ごはんのうた

それは白くて丸く、いかにも平和的なつるりとした肌をしていた。
のっぺりとした顔は横に広い。そして御多分にもれず、場所を取るやつだった。
縦にも横にもできず、ただどしりとそこに居座るだけ。上になにか他を重ねるには形状的なバランスが悪く、かといって下にものを置くには、そのぶ厚い地は重過ぎた。温厚そうな外見は意外にも、棚に入れてみると高さが要る。極め付けがその持ち手だ。人の両耳のようなそれは大した大きさでもない癖に、その職務を果たす時以外はただひたすらに邪魔である。
そのような各理由により、どこの収納先からも受け入れ拒否された彼は、そうして今日も剝き出しのまま置かれているのだった。
弱い冬の陽の入る台所で、使われるでもなく、かといって大切に仕舞われるでもない。 ただただ火の消えた五徳の上で、いたずらにぼんやり乾く日々を送るばかりだ。
なんの話か。土鍋の話である。


それを持ち込んだのはナルトだ。そもそもがオレは、最初から歓迎はしていなかった。
発端はひと月ほど前、カーテンを買いに出掛けた時の事だ。当時我が家のカーテンはふたり暮らしを始めた時にナルトの部屋からそのまま流用したもので、ぶら下げてみると床から裾までの隙間が、常に十センチほど開いてしまうというものだった。変だと思いつつも外から見えるものでもなし、第一もったいないしという事でここまできてしまったのである。しかし日ごと気温を下げていくこの時期、どんどん外からの冷気を侵入させるそれに、協議の末(この色オレ気に入ってたし、結構高かったのに云々というのが温存派であるナルトの主張だった)やはりサイズの合ったものを誂えるべきという事になったのだった。
十一月十七日、霜月も半分を過ぎた金曜。
そういったわけでその日オレ達は、人で賑わう里の中心部で買い物をしていた。
(……ああ、そういやそんな季節でもあるか)
不覚な事に、先にその展示に気がついてしまったのはオレだ。カーテンコーナーから見える一角。そうして訪れた店の中で見つけたのが、いかにもな雰囲気で並べられた鍋セットの展示だった。カーテンなんてそこらの量販店で安価なものを買えばいいだろうと考えていたのに、ナルトに誘われ連れていかれたのは妙に洒落た雰囲気の、生活用品を扱う店だ。
久々に揃ったオフ日、ただの買出しと平常運転のままでいたオレとは違い、ナルトはやけに張りきっていて、前々からここの店の事をサクラ達にリサーチしていたようだった。ナルトはオレと出掛けるのが異様に好きだ。だってデートじゃんか、盛り上がるに決まってんだろ! というのが本人の弁である。
(まぁあればあったで使わなくもねえが、しかし)
すげえ場所取りそう、あれ。季節の商品だから、ことさら目立つようにという計らいだったのだろう。広い棚を丸一段使って展示された鍋セットに、オレはぼやぼや思った。そりゃ季節柄いいなと思わないでもないが、しかし無いからといって困るものでもない。冬以外は邪魔になるのは目に見えているし、そもそもが陽当たりだけは満点でも、収納スペーズについてはいっさい顧みられていない我が家(まあ男二人の部屋探しなんてそんなものだ)である。あれを収納できるような余地なんてもうどこにもない。
「なに見てんの?」
ぼんやり考えていたところ、ひょっこり入ってきた声にはたとなる。首を突っ込んできたその男に、両肩を掴まれオレは咄嗟にそこのコーナーから目を逸らした。……いけない、オレとしたことが。慌てそうになるところを強いてさり気なく視線を外し、オレは後ろに立つ男へと返す。
「いや別に」
「ふぅん?」
「……なんだか暑いな、ここ」
誤魔化しつつ、さりげなくハイネックの首元を寛げる。新しくオープンしたばかりのこの店は、人も多かったがどうもそれ以上に暖房が効き過ぎているようだ。そういえばこの仕事着のままの姿で外出してきた事も、家を出る前ナルトに「雰囲気がない!」と文句を付けられたのだった。いちいち面倒な男だ。そして十中八九この男があの展示を見たら。
(絶対欲しいとか言い出すし、こいつ)
ありありと思い浮かぶ光景に溜め息が出そうになる。ちらりとでも見たら最後、ほぼ間違いなくナルトはそれを言い出すと思われた。うちが二人暮しの割に妙に物持ちなのは、実は大部分がこの同居人のせいだ。ちょっと面白そうなものを見つけるとナルトはすぐに手を出す。
そして捨てない。飽きてもだ。
じつに傍迷惑な事である。そして『あったか』とか『団欒』などというワードは、そんな彼のもっとも好みとするところだった。まあ彼の色々を考慮すれば理解できなくはないし共感もする。しかし現実的なところでその増えた荷物を整理し管理するのはいつだってオレである。正直個人的には極力荷は少なくシンプルにいきたいのだ。今でさえ隙あらば断捨離を決行してやりたいと思っているのに、これ以上荷物を増やして堪るか。
「そうか? んな首詰まった格好してくるからじゃねぇの」
オフの日くらい、違う格好したらいいのに。そう言っては苦笑し軽くつま先立ちしたままのナルトに、僅かに身構えた。ぐっと肩にかけられてくる体重に、急ぎ言葉を続けることで制止をかける。面倒なんだよ、と言うオレに、背伸びした金髪頭がつとこちらを向いた。空色の瞳が、思惑を無表情に閉じ込め努めてじっと見詰め上げるオレを、ぽっかりと映している。やばい。バレたか?
