laugh

鼻先を撫でた粉っぽい匂いに、しかめつらになったのが自分でもわかった。
教室の中に入るとそれは更に強くなり、ざわめきと比例して不快感を上げていく。
普段よりも部屋が暑苦しく感じるのは人口密度が高くなっているせいなのか、それともソワソワと落ち着かない子供達の熱がいつもよりも格段に増しているせいなのか。騒ぐやつらの気持ちが解らないでもないところが、また酷くタチの悪い苛立ちだった。
無意識に足音を殺して、歓談している大人達の間をすり抜けながら自分の席を目指す。滑り込むようにベンチに座ると黒板側の引き戸がガラリと開いて、いつもよりもほんの少しだけ身だしなみに気をつけてきたらしい担任の教師が現れた。余裕のある足取りが教卓に辿り着く前に、今日の日直が妙に誇らしげな声で号令を出す。
「起立!」の声に、サスケはうんざりした気分でもたもたと重い腰を上げた。
さあ、これから50分間。苦行の時間の始まりだ。

  * * *

「ひとりきり」というものについて、これまで漠然と考えたことはあったけれど、実際なってみるとそれまでの想像がいかに甘っちょろいものだったのかがよくわかった。
優秀過ぎる兄と比べられて劣等感の塊だった頃、自分は家族の中でひとりきりだと勝手に思ったりした事もあった。だが現実に本当の「ひとりきり」になった今は、当時の自分を思い切り罵倒してやりたくなる。あの頃、なんだかんだと拗ねていたって慰めてくれる母親がいたし、父親だって決して自分を完全に無視していたわけでもなかった。確かに笑顔を向けてくれる事は少なかったけれども、一緒に食事を摂っている時に話しかければ、他愛ない話題だったとしてもそれなりに相槌を返してはくれたり、時にはアカデミーでの様子を訊いてきてくれたこともあった。
甘えたいと思えば、多分いつだってその腕は俺を優しく迎え入れてくれたのだと思う。……既にあの人達が死者となっているせいで、若干自分に都合のいいように思い出が改竄されていたとしてもだ。
「これ、一枚ずつ取ったら後ろに回してって」
前の席の女子が、紙の束を渡してきながらそう告げた。
ああ、と適当にこたえながらそれを受け取ると、振り返っていた顔がぱっと前を向く。
肩の上で切りそろえられたピンク色の髪が、その勢いで一瞬扇のように広がった。
「……なによサクラ、なんでそんな急いで前見てんのよ」
ピンクの隣に座っている黄色いショートカットが、詮索するように隣に話しかけた。
なんか、意識でもしちゃってるわけ?
ちらりとこちらを盗み見るようにしてから、少し下を向いているサクラの顔を覗き込む。たしか、こっちのショートカットの方はイノとかいう名前だったか。正直クラスメイトなんて全員どうでもいいと思っていた(というか今でもどうでもいいと思ってる)ので、未だに名前と顔が今ひとつ一致していない事が多いのだが、このふたりはやけによく視界に入ってくるようでなんとなく名前を覚えている。
「……違うよ、うしろ、目が合っちゃったの」
今日、うちお父さんが来てるんだ。心底嫌そうな声で、サクラがそう言うのが聴こえた。
「超普段着だし。もしあのくだらないダジャレを他のお父さんやお母さんと喋ってる時に言ってたら、ホント最悪なんだけど」
「あー……確かに、あんたのお父さん、結構キョーレツだもんねェ」
「せめてうちのお父さんも、イノのとこみたいに上忍だったら良かったのに。来てくれなんて一言も言ってないのに、わざわざ見にきちゃってさ」

