(……なにしてんだろ、オレ……)
信号が変わる。交差点の中心めがけドッと流れ込む群衆に、思わず押し出されるような溜息が漏れた。
約束の時間を過ぎること5分、いまだ待ち人は現れない。
というかマジで来んのかアイツ、オレここで待ってていいんだよな?
不安になりつつも斜め後ろで座る犬の銅像を見上げる。どうしよハチ、これってばすっぽかしという名の放置プレイかな。普段の彼であれば絶対に指定しないであろう、ベタな待ち合わせ場所にも不安が増す。ていうか何で一緒に暮らしてんのに、わざわざこんな若者だらけの街で待ち合わせする必要が? 無意味すぎる行動に考えれば考えるほど、あちらの意図が見えてこない。
唯一はっきりしているのは発端だけだ。
3時間ほど前、外出から帰ってきたサスケに低い声で「おい」と呼ばれたところから、この話は始まる。
*****
「――うん? あ、おかえりィ」
「なんだこれは」
思えば初っ端からサスケは不機嫌であった。ばさっという紙束らしきものが置かれた気配に、ゲームのコントローラーを手にしたままソファで振り返る。
「なにって、チラシ?」
「チラシと郵便物。お前また今週もポスト開けるのサボってんだろ。チラシとかすぐ溜まるからちゃんと見ろって言ってるだろうが」
「あ~…わり、忘れてた。今週はほんっと忙しくてさ」
そう口にしながらまたゲーム画面に向き直り、肩を竦める。マンションの郵便受けを確認するのは、たしかにオレの担当だ。
同期入社の縁で知り合ってから、なんやかやケンカしつつも付き合うようになり、さらにすったもんだの挙句どうにかルームシェア(という名目の下での同棲)にまで持ち込んで早2年。
相変わらずお互い忙しいのは続いているが、こんな感じで協力しあいながらうまくやっている。
「『今週は』?」
イラっとした口調に、思わずへらりと笑いかけた口許が固まった。…うん?
「今週どころか、先週も、先々週も。ここ1カ月ずっと週末にオレがこうして浚ってきてんだろうが」
いい加減にしろよ、と言ってはつんけんと向けられた背中に、「……でしたね! や〜ごめんごめん」とそこにきてようやくオレはコントローラーを置き、テヘヘと謝った。まずい。なんかやけに機嫌が悪い。でもメール文化がこれだけ浸透している昨今、郵便物でそんなに重要なものが突然届くなんてことあんまりないし。大概が不要なDMやチラシばかりで、オレ的にはそんなにしょっちゅうポストを確認する必要も正直ないと思うんだよな。
「ていうかお前まず下を履けよ。パンイチやめろって言ってんだろ」
あとその恰好でソファにも座るな、汗が移る。つけつけと言われ胡坐の股間を見下ろす。ふっくら中心を膨らませているボクサーブリーフに、サスケがうんざりとした視線を送ってきているのを感じた。ハイハイそうですね、でも暑かったし昼過ぎ起きてきてシャワー浴びたら、なんかそのままでいっか~てなっちゃっただけじゃん。そういう気分の時もあるじゃん。ていうかその理屈で言ったらオレらソファでえっちもしちゃってるけどそれはいいわけ? ……なんて言い返してみようかとも思ったけど、さすがにここは火に油だというのはわかる。ソファの端の方で丸まっているハーフパンツを手繰り寄せ、もそもそと足を通した。なんだか知らないけどこういう時は、とりあえず黙ってやり過ごすに限る。これも重ねてきた経験からの知恵である。
「――…あっ、そうだお茶でも飲む? 今日すげえ暑かっただろ、今年最高となる危険な暑さとかって朝ニュースで言ってたもんな」
言いながら、すこぶるご機嫌斜めらしき恋人にそそくさと立ち上がる。キッチンへ向かい、冷蔵庫から作り置かれた麦茶のボトルを取り出すと、普段使いのグラスにたっぷり注いだ。