「……頭の中さえ切り替わっていればそれでいい」
捻りだしたボソボソとしたオレの言葉に、「またそんな」とナルトは妙に愉快げに喉を揺らした。下ろされた踵にホッと内心で息をつく。よし、危機は免れた。
「そういうもん?」
「そういうもんだ」
「そうかもしんないけどでも折角のデートなのにさ。なんつーかもっと、特別っぽさが」
「――で、決めたのか、どれにするか。とっとと買ってもう行こうぜ」
言いながら、さりげなく肩に置かれた手を払う。先程からよそ見していたオレとは違い、なにやらしゃがみ込んではあれこれぶら下げられているカーテンのサンプルを見比べていたナルトだった。…うん? と一瞬気持ちが後を引いたようだが、ひとまずはよしとする事にしたらしい。「ん、これ! これにしようってば」といっては満面の笑顔で引っ張り出されてきたサンプルの、値札を見てオレは仰天した。
「……なんだこの額、高ッけえ……!」
思わず絶句するも、ナルトは「え? そうかな、そんなでもないだろ」などとあっけらかんとした様子だった。そんなわけない。どう考えても思っていた金額より遥かに高い。
よくよく眺めてみるとその店に並んでいる商品は、確かに小洒落てはいるが普段使う量販店よりも明らかに価格帯が上なようだった。冗談じゃない、こんな布切れにそんな額払えるか。そう思いつつざっと見渡した中から、オレは白いタグではなく赤い値引き札の付いた一枚を適当に引っ張り出した。
「こっちにしろ」
「…えええ、なんで?!」
「こっちだ。――馬鹿かお前は、カーテンなんかにンな金かけてどうすんだ」
もっと金掛けるべきとこは他にあるだろうが、忍具だってそろそろ買い足す時期だし。
きっぱり言い渡すと、ナルトはわかりやすくぶうたれた。え〜…でもそれ色も地味だし、全然かわいくないし。文句を垂れる口に軽く無視をして、オレは会計に向かうべくそのサンプルを外す。立派ななりをしているくせに、ナルトはあんがい可愛いものが好きだ。なにしろそれだけを理由に、まるまる太ったカエルのがま口を愛用し続けている男である。
「せっかくサクラちゃん達にオシャレな店教えて貰ったのに」
「知るか。もうこれ買って帰るぞ」
「あっでもサスケそれ、遮光とかも何も付いてないってばよ?」
「そんなものなくていい、それより無駄遣いの方が問題だ」
よし、会計して帰るぞと言い捨ててさっさとオレは踵を返す。
なんだよもー、などと後ろでまだナルトは不満げにしてはいたが、それでも仕方ないといった様子で、周到に件の鍋コーナーを避けつつレジに向かうオレに付いてきていたのだが。


(――なんで在る?!)
その日、帰宅したオレはありえないその光景に、内心で叫んでは絶句する事となった。
雷の国での任務を終え、数日振りに足を踏み入れた我が家。慣れ親しんだ電球の灯りの下ダイニングテーブルの上でオレを待ち構えていたのは、先日やり過ごしたはずの乳白色の土鍋である。
「あっ、お帰りサスケェ!」
明るい声で、奥からナルトが出てくる。先に帰宅した彼は着替えをしていたのか、ベストを脱ぎ気楽な格好となったその頭は、少し乱れて上を向いているようだった。ん~、久々のサスケだあ! と早速抱きついてこようとするその図体からすかさず一歩退く。(えっ?)とキョトンとするナルトに、オレは強く睨みつけた。
「……どういう事だ」
押し殺した声で低く尋ねる。なにが? とまだ首を傾げているナルトに、顎でテーブルの上のブツを示した。
「え? あっ…もう気付いちゃった!?」
「気付くに決まってんだろうが」
「昨日さァ、こないだの店からカーテンが届いたって連絡あって――ほら、うちの窓のサイズが店に在庫なかったからって、取り寄せてもらってたやつ。予定よりちょっと早く着いたっていうからさ、それ今日任務の帰りに取りに行ってきたんだって。そん時に店でソレ見つけて」
冬といえばやっぱ鍋だよな! そうにこにこ言われまた絶句する。くそ、やっぱりそうなるか。どうにか逃げ切れたと思ってたのに、まさか今頃になってこれがやってくるとは。
「返してこい」
げんなりしかけたところ気を取り直し、きっちり告げる。すると気色満面だったその顔は上手く聴きとれなかったのか、「うん?」と首をわずかに傾げた。返してこい、いいから。まだ箱も残ってんだろ、店に言って返品させてもらえ。そう続けられたところでやっと飲み込めたのだろう。一瞬ぽかんとしたその顔はぱちくりとまばたきをすると、途端に「ええ~!?」という顰め面になる。
「なんで?!」
「なんでじゃない。というかそもそもうちに鍋はもうある」
「えー…でもアレこーゆー鍋じゃないじゃん。普通のシチューとかにも使ってるやつだろ」
「兼用でいいだろう。これまでだってそれできたんだし」
「いやでも、雰囲気がさァ」
「重要なのは中身だ」
「う~……けどサスケ、自分だってこれ気になってたんじゃねえの? こないだお前が店でずっと見てたのってこれだろ、そう思ってオレってば買ってきたのに」
当たりだってば? ナルトが言う。その言葉に思わず唖然となると、そんなオレにその男はへへへと笑い、ちょっと得意げに鼻の下を擦った。
なんてったってサスケの事だかんな、オレってばちゃんと覚えてるってばよ!
堂々としながらも、ちょっと頬を染め照れ臭そうに笑う男についキュンとなる。いきおい合ってしまった目に、ふと笑顔を止めたナルトがゆっくり腕を伸ばしてきた。な、だからいいってば?抱き締められた耳元でわずかに湿り気を帯びた声が囁く。……い、いやまあそうなんだが。でもそういう事じゃなくて。現実として置き場が無いわけで。
(……ん?)