……ホント、恥ずかしいよ。

消え入りそうな声でそう言ってのけたサクラに、イノが苦笑いを浮かべた。決してそのサクラの暴言を諌めようなどとは思っておらず、むしろ「ああ、そうだよねー」と同情しているかのようだ。
(……いいじゃねェか、見に来てくれる家族がいるだけでも)
ムカムカとこみ上げてくる不快感を必死で無表情の中に押し込めながら、サスケは思った。
うちはの惨劇からたったひとり生き残った自分が、収容された病院を出てアカデミーに復帰したのはまだひと月前の事だ。大人達は皆あの事件を知っているはずだと思うが、事件の内容が内容なだけに子供達にまでそのあらましを事細かに語っている親は決して多くはないようだというのが、この一ヶ月の間アカデミーで過ごしたサスケが得た感触だった。もしかしたら、火影あたりから父兄達に対して箝口令のようなものが出されているのかもしれない。クラスの中で数人、訳知り顔でうちはの血が自分を残して全て絶えた事を吹聴しているヤツらもいたが、さすがの彼らも事件の詳細までは聞かされていないようだった。
もし聞いていたとしたら、あんな風にクラスの真ん中で「あいつ以外全員死んだらしいぜ」なんて言えなかったのではないだろうか。
……その惨劇の犯人が、生き残りの実の兄であることを知っていたら。俺が、被害者であると同時に、犯罪者の家族でもあると知っていたら。
少なくとも、あんな得意げな顔でまるでとくダネを披露するかのように、仲間内に話をしたりはできなかったのではないだろうか。

「さあ、では今日の課題は作文です。さっき回した原稿用紙は、もう全員受け取りましたか?」

気取ってしゃべりだした担任の言葉に、いつもよりもいい子ぶった声が「はーい」と答えた。
なんだこの声。普段だったら作文なんて聞いた途端、ブーイングの嵐になるくせに。
胸の内で悪態をつくサスケには目も留めず、うんうんと満足気に頷いた担任は黒板に向き直ると、小気味良い音をたてながら手にした白墨で大きく文字を書いた。几帳面そうな文字が縦一列に並ぶ。


題 『ぼく、わたしのそんけいする人』


(……でたな、このおべっかつかいめ)
明らかにこの授業参観を意識したそのタイトルに、サスケは辟易とした。この担任は確かに教え方も丁寧でわかりやすいとは思うのだが、やたら生徒の親に対して媚を売るような言動が多いように思う。
おおかたこの場で生徒達に作文を読み上げさせて、観衆の感動を誘おうという魂胆なのだろう。子供達だって馬鹿ではないし、親や担任の求めているものくらいこの年齢ならすぐに察しがつく。しかもこの後、帰り道は親と一緒に歩くことになるのを考慮すれば、自ずとやるべきことはわかってくる。ここで親の機嫌をとっておけば、今日の帰りに何かいい目にあえる可能性が高いという、小狡い知恵も働くはずだ。
「30分間、今から時間を取るのでその間にその原稿用紙一枚以内でこのタイトルの作文を書いてください。書き終わったら、無駄話をしないで静かに待っていること」
白墨を置いて教卓に手をついた担任教師はそう説明すると、演技掛かった仕草でちらりと腕時計を確認した。そうしてから再び前を向き教室中を見渡すと、ニコリと破顔してこう宣う。
「今日はみなさんのお父さんお母さんが大勢見に来てくれているし、折角だから後で自分のお父さんお母さんにもそれぞれ聞いてもらうことにしましょうか」
うえーっという声が湧き上がった。なんだよそれー!などと文句を言うヤツもいる。しかしどの声も、完全に嫌がっているわけではないのがうっすらと感じ取れた。多分、イヤなんだけど先生からの命令だから仕方なくてさ、というポーズを取るための子供なりの根回しだ。

「ちゃんとお父さんお母さんの前で読めるよう、真面目に書くこと!――では、始め!!」

担任教師の合図と共に、そわそわと動き回っていた子供達の頭が一斉に下がった。すぐに書き出している者は数える程しかいなかったが、皆とりあえず原稿用紙とにらめっこするところからスタートするのは同じのようだ。
(尊敬する人、ねェ)
まあ殆どのやつらは、「お父さん」もしくは「お母さん」といったところか。
さして感動もなく、サスケは眼前に広がっている光景を見渡してそう推察した。まだたいして里や忍者の歴史について学んできていない低学年のうちは、尊敬する人物を考えろといったところで高が知れている。あとはせいぜい、火影くらいか。もしかしたら何人かは誰も知らないような偉人の名前を出しているかもしれないが、それだって本気で尊敬している訳ではなくて、半分以上は自分の博識をひけらかしたいだけだろう。
(……まあ、俺も書くなら「父さん」あたりかな……)
そんな事を思いながら書き出しを考えてみたが、さっぱり思いつかない。ならばと「母さん」でも推敲してみたがやはりダメだ。
――そりゃあ、そうだ。何度か書き出しては諦めるのを繰り返してみて、やっと気がついた。
だって、どんないい言葉を駆使して書いたところで、もうあの人達には読み聞かせる事はできないんだから。読んでもらいたい相手のいない作文なんて、そんな書き甲斐のないもの真面目に考えるだけ馬鹿らしいじゃないか。
ぼんやりと、入学してすぐの頃にも一度あった、参観会の事を思い出した。
そうだ、あの時は母さんが来てくれたのだった。艶のある長い髪がゆったりと櫛られて、他所行きの服を着て教室の後ろに立っていた母さんはとびきりキレイで。贔屓目無しで見ても自分の母親がクラスで一番の美人であるのが見て取れて、それがとても誇らしかった。普段は滅多に拝むことのできない紅を差した唇が色っぽくて、なんだかドキドキしたのを覚えている。そういえばあの日の晩には、頑張っている姿を見せてくれたご褒美だといって、夕食には俺の好物ばかりが並んだのだっけ。沢山の皿がひしめく食卓を見下ろして、まったくお前はサスケには甘いなと母親に言った父さんの呆れ顔が蘇る。
――どくん、と胸がひとつ鳴った。
そうだ、あの人達は確かに生きていたのだ。温かかったのだ。
あの日、あの場所で、俺が見たものと、間違いなく同じ人達なのだ。


