【2-2】Roast

ふうぅ、とナルトが溜息をついた。
既に本日五回目だ。いつものテーブル席で、食べ終えられた皿とコーヒーカップを前に、金髪頭が悩ましげに抱えられている。
「なんなのあれ、どうしたの」
店にやってきてすぐ、ブレンドをひとつオーダーしたアンコが(彼女だって毎回ハイカロリーを摂取しにきている訳ではないのだ)、こそりとイタチに訊いてきた。
さあ……今日は来られた時から、ずっとあんな感じで。
新しいコーヒーを淹れるためランプに火を灯しながら、首を傾げイタチが答える。
「えっ、ずっとああやってるの?」
「ええ」
「サスケと遊んでる時も?」
「ふざけんな、遊んでるとかいうな」
しれっと言われた失敬に、すかさずオレは訂正を入れた。しかし確かに兄のいうように、ナルトは今朝はずっとあんな調子だ。
オレがコーヒーを出した時こそふにゃっと気の抜けた笑顔を見せたけれど、再びああして項垂れている。
「なになに、元妻関係?それとも新たな恋の到来かな!」
悩める男の姿に、俄かに気色立ったアンコが身を乗り出した。しらけた目でそれを見たカカシは、よしなさいってそういうの、と呆れ声だ。
「まーたネタに詰まってるからって」
「別にそういう訳じゃないわよ」
「そういうところからオバサンになってくんじゃないの」
「言われなくても年齢的にはもう立派なオバサンだし気にしないもんね――っていうか、わかんないなら見てないで訊いてみればいいでしょ、なんで誰も訊かないの」
おーい、と頓着なく掛けられた声に、ゆらりと伏せられていた顔が上がった。なんだか顔色が悪い。余程なにか思い詰めているのか、目元には深いくまが浮いている。
「な、なに?どうしたの」
「……アンコさんさ、思春期の子を題材にした漫画って描いた事ある?」
「は?」
「そういう子と付き合うための育児漫画というか。親として、どう対峙すべきかみたいなやつ」
「……あるわけないでしょそんなの」
ああでも、ヤンキー漫画だったら読み切りで描いた事あるけど。微妙な回答に、訊いたナルトは再び(ハア)と頭を抱えた。なんなのだこいつは、話の脈絡がさっぱりわからない。
訝しむ一同の中から「なーに、どうしたの?」とカカシが代表して尋ねると、時を同じくしてカランと店のドアベルが鳴った。
いつものライダースジャケットを目にした途端、がたりとナルトが立ち上がる。
「キバ!」
「よー、おはよ」
「キバ、あのさ、メッセでも送ったけどさ……!」
「ああ読んだ読んだ」
まあ待てって、まずはコーヒー飲ませろよ。
そう言って息急き込むナルトをいなしつつがたがたと椅子を引くと、ホールに出ようとするオレに向けキバは「いつものな」と短く言った。もしかしたら元々は、今日は来る予定ではなかったのかもしれない。いつもだったらセットでいるモスグリーンのミリタリーコートは、少し待ってみても店に入ってくる気配がない。
ナルトもそれに気が付いたのか最初から知っていたのか、キバが席に収まったのを見計らうといそいそと自分のカップとソーサーを持った。
普段はお互い椅子の背凭れに肘を掛けつつ背中越しに話すだけのところだけれど、今日はそれだけじゃ済まないらしい。
あまりの毛玉に買い替えたのか、気が付けばチャコールグレーから深いモスグリーンに変わっていたカーディガンが急ぎ足でテーブルを回り、いつもはシノが座る正面の席にすとんと腰を下ろしたのを見ると、肩肘をついてそれを眺めていたキバがおもむろに質ねた。
「――で、なんだって?お手上げだって?」
 

