【Ⅵ】

久しぶりに来た温室は、変わらぬ佇まいでそこに在った。
日が落ちてからのそこは、静かで冷たい。今が真冬であるならば尚更だ。
備え付けられた明かりをつければ、闇の中でぽっかりとその姿は際立っているはずだった。今はもう、ここに目眩しはしていない。年寄りの園芸に興味を持つ者は限られるし、それにそもそも、オレ自身があまりもうここにやって来ることがなくなってきていたからだ。年を経るにつれ、だんだんと世慣れてきたオレは、少しずつひとりの時間がなくてもうまく自分に折り合いをつけられるようになっていた。サスケとここで落ち合ったりしたのも、たしかあれから数回だけだ。もう少し歳がいって、お互いの子供がそれぞれ上忍となり、サスケはオレの息子を、そうしてオレは彼の愛娘にそれぞれ教えを説くようになった頃。その頃にはもうすっかりここは使われていない、ただのサンルームと化していた。
(さてさてさて……参ったなこりゃ、どうしたもんか)
埃だらけのくせにいまだ健在の古ぼけたガーデンチェアにふと目を細めたオレは、その背を引くと、苦笑いのままに天を仰いだ。
いやはや、覚悟はしてたけど。
これはまた、思っていた以上にキツい。我ながら感心するくらい、彼がこの世から消えてからのオレは、どこに行っても役たたずだ。
おもむろに、ずっと気に懸けていた懐へ手を伸ばした。
心臓の上、左の胸ポケットに収められているそれ。
小さくほんのり硬い、その白いものを、慎重な手付きで取り出してみた。息子には見破られてしまったようだけれど、首尾よく手に入れたそれは今やオレの命綱のようなものだ。埃を軽く払ったテーブルに、ころん、とそれを転がしてみる。ゆっくりと椅子に腰掛ければ、その全体がぎしりと鳴る。
(どうしたらいいですかね、サスケさん)
ちょっとまた丁寧にうかがってみても、当然の事ながらもうそのひと欠片は何も答えてはくれないのだった。白く白くなった彼に溜め息をつきつつ、いつかのようにテーブルに突っ伏す。
……ボルトを連れて行くようになってから、彼はあまりオレと『あのこと』をしなくなった。それがどういう意味によるものなのかは、オレにはわからない。
もしかしたら、という思いもなくはなかったのだけれども、なんとなく、そうではないのだろうなという感覚もあった。どうしてかというと、息子からオレへ向けられてくる視線が、旅に出る前から今に至るまで、ずっと変わらなかったからだ。
負けたくないという思いと、いつか負かしてやりたいという思い。きっとこれが逆に「敵わねえな」というものに変わっていたとしたら、また違っただろう。一見おかしなふうに思われるかもしれないが、いつまで経っても反骨心を失わず現れる自分の子に、むしろ逆に、オレは安心していた。
まあしかし例えそうなっていたとしても、実際のところはそんなに状況は変わらなかったのかもしれない。これまでの数十年を振り返りながら、オレはそうも思う。
だってサスケはずっと、オレの横にいてくれた。
時代が変わり、忍という存在そのものが少しずつ変化していく中でも、それだけは揺らぎなく、確かなことなのだった。お互いの身体は旅で離ればなれになっていたとしても、その気持ちは常に隣に寄り添っていてくれたのを、オレはちゃんと知っている。
そうしてオレがそれを理解しているのを、サスケの方もきちんと知っていたはずだ。たぶん大事なのはそれだけなのだ。肉の繋がりが必要無くなったのも、どちらかといえばそこの部分が大きいのかもしれない。

『――ゆっくり来いよ』

(……て、言われてもなあ……)
いつかの会話を思い出しながら、オレは子供のようにぐずぐずとテーブルの上に額を擦り付けた。そうは言っても、実際のところは結構限界だ。具体的に色々支障は出てきているし、たぶんシカマルあたりは相当ヤバイと気がついているはず。
とりあえず最初にきたのは、『無感動』だった。そうして次は五感の麻痺、生理的欲求の消失。お腹がすいたも喉が渇いたも、すべてどんな感覚だったのか今のオレはさっぱり思い出せなかった。
ただひとつだけ、狂おしいくらいに欲しいと思うのは、いなくなった彼の存在だけだ。
もがれた自分の半分、冷たく澄んだ魂の裏側。
あの黒髪を、白い肌を。夜を映す瞳を、もう一度だけこの目に映したかった。その欲求はたぶん、性愛にもかなり近いものだ。全部が整っていたあの体の全てを取り戻したくて、じりじりとした不満のようなものばかりがひたすらに募っていく。
(…………死んじゃおっかな)
ぽろりと思えば、それはもう、堪らなく魅力的なものなのだった。
本当は、今だってずっと思っている。
ゆっくりゆっくり、自分が死に向かっていこうとしているということ。ただそれだけがしんと体の中に横たわっていて、それがなんとも言えずまた、心地いい。でも。

