【3-1】Grind

猿飛酒店は木の葉商店街の中では特に古い店だ。
山中花材店・奈良薬事堂・食堂あきみちと三軒連なる古参の店達のまた向こうに建つそこは、戦前からこの地に店を構えていたらしい。
古い木彫り看板を掲げた店ではいまだに量り売りもやっていて、前を通ると近所の古老達が集まっては七輪を前に樽に座り込んで喋っているのを、時々見かける事がある。量販化が進む酒屋の中でも頑なに味や銘柄に拘った品揃えを徹底しているその店は、世の酒飲み達にはちょっと知られた所であるらしい。
毎朝うちに来る現在の店主は、そこでは四代目だ。
だから日中、今度は昼過ぎの時間にやってくるのは、既に息子にその跡目を継いで引退した先代の店主である。
「だから言ったんじゃわしは、新しい蔵元と付き合うならば、もっときちんと相手のことを見極めてからでなきゃならんと」
飴色の煙管をゆらゆらさせて続けられる文句は、毎回ほぼ同じ内容だった。去年正式に店主となった息子への、尽きない不満。ちんまりとした体付きは大柄で無頼な雰囲気のアスマとは到底親子とは思えない程だが、尻を乗せているカウンター席の椅子は、どういう訳かいつだって二人共同じ場所だ。
「なにがオレは舌には自信があるだ。まがい物掴まされおって」
「はァ、」
「若いヤツらのやる気を買うのは結構じゃがな、それと何もかもを丸ごと信じ込むのは全く別じゃ。本物だけを置いているのがうちの売りで、だからこそこの時代にもやっていけているというに」
「そうですよね」
延々と息巻く年寄の長話に、絶妙のタイミングで兄が合いの手を入れる。物憂げに顰めた眉は傍見には親身になって聞いているようだが、実際のところはかなり怪しいとオレは睨んでいた。だって兄は三代目の話を聞きつつも、毎朝アスマの愚痴も聞いている。そちらはそちらで先代への不満が内容の大部分であるし、兄はそこでも「そうですねえ」と返しているという具合だ。
「……兄さん」
話の切れ間というには半端ではあったけれど仕方がない。のんびりと打たれた相槌に続くように、着替えを済ませたオレは奥から顔を出した。グラスを拭きながら、兄が振り返る。「ああ、」と細められた眼差しは、久々のオレの格好に実に満足げだ。
「そろそろ時間か?」
確かめてくる声に「ん」と気が進まないながらも頷くと、打ち返すような気持ちよさで兄は「行ってこい、先生方によろしくな」と背中を押してきた。仕舞い込まれていた学ランの襟が首に冷たい。締め付けるという意味では店でのユニフォームの方がぴっしりしているのに、何故だかオレには高校の制服の方が、余程窮屈に思えて仕方がない。
「おお、久々の姿じゃな」
事故以来見せる事のなかった制服姿に、三代目はシワ顔に更に嬉しげなシワを刻んだ。が、すぐに違和感に気が付いたのか、つとその細い皺首を傾げる。
「しかし、これからか?」
「……」
「この時間に行っても、もう授業は終わりじゃろう。それに高校も明日あたりからもう冬休みに入るんじゃ」
「ああ、授業ではないんです。今日は復学の手続きの為に行くだけで」
な、と同意を促す兄に、オレは黙ったまま下を向いた。
深い艶の出たダークブラウンの床に、通学用のスニーカーの足先がいっそう白い。
「復学!そうか、いよいよか」
笑顔の兄からの報告に、猿飛翁は相好を崩した。
ふたりして散々言い合った結果、結局オレが渋々ながらも従うような形で(いつもの事だ)冬休み明けからの復学を決めたのは、一昨日の事だ。

