ナイチンゲールと赤い花

鬱々とした気分で見上げると、その小さな宿は中々に趣のある風情でそこに在った。
今日はいつも以上にバカを言い続けていたせいで、顎が草臥れて重い。
「じゃ、いつものように俺とサクラは一人部屋、お前らは相部屋な」
鈍く重たそうな音をたてて開いた戸を潜りながら、振り返ったカカシが言った。
……やっぱそうだよなー。
隣で無表情を貫いたままのチームメイトをちらりと盗み見る。整った口許はピクリとも動かない。
相変わらずスカした様子のその横顔に、ナルトは更に気分が暗澹としてくるのを感じた。

  * * *

「カカシセンセー、今夜は部屋、代わってくんないかってばよ?」
腰を屈めてサンダルを脱いでいる担当教官に恐る恐る頼んでみると、寝ぼけたような片目がぱちくりと瞬いた。
「……なんで?」
「……えっと、たまにはひとりでゆっくり寝たいかな……って」
「オマエ、いつだって一番に寝てるじゃない」
何を今更、と呆れたように言うと、カカシはリュックを持って立ち上がった。
それとも何、ひとりでしたい事でもあんの?
ニマニマしながら言われた言葉に一瞬頷きかけたが、すぐにその意味するところに気がついて慌てて首を横に振る。汚らわしいものでも見るかのような、サクラからの視線が痛い。
「そんなんじゃねぇーってばよ!」
「んじゃ、いつも通りでいいじゃない」
ハイ、じゃあ解散。
喚くナルトを余所に、素っ気なく宣言するとカカシはさっさと宛てがわれた個室に向かった。
わー、ここ温泉もあるんだーと浮き足立った声のサクラも個室に消えると、廊下には項垂れるナルトと無愛想な少年の二人きりになる。
「……おら、とっと行けよ、ドベ」
ぼす、と後ろからリュックを蹴り上げられた瞬間ムカッと腹が立ったが、そのまま怒りを顕にする気力さえもなくてナルトは溜息を付いた。
力なく肩を落としたまま、一番奥にある二人部屋を見遣る。抵抗を諦めて顔を前に向けると、つやつやと磨き上げられた板の間をのろのろと進みだした。

きっかけは、今日の任務に来る前。
集合場所に向かう途中のナルトの目に飛び込んだのは、瑞々しい光をその表皮にたっぷりのせた、ひと籠のオレンジだった。
張りのある膨らみはいかにも美味しそうで、思わず立ち止まって眺める。
――昼食の時に、班の皆で食べたらさぞや楽しいのではないだろうか。
ふと思いついた想像は、なんだか素晴らしく冴えた思い付きのような気がした。
きっとサクラちゃんが器用にあのオレンジを切り分けてくれるだろう。……サスケは甘いものダメだけど、果物だったらイケるって事オレは知ってんだ。
どうしようかなと思い悩んでいると、いらっしゃいとよく通る声と共に店の奥から店主らしき年輩の女性が現れた。
接客用の笑顔が、金色の髪と頬のヒゲを見て取ると一瞬にして歪んで消える。
慌てた様子でサンダルを引っ掛けると、躍り出るように店先に飛び出してきた。
「ひやかしならどっか行っておくれ!」
シッシッ、と野良犬でも追い払うような手付きで、店主はナルトに吐き捨てた。
冷たく、拒絶する目。
幼い頃より幾度も晒された視線に、思わず一歩後ずさる。
「……そ、そんなんじゃねーってばよ!」
ひと声上げると、ナルトは思い切り地面を蹴った。
ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう。
悔しさに渦巻く胸を抑えて立ち止まると、大門の前に立つ赤い服が見えた。
柔らかいシルエットに思わずほっとして、ぴしゃぴしゃと両頬を叩く。