『今度はオレが、迎えにきてやるよ』

あの日。駄々を捏ねるオレにサスケがしてくれたのは、そんな約束だった。
果たすべきお前の使命を、果たしたら。
きっちりそんな、約定までつけて。さすがサスケだ、よくわかってる。たぶんこれをつけておかなければ、あの手この手でオレが勝手に後を追いかけてきてしまうのを見越していたのだろう。
しかしそういっても、ままならないのはこの体だった。
わかっている、心が追いたがっているから、きっと駄目なのだ。
こればかりはとは思うものの、かといってそれをそのままで良しとはしないのがサスケだった。無理でもなんでも、やるしかねえなら黙ってやれ。そういっては七班での任務中、何度もその偉そうな顎に使われたものだ。おっしゃる通りごもっとも。でもさあ、やっぱそれ、かなりの無茶だって。今またあの形で仕事をすることがあれば、きっとオレはそう言っただろう。いや、あの当時だってたしか言った。ぜんぜん進歩のないオレだ。
(……あの手が。ここに、こう。こんな感じで)
みし、と音をたてて立ち上がると、オレはそっとその、古さを増したテーブルに手を掛けた。縁のところ、丸みをつくられているそこ。そこに手を添えて、彼はよく寄りかかって立っていた。
行儀悪く、テーブルに乗せられていた小さな尻。細い腰を捕まえるのは容易く、逆にもっと細いその脚を抑えるのはとんでもなく危険な作業だった。
一度だけ戯れに後ろの窄みを愛してやろうと、その脚を屈ませて攻めを試みたことがある。知識の上で後ろでも快楽を得ることができるのは知っていたからそれを試してみようとしただけで、女のように抱いてやろうと思った訳ではない。けれどあわよくばという思いが無かったわけでも無くて、あっさりそれは見破られたのだった。あの時の彼の本気の抵抗っぷりときたら、まさしく烈火の如くだった。頚動脈と一緒に、オレはナニまでちょんぎられそうになるところまでいったのだ。

(ズボンを下げて。そうして、そこを出して)

黒々とした茂みは、ほんの少し苦い香りがした。甘くねっとりと重い女のそこの匂いとは違う、男としての性の匂い。ざりざりした硬い性毛に守られたそれはいたいけな柔らかさで、あらぶった動きよりも、そおっと扱われる事をなにより好んだ。すべすべした先の皮膚に、ちいさくある覗き孔。
いつも割とすぐに透明なしずくがぷくりと盛り上がるそこだったけれど、やっぱり欲に対する執着は薄かった。初めからずっとそうだったから、元々の性質なのだろう。そのくせ文句を言いつつも、最後までオレに付き合ってくれる付き合いの良さはあった。嫌いでは、なかったのだ、たぶん。オレを相手にしている時のことしか、自分にはわからないけれど。

(……指を絡めて。つよく、にぎって)

片方だけの、彼の手。とてつもなく器用だったあの手は、本当であれば器用にならずとも済んだものだった。義手を付けたオレの左手は今だってぎこちない。もともと両利きなんだと笑って言っていた事もあったけれど、でもやっぱり義手をつけていたら、彼のあの手はもっと違ったものになっていたのだろう。
まっしろで、しなやかで、なんでもやれてしまっていたあの手。本当はずっとくっついていって、なんでも手伝ってやりたかった。あそこまでの器用さですべてをこなせるようになるために、ひとりでどんな練習をしていたのだろう。どんな痛みに耐えていたのだろう。ついてくるななんて言われてもやっぱりついて行きたかった。でもその姿をオレに見せたくなかったのだろうというのも想像ができて、別れてしまっている身体が悔しくて、せつなくて、堪らなかった。

(ため息をのみこんで。ゆるやかに吐いて)

一番最初。事故ではなく、故意に、自分たちの意志でくちずけを交わした時、こんなに簡単に気持ちが落ち着くのなら、どうしてもっと早くにしてしまわなかったのだろうと思った。うすくて、やわらかくて、そうして少しだけいつも冷たいサスケのくちびる。皮肉を言うことが多かったけれど嘘を言うことはなかったそこ。昔は純情だったそこもやがては結構きわどい事を平気で吐き出すようになったものだった。結局最後までオレのものを飲むのは拒否していたけれど。まあそんな事はわりとどうでもいい。大事なのは言葉だ。決して饒舌なんかじゃなかったはずなのに、どうして彼の言葉はこうもたくさんオレの耳に残っているのだろう。

そうして熱を、吐きだして。ふたつを混ぜあわせて。


(――…サスケ)