視界の端に映り込んだ白。剥き出しの好意と久々に感じる体温につい頷きかけたオレだったが、厚い肩越しにふとそれを見つけてしまうと、ぴたりとその感慨も止まった。
壁際のクズ籠、くしゃりと放り込まれているのはどうやらレシートだ。――…ってなんだあれ、0がいち、に、さん……は? いやちょっと待て。
「おまっ…なんだあの数字は!?」
出し抜けに言ったから意味が伝わらなかったのだろう。オレの言葉にナルトは最初「へ?」と言ったままで、ぽかんとした様子だった。しかしオレの目が向く先を見てようやく気が付いたのだろう。「…あっ!」と小さく叫ぶと長い腕は慌てた様子で抱擁を解き、そそくさとクズ籠に駆け寄ってはその前に立ちはだかる。
見たってば? 青い目でそろりとオレを見上げ、ナルトがおそるおそる言った。
見た。信じらんねえ。なんだあの店、流行りだかなんだか知らねえが、どうして鍋にあんな暴利な価格つけてんだ。つかあっぶねえ、うっかりまたこいつに丸め込まれるとこだった。
「……マジで返してこい、お前」
本格的に息を殺し、大真面目にオレは言った。どう考えても無駄だしもったいない。同じ額を使うなら忍具の買い足しにでも使うべきだ。
「いい加減にしろよ、あんなものにそんな金使うな!」
「た、高くない、高くないってば! 普通だいたいこんなもんだし」
「普通じゃねえよ! こんなのいつも行くよろず屋で買えばこの半値だ!」
「ええ~……で、でもサスケ、あのデザインが気に入ったのかなって」
「なにがデザインだ、どうということもないただの土鍋じゃねえか」
「…ちょっと取っ手がオシャレ」
「むしろ普通よりでかくて邪魔だ」
「うっ…けどいいじゃんそんくらい、なんかナントカっつー有名な窯のナントカ焼きってやつらしいし!」
「知るか、だいたいがどこにアレしまうつもりだお前、シンク下までもう一杯だぞ」
「だ、だいじょーぶだって詰めれば入る!」
「じゃあお前自分でやれ」
「……そういうのはサスケのが得意じゃん?」
「ふざけんな誰も好きでンなこと得意になった訳じゃねえよ!」
勝手な言い分に頭がカッカする。しかしそれをどうにか堪え、一息にオレはまくしたてた。
しかししかしそこに止めを刺したのは、やはりというかナルトだ。 むすっとガキのようにぶすくれた顔が、チラとオレを見ては唇を尖らせた。
「……なんだよ、いいじゃんか鍋くらい。サスケってば案外ちっせえの」
続けられた言葉に、「あ?」とこちらも低い声が出た。「なんだ小さいって」と腕組のまま眉を顰めるオレに、すっかり居直る事に決めたらしいナルトがぐんと顎を突き出してくる。
「じゃあいいってばもう、これオレひとりで使うし」
「…あァ?」
「んなこと言うならさ、サスケはもうこれぜってー触らせないし! 後になってやっぱりとか言ってきても遅いかんな、なんだよせっかく喜ぶと思って買ってきたのに」
言い捨てると、「ふん!」と息巻いたその顔がそっぽを向く。がっちり組まれた腕組みが、置かれた鍋の向こう側で子供じみた意地に肩を張っていた。……なんだその態度、反省しないどころか逆ギレか。昔のままのガキ臭い反応に、落ち着きかけたムカつきがフツフツとまた盛り返しだす。ああそうかよそっちがそういう態度を張るなら、こちらはこちらで勝手にする。
「――上等だ。好きにしろ」
啖呵を切って、一瞥と共にオレもフンと鼻を鳴らす。
以上が事の顛末だ。そういった流れから我が家のガス台の上には、妙に本格的な土鍋が日々居座る事となったわけである。
 

そして戦いが始まった。
戦いというのは、冷戦である。
付き合う前や、付き合い出して同居を始めてからすぐの頃は、オレ達は喧嘩になるとそれはそれは派手にやり合ったものだった。が、今はそうではない。同じような諍いを何度か繰り返しているうちに、自然と解ってしまったのだ。一緒に暮らしていると、派手な喧嘩は不都合が多すぎる。物は壊れるし隣近所に迷惑もかかるし、オレ達の場合ことによれば被害も甚大になる。後でその修復をするのも自分達なのだ。よって出来るだけ静かに、粛々と行われる喧嘩へと時代は移り変わっている。
冷戦というのは、主に心理戦によって行われるものである。
例えば朝。どちらかが先に起きて、ベッドを抜け出し台所に立つ時がある。そうして少ししてからもう片方が起きてきたところに、ちょっとトイレに行こうと思った先起き組が、コーヒーを淹れる手を止めダイニングを出てくるような場面があるとしよう。
廊下で遭遇する今日初めての相方に、お互いじっと黙る。これはどちらが先におはようを言うかについて、ふたりして量り合いをしているのである。