大丈夫。
オレはもう、ひとりじゃない。

確かめるようにそう思うと、「サクラちゃあーーん!!」と一際甲高い声をあげた。
薄桃色の頭がこちらを向く。それを確認すると、ナルトは大きく手を振って走り出した。

「こういう事」があった日の夜には、悪い夢をみる。
それは思い出せないほど昔からある、ナルトにとっては忌まわしい慣習だった。
その場では堪え切れた涙が、夢の中でどす黒い何かに追い回されている間に溢れ出し、朝になって気が付くと枕をぐっしょりと濡らしてしまっていたりするのだ。
……そうだ、大した事じゃない。
宛てがわれた部屋で荷を解きながら、改めて自分に言い聞かせる。
7班に配属されてからは、その夢は殆どみることがなかった。毎日は任務で充実していたし、悪戯をしなくなってからはあまり里の大人と関わる事がなくなった。何より自分にはもう、仲間と呼べる人達ができた。イルカ先生やカカシ先生のような、自分の事を認めてくれる大人もいる。
大丈夫、大丈夫、大丈夫。
呪文のように唱えながら宿泊に必要な荷物を整理しながら取り出す。
久しぶりだったから、ちょっとショックだっただけだ。
もうオレは立派な木の葉の忍なんだぞ。
……夢みたくらいで涙なんて出るもんか。
「おし!おーし!!」
「……何ひとりでブツブツ言ってんだ」
ひとりで気合を入れているところで、カラリと乾いた音をたてて襖が開いた。
真新しい着替えに身を包んだサスケが、濡れた髪をぞんざいに拭きながらこちらを見ている。
潔癖なところがあるサスケは、遠征の任務後は宿に入るとまず風呂に行くのが常だ。
見られたくない所を目撃された気まずさを誤魔化そうと、任務で埃だらけになった金髪をバサバサと掻くと、露骨に嫌そうな顔をして「早く風呂行ってこい」と言われた。
へいへい、といい加減に返事をして立ち上がる。
そうだ、今夜はなんとしてもあの夢に打ち勝たなくては。
……このスカしたチームメイトの前で無様な格好を晒すわけには、絶対にいかないのだ。



「おい」
「……は?」
「いい加減、灯りを消したいんだが」
並べた布団に潜ったサスケが、うんざりとした様子で隣の枕元に座り込むナルトを見上げた。壁の時計に目を遣ると、もうじきに日付が変わろうという時間だ。風呂からあがったナルトは妙にそわそわと落ち着かない様子で、滅多に開かない忍術書なぞ広げている。さっきから同じところを何度も読み返しているのに気がついているのだろうかと、サスケは灯されたままの灯りの眩しさに目を眇めながら考えた。
「頭に入ってこねえなら、無駄な事やめてもう寝ろよ」
「なんだよ、せっかく人が勉学に励もうとしてんのに!」
「こんなに明るいんじゃ眠れねえんだよ。明日の任務に差し障る」
だからもう寝ろ、と無愛想に言い捨てると、サスケは素っ気なく背中を向けた。
気の進まない様子で全く読み進められなかった忍術書を諦めると、渋々とナルトは部屋の灯りを落とした。もぞもぞと自分の布団に潜り込むと、ぎゅうと力を込めて両の目蓋を閉じる。つぶった目の奥にチカチカと現れる幻影を振り払い、深く息を吐いた。
しんと静まりかえった部屋に、コチコチと壁掛け時計の音だけが律儀に響く。
「…なぁ」
「……」
「サスケ、起きてる?」
「……」
「寝たのかってばよ?」
「…なんだ」
「あの、あのさ……明日、晴れるかな」
「さぁな」
「晴れるといいよな」
「…どっちでもいいだろ、任務は変わらねえし」
「でもさ、あー…ほら、あれだよ、…」
「……だあっ!!うるせんだよテメエは!!」
何なんだ!?と癇癪を起こしたサスケがガバリと起き上がった。寝入りばなにしつこくされたせいか、いつも以上に険悪な表情だ。
「いい加減にしろよ、俺は眠いんだ!」
「ご……ごめんってば」
きつい声に押されたナルトがオドオドと謝ると、ちっ!!と不愉快そうに舌打ちをしてサスケは再び横になった。
ナルトの眠気は、一向に訪れる気配がない。
再び訪れた静寂の中、どくんどくんと自分の鼓動が体の内でやかましく鳴り響く。
妙な焦燥感に煽られて、小さく布団の中で蠢いた。

寝たい。いや寝たくない。でも寝なきゃ。だけど怖い。きっと平気だ。……平気じゃなかったら?