始まりはハンストからだったらしい。
来た時から頭を抱えていたナルトがやって来たキバを捕まえた途端、切々と訴えだしたのはそんな話だった。
「これまで好きだったドライのキャットフードや猫缶にも見向きもしなくなって」
「ふーん」
「確かにここのところ、あんまがっつかねえなとは思ってたんだけど。前はもう缶の絵を見ただけでにゃあにゃあ騒いだりしてたのに」
「それっていつぐらいからだ?」
「……ここ一週間位。ちょうどオレの帰りが遅くなってきた頃から」
じゃあもう原因はわかってるじゃねえか。後ろめたそうな答えに、キバはざくりと診断をくだした。年末も近くなった十二月半ば過ぎ、ナルトの勤める郵便局は一年で一番忙しい時期を迎えつつあるらしい。普段は定時とはいかなくてもそれなりの時間には退社出来ているらしいが、流石にこの時期はそうもいかないらしい。
「ストレスだろ、どう考えても。お前その忙しくなって帰りが遅くなってきてから、なんかケアしてやってたか?」
眇めるような目付きで質問してきたキバに、ナルトはウッと口を結んだ。厚みのある唇がむずりと所在無げに動き、「……ちょっと、いつもより豪華な晩飯あげてた」とぼそぼそ答える。
「いつもより豪華?」
「ちょっといい猫缶にしてみたり、トッピング乗せてみたりとか」
「トッピング?なんだよそれ」
「……かつぶしとか、じゃことか」
でもそれも一回やった次はもう食べてくんなくて、という言葉に、ハァァと獣医は深い溜息をついた。
お前な、そういうのは塩分強いから、好きでもあんまやり過ぎるなって言っただろ。
ライダースジャケットの獣医から言われたそんな苦言に、一度はしおれていた金髪頭だったけれど、がばりと顔を上げ「だって、」と言う。
「しょーがないじゃんか、じゃなきゃ何も食べねえままになっちまうだろ!」
「そんで病気招いたら意味ねえだろが」
「ちゃ…ちゃんと塩分とかも気にして、途中からは成分無添加のマグロとかにしたもん!」
「マグロっておま……まさか刺身のか!?てめえオレよりいいもん猫に食わせてんじゃねえよ!」
そりゃ一番やっちゃいけないやつだろ!と容赦なくなじる獣医に、(うっ)と呻いたナルトは再びしおしおと悄気た。
新調されたものの早くも着々と毛玉を蓄えつつあるカーディガンの肩が、情けない程に小さく竦められている。
「――ふぅん、うずまきクン猫飼ってたんだ?」
タイミングを見計らっていたのだろうか。ようやく静かになったテーブルに、カウンター席から眺めていたアンコが、おもむろに言った。いつから、前から?という質問に、まだ暗い表情のままのナルトがゆらりと顔を向ける。
「ええと…まだ二ヶ月くらい、かな?」
「えっ、なにじゃあまだ子猫って事!?」
「いや、そうじゃないんスけど――たまたまここの近くで、オレに寄ってきた野良猫がいて」
つい拾っちまったんだってば、とてれてれと顔をにやけさせるナルトに、気がつけば同じくカウンター席からゆったりと足を組み振り返っていたカカシが、へえ、そうなのと目を細めた。そこに「ねえ、それ本当に野良?どっかの飼い猫じゃないの?」と横槍を入れたのはアンコだ。粗雑に見えてもずっと独立した仕事をしているだけあって、彼女の言うことは案外シビアだ。
「えっ――いや、首輪も付いてなかったから多分野良だと思うけど」
「猫には首輪させない飼い主も結構いるわよ?」
「そうなんスか?……でもなぁ人には馴れてたけど、あんま風呂入ってるとか、手入れされてるって感じでもなかったんだよなあ」
指摘された途端、自信がなくなったらしいナルトが(うーん)と腕組みするのを尻目に、オレは内心、口を挟みたくなるのを抑えるのに必死だった。
人馴れしているのは当然だ。最初つんつんしていたそいつをそこまで手懐けたのは、誰であろうこのオレだ。頭撫でるだけで一週間も掛かったんだぞ、それを苦労もせずオイシイとこだけ取りやがって。
「ねえねえ、写真とかないの?」
乗り出したアンコの言葉に、一瞬だけナルトはきょとんとしたようだった。しかし「あるんでしょ、見せて見せて!」という急き立てられると、「え~?見たいんスか?」などと言いつつでれでれと口元をにやけさせ立ち上がる。勿体ぶって頭なんか掻いてるけど、本当は見せびらかしたくてしょうがないのが丸分かりだ。スマホを取り出す所までは妙にのろのろしていた癖に、一旦触りだしたら画像を出す手付きはやたらと早い。