(お前から言えよ)
(ふざけんなてめえだ)
という無言の攻防が、戦場である廊下にてしばし行われる。最終的にはどちらかがぽつりと「…はよ」などと小声で呟くわけだが、しかしだからと言ってこれが負けかといえば、そうでもないのだった。挨拶というのは微妙でかつ繊細な問題なのである。言わせた方は勝ち誇った顔をしているが、それでも言った方は(はーくだらねえ、こんなの付き合ってられるかよ)というスタイルを崩してはならないのである。
そして挨拶を受けた勝者が台所に行ってみるも、先に起きて沸かされていたコーヒー用の湯は、きっちり一人前だけなのであった。冷戦状態とはこういうものだ。うちではお互いの気がなんとなく済むまで、こんな感じの地味なやり取りがニ、三日間続くことをいうのだが。
(クソ……なんだあいつ、今回妙に粘りやがって)
どすん! と買ってきた荷物の重みにダイニングの椅子が軋む。冷戦も開始から一週間以上が経過し、なんだか長期戦の様相となってきた。まあ間にナルトの国境警備の任務が入っていたから、実質お互い顔を合わせていたのはそのうちの数日だけではあるのだが、いつもであればそろそろ終息に向けての空気の緩みが見えてくる所である。しかしそれが一向にない。珍しい事だった。
(やっぱあれか。あん時の拒否が尾を引いてんのか)
 つらつらと思い返しながら、長期化の理由を探る。すぐに浮かんだのは、数日前のナルトの国境警備任務が終わった日の事だった。帰ってきたナルトから夜になって、アレを匂わせる手が伸びてきた事があったのだ。けれどオレはそれを無視した。そりゃもう、徹底的にガン無視した。バカバカしいとは思うが、しかしナルトに対しダイレクトかつ強力に効くのはこの手の拒否技なのだ。いつもだったらなんだかんだ言いつつも、なんとなくニ、三日で終息に向かう冷戦なのだが、長引いているのはたぶんその辺りのことも関係しているのではと思われる。
季節は十二月に入った。任務を終え、帰宅した家の窓から見える外はもう真っ暗だ。
腕を後ろに回し額宛ての結び目を解けば、鋼に覆われていた額がすうっと軽くなる。そのまま数歩いった所にある台所で洗って籠に伏せられていたグラスをひとつ取ると、オレは立ったまま水道の蛇口を捻った。氷水のように冷たいそれがまっすぐに吹き出して、シンクの底で跳ねる。ふちのギリギリまで注いだそれを、ひと息にあおっては飲み干した。
今日は一日かけてのデスクワークではあったが、部屋に暖房が利き過ぎていたせいか変に喉が渇いている。……それにオレとしては珍しく、ほんの少し緊張しているようだった。
実は今日買ってきたのは、水炊きの材料だ。長期化するこの冷戦状態に、オレは正直もう面倒になってきていた。それに触らせないなどと言ってはいたが、結局ナルトの方も例の土鍋を使う気配はいっこうにない――だいたいが向こうだって、オレと一緒に使いたいからこそあれを買ってきたのだろう。間違った事を言ったとは、今でも思っていない。けれど少しだけはオレの方も、出した言葉がきつかっただろうか。今日は向こうもオレと同じく、里内でのデスクワークだった筈だ。予定通りであればそろそろ帰ってくるだろう。そこでさりげなく、今日のメニューを告げればいい。たぶんそれで向こうにも、オレの意志は伝わる。と、思う。
「あ、よかったもう帰ってる。サスケ!」
ただいま! と明るい調子で飛び込んできた声に、ぼんやり考えていた顔が上がる。見えない玄関先、ごそごそとサンダルを脱いでは上がり込んでくる気配を感じていると、ほどなくしてひょいといつも通りの金髪頭がダイニングに顔を出してきた。なんとなく冷戦前のような砕けた空気に、ん? と思いつつもどこかホッとする。「…ああ、おかえり」とこちらも返そうとしたところで、オレは帰ってきたその彼の微妙な違和感に気が付いた。ほんのり眇めたオレの目に、ナルトであってナルトでない顔が映る。
「…分身だな? お前」
「あ、そーそー。さすが、よく解ったな!」
あっさり正体を告げる影分身に、「本体はどうした」 と問う。するとその答えを後回しにして、彼はニシシと悪戯っぽく笑った。「ん、その伝言」 と笑顔のままの口がいう。「伝言?」とオウム返しにするオレに、ウン、と分身は素直に頷いた。
「本体は今日遅くなるって。さっき任務終えて帰ろうとしたら、長期任務から帰還してきたライドウさんたちに会って。なんかオレも打ち上げに飛び入りで参加させてもらう事になったからさ、メシ要らねえし朝までオールになると思うから、サスケは先寝ててくれってばよ」
そんだけ、じゃな!
