第一話

10分の遅刻に小走りになっていた脚が止まったのは、金曜日の夕方の事だった。
アパートのゴミ集積所にぽつんと残されたままの、ダンボール箱ひとつ。
……明らかに見覚えのあるそれは、間違いなく今朝自分が出したゴミのはずで。
まっさらな白い張り紙がぺたりと貼られているのを見つける。
ゆっくりと二歩程後戻りすると、ナルトは急いた気分も一瞬忘れ、書かれた文字にしげしげと見入った。

    ☆

『燃えるゴミは月曜日です』

素っ気なく書かれた一言に微妙に苛々とさせられながら、ナルトは中身が放り込まれたままのダンボール箱を玄関先にどさりと落とした。ゴミといえども自らが出したものだと思えば、通りに面したゴミ集積所に放置しておくのも何だか気後れで、非常に不本意ながらも仕方なく持ち帰ってきたのだ。
乗る予定だった電車の時間にはとうに間に合わない。想定外の大遅刻に、悪友に誘われていたコンパへ行く気は早々と萎えてしまった。宙ぶらりんになった気分で、溜息をつく。
「燃えるゴミ……ってコレ、燃えんのかよ!?」
驚きを隠せずに箱の中を改めて覗き込む。大きなバッグに仰々しい防具一式、極めつけが箱から思い切り突き出した長いスティック。よくよく確認してみれば、その中からひとつだけ、スケート靴だけが抜き取られているのに気がついた。解りやすく金属が取り付けられていたためだろうか、それだけは不燃物として回収されたらしい。
不燃物の回収日は第一・第三金曜日。この街に越してきたばかりのナルトは、わざわざそれを区役所から配られたゴミの回収マニュアルで確認した上で、今朝ダンボール箱を出したのだ。
大仰な道具一式はみるからにしぶとそうで、到底灰にできるとは思えなかった。だからこそ、不燃物として出したのだというのに。

――戦力外通告を受けてから、早1ヶ月。
父親に勧められて小学生の頃から始めたアイスホッケーは、勉強の苦手だったナルトを特待生として大学にまで連れていってくれた。
そこそこの有名私学、有能な監督、心から笑い合えるチームメイト。
順風満帆に思えた自分の人生が旧転換したのは、シーズン真っ只中の冬のある日だった。
幼い頃から酷使してきた足の微かな痺れに、深く疑問を抱く事なく受診した総合病院。
暢気に検査結果を待つナルトに渡されたのは、完全な回復は見込めないという添え書き付きの、腱の異常を訴える診断書だった。

「…っあー…、キバ?ゴメン、今日やっぱ行けねェや」
尻ポケットに突っ込んでいた携帯電話を取り出して、約束をしていた悪友に電話をした。背後が騒々しいところをみると、既に彼は会場に入っているらしい。
「いや、うん、ゴメンって。は?違うってば、彼女なんかそんなすぐできるわけねーだろ。……アハハ、うん、ごめんな、まあオレの分まで楽しんできてくれってば」
通話を終了した携帯を、玄関に設置された靴箱の上に適当に放る。
スニーカーを脱ぎ捨てて部屋に上がり、六畳間の片隅に寄せられたテーブルに出しっぱなしになったままの、少し厚手のリーフレットを手に取った。『**市ゴミ収集マニュアル』と書かれたそれを眺め、確かに次の燃えるゴミの提出日が月曜日なのを確認する。
選手としてプレーできない以上、特待生として在学し続けるわけにもいかず自主退学をしたのが二週間前。学生寮で暮らしていたナルトは必然的に住まいも変えなければならず、慌てて知人を頼って紹介したもらったのがこのアパートだった。
ボロアパート、と言い切って間違いないであろうこの住まいは、木造だったが一応申し訳程度の風呂は付いていたし、何よりとんでもなく賃料が安かった。当分はアルバイトで食いつないでいくつもりだったナルトにとっては、この上なく有り難い物件だったのだ。地図で場所を確認しただけで即決してしまった住まいだったが、越してきた日に燦々と日差しの差し込む大きな南向きの窓を見て、畳だけのワンルームという不満点が一気に薄れたのを覚えている。
「……月曜日。月曜日ね……」
忘れないように、とマニュアルを小さな冷蔵庫にマグネットで留めた。なんだか所帯染みているようだが、確かにこれが忘れ物を防ぐには一番だろう。
ダンボールに貼られた紙を雑に剥がし、ぐしゃりと丸める。クズ籠に捨てながらもう一度箱の中を覗くと、何故か今度はスケート靴が無くなったスペースがやけに目に付いた。急ぐような動きで箱の蓋を閉じると、先程携帯を置いた靴箱の上に放置したままだったガムテープで、ぞんざいに封をする。そのままそれを玄関に残して、コンロに置きっぱなしのまま仕舞われた事のない薬缶に火をかけた。
今夜は久しぶりに外食の予定だったが、仕方がない。
「……まあいっか」
慣れた仕草でカップ麺の蓋を捲り上げながら、ナルトは独り呟いた。