「ほら、こいつ」
差し出された画面の中では、いかにもふかふかしてそうなクッションの上で気持ちよさげに丸くなる、黒猫の姿が映し出されていた。相変わらず天鵞絨みたいな黒い毛は更に艶を増し、小さな手先に預けられた顎はうっとりと微笑んでいるようにさえ見える。ウッ……くそう、幸せそうだなクロ。画像はハンスト前に撮られた物なのか、何も食べないという割には体つきは以前よりもふっくらしている気がする。
「うわ、かわいい!」
珍しく黄色い声を上げたアンコに、ナルトは気を良くしたようだった。続けざまにこれとか、これもと次々画像がスクロールされていくと、やがて一枚の黒猫の顔のアップが映しだされる。
何をした所を撮ったものか、きょとんと首を傾げる色違いの両目が、不思議そうに大きくなっていた。わけもなく無性に愛らしいその姿に、カウンターの一同がわあっとまた色めき立つ。
「かわいい!これは確かにかわいい!」
「だろ?ほんっとこいつ甘え上手で」
「あれ?もしかしてこの子、両目の色が違う?」
「ほんとだ、片方がブルーでもう片方ブラウンだ」
「へへ、そーなんだってば、カッコイイだろ?」
「確かオッドアイとか言うんでしたっけ、こういうの。人でも希にですがいらっしゃいますよね」
「――ブルーと、ブラウン?」
まっくろな小さな顔の中で一際目立つ色違いの瞳に、再び場が盛り上がりかけた時、ふとカウンターの中にいたイタチがポツリと零した。普段は徹底してにこにこと聞き手に回るイタチのその呟きは、周りからも珍しかったらしい。小さなディスプレイを覗いていた面々が、「うん?」と一斉に顔を上げる。
「なに、どうしたの」
「オッドアイの黒猫ですか?」
「そう。お前も見る?」
ほら、とカカシから回されてきたスマートフォンに「お借りします」と断りをいれると、慎重な手付きでそれを受け取った。
「ああ、この子――」
サスケの、と兄の口が漏らしそうになるのを機敏に察し、横で立っていたオレは咄嗟に「兄さん!」と止めに入った。かちりと目線が合った瞬間、声には出さず睨みだけで(言うな)と伝える。
しかしどう通じたのか、兄は(わかってる)と言わんばかりににっこりと世にも甘い笑顔を返すばかりだった。直感的に、兄が何か事を起こそうと決めたのを感じ取った。オレのこの勘はだいたい外れた事がない。
「ん?知ってる猫だった?」
しかしそんなオレ達を見守っていた常連達の勘の良さも、中々に侮れないものだった。すかさず「なに、どうしたの?」と食いついてくるその野次馬根性に、知らず舌打ちが出る。
「やっぱこの近所の飼い猫?見覚えでもあった?」
「いえ、知っている猫に似ているかと思ったのですがやっぱり違いました、知らないですね」
小さな引っ掛かりにも「ええ、本当?」と興味本位な怪しみを見せるカウンター勢ではあったが、そんな彼等を兄はここぞとばかりに仕上げたにこやかな笑顔でけむに巻いた。こういう所、兄は本当にうまい。客あしらいの上手は、朴念仁を絵に描いたようだった父ではなく、間違いなく母からの遺伝だ。
「まあそれにしても、だ」
話の継ぎ目だと判断したのだろうか。するりと入り込んできたキバの声に、カウンターに集まっていた一同がさあっと顔を向けた。見ればいつの間にか皿の上のサンドイッチは綺麗に消えて、今は色鮮やかなパセリが残るばかりだ。
「食わねえからってそうやってどんどん餌をグレードアップさせてくのは、はっきり言って無駄だから即止めろ。問題はそこじゃねえだろ、ストレスが原因てわかってんならそれを取り除かない限り意味ねえよ」
専門家からのびしびしと容赦のない指摘を受けると、すっかりやられた様子のナルトは再び「…ハイ、わかってます」と立ったまま小さくなった。
けど今の時期、これ以上早くは帰ってこれねえし……これから年末年始にかけて、もっと忙しくなるってば。
そんな頼りなく言い返された小声に、「お前なァ…!」と腕組みした獣医の苛々とした溜息が、更に落とされる。