……冷たい板間で、折り重なっていたふたつの骸。
開けられたままの窓から射す月光に、赤黒い血溜まりが広がっていくのが見えた。
投げ出されるように伸ばされた、母さんの腕が、白くて。
大好きだった長い黒髪が、流れ出た血に浸されて房のようになっていた。
父さんの広い肩が、やけに、重たそうに、沈んで。
その固くなっていく二人の後ろで、音もなく、あいつが、…………あいつが。


はあ、と呼吸が大きく乱れるのがわかった。
規則正しかった心臓がやたら大きく早まっていくのを感じる。
真っ白の原稿用紙を見ていたはずの視界が、何故か赤く染まっていった。
頭の遠いところでチカチカと瞬く光。あれは何なのかが解らなくてひたすら不安ばかりが募る。
得体のしれないそれが、とてつもなく恐ろしく危険なものだという事だけが絶えず胸に迫って。
……光の奥でじっとこちらを見ている巴紋。
温かいと思っていたその手から投げ放たれた刃が、俺の皮膚を切り裂いて後ろで乾いた音をたてる。熱い痛みが走り、噴き出した血が生暖かい。文様を変えていくその赤い瞳が怖くて仕方がないのにどうしても瞳を逸らす事が許されない。怖い…怖い!助けて、殺さないで!叫ぶ自分の声だけが無数の死体が転がる集落に虚ろに響き渡って…………


「……スケ、サスケ!!」


自分の名を呼ぶ甲高い声に、遠のいていた思考が呼び戻された。
おろおろと視線を上げれば、原稿用紙の載った長机の向こう側にどぎついオレンジ。
きーてんのかってばよ!!とけたたましく喚く声の主は、クラスで一番の落ちこぼれ野郎だ。
「あれ?オマエ、なんかやけに汗かいてねェか?顔も青いし」
「……うるせえ。あっち行けよ」
整わない息を抑えてそう告げると、やたら視界でキラつく金髪の下の顔が思い切り不機嫌に歪んだ。入学してすぐの頃からどういう訳だか自分をライバル視してきては一々突っかかってくるコイツが、俺はどうにも好きになれない。
「なんだよ、センセーの話聞いてなかったのかってば。親が来てないヤツは子供同士で組んで、書いた作文を発表しあえって、今また言われただろ」
キンキンと耳障りな高音でそうまくし立てると、ナルトは偉ぶった態度で腕を組んで「ふん」とひとつ鼻を鳴らした。そういえば、さっき作文の説明をしている時に担任がそんな事を言っていたような気もする。作文のために与えられた30分はとうに終わっていたらしく、あたりを見回してみればいつの間にかそれぞれの子供達の席の前には親たちが立っていて、我が子が読み上げる作文をニコニコしながら聞いていた。
「だからってなんで俺とお前が組まなきゃなんねェんだ」
「だって、今日親が来てねェの、オレらだけなんだもんよ。他に選びようがねーってば」
さっきよりも気持ち小さくなった声でそう言ったナルトは一瞬口を尖らせたが、急に何故かほんの少しだけ笑顔になると「まーまー、とりあえずオレのから先に聞くってばよ!」と言って背筋を伸ばした。
「……聞きたくねェ。どっか行ってひとりで読んでこい」
「んなっ…!!オマエ、オレの名文を聞きたくねーのかよ!」
「ドべの書いた作文なんて聞くだけ無駄だ」
「……じゃあ!オマエの作文だってオレ聞いてやんねーぞ!いいのか!?」
「頼まれたって聞かせたくねーよ。ていうか読みたくねェし」
ムッカー!!と叫ぶナルトを無視して、さりげなく空白のままの原稿用紙を裏返した。こいつに読む読まないは別として、このまま白紙でこれを提出するのはちょっとマズいかもしれない。
……でももしかしたら、この作文は両親へのプレゼントにするようにと、今日は回収しないままで終わるというパターンもあるんじゃないか?
唐突な思い付きだったが、自分でも中々に冴えた推察に思えた。あの担任だったら、きっと生徒の作品を読む云々よりも父兄の満足度の方を優先するだろう。
「なんだよなんだよ。オレってばせっかく今日は頑張って書いたのにさ!!」
しつこく食い下がってくるナルトが、きゃんきゃんと言い立てた。落ち着きのない早口が何時にも増してうっとおしい。
「今日はって何だ、今日はって。いつもちゃんと書けよ」と追い払うように言い捨てると、「だってさ…今日は、書いた作文、聞かせるヤツがいると思ったからさ」とかすかな上目遣いの声が聴こえてきた。