告げ終えた途端、(ぼん!)と輪郭が消える。慌ただしくもあっけない伝言に、ついぽかんと口が開いた。つまり今日、ナルトは朝までいないという事か。
ほぅ。それはそれは、冷戦中に余裕な事で。
まあ好きにしろと言ったしな。束縛し合うような間柄でもねえし、どこにでも誰とでも行ったらいいだろう。
(――そうかよ。だったらオレはオレで勝手にするし)
ムカムカしつつ、たんっ! と飲み終えたグラスを置く。腕まくりをしてヨシと気合いを入れると、買い物袋をガサガサいわせ、中から買ってきた物を出しテーブルに並べた。鶏肉、白菜、もやし、しいたけ、それから白身の魚が二切れ入ったパックがひとつ。広げられたそれを眺めてちょっと考える。……鱈は少々もったいないか。そう思い冷蔵庫にしまい、代わりに少しづつ残らせてしまっていた数種類の茸類を、野菜室の中から全部拾い上げる。
(なんだあいつ、本当にこれっぽちも自分が悪いとは思ってねえのかよ)
べりっと引っぺがした白菜を数枚重ねまな板に置く。ざくざくとそれを切りながら、苛々とオレは思った。しいたけは薄く切り、その他の色々茸は適当に手でむしる。最後にざあっとザルにもやしをあけて、一瞬迷ってからそのまま水で軽く洗った。もういいだろ髭根は。このメニューは簡単に済ませる事というのが、なにより肝要である。
(そりゃ悪気がないのはわかっているが、でもだからって簡単に許すべきじゃねえだろ)
水気を拭いたまな板に、今度は鶏を置く。繊維を斬るように斜めに削いだそれを、数切れ作って後は冷凍庫にしまった。耐熱ボウルに二カップ分の水を入れ、顆粒タイプのだしを適当に投入する。次いで肉を筆頭に、切った材料をバランスよくボウルに入れる。もやしは全量だ。年がら年中なにしろ安いこいつは、いつだってオレの味方である。
(無駄遣いが問題なのは確かだし。つーかなんであいつやろうと思えばすげえきっちり倹約も出来るし、実際そうやってずっと暮らしてきてたみたいなのに、ここに来てあんなしょうもない買い物しやがるんだ)
ボウルに同じく耐熱用の蓋を被せ、レンジへと放り込む。じっとパネルを眺め、押すべきボタンを選んだ。ピッ・ピッ・ピッと正確にボタンを押せば、確認の電子音が等間隔で台所に響く。ワット数は五百、時間は十分。厳密にそれをまた確かめ直し、ぽんと最後にスタートボタンを押す。
後は待つだけ。オレは正直機械の事はあまり信用していないのだが、この電子レンジという奴の凄さだけは、そんなオレでもこっそり認めるところである。
(ちくしょう、ナルトの奴め――……せっかくこのオレが、ちょっと折れてやってもいいかと思ったところだったのに)


『チーン!』


高らかと電子音が完成を告げる。熱々のそれに気を付けつつ取り出しては、箸で丁寧に椀に盛り付け直した。
湯気の立ち上るそれにふうふうと息を吹きかけ、火傷しそうになりつつもほふほふと口に含む。うん、土鍋なんか使わなくても、じゅうぶん美味い。冷蔵庫内の回転事情により茸尽しのメニューとなったが、旨味が増えてこれはこれでなかなかだ。ナルトがいたら、野菜ばかりじゃないかと文句のひとつは出そうであるが。そんな事をつい考えてしまいながら、ちょろりとポン酢を垂らしついでにチューブのおろし生姜もたっぷり入れる。
(前だったらあいつ、喧嘩になってもすぐに謝ってきたよな)
しゃくしゃくともやしを噛みながら、ふとそんな事を思う。以前やはり冷戦状態のまま、オレが泊りがけの任務に行ってしまった時の事を思い出した。確かちょうど一年前の事だ、二人で暮らし始めてそんなに間もなかった頃。喧嘩別れになってしまった事がどうしようもなく不安になってしまったのか、国境警備の任に就いていたオレのところにまで、ナルトが押しかけて来た事があった。
真夜中、見張り台に突然鼻を真っ赤にして現れたかと思えば、ぐすぐすとオレの手を握りしめ『だってサスケ帰ってきてくれなかったらどうしようと思って』などと一晩隣に張り付いていた、半べその男。
あまりの事に呆れつつも、それでも妙に嬉しかったのを覚えている。
(……まあでも、きっともうああいった事もないだろうな)
まあ長くいればだんだんと、こんな感じになっていくんだろ。すっかりガス台の主のようになってしまった乳白色のそいつを眺め、ぼんやりとオレは思った。考えてみればあの頃は、冷戦ではなく壁に焦げ目を作るような喧嘩をしょっちゅうしていたものだ。
あれはあれで、楽しかった。もちろん今だって楽しくないわけではないのだけれど。
「――…ごちそうさま」
ぽつりとひとり呟いて、きちんと箸を置く。
背を少し逸らし、息をついて前を見ると、目に映るのはカーテンだ。きっちりサイズぴったりのそれ。面白みなど何もないアイボリーのドレープ。


十二月は勢いよく去っていく。坊主が走る年の瀬は、忍者にとっても同じく駆け足で働きまわらねばならない月であった。
身体を使うような任務はそう多くはないのだが、なにしろデスクワークが多い。年を越える前に作り上げておかなくてはならない書類が、沢山あるのだ。そうして事務の仕事の合間を狙うようにして、たまにポンとSやAの任務が入れられたりしている。予定にはなかった、代打の仕事も結構くる。どんな任務にでもあまり不得意がなく、尚且つ作業が速いオレは、ピンチヒッターとして実に使いやすいらしい。そして若くて丈夫。確かに使い勝手がいい筈である。
ナルトとの冷戦は、きちんと終わってはいない。しかしあまりそれも気にならないのは、ひとえにこの忙しさによるものだった。もちろん例の件についてはまだ納得していないけれど、まあ要するに慌ただしい年の瀬、そんな事をやっている余裕がオレになくなってきたというのが実際だ。ナルトはナルトで忙しいようだが、向こうはオレとは違い身体を使う仕事であちこち飛び回っているらしい。まあ忘年会に呼ばれる事も多いようだったが。向こうは朝早く出る事が多く、そしてオレは夜遅くなることが多い。というか最近はいっそ、帰るのが面倒で職場に泊まってしまう事もしばしばだ。そんな感じで、一緒に暮らしていながらもなんとなくゆっくり顔を合わせる時さえないような年末だった。
(うう……つ、つかれた……)
十二月二十九日、いよいよ今年もあと残すところ三日。どうにも終わらせきれなかった仕事を抱え、オレは家路についていた。
ただでさえ仕事が立て込んでいるところに、今日からは人員の半分が正月休みに入っているのだ。纏まった休みを優先的に取れるのは、基本的に家族持ちから。ここでも若くて丈夫な新米上忍は、穴埋め人員として非常に勝手よく使われるのである。まあ納得はしているので、これ以上の文句は言わないが。
そしてそれは、そんな草臥れ果てた年の瀬に起こった。
辿り着いた自分の家、しんと冷えた夜の中ぽっちり明かりを灯す玄関先には、ふわふわと妙に甘みと温かみのあるにおいが漂っていた。理由の解らないそれにひとり首を傾げる。なんだろうこのにおい。すごくよく知っているような、けれどそれにしてはやけに香ばしいような。
(? ……ナルトが何かやってるのか?)