「――あの、すみません」
 
一気に立ち篭めた塞がったような空気に、するりと切れ込みを入れたのは兄の声だった。
差し出がましい事を言うようですが、うちでよければお手伝いいたしましょうか?
突然そんな事を言い出した兄に、ぎょっとして思わず顔が上がる。
「へ?お手伝い?」
「うずまきさん、お忙しいのはこの年末年始の時期だけなんですよね?」
「ああ……まあ、だいたいは」
「でしたらその間だけ、よろしければその子、うちでお預かりします。日中はつきっきりという訳にはいかないですが、それでも夜になれば遊び相手にはきっと事欠かないかと思いますので」
――な、サスケ?と突然話を振られ、ぽかんとしていたオレは思わず「は?」とひっくり返った声が出た。そこにきてようやく兄の意図を理解する。……なんというか、さすが兄さんだ。子供の頃から何をやらせても出来のいい兄はぜんたいオレに甘く、ひとたびオレの為を思ってなにか事を始めると、出される結果はオレの望みの斜め上どころか、遥か高みをゆく。
「え……けどお前らだって、毎日仕事あるだろ。悪ィってば、やっぱ。ここってば食いもん屋だしさ」
普段デリカシー皆無の癖にこういう時だけ妙に遠慮をみせるナルトに、思わず舌打ちが出そうになった。
そんなオレを諌めるかのように、「大丈夫ですよ、お預かりは自宅の方でしますから」と言うイタチは、ことさらに穏やかな声音だ。
「あ、なんだ。ここに住んでる訳じゃないんだ?」
「ええ、住まいの方は駅向こうにあるんです」
「……ほんとに、いいのかってば?」
「もちろん。逆にお正月、うちは休みになりますし――きちんとお世話させていただきますから」
元々動物は好きなんですが、うちでは父から動物を飼うのが禁止されていたものですから。
突然気を引くような静かさでもって、兄は言った。だから動物がいる生活というのに、昔から憧れてて。素直な響きで言うと、寂しげな風情さえ漂わせほんのり微笑んでみせる。……いや、確かにペット禁止は父さんからずっと言われてきた事だけれど。でも小さい頃から事あるごとに動物を飼いたいと言っては両親を困らせていたのは兄ではない、オレの方だ。
弱り果てていた割にはいつまでも迷っていたナルトではあったが、やがてふと顔を上げると今度はオレの方を見た。
「サスケは?猫、大丈夫かってば?」
じっと見詰めてくる澄んだ青に、わずかにどきりとさせられながらも、努めて素っ気ない顔を作り上げる。
「ああ、まあ――嫌いじゃねェよ」
それを聞くとようやく、ナルトは安心したかのようにひとつ息をついた。
じゃあ、申し訳ないけど、お言葉に甘えて。
おずおずと見せられた気弱な笑顔に、心密かに(…よし!)とガッツポーズを作る。
「あー、いいなァ」
あれよと言う間に決まってしまった成り行きに、カウンターで姿勢を崩し見守っていたアンコが羨ましげな声をあげた。イタチんとこにその子きたら、ちょっと触りに行ってもいい?近所の気安さでそんな事をいう常連に、イタチがにこにこと頷いている。祖父母の代から住むオレ達の家は、彼女の幼馴染である叔父にとっても生まれ育った家だ。
「ね、そういえばさ。その猫、名前なんていうの?」
会えるとなったらまた興味が増えてきたのだろう。身を乗り出しながら、アンコがまた訊いた。その横では朝食を終えたカカシ達が「あ、いけない遅刻遅刻」と各々立ち上がっている。思いがけない一幕があったせいで気が付かなかったが、壁の時計は既に普段彼等が店を後にする時間を、十分も過ぎている。
ごめん、会計は次でいい?と言い残してはバタバタと出て行くその後ろで、質問を受けたナルトが「え?」と小さく呟いた。
名前。拾った時、キミ付けたんでしょ?
ぽかんとした表情のナルトに、もう一度アンコが尋ねてくる。
「あ、ああそれは――…」
訊かれるがままニコリとして答えようとしたナルトだったがその名を口にしようとすると、どういう理由か突然栓を填められたかのように口篭った。(うん?)とじっと答えを待つ観衆からの視線に、「……ええと」青い瞳がゆらりと泳ぐ。
向かいに座るキバだけは、事情を知っているのかひとりニヤケ顔だ。何故か焦った様子のナルトを眺めつつ、余裕の態度でコーヒーを飲んでいる。
事の始まりは、思い返せばこの『お預かり』からだった。
やがて訝しむオレを振り返り、ナルトがおもむろに「怒らないで、欲しいってば」と先に言った。


――ピンポーン、と古びて掠れかけたチャイムが鳴ると、どきどきしていた体がひとつ飛び上がった気がした。
既にそわそわしていた足が落ち着かない。連絡は受けていても予定より三十分程遅れた訪いに、早くもオレは待ちくたびれる寸前だ。
それでも急ぎ立ち上がろうとするのが癪で無理に抑えつつじっとしていると、そんなオレを全部お見通しな兄が、笑いながらゆったりとダイニングの椅子を引いた。水曜の夜、午後六時半。今日はうちは珈琲店の定休日だ。

