さよならメモリー

予報通り降り出した雨に、ナルトは小脇に抱えていた古びた傘をその手に持ち直した。
張りのある音と共に広がった傘を見て、隣にいたサイが意外そうな声をあげる。
「へえ、蛇ノ目傘?」
ナルトにしては珍しく渋い趣味だなあと言いながら、展開された真円が歪んでいるのに気がつくと「……ここ、折れてるけど」と指摘する。
「うん、知ってる」と簡潔に答えると、ナルトは色あせた黒地に白く蛇ノ目紋が抜かれた雨傘を、くるりと回した。折れ曲がった骨の部分が丁度目の前にくると、そこだけ降り注ぐ雨粒が不揃いな滝になって流れ落ちるのが見える。
壊れかけの傘を肩に掛けると、ナルトは欠けた円から青く煙る空を覗いた。
湿度を吸った柄はしっとりと手に吸い付いて、傘の本来の持ち主の、少し冷たい掌を思わせた。

  * * *

あの頃のオレは、知ったばかりの優しさに有頂天になるばかりで。
どうしたらいいのかだとか、何をすればいいのかとか。
具体的な何かを想像していたわけじゃなかった。
大嫌いだったアイツがくれた、温もりがうれしかったから。
ただ、それに返せるものがあればと思っただけなのだ。
……もし、時が戻せるなら。
今すぐ戻って、思い上がったオレの横っ面を、思い切り張り倒したい。



「……ああ、降ってきちゃった!」
古ぼけた広いテーブルに沢山の紙片を広げたまま、隣に座る憧れの女の子は窓の外を見て小さく叫んだ。同じ方を見遣ると、中々の量の雨粒が図書館の窓に無数の線をひいている。
その日は確かに、朝から雲行きが怪しかったのだ。先生に用意しておくよう言われた、次の任務に使う資料を探しに図書館に集合した時にはすでに雲は黒く重たくなっていたし、少し甘い雨の匂いが早くも空気中に漂っていた。
「あーもう、やっぱり傘持ってくるべきだったわ」
「サクラちゃん、傘持ってきてないの?」
オレもオレもーと明るく言うと、サクラちゃんは解りやすくがっかりとした様子で溜息をついた。長い髪がサラサラと流れるのを間近に見て、思わずオレはうっとりとする。そんなオレに気付くことなく、サクラちゃんは「一緒に忘れたのをそんな嬉しそうに言ってどうすんの」と周りを気遣った声量で言ってオレを睨んだ。
「……どうしよう、すぐに止むかなあ」
「降水確率、80%」
ちなみに夕方から今夜にかけては90%だと、向かいに座った少年がぼそりと言った。広げた資料に目を落としたまま、カリカリと小気味良い音をたてて走る筆記具も止まらない。
「くだらない情報番組ばかり見て、ニュースをちゃんとチェックしないからだ」
「……んだよ、情報番組にだってちゃんとお天気おねーさんはいるんだぞ!」
「予報が流れててもまともに聞いてないなら世話ねえな」
ま、夜までは絶望的だと素っ気なく言って、サスケは手を止めた。
波の国から帰ってきてからのサスケは、なんだかいつも機嫌が悪くて。やけに苛々しているし、簡単な任務ばかりの毎日に焦っているように見えた。
でもあの日はほんの少しだけ、そんな不機嫌が鳴りを潜めていたらしい。ちらりと視線を上げて目の前に並ぶ情けなく眉を下げた二つの顔を認めると、諦めたかのように小さく息を吐く。
ったく…と微かな舌打ちをすると、サスケはおもむろにサクラちゃんの方を向いた。
「……仕方ねえ、俺の傘に入れてってやる」
「いいの!?」
きゃあああ!!と思わず場所を忘れて黄色い声をあげたサクラちゃんに、すかさず周りから「シーッ!!」と声なき抗議があがった。慌てて口許を抑えて小さくなったが、緩む顔は抑えることが出来ないらしい。喜色満面な様子のサクラちゃんを横目に、オレはコソコソと声をひそめて質問した。
「……あのー……オレは?」
「ひとつの傘に3人も入れるわけねぇだろが。お前は濡れて帰れ」
「ひっでー!!」
そんなのアリかよ、と嘆きながらごつんと机に額をぶつける。そのまま目を薄く開くと、大きな机の影でウキウキと弾んでいる、サクラちゃんの小さな膝小僧が見えた。