ついでにと自分の分も注いでから元あったドアポケットに戻そうとすると、またサスケから「おい」と呼ばれる。「なんでそのまま戻す」とボソッと言われ、持っているボトルが空になっているのに気がついた。……め、めんどくせえ男だなコイツ……! そう思ったけどここはグッと堪え、軽く濯いだボトルに黙って新しいお茶のパックを放り込み、浄水器からなみなみ水を注ぎ蓋をして冷蔵庫に戻す。どーよ、ちゃんとお作法通りにしてやったってばよ。
「これでいい?」
色々思うところはあるものの、まるっと覆い隠して笑顔で振り返ると、サスケは少しだけ気を取り直したらしく小さく鼻を鳴らした。カウンター越しに麦茶のグラスを渡し、自分の分は手に持ちながら、ぐるりと彼のいるダイニングテーブルの方へ回る。
「郵便、なんかきてた?」
尋ねると、お茶を一口含んだサスケが、伸ばした指先でテーブルの上に置かれた紙束を探る。立ったまま少し俯いた姿勢で郵便物を検分する、その斜め後ろに近付くと、短く整えられた襟足あたりから柑橘系のハーブのような香りがふわりと漂ってきた。そうそう、今日は散髪するために出かけたんだよな、こいつ。今朝よりも露わになった白い首筋にニコニコなりながらも、ほんのり不埒なちょっかいを出したい欲がムクムクと湧いてくる。指でいこうか、いやここはもっと大胆かつ率直に? そんな煩悩まみれの二択に悩んでいると、
「これ、お前宛て」
淡々とした声と共に、後ろも見ないままサスケが郵便物をひとつ肩越しについっと寄越した。
長い指で挟まれたそれは白い封筒だ。手裏剣でも投げてくるかのような渡され方に、前のめり気味になっていたオレはビクッと止められる。
「へ? なにこれ」
「オレが知るわけねえだろ」
寸止めに興を削がれた気分で取り上げてみると、白い封筒はなにやら妙に上等な紙で仕立てられており、四方には華麗な金の縁取りがあしらわれていた。訝しみながら差出人を確かめる。くるりと裏返したところに並べられた名前を見たところで、ようやくオレは「あ!」と理解した。
「わかった、招待状だ」
「招待状?」
「こいつ、部署の後輩。そういや今度結婚するから式に出てくれって頼まれてたんだった」
そうだそうだ、と一人で言いながら中身を確かめると、果たしてそこには結婚式への参加をうかがう文面のカードと、返信用の葉書が入っていた。
会場となる場所と返信の期限をちらりと確かめ、元の封筒内へカードを戻す。
「いやー、しかしこいつも遂に結婚かあ。ホンット無事いけてよかったってばよ、最初はアプリの使い方もよくわかんないとか言ってて」
「アプリ?」
「マッチングアプリ、いわゆるマチアプ婚てやつ? なんかさあ、そもそも恋愛経験もないから自信ないとか言って、こいつなんかあるたび逐一オレんとこ訊きに来て」
「使ったことあるのか、お前」
するりと訊かれた問いに、「えっ、そりゃ」と言いかけた言葉を咄嗟に飲み込んだ。
「……1回だけな! でももうずぅーーーっと前のことだってばよ」
そう何でもない事のように笑いながら封筒をダイニングテーブルに置いて、先程から持ってきたままだった自分のグラスに口をつける。危ない危ない、別になにも悪いことしたわけじゃないけど。でもこれ以上こいつの機嫌損ねるのは面倒くさすぎるしな。
俄かに喉の渇きを覚え一気にグラスの中身を煽っていると、そんなオレにサスケは「ふうん」と一度だけ小さく応えたが、そのまま興味を失ったかのように部屋を出ていこうとした。内心、まだ話が続くと思い身構えていたオレは(あれ?)とちょっと肩透かしにあわされたような気分になったが、先程からまだ萎んでいない欲ごと抱え追いかける。
リビングの扉を開け廊下に出てみると、やはり習慣通り着替えをするつもりだったのだろう。クローゼットのある寝室の方へと向かおうとする背中に、すすすと摺り足で距離を詰めぴとりと後ろから張り付いた。そっちが手裏剣でくるならこっちは忍び足で対抗だ。
