分別/隣人LOG

ニアミス

(……くっそ眠ィ……!!)

検査室からナースステーションに向かうまでの廊下は節電のためなのか妙に薄暗くて、仕事の時しかかけない眼鏡のグラスを通すと、それは更に暗ずんで見えた。
さっきからひっきりなしに鳴らされる、院内PHSが忌々しい。
まだこちらに来て一週間も経たないというのに任される仕事の量が半端無くて、サスケはかすむ目を必死で凝らしながら歩みを早めた。
こちらに来てからおろした、新しい白衣の裾が足にまとわりつく。院内用に用意した医療用シューズや、変な緑色の廊下にも少し慣れてきた。
……それにしても研修医というのは、こんなにも色々とやらされるものなのだろうか。
余りにも多い雑事に疑問を感じながら、サスケは靄がかる頭をひとつ振った。本当ならば夜勤明けの今日は、もうとっくに帰宅出来ているはずだったのに。
指導してくれる医師からあれこれ言われるのはわかる。しかし他の医師やら、看護師やら患者やら、とにかくのべつまくなしに色んな人物からあれこれ頼まれるのは一体どういう理由なのか。
さらに何か頼まれる毎に、「なんで北海道に?」「どこに住んでるの?」「彼女いないの?」などといちいち私生活を詮索されるのだから、堪らない。
なんだか去年まで名を連ねていた、町内会の会合を彷彿とさせられる。

(やべえな……マジで。眠すぎる)

すっかり慢性的な寝不足となった脳を奮い立たせるべく、出来るだけ日差しが多く差し込むルートを選んで、目的地に向かった。茜色に染まる渡り廊下に足を踏み入れた途端、半分に落ちかけていた視界を、ちかりと明るい光が射す。
……目線を、上げる。
廊下の真ん中で、ぼんやりと立ち尽くしている長身を見つけた。
金の髪、青の瞳。以前よりほんの少し、余裕のありそうな佇まい。
昔よりもしっかりとした肩に羽織っているのは、見覚えのあるオレンジのダウンジャケットだ。
相変わらずの人好きのする穏やかな顔付きで、窓の外に広がる薔薇色の夕焼けに見入っている。

(……………発見、ウスラトンカチ)

完全に外の光景に心を奪われきっている様子のその後ろを、黙ったまま足早に通り過ぎた。
絶対にこちらからは声をかけまいと、ずっと決めていた。
この4年半。自分は追うよりも追われる方が性に合ってると、ほとほと思い知ったのだ。
どうせ今からこいつが行く場所もわかってる。目の前に現れるところまでは譲歩してやろう、だけどその先は自分でどうにかしろ。
言っとくが待っててやる気なんて、1ミリもないからな。
見つけたならせいぜい頑張って走ってこい――追うのはお前、得意だろ。

(……よっしゃ、目ェ覚めた)

白衣の裾が翻る。
知らずゆるんだ口許を引き締めながら、帰りの算段をつけるべくナースステーションのドアを潜った。

TROCHE

ナルトが風邪をひいた。一昨日からだ。
頑丈な奴のことなのでたいしたことじゃないが、それなりにしんどいらしい。顔も赤いし声も少し変だし、
ブー。スー。
鼻も詰まっている。

「……いよいよこの時がきました」

なのに奴は、なぜだか嬉しそうなのだった。出勤前、着替えを済ませワイシャツの襟を確かめる俺を捕まえ椅子に座らせると、わざわざリビングからサイドテーブル代わりにしていた丸椅子を手に、いそいそと俺の前に腰掛ける。
「なんだ、この時って」
謎の張り切りに、俺は首を傾げた。出勤前のこの忙しい時に。
「診てください」
「あ?」
「風邪をひいたら診てくれるって、前に言ったってば」
言われるてみると、確かにそういう事をいつか言ったのを思い出した。あんなものをこいつはずっと覚えていたのか。しつこいというか、健気というか。
「オレ内科じゃねえし」
ちょっと面倒だったのでそう言うと、ちょっと掠れた鼻声が、「 先月まではそうだったじゃん」と口先を尖らせた。研修中の俺は、期間中三ヶ月毎に広い院内にある各科を順繰りに回るのだ。
「診てください」ナルトがまた言った。鼻詰まりで潤んだ瞳が、熱心に俺をみる。
「調子悪ぃのは鼻だけか。熱は」
うんざりしつつも片手間に訊いてやれば、ナルトは不服げに「ちょっと、もっとちゃんと診てくれってばよ」と鼻を鳴らした。面倒くせぇなあこいつ。やや辟易しつつ、仕方なく椅子の上でちょっと姿勢を直す。