「……ほんとにオレだけ濡れて帰んの?」
「安心しろ、集めた資料はこちらでしっかり守る」
「オホホ、そーよナルト心配しないでね!」
図書館の入口で暗い顔になるオレに、二人は軽く言った。いつもは優しいサクラちゃんも、この日ばかりはすっかりサスケとの相合傘に目が眩んでいるようだ。むくれるオレを完全に放置して、しっかりと包んだ紙束を抱え直した。
ではでは~と歌うように言いながら、開かれたサスケの傘に入ろうとした瞬間、キラキラと輝いていた翠色の瞳が凍りついた。「サクラー!」と大きく呼ぶ声が聞こえて、図書館の門の向こうからスレンダーな身体をチャイナ服で包んだ女の人が近づいてくる。
「あんたね、やっぱり雨降ってきたんじゃないの!」
そう言いながら目の前に来た人は、少し薹はたっているけれど間違いなく美人といってよかったと思う。「お母さん……」と力なく呟いたサクラちゃんと、その眼差しがそっくりだった。
サクラちゃんと同じ色の瞳をもつ女の人は、オレ達を見て「こんにちは」とにこやかに言うと、一変して桃色の髪の娘の方を向き再び目を釣り上げる。
「だから傘持って行きなさいって言ったでしょ!すぐにめんどくさがるんだから!!」
「……だっ……だからってなんでここにきたのよ!?」
「迎えに来てあげたんでしょうが!」
感謝しなさいよ!と遠慮のない口調で言うと、サクラちゃんのお母さんは赤い傘を差し出した。渋々と受け取ったサクラちゃんに、ついでに買物もあるから手伝いなさいとさらりと伝える。
「……ヒドイ、そっちが目的で迎えに来たんでしょ!?」
「そんな訳ないでしょ、さあ行くわよ!」
うう、サスケ君……と半べそのような顔で、恨めしそうにサクラちゃんは無言で隣に佇むサスケを見上げたが、結局は諦めたように受け取った傘を広げた。綺麗に手入れされているらしき赤い傘には、コロコロと雨粒が弾んで落ちていく。
ゴメン、じゃあね。と去っていく二つの後ろ姿を見送りながら、そっと横を見る。無表情のままのサスケの目は、なんだか虚ろに曇ったこの雨空のように見えた。
「……あのう」
「……なんだよ」
「定員に、空きが出ましたってばよ?」
恐る恐るの進言に、長い睫毛が思い出したかのように瞬いた。
額当てをしていない顔が、ゆっくりとこちらを向く。
「……せめてテメエが持て」
というぶっきらぼうな声と共に、オレの胸元へ大きな黒い傘が押し付けられた。


受け取った和傘は片手で支え持つには重たすぎて、オレの手元はぐらぐらと不安定に揺れた。子供が持つにはやけに大きくて重い傘に、慌てて空いていた方の手も添える。ふと掌に違和感を感じて柄の部分を見ると、小さく彫られたうちはの紋が見えた。
「この傘、重いってばよ……」
「文句があるなら入らなくていい」
思わず漏れた苦言をにべもなく跳ね返されて、オレは慌てて藍色の肩に傘をさしかけた。こちらを気にすることなく、傍若無人な動きでサスケが雨の中に一歩踏み出す。置いていかれないよう歩調を合わせるオレはまるで殿様に付き従う家来のようだったが、その時はそんな想像も浮かばないほどサスケの動きを見るのに必死だった。
ボッ、ボッ、と時折大きな音をたてて、一向に止みそうもない雨粒が傘に落ちる。
「……サクラちゃんのお母さん、初めて見たってば」
アパート近くの路地に入ってからも黙りこくったままで歩くサスケに、オレはようやく声を掛けた。
「やっぱ美人だったな」
「……ああ」
「サクラちゃんも将来あんな感じになるのかな」
うん、かなり期待できるってばよ!と意識して出した明るい声は、強くなっていく雨足にかき消されそうになりながらも、路地裏で間抜けに響いた。特に返事をするわけでもなく、前を向いたままのサスケは歩調を変えることなく歩みを進める。
果てしない無言に耐え兼ねて捻り出した話題は、あまりオレ達には向いていないものだったとようやく気が付いた。早々と終わってしまった会話に、気まずさが立ち込める。
そっと隣を見ると、襟ぐりの広く開いたシャツから覗く細い首筋に、丸く小さな斑点のようなものが見えた。傷が塞がれ、新しい細胞がふき上がってきている箇所。柔らかく薄い皮に包まれたその傷跡は、数週間前に行った任務でオレを庇ったために作られたものだった。白い首に、何本もの太い針が突き刺さっていたのを思い出す。
「その、傷さ」
「あ?」
「……もういいのかってばよ?」
トントンと自分の首筋を指しながら言うと、サスケはすぐに解ったようだった。「どうってことねえよ」と呟くように言うと、再び雨に濡れる足元を見る。

「……えーと……あの、アリガト、な」

どうにか絞り出した声はやはりなんとも頼りなくて、バラバラと音を立てて落ちてくる雨粒達に負けそうだった。だから、サスケの耳にもうまく届かなかったのだろう。ぼんやりと下を向いたままの黒い瞳が微かに見張られ、ゆっくりとこちらを向いたサスケは「…は?」と聞き返してきた。
「ほらこの前、波の国でさ。オレ、オマエに助けてもらったじゃん?」
「……」
「……だから、アリガトウって、事なんだけど……」

……そういやまだちゃんと言ってなかったと思って!