「――やべぇ!!!今何時だ?!」
月曜の朝。大分高くなった日に慌てて時計を見ると、既に針は11時を回っていたところだった。
突然のシフト変更で朝から深夜までぶっ通しで働いて、帰ってきたのが午前2時。急な欠員を埋めるためとはいえ、流石にクタクタとなって万年床に倒れ込んだ時に目の端で捕らえた時計の針は、確か午前3時前あたりを指していたように思う。
「……あーあーあー……やっぱもう行っちゃったかあ……」
身を乗り出した柵から見下ろした収集所はすでにアパートの管理人の手によって綺麗に掃き清められていて、一片の紙クズさえ残っていなかった。マニュアルに書かれた、『朝8時までに必ず収集場所に出してください』の文字を恨めしく眺める。
ええと、次の回収日はと早見表を目で追う。次回の回収日は木曜日。三日後だ。
「くっそ……まだこれ置いとかなきゃなんねえのかよ」
忌々しい思いで、玄関に置いたままのダンボール箱を眺める。結構な大きさのあるそれは、狭い独り住まいの玄関でかなりの幅を利かせていた。特に出入りするたびに引っかかる長く突き出したスティックは、毎日ひたすらバイトと家とを往復するだけのナルトの気分を一々苛立たせ、うっとおしい事この上なかった。
――あ、そうだ。
唐突に思いついて、ナルトはポストに投函されていたチラシ達の中から手頃な紙を見つけ出すと、ぺらりと裏返してマジックペンでサラサラと書き付けた。

『木曜に出します。それまでここに置かせてください。 102号室うずまき』

「これでよし!」
気分よく言うと、ナルトは小さく千切ったガムテープでその紙をダンボール箱に貼り付けた。両手で箱を抱えたまま足で手応えの軽い玄関を蹴り開けると、そのまま廊下に出る。ドアの脇にどすんと箱を落としてやると、清々した気分で腰に手をあてた。
隣の部屋の前には、三段重ねのプランター台が置いてある。申し訳程度の手入れがされている植木鉢がいくつか並べられたそれを確認してから部屋に戻ると、ナルトは出しっぱなしだったガムテープを押入れのガラクタ入れに放り込んだ。たった三日だ。プランターが置かれてもいいのなら、ダンボール箱だって少しの間なら置いてもいいだろう。
箱のなくなった玄関は、記憶よりも随分と広く見えた。一瞬気持ちが真っ白になったが、バイトの出勤時間に合わせてセットしてあった携帯のアラーム音に意識が戻る。いけねぇいけねぇと独り言を繰り返しながら、急いで洗面台へ向かった。鏡の中の顔色が、いまいち冴えない。
生活が不規則だとやっぱいかんねェとまた独り言を呟くと、ナルトは大量の歯磨き粉を乗せた歯ブラシを口に突っ込んだ。