「いつもは、オレの作文なんて先生以外誰も見てくんねーし」

拗ねたような口先とその言葉に、急に腑に落ちた。
ああ、そうか。事情はよく知らないが、コイツも親がいないから……今の俺同様、作文なんて、これまでずっと書く気がしなかったのだろう。
「……わかった。しょーがねェから一応聞くだけは聞いてやる」
溜息をつきながら渋々「さっさと読めよ」と告げると、ぱっと青い目が明るく見開かれた。コイツ、ほんっとうに考えてる事が表情に出やすいんだよな。こんなに感情がダダ漏れで、一体どうやって忍者になるつもりなんだろう。
呆れかえるサスケを余所に、んっんー!!ともったいぶった咳払いをしながらナルトは背中をしゃんと伸ばすと、賞状でも読み上げるように両腕を前に突っ張った。何重にも折り上げたブカブカの上着の袖から突き出た手首が、異様に細く映る。出し抜けに目に入ったその光景に、(……コイツ、いっつも何食ってんだろ)とちらりと思いながら、何故か少し緊張しているらしい小麦色のほっぺたを見上げた。
「『はいけい、オレのそんけいする人は……」
「……ちょっと待て!いきなり最初からおかしいだろ!!」
なんで『拝啓』から始まるんだ!?と突っ込むと、ナルトは「え?違ってたってば??」と不思議そうに返した。どうやら、本気で作文を書くのは生まれて初めてらしい。「拝啓は手紙を書くときに使う言葉だ」とげんなりしながら伝えると、「そっ…そんなの知ってるし!ジョーダンだよ、ジョーダン!!」と慌てふためいた顔が赤くなった。
「とにかく、もいちど最初から!『オレのそんけいする人は、よんだいめほかげです……』」
「なんで三代目じゃねェの?お前の世話してくれてんの、三代目だろ?」
「あんなジジイはノーセンキューだってーの!!口うるさいし、エロいし。……てかオマエ黙って聞けよ!今からがいいところなんだから!」


『オレのそんけいする人』
オレのそんけいする人は、よんだいめほかげです。なんでかというと、ほかげになっただけじゃなくて、いのちをかけてさとをまもったえいゆうだからです。オレもいつか、そんなえいゆうになりたいです。でもって、ぜってーほかげにもなります。