がちゃりと鍵を開け、いつものように冷えたドアノブを回す。訝しみながらも重い玄関扉を開けると、中からはいっそう濃くなったそのにおいが、溢れるように押し寄せてきた。驚きつつも圧倒されたオレは、一歩踏み込んだ足のままちょっと固まる。あれ、やっぱこれ――と包み込んでくるそのにおいに答えが出かけた時、やがて間を置かずして奥から明るいシルエットが現れた。
「おかえりサスケ――なあ、腹減ってない? お前」

   * * *

サスケが怒っている。
それは別に珍しくないと、その時オレは思っていた。
……だってすごい怒るんですあの人、いやマジで。しょっちゅうオレに対してダメ出しするし、そんでまあちょっと面倒くさいんだけど、聞けばだいたい言ってる事は正論だしオレもそれはわかるから、ほとんどの場合はしぶしぶ従っていた。けどどうやら口に出しちゃえば、サスケはサスケで気が済むみたいで。基本ハイハイって聞いていればそのうち鎮まるから、だから今回も最初ちょっと反論してはみたものの、結局はそんな感じかなあなんて正直なところ思っていた。
「えー、でもそれって結局改善はされないって事でしょ?」
かちゃかちゃとボウルの中でクリームチーズを練りながら、サクラちゃんが呆れる。エプロン姿のその横で、同じく紫のエプロンを身に着けたいのが同じような顔で話を聞いていた。
年末、大晦日を前に開かれた里主催の『おつまみ料理会』のイベントに、オレはサクラちゃん達と一緒に参加している。遊んでいるように見えるが、実はこれ任務である。依頼者は木の葉の里、任務対象はその料理会の講師をしている料理研究家。わざわざ土の国から招いているその人の送り迎えと護衛が、今回のオレの任務であった。ちなみにサクラちゃんといのは純粋に、その料理会の一般参加者だ。オレはよく知らないが実際その料理研究家はなかなかの著名人らしく、今回のイベントは彼女達にとっても、非常に楽しみなものだったらしい。
「そういうのが一番腹立つのよねえ」
「え、そうなの」
「そうよォ、だって怒るのってすごいカロリー消費すんのよ。そもそもが直してもらいたいから、言う方は言うんだし」
「うん、確かに」
だよねー、ともっともらしく頷き合う女性陣ふたりに、(そ、そうか)となる。そういったわけでドジョウのような口髭を蓄えたその初老の料理研究家が教壇に立っている間、オレもこうして聴衆に混じって、警護の任に就いているというわけであった。そしてついでなので一緒に、おしゃれで美味しいカナッペの作り方なんて習っている。……繰り返し言うが、この忙しい年の瀬にオレは遊んでいるわけでは無い。任務である。真剣である。そして真剣にタラコペーストを作るため、話しながらも渡された腹子をさっきからせっせとほぐしている。
「で、それで? それがどうしてそんな拗れたの」
器用な手付きで胡瓜の飾り切りをしながら、いのが訊く。つらつらと思い返すに、そんないつもの喧嘩がややこしくなったのは、やはりあの国境警備での話が問題だと思われた。喧嘩したまま家を空ける事となってしまい、なんだかんだ言いつつも残った彼が気になって仕方なかったオレに、一緒に任に就いていたコテツさんがこう助言したのだ。
『まー大丈夫だろ、そんなのえっちしちゃえば有耶無耶なんじゃねえの?』
……で、オレは帰宅後早速実行した。結果、ものの見事に玉砕したわけである。
「はあ~? バッカじゃないのあんた、当たり前よ!」
ずだん! と包丁で胡瓜を真っ二つに切りながら一刀両断にいのが言う。なめてんの? という凄みに「ちっ…違う、違います!」とオレは慌てて首を振った。
そりゃそう持って行けたら一番だとは思ったけど、でも実際手を伸ばしたのは、ちょっとの間でも離れてしまっていた彼の身体を、自分で触れて確かめたかったからだ。――そこに罪はないと思うんだけど。こういう気持ちはたぶんサスケだって同じように持つものだと思う、だってあいつも長期任務の後とか、里外でのSランクや国境警備の後みたいな時は、なんとなくよるべない感じでいつもよりぺたぺたオレに触れてくるし。
「それで?」
その後はどうしたの。クリームチーズに今度はハーブらしき葉っぱを散らしながら、サクラちゃんが先を促す。コテツさんの意見が実に役にたたない事がわかったオレは(考えてみれば絶賛独身生活更新中のあの人に相談を持ち掛けたこと自体、オレのミスチョイスだった)長期化してきた冷戦に頭を悩ませていた。
そんな時に仕事帰り鉢合わせしたのがライドウさんだ。第二のアドバイザーである。
『なんだァお前、鍋一個でそんな目にあってんのかよ』
話を聞いた途端、この先輩上忍はこの問題を一笑に付した。未来の火影とか言われてる男が情けない、お前あいつに足元見られてんだ、どうせ何しようと謝ってくるって。そんな事を言いつつ酒を煽る先輩に、オレは「…はァ」と頼りなく答えたものである。足元見られてる?