「……様子がおかしくなったのは昨日?二日前から?」

尋ねると、待ってましたとばかりに丸椅子の上の尻がもそっと動いた。
「昨日から。でも、なんか変だなって思ったのは一昨日くらいからだってば」
態とらしく、ナルトが咳をする。
「咳も?」
「いや、これは今日から」
「咽喉は」
「ちょっと痛い。寒気とかはないけど」
ふうん、と言いつつその顔を眺める。こいつこんな事いてるけど、でも食欲はぜんぜんあるよな。咳なんて今しだしたところだし。
「――腹だせ」
面倒ながらもそう言って、鞄の中に入れてある聴診器を出すと、途端にぼやけていた青い眼がきらきらと輝きだした。トレーナーの裾がいそいそと捲られ、日に焼けていない腹が出る。シーズン中なだけあって、一応そこには鍛えられた腹筋が六つに分かれてある。
「……特に悪い音はしてないですね」
ひた、と聴診器をあてると、うひょ、とその腰が弾むように動いた。なにが「うひょ」だ。これそんな喜ぶことか?
「ん、次うしろ」
「はいセンセイ」
「キモイ声出すな。うしろ」
「……お願いします」
くるりと向けられた背に、またひた、ひたと聴診器をあてる。ナルトの身体は厚い。背中もきれいに筋肉がのって、肌のどこもかしこもが、なんともいえない張りがある。
大きく吸って――吐いて。
言ってやれば、子供のようにその大きな背中は、すううと深呼吸をしてふかぶか吐いた。
聴診器を通して聞こえる鼓動の音は、ずっとドキドキと早めの音を刻んでいる。こいつこんないつもドキドキ心臓鳴らして、生き急ぎすぎだな。そんな事を思いつつ、聴診器を耳から外す。

「前向いて。口あけて………そう、」

あーん、と僅かに口許をあけて見せれば、釣られたようにナルトも「あーん」とやった。うん、口の中も特になにも出たりしてないな。そう思いつつ、目おもむろに眼の下をぎゅっと親指で引く。
「いっ…!だいです、先生……!」
「目の色もよし」
「お前ってばこんなやり方なのいつも?!」
「うるせえな無償でみてやってんだろが」
文句をいうその口をちょっと睨みつけると、ナルトはまた黙って大人しくなった。短かい襟足が少しだけかかる首筋。そこにそっと、指先をあててみる。

「扁桃腺が、少し――…腫れていますね」

診たがままに言えば、なにがツボだったのかその丸椅子に掛けた腰が、背中に向け一度ぞくぞくっと波がはしったようだった。は?そこ??
最後にもう一度、その顔をつぶさに観察する。
ぼやけた瞳、ちょっと赤くなった鼻、息苦しく開いた唇。
呆けた目でこちらを見る、昔よりすっきりしたその額に自分の額をこつんと合わせる。まあ、熱はこんなもんか。そう思っていると、ごく近くなった空色の瞳が、まるでありもしない熱にうかされたかのようにぼおっとなっている。

「ん、やっぱただの風邪だな。咽喉痛いんだったらこの前病院からトローチ持って帰ってきてやっただろうが、それでも舐めて……」

触れ合っていた額を外し離れ間際にそう言おうとすると、言葉を遮るようにぐあっと、大人しかった患者がいきなり俺に襲いかかるように抱きついてきた。普段であれば絶対にないその想定外の動きに、不本意ながら驚かされた身体が一瞬「!!?」と固まってしまう。
「――っめえ、いきなり何すんだ患者なら大人しくしてろ!」
「…………せんせぇ…………」
ぽつりと、と熱で掠れた声がうわごとのように言った。出してる声はいかにも病人然とした弱々しさのくせに、俺をホールドする力は熊のように強い。

「せんせい、あと、胸がくるしい」
「…………知らん。そりゃ専門外だ、自分でどうにかしろ」

どうにもなりません、と呟きつつ、ナルトがまた力をこめる。
面倒な患者にあたっちまったなと思いつつ、オレは避けられないであろう近日中の感染を覚悟した。


(作中セリフの一部は、とあるお方のtweetからお借りしました。special thanks to Tさん! )