「ごめんな、遅くなって」

兄が玄関扉を開けた途端、向こう側から開口一番謝ったのは、大荷物の両手に分厚いカーキ色のダッフルコートを着込んだナルトだった。冬の闇に立つ、くっきりと背の高い大きな影。たまご色の玄関灯が照らし出す頬は、見事に真っ赤だ。急いでやって来たのがよくわかる、息せき切った赤ら顔。
「悪かったな、なかなか抜け出せなくてさ。待たせちまっただろ?」
まだ整わない息を白く煙らせ、すまなさそうにナルトが言った。ご自宅まで迎えに行きますよ、と申し出た兄に対し、いや、オレが連れて行くってばよと頑なに言い張ったのを、しつこく気にしているのだろう。それでも口頭ですらすらと教えられた所番地だけで、ヤツは迷う事なくオレ達の住まいがある位置までやってこれたらしい。そういうところは、さすが郵便屋といったところか。
「いいえ、まったく。待っていたといっても自宅ですし」
眉を下げるナルトにどうぞと上がるのを勧めながら、兄はにこやかに言った。確かに兄はまったく遅刻なんて気にしていない。まだかまだかと苛々していたのは、最初から最後までオレひとりだけだ。
待っていたとはいえ、慣れ親しんだ自分の家の中に金髪の大男が入ってきているのは、なんとも言えず変な感じだった。まあしかし、それもほんの束の間だけの話だ。リビングに通されたヤツが手で持ってきたペットゲージの扉を開けた途端、そんな違和感は綺麗さっぱり、どうでもいいものになる。

(クッ、クロ~~~~!!)

扉の中に見える色違いの大きな瞳は、紛うことなきあの裏路地にいた小さな仲間だった。急ぎ揺らされながら運ばれてきた上、突然に知らない場所に出された黒猫は最初、ただただ面食らっていたのだろう。警戒心剥き出しの足先は最初、ゲージから一向に出ようとしない。
しかしそれと同じくらい強い好奇心も持ち合わせているのか、やがて(ちょん、)と小さくフローリングの床を一度確かめると、黒猫はおそるおそる顔を上げ辺りを見渡す。
見慣れない壁紙に見慣れないカーテン、見慣れない部屋の空気の匂い。
ふたつの瞳と感覚全部でそれらを確かめているのをじっと待っていると、やがて薄桃色の鼻先がぴくりと動き、尖った耳がハッとした様子で、オレの方を向く。

――ナーォ。

懐かしい声で、黒猫が鳴いた。甘えるように擦り寄ってくる額、ぱたりとひとつ合図のように揺らされる長いしっぽ。否応なくじわりと、胸が熱くなる。
「お、すげえ。サスケってばいきなり気に入られた」
何も知らないナルトが、感心したように言った。当然だ。本来ならオレの方が、てめえなんかよりもこいつとの付き合い長いんだぞ。
よかった、仲良くなれそうだな。その光景に呟いたナルトに、兄は笑顔で「ええ、そうですね」などと答えているようだった。しかしそのうち「やっぱり、なにかシンパシーのような物を感じるんでしょうかね」などとしれっと言い出すから、思わず猫を撫でる手が止まる。
「そっか…そうかもな!」
ホッとしたようにそう言うナルトに、思わずムスリとひとつ睨みをつけた。なにが「そうかもな」だ。ナルトもナルトだが、裏事情まで丸ごと知っている癖に「やっぱり」なんてしれっと口にする、実の兄も大概だ。

「怒るな」と言った言葉の意味は、ナルトから猫の名前を打ち明けられればすぐにわかった。
なんとこの金髪の大男は、自分の飼い猫に他人の名前を勝手につけていたらしい。
しかも、本人の許可もなく。今更説明なんて必要ないかもしれないが、この「他人」というのは誰であろうオレの事である。