「………なんだとぅ?」
深夜にバイトから帰ってきたナルトを出迎えたのは、玄関前で再び真新しい張り紙を付けられたダンボール箱だった。

『廊下は共有区域です。ゴミを置かないでください。邪魔です。   管理人』

ナルトの張ったチラシ裏の紙の上から新たに貼り付けられた用紙には、几帳面そうな文字でそう書かれてあった。しかも今回は『邪魔です』ときた。妙に字が上手いのが余計に勘に触る。
「……ンでプランターは良くてダンボールはダメなんだよ!?」
三日間くらい融通利かせろよな。胸の内で吐き捨てて、また箱を抱える。こんなに重かったっけ?ふとそんな風に思いながら、ナルトは再度玄関先に箱を放った。
再来した大きな客に、狭い玄関がまた占領される。昨日脱ぎ捨てたままだった靴が、ダンボールに押しつぶされたのを見つけると、俄かに我慢がならないような気分になった。
三日……たった三日だ。
今度こそは絶対に8時までに出してやる!
決意も新たに、どすどすと狭い室内を歩き回る。着ていた薄手のジャケットを乱暴に脱いでベッドに放り投げ、唾棄するような気分で再び箱の前に戻り張り紙を剥がして『邪魔です』の文字を眺めた。
(……なんだこの管理人。なんかムカつくってば!)
イラつく頭でナルトはひとりごちる。確か借りる時に間に間に入ってくれた人物が、ここの管理人は大家でもあるとか言っていたのを思い出す。書類から何からはその人が全て仲介して手配してくれたので、直接管理人兼大家には会う機会がなかった。更に自分が入居した日には偶々町内会の集まりがあったとかで、挨拶に尋ねた管理人は不在だったため、未だにまともに顔を合わせたことがないのだ。
二階の一番端にある、管理人の住まいをおぼろ気に思い出した。一度行ったきりだが、殺風景な程何も置かれていなかった廊下部分の記憶が蘇える。表札は剥がした跡が残るばかりで何も出ておらず、鈍く光るドアノブだけが異様に目に付いた。廊下に面したキッチンの小窓にも映る影が全くなく、そこに住む人間の嗜好や思念が全く伺えなかったのが、あらためて思い返してみればやけに不自然だった。
(なるほど、相当偏屈で面白味のないジジイらしいな)
勝手に結論付けると、忌々しい思いで『邪魔です』と書かれた紙を丸めた。
次の木曜には、確実に携帯のアラームをセットしておかなくては。
頭の片隅にあるリストにメモを残し、ナルトは丸めた張り紙を数歩の距離にあるクズ籠を狙って勢いよく放った。



「…おお、ナルト?早いなあ」
「オハヨーゴザイマスだってばよ、カカシセンセ!」
木曜日の早朝。
白々と明けていく朝の空気を吸いながら、ナルトは手にゴミ袋をさげて現れた恩師に軽く手を挙げた。グレーのスーツに身を包み飄々として歩いてくる男性こそ、ナルトにここの住まいを紹介した張本人である。ナルトが高2の時の担任だったはたけカカシは、当時からアイスホッケー一色だったナルトの事をあれこれ気にかけて、担任を外れた後も大学への進学のことやその先のことなども含め、親身になって話を聴いてくれた大人のひとりだった。
「珍しいじゃない、こんなに早くから。今日はバイトないの?」
「いや、今朝はこれを出すために早起きしたんだって!!」
意気揚々と抱えてきたダンボール箱を掲げ、カカシに見せる。箱から突き出したウッドスティックにちらりと視線を向けた恩師は、苦味の混じる笑いを浮かべた。
「…ほんとに捨てるの?それ」
「もちろんだってば。こんなの、中途半端に置いておいても仕方ないし」
どさりと集積所の端にダンボールを置く。スッキリサッパリこれで心機一転だってばよ!と言い切ってナルトは胸を張った。
「あ、そういえばさ」
思い出したかのように顔を向ける元教え子に、ゴミ袋を置いたカカシが振り返った。
「ここの管理人って、先生の知り合いなんだろ?どんな人?」
「ん?なんで?」
「いや……なんか、やけにゴミの分別にウルサイっていうか」
融通が利かないっていうか、とボソボソと言うと、カカシは「あー…、」と何かを思い浮かべるような顔をした。やるときは徹底的にやるタイプだからなあという言葉がボヤくような口調なのを聞き取り、ナルトは自分の予測が大方外れていない事を察する。
「やっぱなー、すげえガンコジジイなんだろ?」
「……確かにガンコではあるけどね」
少しだけ考えるような仕草をしながらも「…ま、いっか」と呟いて、カカシは古びたブリーフケースを持ち直した。一度位は挨拶に行きなさいよと言う声に、ナルトはあからさまに顔を顰める。
「えーなんかヤダってばよ。絶対感じ悪そう」
うえー、と舌を出す元教え子を苦笑しながら眺めると、「じゃあね」と言ってカカシは踵を返した。朝の街に溶け込んでいくスーツの背中を見送る。
懸念事項がなくなった開放感を味わいながら、ナルトは「さーてと、もう一眠りでもすっかァ!」と集積場を振り返った。つい先程、自分が置いたダンボールが視界の端に飛び込む。
積み上げられたゴミ袋の隣で、うずくまるダンボール箱。
それはなんだか肩身が狭そうにしているようにも見えて、ナルトは慌てて目を逸らすと早足で立ち去った。