「うずまきナルト!」と最後に誇らしげに自分の名前を読み上げると、その余韻も消えないうちに原稿用紙の陰から青い瞳がこちらを伺うように覗き込んできた。興奮した鼻の穴がふくふくと広がっている。……いや、そんな期待に満ちた目で見られても。
少し困りながらも特に返すコメントもないままじっとしていると、しびれを切らしたナルトの方から「…どう?」と訊いてきた。
「…どう?って言われても」
「かんどーしただろ?いい話だっただろ?」
「いや、お前がいつも言ってることとほぼ同じだし」
「四代目ってのが意外じゃなかった?」
「そうか?結構他にも同じ事書いたヤツいるんじゃねェの。そんなに古い人じゃないしよ」
あと、短い。最後にそう付け加えて感想を終えると、目に見えてオレンジの肩が落ちたようだった。燦々と光を弾いていた金髪も、心なしかしょげて萎れたようだ。
「……オマエってさ、なんか優しくないよな……」
ハア、と深く息を吐きながら言われた言葉に、さすがにムッときた。優しくないってなんだ、優しくないって。なんでそんな事こいつなんかに言われなきゃならないんだ。
「うるせェ、余計なお世話だ。用が済んだならもうどっか行けよ」
「なんだよ。まだオマエの分、聞かせてもらってないってばよ」
ほら、読めよと促されて、はたと自分の現状に気がついた。そうだ、一文字も書けてないなんて事をこんなヤツに知られたら、ロクな事にはならない気がする。
「……俺のはいいんだよ。ナルトなんかに聞かせたくない」
「なにィ!?『なんか』ってなんだよ、『なんか』って!オレの作文聞かせてやったんだから、オマエのも教えろってばよ!」
「はァ?テメエが勝手に読み上げてきたんだろが!」
とにかく読みたくない、と断固として突っぱねると、不満で一杯の阿呆面がさらにぶうたれた。
裏返しにされたままの原稿用紙に目を落とすと、ニヤリとその顔が悪巧みを思いついたかのように歪む。
「わかった、読み上げるのが嫌ならせめてなんて書いてあるかだけでもオレが読んでやるってば」
「なっ…いらん!!そんなの誰も頼んでなんかいないだろーが!」
「遠慮なんかすんなって」
「してねェよ!!」
手のひらだけでなく肘から下を全面に使って返されそうとする原稿用紙を必死で押さえつけていると、ふとその強行に出ていた小さな手のひらの動きが止まった。訝しく思いながらも屈むように丸めていた上体から力が抜けないよう注意しつつ、そっと見上げてみると、何かに気がついたかのように口を「あ」の形に開いたナルトが目に入る。

「……もしかして、書いてないの?」

出し抜けに図星を言い当てられると、一気に焦る気持ちが噴き上がった。咄嗟に返す言葉が見つからなくて中途半端に開いてしまった口許に、ナルトが納得したような顔になる。その妙にわかったような表情が無性に腹立たしくて、思わず「んなわけあるか!」と叫んでしまった。
「……ウソだ。書いてないっていうか、書けなかったんだろ」
「書いてある!決まってんだろうが」
「じゃあ見せてみろよ」
「嫌だ」
「ほら、やっぱり。隠すことねーって」
「隠してない!お前なんかに見せたくないだけだ」
あっち行け!!と吐き出すように言うと、机の上に乗せられていたナルトの手が静かに引っ込められた。細っこい腕がゆっくりとオレンジのジャケットの脇に落ちる様が、屈めたままの視界に映り込む。やっと諦めたらしいナルトの様子に、そろそろと背筋を伸ばして座り直すと唐突に「なあ」とナルトが声を掛けてきた。なんだ、まだやるつもりか。いよいよしつこいクラスメイトに嫌気が差してきて、返事を返さずこのまま無視してやろうと思っていると、更にもう一度「なあ!」と呼ばれる。