「…暑い」
「そう?」
「離れろ」
「やだ。どしたんだってばよ、さっきから。なんでそんなイライラしてんの?」
さーすけ? と肩越しに顔を覗き込む。つんと前を見たまま、だんまりを決め込む横顔は今日も抜群に整っていて、すべすべとした白い頬にはひんやりとした拒絶があからさまに刷かれていた。うーん、苛ついてんなあ、でもそれはそれとしてサスケは今日も美人だなあ。すっかり慣れっこになってしまった不機嫌に呑気にそんなことを思っていたが、ふとある可能性にピンとくる。もしかして、もしかすると。……いや絶対そうだわ、なんだよやっぱかわいいなあこいつ。ほんと意地っ張りなんだから。
「――っとに、こんなんで妬くなって。心配しなくてもオレは一生、お前一筋だからさ」
だから安心しろって、な? 耳元で囁きながら最後にチュッと耳先にキスを落とす。後ろから肩を抱いたままにっこりと笑顔をつくり再びサスケの顔を覗き込むと、頑なだった口許は薄く開き、まっくろな瞳は驚いたように大きくなっていた。
よっしゃ手応えあり、みたかこの営業部エースの笑顔の実力、信頼を勝ち取ることについては定評があるんだってばよ。この流れならばもういっそ、このままえっちへ雪崩れ込むのもアリかな~なんて胸の内でほくそ笑んでいると、
「……は?」
心底白けたという感じで、くるりと振り返ったサスケが呟いた。あ、あれ?
「妬いてるってなんだ」
「えっ、いやだから、マッチングアプリ…」
「妬いてねえし」
「へ?」
「逆になんでオレが妬くんだ」
「それはだって――…サスケがオレのこと、好き♡ だから?」
でしょ? と上目遣いで恋人を窺う。しかしそんなオレに対して、サスケは尊大な態度で腕組みをするばかりだった。蒸し暑さの漂う廊下に、じりじりと雰囲気の悪い沈黙が溜まっていく。半分空いたままになっているリビングの扉の隙間からは、まだつけっぱなしになっているゲーム画面のアニメーションがちかちかと明るく漏れ続けている。
「……」
「……」
「……」
「……え、ち、ちがうの?」
「どうだろうな」
いやそこはちゃんと肯定して欲しい! と思ったがすでに当のサスケはさっさと踵を返し、目的であった寝室のドアを開けようとしているところだった。
慌てて先回りしそこに立ちふさがる。ドアを背にぴたりと当てて顔を上げると、思った通りのしかめ面がうんざりといった様子でこちらを眺めていた。…はぁ。薄い唇から落とされる溜息までもが心底面倒そうだ。
「どけ」
「やだ」
「邪魔だ。着替えさせろ」
「だめ。ちゃんとオレのこと好きって言って。言ってくれたらどくってば」
言うまでどかねえし。きっぱり宣言しながら改めて腕を広げると、サスケは今度こそはっきり不快感を露わにした。チッ、と忌々し気な舌打ちが落とされる。遠慮なしに聞こえてきたそれにも怯むことなく前を見ていると、不意にサスケの手にある携帯端末が小さく震えチカリと灯った。なにかメッセージでもきたのだろうか。ディスプレイを一瞬確認したサスケだったが、その場では何も返さないまますぐに腕を下ろす。
「……わかった。じゃあお前はいたいだけそこにいろ」
突然淡々と言われた言葉に、仁王立ちしていたオレは思わず「…んん?」と気の抜けた声がでた。えっ、なんで? 着替えは? お外着からお部屋着に替えなくていいの?? 普段のサスケルール(というかうちは家ルール)から逸脱した行動に疑問符だらけになっていると、そんなオレの目の前を素通りしサスケが玄関に向かおうとする。
「ちょちょっ、待って! どこ行くの?!」
咄嗟に行きかけた手首を思い切り掴むと、ひっくり返った声でオレは叫んだ。噓でしょ、これってばマジで出て行かれちゃうパターンでは…?! 一気に噴き出した焦りに頭がまっしろになる。
「れ、冷静にな? ここはまず冷静になろうってばよ、サスケさん」