「………なんで!!?」
なんでまだあんの!?と叫んだ声は、馬鹿みたいに通りに響いた。
カカシと挨拶しあったのは今朝の事。その日の夕方、いつものようにバイトへ向かおうとしたナルトは、集積所で置き去りにされたままのダンボール箱に釘付けになった。
夕焼けに晒された紙切れがひらひらと風になぶられている。
びっとひったくるように貼られた紙を取り上げて、書かれた文字を読みあげた。

『普通ゴミは透明または半透明のゴミ袋に入れてください。   管理人』

「……こんなでかいモンが入るかァ!!」
突き出したスティックを見下ろして、ナルトは唸った。1m以上ある木製の棒が普通のゴミ袋に入るわけない事は、幼稚園児でも判断つくだろう。大体普通ゴミってなんだ、普通ゴミって。どう見たってコレは普通じゃないゴミだろうが。
……なんだこの管理人。
度重なる張り紙から透けて見える悪意のようなものを感じ取り、ナルトはぎりぎりと歯噛みした。もう何度もこのダンボール箱を目にしているはずのくせに。捨てるためのルールがあるなら、先に教えておいてくれてもよかったんじゃないか?嫌味ったらしい張り紙ばっかりしやがって、こっちは毎月の管理費だって払ってんだぞ。

――これはもう、ひとこと物申してやらねば気が済まないってばよ!!

ふつふつと湧き上がる怒りのままにそう決断すると、ナルトはダンボール箱を抱えて出てきたばかりのアパートに大股で引き返した。いからせた肩で風をきる。
アパートの共同玄関脇にある管理人室の前まで着くと、誂えられた小窓の前にある呼び鈴を思うざまに連打した。室内に確かな気配は感じられるのに、応答がない。我慢が効かなくなった頭で小窓の隣にある管理人室のドアの前に仁王立ちになると、力任せにつま先でドドドドドンと蹴りで突くように思い切りノックした。
……しばしの沈黙。
(チックショ、居留守かよ!)とぶつける場のない怒りを持て余したナルトが内心で苛々と呟いたその時、一瞬の間をおいて小窓の鍵がガチャリと開けられる音がした。

「うるっせェ!!!この非常識野郎が!!」

スターン!と勢いよく開けられた磨硝子の小窓から、容赦のない怒声が飛び出した。
次いで見える、剣呑な黒い瞳。
想定していたよりも遥かに若い管理人が、怒りも顕にしてその顔を覗かせた。
薄暗い管理人室には到底似つかわしくない程の整った容姿。勝気そうに跳ねた黒髪。
――しかしつい今しがた自分の耳が拾った恐ろしく険悪な咆哮は、間違いなくその端麗な唇から出たもので。
荒立った威圧感に完全にやり込められたナルトは、間抜けなほどの直立不動で、呼吸も忘れそこに立ち尽くした。