「オマエってさ、いっつもそうやって、全部自分ひとりだけで片付けようとするよな。……誰かに助けてもらいたいとか、思わねェの?」

聞きようによっては嫌味かとも思われた質問だったが、雑味のない声色から感じ取れたのは素直な疑問だけだった。心底不思議に思っているらしい、あまりにもクリアなその響きに、思わず知らんぷりをしようとしていた顔が上がる。
「……別に。俺は、他人に頼らなくてもだいたいの事は自分で出来るし」
呟くように返した返事は、投げつけられた問いと比べると随分と歯切れが悪く聴こえた。なんだか居心地が酷く悪い。
「そっか、オマエってば確かになんでも出来るもんな……ムカツクけど。でもさ、ひとりじゃ出来ないことって、いっぱいあるだろ?」
おそろしくはっきりとした口調でそう言ったナルトは、静かに首をかしげた。
「話を聞いてもらいたい時とか、大笑いしたい時とか。楽しい事って、だいたいひとりじゃできねェってばよ。そういうの、したいって思わねェの?」
「俺は別に、楽しくなんかなくたっていい」
突き返すように反論すると、驚いたように青い目がまたたいた。嘘だろ?本気でそんな事言っちゃってんの?とでも言いたそうな表情だ。
「楽しくなくていいのかってば?」
「いい。……そういうくだらない事は、俺には必要ない」
「ふーん、だからオマエってばこの頃そうやって下ばっか見て、つまんなさそうにしてんだ?」
丁度ナルトに指摘された通りに、正面からの視線を避けるように斜め下を見ていたサスケは、直球で投げつけられた言葉にぴしゃりと頬を叩かれたような気がした。お前なんか何も知らないくせに、という科白が喉元にこみ上げる。親も友達もいないコイツには、うちはの惨劇を教えるような輩が周りにいないのだろう。それでもしばらくアカデミーを休んでいたサスケが、以前とはどこか違った雰囲気になって戻ってきたのを、ナルトなりに敏感に感じ取っているようだった。
「まあスカしてんのは前からそうだったけど、この頃特にさ」
「――お前、マジでウゼェよ。これ以上俺に関わってくんな」
続きを言いかけたナルトを遮るように、サスケは拒絶の言葉を吐き捨てた。意図してキツい科白を出したつもりだったが、頑なな声はその科白以上に強く相手を打ちのめしたらしい。滅多に懲りることのない彼には珍しく、かすかに傷ついたらしいその顔を放置して横を向くと、さすがのナルトもやっと諦めがついたようだった。
何度か振り返りながら前の方の席へ戻っていく小柄な背中を、横目で確認する。
深く息を吐きながら頬杖をついて、なんとなく落ち着かない気分で窓の外に見える校庭の木立を眺めていると、すっかり上機嫌な様子の担任が手を打って合図をするのが聴こえた。
「それではみなさん、お父さんお母さんに作文を聞いてもらいましたかー?」
あちこちで笑い声の上がる教室に参観会が成功で終わりそうだと確信したのか、授業終了間近になって担任教師の満足気な声が大きく広がった。
はあい、という返事をご満悦の表情で聞き届けると、またちらりと腕時計に目を落とす。

「じゃあ、少しだけ時間が残ったので、誰かひとりに代表で前に出て書いた作文を発表してもらいましょうか。そうですね、今日は五日だから……出席番号、五番の子!」

ぎくりとした肩が、迂闊にも一瞬跳ねてしまった。
前方に座る金髪頭が、ゆっくりとこちらを向く。
あいつにはすぐにわかったようだ。そりゃそうか、出席番号は俺と前後だもんな。
振り返った間抜け面が、(おいおい…どーすんだよ)と語っている。
出席番号はあいうえお順だ。秋道、油女、犬塚、うずまき、
……そして、俺。

「五番、誰だったっけ?早く前へ出てきて」

時間がなくなっちゃうよーとおどけたような担任の催促の声が、無性にイラついた。それでもどうにか無表情を貫いて、泰然とした動きで腰をあげる。立ち上がった生徒が誰なのかを確認すると、一瞬担任の表情に戸惑いが生じた。(しまった、この子か)という顔だ。しかしその影も、すぐに浮かべられた鷹揚そうな笑顔によって瞬時にかき消された。まあ、この子ならそこそこのものを仕上げている筈だ。これはこれでまあいいだろうといった考えが彼の脳裏を過ぎったのが、子供心にもわかった。
きし、と踏み出した足に、床板が軋む。
一斉にこちらを見る小さな顔。それと共にぐるりと教室内を取り囲んでいる、大人達の視線が背中に背負った紋に集まるのを感じる。

「……あの子。ほら、あの……」
「ああ、あの子が……生き残りの」

実際の声は届いてこなくとも、それぞれの顔を見合わせる大人達の仕草で交わされている言葉は大体見当がついた。ここひと月で、嫌になるほど聞かされてきた会話だ。
小さなさざめきは一箇所で収まったかと思うと、また違うところで再び広がるというのを絶えず繰り返しているようだった。そう広くはない教室内で、その波は静まる事がなさそうだ。
羽虫が飛び交うような密やかな会話の合間に、かわいそうに、という声がかすかに聴こえる。