バクバクし始めた心臓を宥め賺しつつ、オレは言った。
真剣な顔のオレに対し引き留められたサスケは掴まれた手首が余程不快なのか、今度こそはっきりと眉を寄せる。
「うるせえ、離せ。いい加減しつこい」
「どっか行くの?」
「てめえに関係ないだろ」
「関係なくないし! ていうか、まじで何がそんな気に入らないんだってば」
「あ?」
「だってそりゃあ家の事とか時々忘れちゃうのはあるけどオレだってやってるし!いつだってめちゃめちゃお前の言うこときいてやってんだろ、これ以上なにが」
「――…言うこときいて『やってる』とはどういう意味だ」
ぼそり。サスケが呟いた。声の重さに瞬時でハッと気が付く。やば…これたぶん本気のやつだ。即座に「いやちがうちがうんだってそういう意味じゃなくて!!!」と舌も噛もうかという勢いで弁解を口にしてはみたが時すでに遅し。ただでさえ冷たい空気を漂わせていた切れ長の眼差しは、今や触れたら殺すとでも言わんばかりだ。
「おい」
「…はい」
「手ェ離せ」
「あっ――ごご、ごめん」
さがれ。凍てついた声色に続けて命じられ、取りつく島もなくオレは一歩離れた。――…はあ。再びの溜息が重々しく整った唇から落とされる。片手を腰を手に当てて少しうつむくその表情は、何かを考えてはいるようだったが、感情は読み取れなかった。うわーどうしよこれ、なんかもう何言っても刺激するだけでは。ぴりぴりした空気に緊張しつつ、それでもふと視線を動かせば、白い手が掴んでいる腰の艶めかしい輪郭につい目がいってしまう。……いやしっかりしろオレ。さすがに今はそれどころじゃねえって。
「えっと、その、サ、サスケ」
「携帯」
「…はい?」
「携帯取ってこい、ナルト」
唐突に出された言いつけに(?)と首が傾く。とはいえそんなもんでいいのならと即座に回れ右をすると、そそくさとオレはリビングに走った。ゲームのコントローラーの横に放り出してあったスマートフォンを拾い上げながら、(…いやまてよ、『ステイ』『バック』ときた次は『取ってこい』てこと?)とふと気が付きムッとなった。けれどひとまずはそれを治め、再び廊下へと戻る。
「持ってきたってばよ」
端末を掲げながら報告しながら近付いてみると、なにやらサスケはサスケで自分の端末を触っていたようだった。何かのアプリをダウンロードしようとしているのだろうか。ディスプレイにはアプリストアの画面が広がっている。
「なんかアプリ入れんの?」
覗き込みながら尋ねると、そっけない声が下を向いたまま「ああ」と答えた。
「なに入れるの?」
「マッチングアプリ」
「へ?」
「なんだこれ、男からは金取んのか」
チッ、と忌々し気な舌打ちが遠慮なしに落とされる。思ってもみなかった返答に一瞬まっしろになっていたオレだったが、その音にはたと意識が戻った。え、マッチングアプリ? マッチングアプリって言ったの、こいつ? 慌ててその手が持つスマートフォンを再度覗こうとすると、片手がスイスイとスクロールしていたサスケが「あ、」と言う。
「あるじゃねえか無料のやつ」
そう言ってはあっさりと選ぼうとするその雰囲気に、咄嗟にオレはハッと顔が上がる。
「――待って無料ってそれヤリモクアプリだし! 絶対だめだから!!」
「へえ。詳しいな」
さすが、という皮肉と共に上げられた視線にウッと黙らされた瞬間、見せつけるかのようにサスケの親指が画面をタップした。いやあああまじでインストールしちゃったよこいつ、ていうかひょっとしてオレってばうっかり捨てられようとしてる…??! 最悪な可能性に血の気が引きつつもどうしたらよいのかと両手を揉んでいるうちに、さっさとインストールを終えたらしいサスケが速やかに情報を入力していく。
「あああの、サスケ…さん、そのですね、なんちゅーかとにかく、本当謝るのでごめ」