「信じられない!キモイ!!」
 
散々うらやましがるような事を言っていたくせに、聞いた途端アンコは一刀両断にそう言い捨てた。正直オレもかなり同意見だ。しかも黒猫を拾った当時、オレ達は思い切り敵対していたのに。
「え、怒ってたのはサスケの方だけだろ?オレってば別になんにも思ってなかったし、ましてや嫌いだなんて」
全然、考えた事もなかったってば。あっけらかんとそう言い切るナルトに、なんだかガクリと肩透かしを食らわされたような気分だった。しかしそれでも、普通わざわざ自分の猫に知り合いの名前を付けるだろうか。それも好きな女とかならまだしも(それはそれでキモイ、とアンコは言ったが)、男の、しかも毎朝店で会うだけのよく知りもしない給仕の、聞き齧っただけの名前を。
「いや、でも……ちょっと、似てるなと思って」
悪びれないにしても流石に多少はやっちまった感があるのか、責められるとナルトは、すごすごと小さくかしこまった。
似てるだァ?と眉を寄せるオレに、椅子に座ったままの青い瞳が(すんません)と見上げてくる。
「その、細っこいとことか、真っ黒な格好してるとことか」
「これは制服だ、エプロンだって必要装備なんだから仕方ないだろ」
「あと、その微妙に目付きの悪いとことかが、――か、わいいなあ、と、思いまし――た…ッ!」
こちらの顔色を窺いつつの言葉にも我慢できず衝動のまま脛を蹴飛ばすと、痛みに言葉を詰まらせたナルトが、「あだだ!」と体を折った。サスケ!とカウンターからまた兄に叱られたが、今回ばかりは謝らない。だいたいがこいつは、オレを褒めたいのか?貶したいのか?目付きが悪くて可愛いってなんだ、全く意味がわからない。
「え、なに?うずまきクンてもしかしてゲイ?」
ひとしきりやりあったところで、ぽつりとそんな事を質ねてきたのはアンコだった。「へ?」と思ってもみなかったらしい質問にナルトは唖然としたようだったが、そのままたっぷり五秒開きっぱなしになったまま出されない回答に、「もしかして、ビンゴ?」とアンコが定めるかのように目を眇める。
「――や、違う違う!全然そういうんじゃねえって!」
いったい何を考えていたのだろうか。ナルトが慌てて言った。
「えー、怪しいなあ」
「そんな、だって――オレ昔、一応奥さんいたし。一度はちゃんと、結婚した事だってあるってばよ?」
へどもどとそんな弁解をするナルトに、アンコは「あ、そっか。そういやそうだったわね」とあっさり納得したらしかった。
店の常連連中より一回り以上も年下だけれど、ナルトには正式な結婚歴と、ついでに立派な離婚歴がひとつずつある。それをきちんと正攻法にて、ナルト本人に直接確かめたのはイルカだ。篤厚そうに見えつつも、あれで案外あの人も知りたがりなのである。

「こっちがメシ用のカリカリでそっちがトイレとトイレ砂。おもちゃとかはこっちで、んでそのぷちぷちに包んであんのが水用の器、カリカリ入れる方の皿はこれで……」
黒猫がオレの元で落ち着くのを見ると、床に膝をついたままキャリーバッグと一緒に持ってきた大きな紙袋から次々猫用品を取り出し、ナルトは説明した。
がさがさという紙袋の音が耳障りなのか、黒猫は三角の耳を尖らせじっとその動きに注視している。しかしやがて一枚のぼろぼろのセーターが出てくると、黒猫はオレの膝下でにゃあと鳴いた。
「……で、これがこいつのベッド。だいたい日中はここで丸くなってると思うから」
それが最後のものだったのか、紙袋を畳みナルトが言った。その言葉通り、ナルトが言い終わる前に黒猫は尻尾をくねらせ前に進み出ると、床に置かれたそれに迷う事なく乗っかる。
そうしてから場所をならすかのようにぐるぐると回ると、ころりとそこで丸くなった。重ねられた小さな前足に、定位置のようにちょこんと顎が乗る。
「?――それもしかして、前にうずまきさんが着てらした物じゃないですか?」
どうも見覚えのあるその物体に、同じく兄も気が付いたらしい。チャコールグレーのケーブルニットのカーディガンは、秋頃ナルトが毎日着ていたものだった。そういえば途中で新しいものに替わったなと思いはしていたのだが、どうもこういう理由だったらしい。元々が毛玉だらけだったそれは、散々弄ばれた結果なのか更にあちこち毛糸が飛び出し見るも無残だ。
「そう、よくわかったな」
「いいんですか?これ、気に入っていたのでは」
「しょーがないってば、なんでか知らねェけどこいつ、どーしてもそこでばっか寝たがるんだもんよ」
ハハ、困ったなあという中にもどこか脂下がった感じのある笑いを浮かべ、ナルトが言った。匂いとかで安心するんですかね、などと兄も相槌をうっている。
「取り上げるとどうなるんですか?」
「怒る。もう、ムキになって怒る。あちこち引っ掻くし破るしひっくり返すしで、家ん中が酷ぇ事になるってばよ」

――だよな、『サスケ』?
 
