたいなあと思うし、クセはあるけど実はその髪すごく手触りいいんじゃないかなあとか想像するし、長い指に自分の指が絡んだらどんな感じがするのかなとか考えたりもするけど。
……あ、あれ??
「なんだその顔」
収集がつかなくなった妄想に振り回されているナルトを、管理人が呆れたように見詰めた。ナンデモナイデス、と棒読みで言うと、変なヤツ、とぼそりと言われる。
褒美ねェ、と少しの間考えていた管理人は、ややあっとすると「あ」と思いついたような声をあげた。
つられてナルトも彼を見る。覗き込まれた碧眼が、光が散る宵闇の瞳に包み込まれた。

「ほめてやるよ」

言われた意味がわからなくて、思わず「は?」と訊きかえしてしまった。阿呆のように口が開いてしまう。
ほめる?ほめるって、よくやったっていう、アレ?
「――そんだけ?」
遠慮しながら言った言葉だったが、管理人はあからさまにむっとしたようだった。「なんだよ、不服か?」という声にも不穏が滲む。
「なんか、あんまり内容が釣り合ってないような……」
「そんなこたねェだろ」
「あのさ、等価交換て知ってるかってば?」
「適正価格ってのもあるよな」
……じゃあ、とりあえずそれは考えとく、とだけ答えたナルトに、「おー」と欠伸まじりの相槌が乗っかった。
再びもたれ掛かってくる体温を感じる。そういえば自分も彼も、今夜はアルコールが入っているのだった。酔いはすっかり醒めてしまっていたが、緊張したり猛ダッシュしたりで、気が付けば体は結構疲労しているようだ。安らいだ声が、寄せ合った肩から皮膚を通して体の中で反響する。
触れ合った腕から、彼からの澄んだ好意がじんわりと伝わってきた。
得体の知れない焦燥は、とりあえずは余所に置いておこう。今はただ重なりあう温もりだけが、ひたすらに心地よかった。
これだけでいい。これさえあれば、いい。
夜更けのまどろみの中、遠くなっていく頭で、おぼろげにそう思った。

本気で、そう思った。













――おい。
夢と現の狭間で、彼の声を聞いた。
なんだかシアワセだ。誰かに起こしてもらうのなんて何年ぶりだろう。
――おいっ!
がくがくと、身体を揺さぶられる。掴まれた腕から、彼の手のひらの温度を感じた。うわあ、やっぱシアワセだぁ。……でもなんかやけに寒いんですけど。

「起きろ、ドべがァ!」

唸るような怒声にたたき起こされて、ナルトはやっと目を開いた。次いで、本当に頭を思い切り叩かれる。
一瞬どこにいるのかが全くわからなくて、きょろきょろとあたりを見回した。同じ間取りの部屋が、更にその混乱を助長する。
「へ?……あ、うちは、さん?」
ぼやけた視界の正面にしかめつらの二枚目を発見して、ナルトはふにゃりと緩みきった笑顔になった。ああ、今朝もなんというイケメン。ちょっと後ろの寝癖がヒドイけど。
身体を起こそうとしたら、固まっていた背中と腰が猛烈に軋んだ。開けたままの窓から、すうすうとした風が吹き込んでいる。――どうやら、昨夜はあのまま二人して壁にもたれたまま寝込んでしまったらしい。変に痛む首とぞくぞくする背筋にそう推測していると、ナルトは眼前で膝まづく真剣な表情の管理人に、あらためてその両肩を掴まれた。食い込む指に遠慮がない。
「お前、もしかして昨日の晩、粗大ゴミ出してたのか?」
詰問してくる管理人におずおずと頷くと、盛大な舌打ちが聴こえた。窓から差す光が眩しい。外には既に、本格的な朝がやってきているようだ。
え?何?なんで??と思ったところで、やっと思考が動き出した。昨日が月曜日。てことは、今日は火曜日。火曜日といえば。

……あ。今日、回収日だ。

「馬鹿!収集車きちまってんぞ!」
叱咤するような声に折り重なるくぐもったエンジン音に、急に焦りが噴きあがった。そうだった、結局昨日、ダンボール箱は集積場に置いてきたままなんだった。
がしゃん、という何かを荷台に積んでいく音が外でこだまする。あの音。オレのかもしれない。
「どどどどどうしよう……!」
「どうしようって、どうすんだ!?」
「いや、でも、今日からもう会社行くの決まってるし。店長さんも、いい人っぽくて」
「捨てんだな?」
「や!…でもさァ…!」
「どうしたいんだお前は」
「どうしたらいいんだろ、オレってば……ど、どうすればいい?」