「かわいそう」?――ああ、かわいそうなのか、俺は。

今更ながらに世間から自分へ向けられている視線の正体がわかってしまい、胸の奥がきゅうと絞められたようだった。悔しいのと居た堪れないのがごちゃごちゃに混ざったような感情の中で、ほんのかすかに「恥ずかしい」と思ってしまう自分を見つけてしまう。恥ずかしい?なんでそんなみっともない思いを持つ理由がある?そう考えてみたら、何故だかさっきまで自分を見下ろしていたナルトの曇りない瞳が思い浮かんだ。家族も、力も、何ひとつ持っていないあいつ。
――そうか、「かわいそう」って、同じ高さから出る言葉ではないんだな。
かつてナルトに親がいないと誰かから聞かされた時に、自分が同じ事を思ったのをサスケは思い出した。俺も確かに、あいつに対して「かわいそうにな」と思った事があった。親も兄弟も、全てを持っていた頃。名門の家系に生まれ、明るい未来を疑いもしていなかった頃。今この場で俺を見て囁きあっているやつらは、まさに昔の自分と同じだ。上から見下ろして、勝手に他人の不幸を決め付けて、「かわいそうなやつ」という烙印を押し付けていた、かつての自分。
……一段高い位置にある教壇に、静かに足を掛けた。教卓に原稿用紙を広げ、前を見る。
特徴的な黒髪と闇色の瞳に、囁かれる声のトーンがまたひとつ上がった。
落とした声で交わされる会話の断片に、あれがうちはの、という言葉が添えられるのを耳が拾う。

(……さあ……どうしようか)

結構、追い詰められているな。
妙に凪いでしまった頭が、冷静に状況を判断した。
真っ白なままの原稿用紙に目を落とす。
行き当たりばったりでいいから、即興で適当な作文を作ってしまおうか。
そう思いもしたが、さっきあれだけ考えても思いつかなかったものが今出てくるはずもなく。
黙りこくって時間稼ぎをして、授業時間が終わるまで粘るか。いや、いくら頑張っても、無言のままでは精々二三分が限度だろう。
――正直に、書けてないのを告白してしまおうか。
それができればどんなに楽だろうと思った。でもそれだけはダメだ。書けなかった理由を、周りはどんな風に想像するだろう。事件のショックからまだ立ち直れてないのね、だろうか。それともエリートだなんて言ってても、生き残った子をみるとたいしたことないな、だろうか。いずれにせよこれ以上、「かわいそう」だなんて思われたくなかった。うちはの名を、そんな憐れむような視線で塗りつぶされたくない。
黙りこくったままの時間が、永遠に感じられた。
うっすらと異変を感じ始めた聴衆が無駄話を止め、こちらに注視しだす。
つくられた静寂が耳に痛い。集められた無遠慮な視線に、壇上の脚が怖気付きそうになる。


………ヤバい。ちょっと、泣きそーだ………


――だん!!
俯きそうになった瞬間、硬い机上を叩く力強い音が、異様な程音が消えた教室にこだました。
驚いた俺の喉が、「ひゅっ」と湿った風切り音をたてる。
音のした方で、ボサボサの金髪が勢いよく立ち上がるのが見えた。大きく腕を振ってずかずかと前に出てくるナルトの姿に、ただただ呆気に取られる。
教卓を挟んで真正面に立ったナルトの目線が、俺の目を真っ直ぐに射抜いた。
そこに何を確かめたのか、心得たようにひとつ空色の瞳がまたたくと、色の薄い唇がすうーっと深呼吸をするのを現実感のないままで見守る。


「わあァァァァァ――っ!!!」

肺の中身を全部吐き出すような、大音量の叫び声があがった。あの小さな体の何処にあのパワーが潜んでいるのだろう、教室に収まり入れなかった雄叫びが、外の廊下にまで響き渡る。
圧倒的な声量に度肝を抜かれ放心する俺を余所に、ナルトは教卓に乗せられたままの白紙の原稿用紙をさっと攫うと、持っていた自分の作文と重ね盛大な音をたてて派手に破りだした。びいーっという紙の裂ける音だけが、置いてけぼりをくらわされた観客の間を漂う。

「……ナ、ナ、ナル、トォ!!」

我に返った様子の担任が、怒りに声を震わせながら足を踏み鳴らし近づいてきた。血がのぼったその顔は授業の締めを台無しにされた腹立たしさからか、まるで赤鬼のようだ。
首根っこを掴まれて後ろに引き戻されようとしても尚、必死で細い体を踏ん張りながらナルトは細かくなった原稿用紙を更にしつこく千切り続けていた。まるで、……そう、まるで、二枚の紙を、完全に混ぜ合わせてしまおうとしているようだ。
「いい加減にしろ!いつもみたいに自分が書けてないからって、またこんなサスケをやっかむような事をして!」
この、落ちこぼれが!!
耳元で怒鳴られた言葉に、それまでずっと無視を続けていたナルトが、振り返って担任を睨みつけた。蒼天のような瞳が、今は燃えるような抗う色に染まっている。
しかしすぐにまた顔を前に戻すと、小さな両の手のひらが、教卓の上で山盛りになった原稿用紙の残骸をすくった。
上目遣いのナルトと、一瞬だけ視線が絡み合う。
……その口許が、ニヤリと不敵に笑うのを見た。