「お前も入れろ」
ん、と登録完了の画面を示しながら顎で示されて、言いかけていたオレは再び(はい??)となった。早くしろ、という催促に訳もわからないままストアで同じアプリを選び、おそるおそるインストールする。
適当なプロフィールを入力し、少し迷ったが顔が曖昧なピンボケ写真を選んでアップロードすれば、あっさり登録は完了した。「位置情報をオンにしろ」と横から指示され言われるがまま操作すると、ほどなくしてダイレクトメッセージが一通送られてくる。
「……よし」
オレの端末の画面にメッセージの到着を知らせる表示を確認すると、サスケは納得したかのように小さく言った。
そうしてそのまま薄暗い廊下で呆然となるオレを残し、何の説明もなく出て行った。
*****
そんなこんながあっての現在である。
(マジでどういうつもりだってばよ、あいつ)
釈然としない気分のまま、手にした端末のディスプレイに浮かぶメッセージを再び眺める。先ほどサスケが出ていく寸前にアプリ経由で送られてきたメッセージには、ただ時間と場所だけが記されていた。偽名だったし画像もあげてはいなかったけれど、どう考えても送り主はひとりしか思い当たらず――なんでいきなりこんなこと、ていうかあいつ地味にマチアプの使い方知ってんのなんでなんだよ。まさか実はちょこちょこ利用してたとか? いやさすがになーそれはなー。あいつに限ってそれは無い、とは思うんだけど。でもなあ。
(あっつう……)
ハァ、ともやもやするばかりの思考の合間、またもや溜息が漏れる。もはや数えるのを止めたそれは一際深いところから出たものだったが、じとりと肌に纏わりつく暑さに混じると更にやるせないものになった。
ここのところ8月の気温が年々上昇しているのはニュースだけでなく実感としてあったが、今年になってからはもう本格的にしのぎ難い暑さだ。……ちゅーかさ、大体がなんでオレばっかがこんなことに付き合わされなきゃなんないんだよ、あっちはあっちで問題あるだろ。実際のところ家の中のルールはほぼあいつが決めててオレはそれに従ってるわけだしさ。いやちょっとは文句言うことくらいはあるけど、でも文句言ったところで向こうが折れるわけでもねーし。指示されるがままホイホイこんなとこまで来ちゃったけど、そもそもがこれ自体が間違っているのかもしれない。甘やかすばかりが愛じゃないってことを、たまには彼氏として示すのも必要なんじゃないだろうか――そうだよ、それってめちゃめちゃ大事なことだよな。ここは毅然としてオレだって譲れないものがあるってとこを、このあたりであいつにわからせるいい機会だってばよ。
つらつら考えた末にそんな結論に落ち着いたところで、ふと下を向いた視界の端に見覚えのあるスニーカーの足先が入ってきた。きたな、よっしゃまずは一発ビシッと言ってやるってばよ! そんな決意のもとにぐっと顔を上げると、いきなり涼し気なまなざしにひやりと迎え討たれる。
(だっ…――)
だめだァァァァァ―――ッ!!!!! 真正面に立つポケットに手をつっこんだままの姿に、いきなり固まっていた筈の決意はがらがらと砕かれた。むり。言えない。だってこんなの圧倒的すぎるんだって。――静かに整った顔、均整のとれた体、無駄な力が一切ない端正な佇まい。どこをどう突こうにも隙が無さすぎる完璧さに、ついつい用意していた言葉をごくりと飲み下す。ていうかマチアプでこんなん来たら普通にマルチか宗教だろ。ソッコーで全財産ぶちこむ自信があるっての。
「――…あ、あ~、えっと……S、さん?」
おそるおそるDMで送られてきた時の名前で呼びかけてみると、彼は無言のままこくりと頷いた。そういえばなんでか服も違ってるなこいつ。出て行った時は普段から着ているTシャツにジーンズだったのに、今は品は良いがどこかとろりとした色気のある黒シャツと、やはりゆるやかなドレープをみせる黒のボトム。どちらも普段の彼の好みとは違う見たことがない服だ。