『よーしわかった、お前分身ひとり出せ』
『へ?』 
『そんで家帰って、サスケに伝えさせろ。オレは今夜帰らねえって。なんでもほいほい向こうの話ばっか訊くからあっちも調子に乗るんだ。いいから言うとおりにしてみろって、きっとすぐに向こうもしおらしくなってくるから』
『え……いや別にオレってば、サスケにそういう風になって欲しいわけじゃないんスけど』
と、言いつつも促されるまま、オレは影分身を一体自宅に送り込んだ。そして結果はやはり不発だ。冷戦もサスケも特別なにも変わらなかったし、ましてやしおらしくなんて全然ならなかった。
まあそれについては最初から求めていたわけじゃないから、まったく問題ない。ただなんとなくサスケはあの日以来、ほんの少しなにかが退いたような空気を漂わせていた。気のせい、かもしれないけど。覇気がないというのともちょっと違う。それがいいのか悪いのかも、オレにはよくわからない。
「で、それで?」
サクラちゃんが首を傾げる。それで、そのまま。
なんかオレも向こうも年末で忙しくなってきちゃったしさ、なんとなく喧嘩も落ち着いたけど、特別仲直りもしないままだってば。
「――ビッ…ミョ~~~!」
話を聞き終え、いのはそう溜め息と一緒に吐き出した。
そう、微妙なのだ。なんていうか……どうにもこの終わりはスッキリしない。たぶん普通に暮らしていくぶんには全然問題ないんだけど。でもこう、もう少し、何かが足りないような。雨降って地固まる、みたいなそういうプラスアルファみたいなのが、この話には圧倒的に欠けたままのような気がする。
「というかそもそもがさ、ナルトはなんでそんな買い物をしちゃったの? あんた別に浪費家ってわけでもないでしょ、同じものを買うでもサスケ君が言うように、もっと他の店で値段抑えたやつにしたらよかったのに」
そしたらそんな、向こうも怒らなかったんじゃない? 至極もっともな事を、サクラちゃんが言った。隣でいのも「そうよね」と頷いている。
もちろんそれは、オレだってわかってる。高い買い物するとサスケは絶対怒るだろうし、その怒る理由がオレのためっていうのもちゃんとわかっていた。
だけどそれでもサスケには、いっとういいものをあげたいのだった。
だってオレは、毎日彼からとても大事で貴重なものをもらってる。きっとこの世にまたとない、それこそいっとういいものだ。
サスケにとってそれがすごく意味のあるものだと知っているオレは、どうしてもそれに見合うだけのものを返したいのだった。モノの価格でそれが適うかといえば、確かにそういうことじゃないと思う。
でもあのとき店で展示品を見ていたサスケは、確かにそれに対して(いいな)って顔をしていたのだ。だからそのまま、オレはそれをあげたいなと思った。深い意図なんて何もなくて、本当に彼が気に入ったらしきものを、単純に選んだというだけなのだ。ただ驚いて、そうして喜ぶ顔が見たかっただけなのに――それだけのはずが、あれほどまでに拒否されるとは。確かにうちの収納がどこも満杯なのは、オレの方も気が付いているけど。
「……やっぱバカすぎるのかな、オレ」
もっと一生懸命頭使えば、ちゃんとサスケ喜んでくれたのかな。
ほぐしたタラコの上で、ぽつぽつと零す。そんなオレに、目の前のふたりが揃ってぱちくりとまばたきをした。そうして一瞬の間のあと、その顔が苦笑に変わってはちらりとお互いの目を見る。
「――もう、しょうがないなあ」 
わかった、じゃあ私があんたに呪文をひとつ授けてあげる! 代表のように、やがてサクラちゃんは言った。へ? 呪文? そう繰り返してはポカンとするオレに向かい、ちょいちょいと白くてしなやかな手がオレを招く。
「いい? 難しい事はもういいから、今から言うこれだけ覚えなさい」
「へ?」
「はじめちょろちょろ、よ」
「『はじめちょろょろ』?」
突拍子もない文句に思わず眉が寄る。そんなオレにくすりと笑うと、その賢い女の子は屈んだオレの耳に、ほんのり甘い吐息でその呪文の続きを吹き込んだ。


見張り役をさせていた分身が消えた途端、オレは作業を開始した。
一時間ほど前から用意していた、冷たい水で研いだ米と教えて貰っただけの水を入れた件の土鍋を、ガス台の五徳の上に置き、ぐらつきがないか確かめる。
(よし……まずは『はじめちょろょろ、なかぱっぱ』だな)
深呼吸と共に頭の中で復唱し、意を決してかちんと点火スイッチを押す。ち、ち、ち、という擦れるような音がして、ボッと青い火が現れた。教えられた通り、まずは中火にして鍋底全体に熱が回るのをじっと待つ。やがて土鍋の中から、しゅるしゅるとも、しょろしょろともつかない沸騰の音が聴こえてきた。そこで思い切って強火。ぐぐっと盛り上がる炎に、中の様子を想像する。
(そんで次は『じゅうじゅう吹いたら火を引いて』)
ふつふつと微かに鍋蓋が揺れる。端からほんの少しずつ滲み出てくるねばついた水分を、慎重に見つめながら時を待った。と、不意を打つようにぐらっと蓋が揺れ水分と蒸気が大きく噴き出す。そこで一気に火を弱め、時計を見る。点火から二十五分。もう火を落としていいだろう。
(――で、『赤子泣いても蓋とるな』)
気が付けば部屋いっぱいにひろがる、甘い炊飯のにおいが堪らない。そうして立ったままコンロ前で待っている内に、玄関の方からガチャガチャと解錠の音が聞こえてきた。
素晴らしいタイミング、あの影分身いい仕事したな。