「……ちょっ……止せ、ナルト!!」

担任の制止など歯牙にもかけず、次の瞬間白い紙吹雪が天に向かい一気に放たれた。
静まり返った教室で、はらはらと舞い落ちてくる紙片。
まるで季節外れの雪のようにも見えるそれは、呆然とする観客達を軽やかに笑い飛ばすかのようにふわふわと虚空を漂うと、静まり返った教室の床や机にゆっくりと降り積もっていった。
後ろに居並ぶ大人達も、ぽかんと一様に口を開けたまま上を仰ぐ子供たちも、彼らの前に広げられた原稿用紙も、全てが清廉な粉雪に淡くぼかされていくようだ。

「うわ……なんか、ちょっと、キレイかも」

ぽつりと呟かれた言葉は、誰のものだったか。
しかし確かにその非現実的な光景は素晴らしく幻想的だった。
さっきまでミシミシと悲鳴をあげていた胸が、儚く美しい情景に否応なく騒ぎ出す。

「……ナルトォォ……!!」

ぎりぎりと奥歯を軋ませた声に、白昼夢のような光景に溶けていた思考が戻された。
得意気に鼻を擦るナルトの後ろ、憤怒の形相となった担任のゲンコツが容赦なく金髪の脳天に落とされる。ゴツン、というかなりの痛みを伴っていると思われる音に、思わず見ていたこちらの方が目を瞑ってしまった。
「お前ってやつは……せっかくの授業参観を台無しにしやがって!皆が帰るまで、お前は外で立ってろ!!」
ブカブカのジャケットを手加減なしの力で掴まれて、つまみ上げられるように教室の外へ放り出されようとしたナルトが、最後にちらりとこちらを見た。目が合ったのがわかると、その口がぱくぱくと無声のまま動く。
……なに?「あ」「ら」「え」?……いや、違うな。


「わ」「ら」「え」――笑え?


音の無いメッセージと共に、にいっと破顔する馬鹿を見た。
底抜けの笑顔。あいつのあんな顔を見るのは、多分はじめてだ。
(笑えって……笑えるかよ、このウスラトンカチが!)
きっとこの後ここの掃除をやらされるのもアイツだろう。教室の隅々にまで撒かれた紙片を残さず集めるのは、相当骨が折れるに違いない。
まったく、やることが無茶苦茶だ。荒っぽすぎるし、これじゃ悪戯にしか見えない。損をするのはアイツばかりで、そこまで考えてやっているのかといえば多分そんな深い考えの元で動いている訳ではないのだろう……でも。

「サスケはもういいから、自分の席へ戻りなさい!」

まだ怒りが収まりきらない様子の担任に促されて教壇から降りると、下を向いた拍子に頭に乗ったままだった紙片がひらりと落ちてきた。
揺らめきながらゆっくりと落ちてきたそれを、広げた片方の手のひらで受け止める。
(しかしこれがぶちまけられた瞬間のあの顔は……確かに、傑作だったな)
ふと滝のような汗を流しながら焦って目を白黒させていた担任の姿が脳裏に蘇えると、改めて胸のすく思いがした。
こわばっていた頬の筋肉が、いつの間にか柔らかく緩んでいるのに気がつく。

(……まあ、今日のところは、ひとつ「借り」ってことにしといてやるか)

手の内にある溶けない雪をそっと握りしめると、サスケはその手をポケットに突っ込んだ。
ざわめきを取り戻した教室で、床に積もった紙吹雪が足取りの軽くなったサンダルにじゃれつくようにまとわりつく。
終業のベルが鳴る。
下を見るのをやめた視線の先に、廊下でぴょこぴょこ跳ねる金髪が見えた。





【end】
SDで参観会ネタがあったので便乗してできたもの。いっぱい泣いてきたからこそ気が付ける兆候って絶対あると思う。