「 ナ ル ト ! 」

張られた声に、目が覚めた。
視界に迫る、彼の顔。「自分で決めろ!」という声が凛と響く。
挑むようなまなざし、引き結ばれた唇。そこから混じりけのない真摯さで呼ばれた名前に、全身があわだつ。
体の芯が、火を点けられたみたいに熱い。

「俺は、捨てたぜ。――お前はどうする?」

……ガチガチにガムテープで固めたダンボール箱が頭に浮かんだ。先で待つ面倒とその厄介さに冗談じゃないと思った。もし決めたらあの人の良さそうな店長に後足で砂を引っ掛けるような真似をする事になる。キバには散々嫌味を言われるだろうし、ヒナタは大喜びするだろう。下げなければならない頭はいくらあっても足りない位で、耐えなければならない箴言はうんざりするほど続くに違いない。去来する思いが思考が焼き切れる寸前までめぐるましく脳内を駆け巡った。「何を今更」という言葉が何度も浮かんでは消える。
なのに出された答えはやたら明確だった。捨てたい理由はいくらでも思いつくのに捨てられない理由はあまりにも簡潔で、思わず自分で自分の正気を疑いたくなる。
こんなの絶対馬鹿げてる。単純過ぎにも程がある。
それでもこの目に映っていたいなんて。彼に認めてもらえる自分でありたいなんて。
たったそれだけの理由で、一度閉じた箱を、またこじ開けようとしているなんて。

「……ぃ……ってば」

弱腰の声に、「聞こえない」と冷たく撥ね退ける言葉が返ってきた。ぐっと一度詰まる。こんな時まで厳しい彼の、その情け容赦のない瞳を見据える。
深呼吸して肺を満たす。腹の底に力を溜める。
震える手を握りこぶしに変え、声を振り絞った。


「捨て、ないってばよォ!!」


――よし!という声を聴いた。ぐしゃりとひとつ頭を撫でられた。
晴れやかな残像を残し、迷いなく立ち上がった彼がドアの向こうへと消える。
開け放たれたままのドアを風がくぐり抜けていった。大きく帆を張るカーテン。余韻と共に座り込んだままの頭を、表からのエンジン音が引っ掻きまわす。
はっとして勢いよく体を起すといきなり脇にあった文机に腰をぶつけた。したたかな痛みにくうっと一瞬呼吸が止まる。何やってンだオレは。あまりの無様さに泣けてきた。いやでも今は落ち込んでる場合じゃない。そんなの全部後回しだ!
裸足のまま廊下に飛び出した。勢い込んで柵にしがみつく。アパート前の路地に、走り去っていく水色のトラックを見つけた。ああやっぱり間に合わなかった。荷台で小さく跳ねるダンボール箱に、欄干を掴む手が見る間に滲んだ。鼻の奥がつんとする。遅すぎた決断に、悔やむ膝をつきそうになったその時――

「おぉー、相変わらず速いなァ」

顔をあげると、少し離れた同じ二階に寝ぼけたような横顔。「そういや足だけはあいつの方が速かったんだよねェ」というカカシの言葉に、慌てて柵から身を乗り出す。
眼下にのびる、見慣れたまっすぐの路地。遠ざかっていくトラックを追いかけて、疾走する彼を見る。
足が速い。すごく速い。
弾丸みたいにカッ飛んでく背中を、ドキドキしながら滲む視界でとらえる。


もうじきに初夏だねえ、というのんびりとした声が風にのった。かすみのような雲は空の端へと掃き寄せられて、澄みきった青空が一面に広がっている。
角を折れる手前で、とうとう彼がトラックに追いついたのが見えた。
振り仰いでくる得意げな顔。遠くから向けられてくる視線が、「どうだ」と勝ち誇ってきた。赤くなったオレに彼が笑う。引き止められた運転席の横で上下する肩が、どうしようもなく嬉しい。
呼びかけようとして不意に浮かんだ名前に、ナルトは開きかけた口を一旦閉じた。
それを音にするには、まだ少し勇気がいる。でも多分、もう、ゆるされているはずだ。
大きく息を吸った。深く、もっと深く。
少し先で待つ彼に、声を届けたくて。
奮い立つ体の全部で叫んだ名前は、光であふれかえる朝の街に響き渡った。


「――サスケェ!」





【END】

それは、名前で呼びあえるしあわせ。
読んでくださった方全てに、心からの感謝を。ありがとうございました!