「……回復してきている?」
案の定、その日二人して赴いた病院の診察室で、検査結果を聞かされた兄は最初意外そうな声を上げた。
そんな兄に、説明を終えた医師がにこりと頷く。事故以来、入院中からずっとオレの担当だった丸眼鏡の医師は年若くやや神経質なきらいはあったが、腕は確からしい。彼が担当する日の待合室はいつも人で一杯で、予約の時にはいつも指名を取るのに手間取った。
「それはつまり、視力が戻ってきているという?」
「まあ、元の状態と比べたらまだまだだけど」
「でも確実に、回復には向かっているといえるんですよね」
慎重に何度も確かめる兄に、医師は「そうだね」と曖昧な微笑みを浮かべ言った。目を悪くしている患者の為に敢えて光を落としているのだろう、広い大学病院の中でもここの照明は全体的にほの暗く、どこもかしこも真っ白に照らし出されている正面の入口とはまさしく対照的だ。
「最初僕が診た時、サスケくんの目は全く何も見えない、『暗い』という感覚さえ無い状態だったよね?」
言いながら、細い指先で少し眼鏡の位置を直すと、医師はデスクに広げられたカルテを捲った。ぺたぺたと貼り付けられている、何かのグラフのようなレシート状の紙に目を走らせながら、トントンとリズムを整えるかのようにペン先でそこを叩く。
「入院中にだんだんと明るい・暗いという感覚だけはわかるようになったけれど、視界で像を結ぶ事は出来なかった」
「ええ、そうです」
「でも、ほら――サスケくん、もう一度ちょっといいかな?」
言われて気が進まないながらもオレが前髪を上げると、つと手を伸ばしてきた医師はそっとオレの頬に触れてきて、ややうつむきがちになっていた顔を軽く持ち上げ固定した。馴染みのない感覚に緊張がはしり、ぴくりとほんの僅か肩が動いてしまう。
すると同時に、電流のような何かが、隣にいる兄からピリッと漏れるのがわかった。日中でも薄いカーテンを引いた診察室で、少しばかり近付けられた丸眼鏡の中に、デスク上のパソコンからの光が映りこんでいる。
――これ、見える?
やがて指示されたとおり見える方の目を右手で隠していると、見えない視界の中でそう尋ねて来る声がした。言われて気持ちを集中すると、分厚い膜が張られたような曖昧な世界に、なんとなく影が集まっているような感じだけがある。
それでも伝えるにはあまりにも不確かな輪郭に「見えは、しないけど」と小声で言えば、ごくゆっくりとその影が横にずれていった。見詰めるというよりも感覚を掻き集めるような心持ちで、あやふや過ぎるそれをどうにか追っていく。
「……動いた」
溜息でもつくかのように、兄が言った。驚きを隠せない様子のその独白に、バツの悪い気分で前髪を抑えていた手を下ろす。
「ね、ちゃんと追えてるでしょう?前回の検診の時は、まったく出来なかったのに」
どこか得意げに、医師は言った。さっき見せていたのはこれだったのだろう、手にしていた黒い万年筆が、胸を張る白衣のポケットにすとんと挿される。
「最初から特に眼球に問題があったわけじゃないからね、突然ではあるけれど、この病気では決して珍しい事じゃないよ」
几帳面そうな文字でカルテに何事か書き込みつつ、そう言って医師は兄に告げた。そもそもが、こんなにも完全に見えなくなる人の方が珍しいし。この病気に罹る人は凡そが一年位で何らかの形で多少なりとも視力を回復するのが 、一般的だからね。
「――とはいえ、サスケ君の場合はその中でもかなり重度が高かったからなあ。前回の検診までは回復も殆ど見られなかったし、今回も同じような感じだったらそろそろ心療科の方とも連絡を取り合ってみようかと考えていたんだけど」
何か最近、身近で大きな変化でもあった?回転椅子をくるりと回し傾けられてくる首に、オレは僅かに口籠った。
大きな、というにはちょっと違うかもしれないが。
けれど毎日の中で、楽しみになっている事ならばある。

「――猫?」
キセルをぽんと灰皿の縁で叩き、三代目の翁は確かめた。苦味のあるコーヒーの匂いに、微かに甘い刻みタバコの煙がやわらかく混じる。禁煙を掲げていないうちは珈琲店では煙草を吸う客も少なくなく、正直あの煙はオレは苦手だが、このキセルの煙草だけは割合に好きだ。灰が落ちないのもいいし、なによりほんのひと握りの葉っぱしか入らないキセルは、本当に「一服」程ですうっと残り香だけを残して終わるところが大変好ましい。
「猫って、動物の?」
「ええ、もちろん」
「お前さん方が家で飼い始めたという事か?」
「いえ、飼い始めたというか――理由あってちょっとお店のお客様から、少しの間お預かりしていまして」
これがまた、本当にすごく可愛らしくて。
目を細めしみじみする兄に、納得しつつもオレは小さく鼻を鳴らした。実際、兄は今、我が家に滞在する気侭な黒猫に夢中だ。
かくいうオレ自身も、もちろん例外ではないのだった。暇さえあればあのやわらかな毛並みを撫でたくて、柄にもなく仕事中であってもうずうずとしてしまう。朝に晩に、家のあちこちで機嫌よくゆらゆらと揺れている長い尻尾を見かけるのは、なんともいえず、甘い気分になるものだ。