バツが悪くて早口になってしまったけれども、オレはどうにかそこまでを一気に言い添えた。テンポ良く進んでいたサスケの足が止まる。慌てて重たい傘を支えながら一緒に立ち止まると、ぽかんと口を開いたままのサスケが目に映った。その様子がなんだかちょっと可笑しくて、オレは照れ隠しが半分の笑いを浮かべる。それに釣られたようにサスケの表情も少しだけほぐれたのが判ると、途端にオレは嬉しくなった。波の国での戦いの後から、なんだかやけに何かに焦っているように苛立っていたサスケの、そんな顔を見るのは久しぶりだった。
「ま、せいぜい修行して、早く俺より強くなるんだな」
口にしたのはいつものような憎まれ口だったけれど、決して不機嫌そうではなかったから。
……だから、つい。
馬鹿で愚かなオレは、あんなことを言ってしまったのだ。

「……あの、だからさ。オマエのやりたいことのために……オレにもなんか、できることがあったら、遠慮なく言ってくれってばよ?」

浮かれた気分で言った一言は、黒い瞳に広がっていた優しい影を蹴散らすには十分だった。
すう、と柔らかだったサスケの表情が消え失せる。
白い頬は陶器のように冷たそうで。黒く塗られた油紙の下、「どういう意味だよ?」と低い声を吐き出した赤い唇だけが目を引いた。

「……できることって、一体どんなことだよ?」

醒めた声に、自分勝手な思い上がりにのぼせていたオレの頭は一気に冷やされた。
じゃり、と濡れた小石を踏みにじりながら一歩前に出された足に、思わず後ずさる。
「俺のためにできることなんて、テメエなんかにあるわきゃねえだろが」
更に言い募りながら詰め寄るサスケに威圧されて、オレはずるずると引き下がった。何も映していない、闇色の瞳。知らず細かく震えだした傘を持つオレの両手を、冷たく湿った白い掌がゆっくりと覆う。
足を引き摺るように数歩下がったオレは、すぐに狭い路地を囲む壁に阻まれ行き止まった。
差したままの傘がオレの背中で壁と挟まれ、無理な角度にたわんで歪む。

「……それとも、……」
追い詰められたオレを、底知れぬ闇を映したままの、黒い瞳が捉えた。
「お前は、俺のために、なにもかも全部捨てる覚悟でもあんのかよ?」

――耳を打つ雨音が、急に遠くなった気がした。
喉が張り付いたようで、声が出ない。
ぼきり、と湿った鈍い音をたてて、背中でひしゃげた傘の骨が折れるのを感じた。
薄い膜を張ったようなサスケの黒い瞳を、オレは必死で見つめる。
……その重さや、闇の深さに、何の覚悟も考えもなかったオレは。
ただ歯を食いしばって、そこから逃げ出さないでいるのが精一杯だった。

……遠くに落ちた稲光が、オレ達を同時に現実に戻した。
我に返った様子のサスケが、忌々しそうに舌打ちをする。傘を持つオレの手に重ねていた掌を弾かれたかのように離すと、その手が脇に力なく落ちた。そのまま大きく一歩下がると、ばたばたと容赦ない雨が華奢な肩に叩きつけられる。
「……サッ……スケ!!」
傘!!と掠れた声で叫んだオレを、見る間に頭からぐっしょりと濡れだしたサスケが静かに眺めた。藍色のシャツは黒く濡れて、黒目がちな瞳を縁取る長い睫毛には、透明な雫が宿っている。
青く煙る路地に佇む彼は、どうしようもなく儚く霞んで見えて。
――諦めたような薄い笑いだけが、その綺麗な唇に浮かんでいた。

「……壊れたし。もう、いらね……」

お前にやる、と言い捨てて走り去る少年を、オレは、追い掛ける事が出来なかった。



「あ、わかった。傘を買うお金がないんだね?」とニコニコと悪意なく言ってのけたサイに、「んなわけあるか!」とナルトは言い返した。里に降りだした雨は大気を湿らせ、甘やかな静寂を運んでくる。
「……ならせめて、直せばいいのに」
不思議そうに訝しむ声に、空色の瞳が緩く細められた。ニシシと白い歯が零れ、口の端が気持ちよく上がる。
「……このままでも、まだじゅーぶん使えるってばよ」
これは不甲斐ないオレの為に残した、イマシメなの!と言い切ると、ナルトは大きく深呼吸をした。意味が解らない、とありありと顔に書いたサイが、ふうんと小首を傾げている。もう一度くるりと傘を回して、ナルトは光を弾きながら落ちていく雫を見た。

あの時。自分に一歩前へ出る覚悟さえあれば、きっと折れることのなかった傘。
アイツの憎しみも、苦しみも、孤独も。
全部をオレにぶつければいい。……全てを背負う覚悟なら、もう出来てる。

「……今度こそ、……」

――サスケ。
オレの、全部をオマエにくれてやる。

だから、もう一度だけ……







【end】
アニナルED「さよならメモリー」を観て、うわーっとなって出来たネタ。蛇ノ目でお迎え~♪が書きたかっただけなのに、何故こんな暗い話に……。「オマエの憎しみ背負って一緒に死んでやる」に繋がる妄想でした。

サスケが里抜けしてから、きっとじわじわ思い出してきたこともきっと沢山あったはずで。そういう後悔やこうしてやればよかったが積もり積もった結果が「一緒に死んでやる」だったのかなと。2019年になった今も、そんなふうに思っています。