大きな流れのような音をたてて、窓の外を風が渡っていくのが聴こえた。
追い詰められたようにぐるぐるとかき乱れる頭で考えながら、頭からすっぽりと上掛けを被る。
変に冴えてしまっている能味噌が恨めしい。
布団の中で小さく蹲りながら、ナルトは弾む鼓動をなだめようと深く息を吸った。

「……るせえ」
膨らんだ隣の布団から、ぼそりと低い呟きが漏れた。
そっと布団から顔を半分覗かせると、目を閉じたままのサスケの口許が薄く開いているのが見える。
「ゴソゴソといつまでもうるせえんだよ。さっきから何やってんだ」
「ごめ……なんか、眠れなくって……」
思いの外細い声が出てしまったのを情けなく思いつつもなんとか返事をすると、ああん?と機嫌の悪そうな声が返ってきた。
闇色の瞳が軽く開かれると、音もなく微かに黒髪がこちらを向く。
おずおずと向けた自分の目と、ほんの僅かの間だけ視線が混じりあったのがわかった。
「……なんだよ、眠れねえのかよ……」
深々と溜息をつくと、サスケは黙りこくって再び目を閉じた。
月明かりにぼおっと浮かぶ白い頬をぼんやりと眺める。ふるりとも動かなくなった長い睫毛に相手にされなくなったのを感じ取ると、何故だか不意に目の奥がじんわりと熱くなってきた。

「……ほらよ」

投げかけられた声は、唐突だった。
恐る恐る声の元を確認すると、黒髪の少年が無表情のまま軽く自分の布団を捲っている。
「へ?」
「……眠れねえんだろうが」
一緒に寝てやる、と感情の読めない声でサスケが言った。
思いがけない提案に、ナルトの思考は真っ白になる。
「……いいの?」
「よくはねえよ。けど、こう隣でうるさくされるんじゃその方が迷惑だ」
「でも、」
「嫌ならとっととひとりで寝ろ」
「……や!……じゃ、ないです……」

「なら、早くしろ」とぶっきらぼうに言うサスケの表情は、相変わらず読めないままだったが。
少なくともその声に拒絶や軽蔑の色は見えないのを感じ、ナルトは思い切って自分の布団をそっと抜け出した。
……シツレイシマース……
小声でことわりを述べると、開かれたサスケの隣にそろそろと潜り込んだ。着いた掌が、ほのかにシーツに残った暖かさを感じる。
ナルトが隣に来ると、サスケは小さく鼻を鳴らして背中を向けた。それを見て、ナルトも同じように体を反転させる。
胎児のように四肢を曲げて縮こまると、向かい合わせになった背中同士がそっと重なり合った。薄い肉を通して、サスケの規律正しく並んだ繊細な背骨を感じる。
「……あの、」
「まだなんかあんのか」
「いえっ、もうないです……」
アリガトな、とだけ微かな声で告げたが、返事はなかった。そのまま息を潜めるようにしてしばらくじっと動かないでいると、そのうちに落ち着いた寝息が闇に漂いだす。触れ合った背中から穏やかな体温が伝わってきて、どうしようもない安堵感が全身を覆った。

――オレ、誰かと一緒に寝るの、はじめてだ。

眠っているサスケにそう伝えようかとも思ったが、ナルトはそれをそっと胸に仕舞い込んだ。
なにしろ、もうたまらなく目蓋が重たいのだ。
ふう、と欠伸のような笑みを浮かべ、ナルトは今度こそ瞳を閉じた。
トロトロと微睡んでいく頭の片隅で、明日の朝もう一度ありがとうと言おうと小さく決意する。

怖い夢は、もう襲ってくる気がしなかった。







【end】
隣に誰かいてほしい夜ってありますよね……。タイトルはワイルドの「ナイチンゲールとバラの花」よりちょっと拝借。報われないんですが、大好きなお話なんです。

たぶんサスケの方も、この夜はよく眠れたはず。背中があったかいのって気持ちいいですよね。