そんな事を思いつつもまたひとつ深呼吸をして、いつの間にか汗ばんでしまっていた手のひらにちょっと苦笑しつつ、オレはガス台に寄りかかっていた腰を浮かした。
「おかえりサスケ――…なあ、腹減ってない? お前」


ぱかりと開けた蓋に、ぶわっと湯気がたつ。予想はしていたがちょっと想像以上だったそれに、「うおっ」と思わず背が反った。
ベストを脱ぎ手を洗ってきたらしいサスケは、ダイニングテーブルの上に置かれたそれと、その蒸気に仰け反っているオレを、黙ったまま壁に寄りかかり眺めている。熱さと蒸気による醜態にちょっと咳払いをしてから、シンクの方へ行ったオレは軽く手を洗い、そうしてそのまま洗い籠のしゃもじを濡らしテーブルへと戻った。
潰さないように、さっくり切るように、下から掬い上げるようにと言われた言葉をぶつぶつ反芻しつつ、ほかほかのごはんにしゃもじを入刀する。底を返せはほんのり出来た茶色いおこげが顔を見せ、甘いにおいに更に香ばしさが増した。
「……これお前が炊いたのか?」
そこにきてようやく、サスケが口を開く。もちろん、決まってんじゃん。そう笑いながら、用意しておいたボウルからちょっと水を取り、濡らした手のひらにほんのり塩を拡げた。そうしてしゃもじで掬ったひと山を、ぽんと手のひらに乗せる。
思わずびくっと動じる手――…あああ、あっづゥゥ――! やべえサクラちゃんこれマジ熱いですけど!? 予想はしていたけれどそれ以上だった衝撃に、つい胸の内で技を伝授してくれた賢い子の名を叫ぶ。
「熱くないのか」
ぽつりと。一瞬の躊躇を見せかけたオレに、サスケが訊いてきた。……なにくそ、ここで応えられなくて何が彼氏か。じいっと見つめてくる黒瑪瑙の瞳に、くうっと堪えて笑顔で返す。
「熱い、けど」
「だよな」
「けど、がんばるってば」
「……そうか」
きゅ、きゅっとごはんをむすぶ。ふくふくとしたあったかなにおいが、台所やダイニングだけじゃなく、家中を満たしていた。ひとつ結べたおむすびを皿にのせ、続けてあともうひとつ、ふたつと作る。みっつできたところでひとまず手を拭うと、つと顔を上げ壁に寄りかかるサスケに笑って訊いた。
「食べる?」
オレの問いに、サスケがゆっくりと身体を起こす。かたんと椅子を引いてはそこに腰掛けると、彼はきちんと背を伸ばし、きれいな姿勢で一度手を合わせた。
……いただきます。小さいけどちゃんとした言葉で、サスケが言う。
真っ白な指先が丁寧に、ちょっと斜めなオレの三角おむすびを取り上げては、まだ熱々のそれにひと口嚙みついた。こくりと最初のひと口を噛んでは飲み込んだその口が、ほふりほふりと湯気を立ち上らせながら続けてまた食べる。どうかな、上手く出来たかな。ドキドキしつつ見詰めるオレに、あっという間にひとつ食べ終えたサスケが、ぺろりと指先に残った塩を舐め取りながら、つと視線を上げた。
「――ふん、ナルトにしちゃ上出来」
全部食っていいか、これ。不愛想なままそんな事を訊いてくる彼に嬉しくなる。もちろん!ごはんまだまだあるし全部サスケにやるってばよ! 張りきってそう答えると、そこにきてようやく無表情だったその顔がほろりと崩れた。
バカ、そんなには要らねえよという声が、ちょっとやわらかな甘さを滲ませている。
その声があんまりにも嬉しくて可愛くて愛しくて、どうしようもなくなったオレは盛り上がったあまり、思わず(はぐっ!)としゃもじで掬ったごはんをそのまま口に放り込んだ。
「あああっちィィ――!」
「ばっ…当たり前だ!」
「でもうまーーい! すげえ、なにこれ!」
もうちょい食べちゃお、なんて言いながらむしゃむしゃとまたひと掬い取るオレに、サスケが呆れたような目をする。とはいえ美味しかったのは向こうも同じのようで、あっという間におむすび三個を平らげたサスケは、ふう、と満足げな溜め息を漏らした。
そうしてからまだ湯気を立てている土鍋を眺めていたかと思うと、突然「……ああもう、やめだやめだ、今日は!」などと言っては立ち上がる。そうして奥に一度引っ込んだ彼は、ほどなくして戻ってきたが、今度はなぜか手に一升瓶を持っていた。確かあれは、雷の国で売っている結構高い酒だ。
「どしたのそれ」
見た事の無いそれにちょっと驚く。すると一瞬迷った口が、「この前の、里外任務の土産」ともそもそ打ち明けた。
「未成年だからと、雷影には断ったんだが」
「は? あ、なにこれ雷影からなの?」
「……オレもお前も、法もなにも今さら無いだろうと言われてな」
というわけで、どうする? そう言ってはニヤリと笑う不敵な眼差しに、思わずどきんと胸が鳴った。ああ、やっぱオレ達はこの方がずっといい。そんな事を思いながらサスケ同様、ニンマリとしながらオレも言う。
「やだもうサスケってば、どうするって――どうしようね?」
お茶らけてそんなふうに答えながらも、久々に見るその眼差しが嬉しくて仕方ない。
真冬の里は、しんしんと夜が更けるにつれてぐんとまた気温を下げていく。
草木も人も、獣も蟲もだれもかれもが寝静まった十二月の夜に、やがて「かりん」とグラスの重なる音がした。




【end】
2017年6月発行/上忍ナルサスカレンダー企画「365*365」の小説アンソロジーに寄稿させていただいたもの。既にカレンダーへ書き込まれているふたりの予定を元に、お話を考え書くという企画でした。上忍NS妄想はやはりやめられないですね……ふたりともいっぱい食べて、いっぱい幸せになるといいよ……