「――あ!やっぱりそうだ」

おじいちゃん!と鳴らされたベルと共に飛び込んできた高い声に振り返ると、半分だけ開けた入り口のドアから少女がひとり、顔を覗かせていた。
地元中学のセーラー服に、ぴょんぴょんと元気に跳ねたショートカット。すっきりとした前髪の下では、赤みの強い瞳が利発そうな光を湛えている。
「なんじゃ、ミライか?」
突然現れた華やかな気配に、老人はぱちくりと目をまたたいた。黙っていても堂々とした佇まいは父親譲りのものだろう、黒髪の合間に見える凛々しい眉が、きりりとその意志の強そうな瞳の上でのびている。
「どうしたんじゃ急に、部活はどうした?」
どこかポカンとしている祖父に、少女はやや呆れ顔だった。もう、今日は終業式だから部活も休みだよって、今朝そう言ったのに。そう言ってセーラー服の腰に手を当てる孫にも、そうか、そうだったかのうと老人はのんびりするばかりだ。
「学校帰りに前を通ったら、おじいちゃんの後ろ姿が見えたから」
「なるほど、そうか」
「コーヒー、もう飲み終わった?なら一緒に帰ろう、今夜は木ノ葉丸おじさんもごはん食べに来るって言ってたし、父さん母さんも今日は配達が多いから、おじいちゃんにお店にいて欲しいって」
「いや、しかし儂は……」
誘う言葉に、すんなりとは従えなかったのだろう。キセルを手にしたままだった先代は、まずは渋るように横を向いた。しかしそこを逃さないかのように、少女がにっこりと覗き込む。
「帰ろ?」
「……」
「ね?」
「……儂は必要最低限の事しか、手伝わぬぞ?」
うん、大丈夫わかってるから。そうさらりと流す孫に引かれるようにして、老人は立ち上がった。どこかきまりの悪そうな常連に、一応気を遣ったのだろう。カウンターの内側ではグラスを拭いていた兄が、声を出さずに小さく笑みを零す。
「さて、じゃあそろそろサスケ、お前もだな」
行ってこい、と仕切り直すように促してくる兄に、オレはふうとまた溜息を吐いた。そうだった。気の進まない用事は、まだこれからだ。
「……兄さん」
出るならついでに、ちょっと家に寄っていってもいい?ぼそぼそ尋ねると、兄は一瞬きょとんとしたがすぐにその意は理解したらしく、ほんの少しだけ渋顔になった。あんまりそうやって構い過ぎるのもという声に、「わかってる、少しだけだから」と急ぎ付け足す。
「一瞬だけ。様子見たらすぐに行くし」
「……」
「留守番慣れできてるの崩しちゃいけないって言うんだろ?平気だって、今日だけだからさ」
「なら、学校が先だ。寄るなら帰りに一瞬だけ」
またオレを騙すような事をしたら、今度こそ承知しないからな。
ふいに厳しくなった声に、ぎくりと行きかけていた足が固まった。「また?」とカウンターに立て掛けてあった祖父の杖を取ろうとしていた少女が、気が付いて呟く。
「なにかあったの?イタチさん」
賢げな瞳にきょろりと尋ねられ、兄が苦笑した。いえ、そうたいした事では。そんなふうに答えつつも、ぴしりと伸びた背中はどこかオレに厳しい。
普段は温厚過ぎるほどに温厚な兄だけれど、今回ばかりはそうもいかないようだった。少しだけ視力が回復してきていたのをオレが隠していた件については、いまだに少し腹を立てているらしい。


クリスマス間際、明日の祝日を前にした街並みはなんとなく何処も空気が浮き足立っていて、行き交う人々の顔もまた、どこか寛容さで弛んでいるように見えた。
その中を行く黒ずくめの制服が、とにかく着心地悪い。
日中は陽が出ていたせいで油断していたが、やはり上に何か着てくるべきだったかもしれない。中にニットは着込んできたけれど、時折吹き抜けていく北風は空いた襟に容赦なくて、ひやりとくる度に思わず亀のように首が引く。

『ちょっとマズいかもしれないなあ、うちは』

クリスマスソングの流れる商店街を進まない足取りで行けば、ふとまた、先日受話器越しに聴いた重々しい溜息が思い出された。高校の担任教諭の声を聴くのは久し振りで、最後に顔を合わせたのは休学してすぐの夏休み明け、一度だけ見舞いがてら学校に置き忘れたままになっていたオレの荷物を届けに来てくれた時以来だった。
そもそもが定期健診よりも早く病院に行き、結果的にうっすら感付いていたけれど秘密にしていたオレの目の件が兄にばれる事になったのも、この一本の電話がかかってきた事に話の端を発する。
書き込みが、あったのだそうだ。
学校の正規の掲示板ではなく、いわゆるSNSの中にある高校のグループのようなもの。そこに療養の為に休学している筈のオレが仕事をしているのは、おかしいのではないかという文面があったのだという。
『学校の方もな、事情が事情だからお前の件は出来るだけ、大目の処置をしてやりたいと考えてはいるんだが』
職員室から掛けてきているらしい電話の後ろでは、とうに夜の時間となっているにも関わらずまだ沢山の教員が残っているようだった。
しかしこうなってくるとアレだ、この先お前が出てきた時にも、周りからあれこれ言われたりしかねないというか。遠回しな言い口に、それとなく担任の危惧が伝わる。

『リハビリだというお前の言い分はわかる。が、それならばもうそろそろ、その期間も終わらせてもいいんじゃないか?お前は成績だって悪くないし生活態度も真面目だったから今のところはどうにかなっているが、冬休み明けからも全滅となれば、流石に皆と一緒には三年にはなれないぞ』