切りたての髪(後ろを短くしたのに合わせたのか、今回サスケは久しぶりに前髪も作ったようだ)も相まって、数時間ぶりに見るサスケにはなんだか本当に知り合ったばかりのような新鮮さがあった。ほんのりよそよそしい態度にも、妙に腰のあたりがそわついてしまう。
「どうしよっか、ちょっとメシでも行きます?それともよかったら、このまま……ウチ、来る?」
普段と違う雰囲気に、再び頭をもたげてきた欲を絡ませつつ誘いかけてみると、そこにきて初めて彼はピクリと眉を動かした。いきなり家かよ、という幻滅したような呟き。ぐっ…ですよねえ、そんなに簡単じゃないですよねえ。ていうかやっぱ一応これ初対面ていう設定なのね? ガクリとはきたが思った通りの反応にやれやれと盆の窪を掻こうとすると、続けて彼は小さいけれどはっきりと、オレに向けて言う。
「……付き合ってるやつ、いるから」
だから。ほんの少し顔を伏せながら、けれどはっきりと返されてきた言葉に、思わず一瞬ぼおっとなってしまった。ええ…まじで? サスケってばやっぱめちゃめちゃ誠実…! 目論見は外れたけれど恋人としては嬉しすぎる行動に、ついじーんと目頭が熱くなる。そうだよな、サスケちゃん彼氏いるもんな!さっきまでの不満はどこへやら、プンプンと尻尾を振るかの如く笑顔になったオレに、サスケはじっとこちらを見つめ黙ったままだ。
(はっ――いや待てよ?)
にわかに盛り上がってきた気分の中、唐突にオレは気が付いてしまった。いま付き合ってるやつがいるにも関わらず、こいつはマチアプ使って他の男に会いに来たってことだよな? てことはとりあえず浮気しにきたってのは間違いないわけで――『いきなり』はなくても、相手次第ではこれから可能性がないわけではないということでは。しかも付き合ってる相手もオレなんだから、寝取るのはもとより寝取られてもノーダメージ。……やばい、なんかめちゃくちゃ燃えてきた。オレという恋人に操をたてるサスケちゃんは最高に愛おしいけど、そんな状況なのに間男のオレに体を許してしまい良心と悦楽の狭間でぐちゃぐちゃに泣いてしまうサスケちゃん(妄想)は超絶クソクソかわいい。すごい。サスケってばなんでこんなこと思いつくんだ。さすが天才。いやあ実は最近えっちもマンネリ化してきてんじゃないかな~とか、ちょっとオレも気になってました!
「――ふうん、そっか。けどそんな人がいるのに、こんなとこでオレと会っちゃってるんだ?」
そう言って不意を打つように立ち上がり、黒髪から覗く耳元に唇を寄せる。いっけないんだ、と無防備なそこへ歌うような揶揄を吹き込むと、すぐさまサスケは「…あァ?」と返してきた。しかし低い声とは裏腹に、急に雰囲気の変わったオレへ反応するかのように、視界に映る白い耳の縁はみるみる赤く染まっていく。――くうぅ、たまらん。オレ絶対この子のこと今夜落とすってばよ…!なにやら最初ここにいた時とは全然違う決意と下心をガッチガチに固めつつ、逸る心と荒くなる鼻息を必死で抑える。
「なァなァあのさあ、じゃあ家がダメってんなら、いっそここの近くのホ」
「……というか、そっちはどうなんだ」
調子にのって更に前のめりになった誘いを吹き込もうとしたところで、ぼそりと落とされた言葉に話を止められた。ん? と思わず一歩退く。真正面で向かい合い、同じ高さになった目線でじっと覗き込むも、整ったその顔は彫刻みたいに静かなままだ。
信号がまた変わる。
動き出したうねる熱気の中ぽかんと瞬きも忘れたオレの目を、どこまでも冷静なまなざしがゆるりと動き、容赦なく捕らえる。
「いないのか」
「へ?」
「付き合ってるやつ」
………………………………………………いるね………。
後半へ続く(更新をお待ちください)