つめたくしないで

どうしたんだこれ、と尋ねたところ借りてきたのだという。
「練習だってばよ」
「練習?」
「うん。オレってば今年、これの担当なんだ」
そう言って、ナルトが触っているのは大きな手動式のかき氷機だ。いきなりリビングで遭遇したそれに説明を求めれば、どうもナルトの所属するアイスホッケーチームでは毎年ファンとの交流イベントとして、オフシーズンである夏にフェスのようなものを開催するらしかった。
「まあフェスって言っても地域の夏祭りみてーなもんで、たいしたものでもないんだけどさ。焼きそばとかボール掬いとか、その日はオレら選手がお店屋さんになって、いつも応援してくれてる皆をもてなすんだってばよ」
だから先にちょっと練習しとけって言われて、今日の帰りにチームの倉庫に寄ってきたんだってばよ。言いながらすでに部屋着へと着替えたナルトはセットされた氷の位置を調正する。どうやらご丁寧にも、わざわざ氷まで買ってきたらしい。ダイニングテーブル前、腰を下げた姿勢で構える姿に、病院から帰ったばかりの俺はふうんと返した。
「練習なんているか? それ」
「それがさあ、エロ仙人から言われた時オレもそう思ったんだけど、やってみるとこれが案外難しいんだって。右と左の手の動きも別々にしなきゃだし、なんか知らないけど氷もふわふわになんなくて」
「そうか? 俺は最初から特別気にならなかったけどな」
「へ?」
言いながら、ネクタイを引き抜き腕時計も外す。まあやりたきゃ頑張れ。言い残して着替えに向かおうとしたところで、はっしと腕を掴まれた。振り向けば見つめ返してくる、ぽかんとした青い目。
「なんだ」
「えっ、いや――サスケ、かき氷機使ったことあんの?」
「ああ? まあな。一度だけだが」
ちょっとしたレコード保持者だぞ、俺は。かつての記憶にぼそりと答える。それだけではナルトには何の事か伝わらなかったようだったが、それでも「へえ!」という心底感心したような感嘆がリビングに響いた。
「なんだ、じゃあさじゃあさ! お手本見せてくれってばよ!」
ナルトが言う。はあ? と途端に面倒になったがそんな俺にはお構いなしに、
「オレもサスケの氷食いたい! 一杯だけでいいからさ」
とナルトは言った。満面の期待で顔を輝かせる男にちょっと考える。
……まあ、参考になるなら一度くらいは。
そう思いワイシャツの腕を捲れば、ナルトはさらに「おおっ」と身を乗り出してきた。
「ありがたくよく見とけよお前」
ナルトと場所を交代しながら、ちょっと恩着せがましく言う。しかしそんな言い口にもわくわくとした様子のナルトは、テーブルの向かい側にいそいそと回っては、
「おう、まかしとけ!」などと答えるばかりだ。
久々に触る装置に、少し腰を落とす。
クッと力を込め車輪型のハンドルを回すと、設置されていた大きな氷がゆっくりと回転しだした。
水を滴らせた回転は遠心力に乗りながら徐々にスピードを上げていき、さりさりと粉雪のような氷を生み出していく。それを左手で構えた器(どうやら器までは至急されなかったらしく、これは普段俺たちが家でサラダを食べる時に使っているガラスのボウルだ)で受ける。ひらりひらりと手首を返しながら、きれいな雪の山を作ると、最後にどうだとばかりに俺は顔を上げた。ボウルから外れてしまった雪が、持っている指先に冷たい。
なんだか赤い顔をしたナルトは床に膝立ちになったまま、ぼおっとした表情でテーブルにしがみついている。
思っていたのとは違う静かすぎる反応に、少し肩透かしな気分に俺はなった。非常に不本意だがすこし口先が尖るのが、自分でもわかる。
「できたぞ」
「――…へっ⁈ あ…!」
「ちゃんと見てたかお前。二度目はねえぞ」
じゃあな、とっとと立ってあとは自分でやれよ。言い捨てて今度こそ着替えに行こうとした俺だったが、行きかけたその手を再びはっしと掴まれた。強い力に咄嗟に思わず「あァん?」と低い声が出たが、そんな俺を潤んだ空色がじっと見上げてくる。
「……む、むり。いま立てない」
そう言って項垂れる腰を引いたような妙な姿勢に、ようやく察っした。
さすがにちょっと想定外すぎる反応に、顔が引きつる。

「……ねえわ」
「ひどい! そんな言い方はないってばよ!」
「お前どんどん変なところ開いていってないか? 心配になるんだが」
「サスケこそどこであんな、どエロいかき氷披露してたの……オレそっちの方がよっぽど心配だってばよ」