動物的勘で、あまりいい事を言われていないのを察しているのだろうか。上からそう撫でてくる飼い主にも、黒猫はつんとして丸まったままだった。
なるほど、『サスケ』は癇癪持ちですか。
何食わぬ顔でそう返す兄に、小さくムッとする。……先に知らされていたとはいえ、やはりこうして耳にすると激しく複雑な気分だ。というか、ナルトの方の発言は何も考えてないにしても、兄の方は絶対違う。かといって表立って反論するのもまんま「ムキになって」をなぞるようで、面白くなさにオレはどかりとダイニングの椅子へ戻る。オレは絶対サスケなんて呼ばねえぞ。デレつく兄とナルトに、そんな決意を新たにする。
「ところでうずまきさん、晩御飯もう食べられました?」
よかったらと誘う兄に、ナルトは笑って首を振った。ごめん、できたらオレもそうしたいとこなんだけど。そう言うヤツをよく見れば、ダッフルコートの下には赤い紐のネームタグがぶら下がったままだ。
「まだ今日全然仕事終わってなくてさ。ちょっと抜けてきただけだから」
このまま戻るってば、と頭を掻いて、ナルトは言った。そうですかと答えた兄がそっとオレに目配せをしてくる。休日ということで髪をおろしたままのその顔はどこかしたり気味だ。
な、やっぱりそうだろう?
そう言わんばかりの僅かに上げられた口の端に、舌打ちをしつつ再びオレは立ち上がった。

「――ん、」

持っていけ、と奥のキッチンから戻ったオレが用意しておいた包みを見せると、ナルトは面食らったかのように目を瞬いた。
ダッフルコートの胸の辺りに、片手で突き刺すかのように差し出したのは先程作っておいた軽食だ。大判のランチクロスで包まれたその中には今夜この後うちの食卓に上がる予定の唐揚げとプチトマト、それから握り飯が二つ入っている。
「えっ……これ、オレに?」
見た目と触れた温かさだけですぐに食べ物である事は察しがついたのだろう。中身について確かめる事はなかったが、ナルトはただただその差し入れの思いがけなさに驚いているようだった。
見慣れた自宅の電灯の下、空色の瞳が丸くなったかと思うと、金の睫毛がぱちぱちと何度も瞬かれる。いいの?と確かめてくる声も、なんだかふわふわとしたものだ。
「いいもなにも、もう作っちまったし」
「作ったって――うそ、もしやこれサスケ作?」
驚き過ぎなナルトにむすりと無言の肯定を示すと、ナルトは更にぽかんと口を開いた。まあ、確かに弁当を作ったのはオレだが、発案者は兄だ。
オレはただ今夜やってくる黒猫の為に、大好物だった鰹節を削っていただけだった。削り終えたとき鰹節の量が多くなり過ぎたのは、単なるオレのミスだ。「きっとこの時期は忙しくて食事もままならないだろうから」という兄の勧めに不本意ながらも従ったのは、純粋に余った鰹節の利用法がすぐに思いつかなかったからだ。
「嫌なら置いていけ。誰も食って欲しいなんて頼んでねえから」
言い捨ててまた片手に持ったままの包みを取り返そうとすると、俄かに焦った様子のナルトは「ダッ…ダメダメ!絶対ダメ!」と大声を出した。急いでダッフルコートの内側にそれを隠し、更にオレの手を遠ざけるかのように体を捻る。
普段店では兄の作ったメニューしか出していないから、てっきり今回も同じだと思ったのだろう。
ひゃあマジか、凄えってば!という顔も、まだどこか半信半疑な様子だ。
「へへへ、嬉しいってば。ありがとな!」
赤くした頬をゆるゆると崩し、懐の包みをちらりと見せナルトは嬉しげに言った。きっちりと口を結ばれたランチクロスは、グローブみたいな大きな手の中にあるとなんだかままごと遊びの小道具のようだ。
「……別にお前の為だけに、作った訳じゃねえし」
伝わってくる喜びがあんまりにも素直で、僅かに後ろめたさを感じたオレはちょっと口篭った。本当に、こいつの為だけじゃないし。我が家ではいつも出汁用の鰹節はその日使う分だけを毎日削り出すのが決まりだったし(洋風の軽食しか提供していない店とはうって変わり、うちの食卓は何故か昔から純和風である)唐揚げとプチトマトだって、横から「折角なんだから肉も」とか「少しは野菜も」とか、兄さんが煩かったから突っ込んだだけだ。
ぶぅぅん、とダッフルコートの大きなポケットからくぐもった震えが聴こえた。職場からだったのだろう、ちらりと発信者を確認したナルトが「ごめん、じゃあオレはそろそろ」と言う。
いつも仕事前にはそうしているのだろうか、お気に入りのカーディガンの上で落ち着いている黒猫を最後にじっと眺めると、ナルトは「んじゃな、サスケ。悪さすんなよ?」と言い聞かせ玄関へと向かった。オレ達が動き出したナルトに付いてぞろぞろと玄関まで向かっても、猫はまだ片耳さえ動かさない。
しかし並べられた靴にナルトが足先を入れ、こつりと踵が鳴ると、それをいつもの合図としているのか尖った耳がぴくんと動いた。寝そべっていた顎がハッと持ち上がり、驚くべき俊敏さで黒猫が玄関に駆けてくる。

――…んナーォ。

オレを見ろ、とばかりに黒猫がひと声あげた。
置いていかれる事がわかったせいなのか、さっきまでうねうねと機嫌良さそうに揺れていた尻尾は、今は緊張にピンと立てられている。
「お、見送ってくれんの?」
どこか不安げに見上げてくる色違いの目に、相好を崩しナルトは言った。持っていた弁当包みを大切そうに小脇に抱え直すと、伸ばした手でひょいと黒猫を抱き上げる。
「いい子でな、サスケ。いってくるってばよ」
世にも愛おしげな声音でそう言うと、ナルトは迷う事なくその薄桃色の鼻先に、チュッと小さなキスを落とした。
見ていたオレは思わずギョッとしたが、このふたりにとっては普段からこれが日常らしい。黒猫の方は不貞てたような顔付きではあるが、暴れる様子も無く受け入れている。
「――あ、やっぱこういうのもダメ?」
絶句するオレに気が付いたのだろう、キスの後、更に名残惜しむようにすりすりと額を擦り合わせていたナルトが、ちらとこちらを振り返った。
ダメじゃないですけど、と苦笑した兄が言う。けどちょっとだけ、複雑ではありますね。
「そっか、複雑か」
「まあ……少しばかりは」
「けど、猫の方だから」
「そうですね、サスケはサスケでも猫の方ですからね」
ぐだぐだとそんな馬鹿げた遣り取りを繰り返しているふたりにイラッとした。ナルトは天然だが、兄の方は絶対に面白がっているだけだ。
「ごめん、それじゃ――手間掛けさせちまうけど、よろしく頼むな」
やがてようやく気持ちに区切りがついたのか、猫をオレに手渡すと、小さく微笑んでナルトは出て行った。
明るい色彩の長身が去ってしまうと、淡いグレーのタイルが敷き詰められた玄関先には(ばたん)という扉が閉まる音と、一瞬だけ流れ込んできた冷たい夜気だけが残る。
「……本当に、椅子に掛けていただく間さえなかったな」
慌ただしい来訪に、溜息混じりにイタチが言った。本当に、体を壊さないといいけれど。気遣わしげな声が静かになってしまった家にそっと響く。
こちらも気落ちしているのか、両手で抱え上げた猫からは、ぐんにゃりとしたやるせない柔らかさが伝わってきた。
そんな黒猫と共にぼんやりと立っているオレに気が付くと、苦笑しつつ兄が腕の中にいる猫を取り上げる。
「どうした、置いてかれてショックなのか?」
言いながらちょっと眉を下げた兄は軽く体を揺らすと、腕の中で大事に抱きかかえた黒猫を覗き込んだ。黒猫は余程しょげてしまったのだろう。ピンとしていた立派な耳も、今はすっかり寝てしまっている。
「よしよし、そうガッカリするな、サスケ。今夜は兄さんが一緒に寝てやるからな?」
歌うようなそんな慰めに「…は!?」と声がひっくり返ると、振り返った兄がニヤリと口の端を上げた。
なんだ、そっちのサスケも一緒に寝て欲しいのか?
愉快そうに細められた目に、途端にかあっと血が上る。
「誰が…!要るわけねえだろ、バカ兄貴!」
「そうか。それは残念」
他愛ない揶揄いに悪言で打ち返すも、まったく堪えていない様子で兄はくつくつと肩を揺らした。猫を抱いたままリビングへと戻る兄の足取りは軽い。結局のところ、この人も実は相当、この小さな客の滞在が楽しみだったのだ。
なんだかいつもよりも広々と感じられる玄関に、ふと出て行く間際、ナルトがダッフルコートの内側にそおっと渡した弁当包みをしまっていたのを思い出した。たぶんまだ温かかった包みが冷めないようにと思ったのだろう。職場に辿り着くまでに、生地の内側で潰されていないといいが。
サスケ、『サスケ』にゴハンをやってくれ。そのあとオレ達も夕食にしよう。
リビングから兄の声がする。やはりどこか浮き足立った感じのその響きに、くるりとオレは踵を返した。しんしんと冷えていく街の気配は、さっきよりも更に濃くなったようだ。これから仕事を片付けるとなると、いったい帰宅は何時になるのだろう。
閉じたドアの向こうで、息切れしたようなバイクの排気音がする。
唐揚げは本当は包んでしまうよりも、油の横で揚げたてに噛み付くのが一番うまいよな。そんな事をちらと考えつつ、オレはちょっとうなじを掻いた。