会いたくて。会いたくて会いたくて会いたくて堪らなかった。どうしたらいいんだ、こんなにも体が欲しているのにその身がないなんて。その手を取って、美しくそろった指を丹念にひとつずつしゃぶりたかった。大胆な親指を。賢く正確なひとさし指を。不器用で粗野な中指を。臆病で繊細な薬指を。少し意地悪な小指を。全部が好きだった。たいせつだった。だって彼はオレだ。オレが彼の半分であるのと同じであるのに、どうしてオレばかりがここに残っていられるのだ。

(サスケ、サスケ)

ひとりがこわい。夜がこわい。彼がいてくれたからこそ耐えられていたそれらが、今はすべてこわかった。押し寄せてくる不安、のしかかってくる責任。ひとりでなんて持ちきれないそれらを、そっと後ろから半分持ち上げてくれていたのが彼だった。狂っていくオレにはもうそれを持つことができない。かといって投げ出すこともできないなんてなんて事なんだろう。苦しい苦しい、くるしいくるしいくるいしくるしい。
おねがいだたすけてくれどうかここからオレをだしていますぐにかれがいるところへとおれをつれていって




……ああ、もう。

おれのなにもかもは、とうにおかしくなっている。




『――狂うなよ、親父』
ふと耳に蘇ったのは、何故だか彼ではなく、息子の声だった。彼の愛弟子。最初で最後の、たったひとりだけの教え子。
どうしてこんな時に、あいつが出てくるかな。
記憶に浸っているなか鼓膜に響く、その生気に満ちた声色に、変に気分を削がれたような、嗤いたくなるような、微妙な思いで思わず苦笑する。
(………狂うな、か)
言われた言葉に、そっとテーブルに転がったままの彼の欠片を手に取った。ああ、狂わないとも。最初からオレは狂っているんだ、これ以上どう狂えばいいというのか。
溜め息をつき、テーブルに寄りかかっていた身体をゆっくりと起こす。するとふいに、鼻先をあまい香りがかすめていくのを感じた。
あの時の、匂い紫だろうか。
そんなふうにも思いながら、白い欠片を手に辺りを見渡す。ここにはもう花は置いていない。世話の手を多くいれなければならない花は、やがてあまり来なくなったここでは、枯れていく一方になっていったからだ。
えんじゅ、うるし、えにしだ、かえで。
下からの養分と水分だけで生きていける、世話のあまり必要でない木々が生い茂るばかりになったここに、ぽつんと一角だけ、冗談のように以前はトマトの苗が植えられていた時期があった。なんとなく好きな植物を集める中で、彼が喜びそうなものまで入れてしまったのは、いつかここに彼を招待したかったからだ。秘密基地というのはひとりだけより、ふたりだけの秘密にした方が、絶対に楽しそうだったから。
あの時は実はついていたっけか。昔のことに記憶はもう曖昧だった。
けれどきっと彼のことだから、花だけでもちゃんとわかったのだろう。花言葉なんて似合わない話題に乗じていた時、色とりどりの花が咲き乱れるここで迷わずそれを選んだ彼に、つい思い出し笑いが漏れる。
(――…ん?)
その、妙な菜園があった辺り。
ふと見ると、覚えのない葉が、ひっそりと茂っているのが見えた。濃い緑の葉は小さくたくさんで、重なり合ったそこの上では、白い花弁の先にほんのりうす紅を宿したベルのような形の花が、身を寄せ合うようにしてそっと集まっている。
訝しみ近付いてみれば、先程感じたこの甘い香りは、どうやらそこからのものだった。
……知っている。この花は『アセビ』だ。
こんなものは植えていなかった。自生するようなものではないし、ここに植えたとしたら彼しかいない。
花言葉は、たしか、そうだ。ふたりで旅を。


  
  『―――ふたりで旅を』














(えええ……なんだそれ、ずっりいってば……!)
明るい温室。
まだみしみしとは鳴らなかったガーデンチェアでしどけなく身を崩す、あの日の彼を思い出した。
にやりと上げられた口の端、仕掛けるよろこびで輝いていた瞳――やっぱり、サスケはずるい。いかなる状況であろうともどんな言葉がオレに一番効くのかが、きっと容易くわかってしまうのだろう。
(……ふたりで、旅をだなんて。そんなの言われたら、オレなんか頑張るしかないに決まってんじゃねえかよ)
無理でもなんでも、やるしかねえなら黙ってやれ。大昔の彼の、偉そうな高説がまたふと蘇った。……ああそうですよね、やるしかねえならもう仕方ねえっての。一方的にけしかけてくる発破に、久々の闘争心がむくむくと頭をもたげてくる。
だいたいがアレだ、あいつ自分が後に残る可能性についてまったく考えていなかったっぽいのって、今思えばちょっとオカシイよな。最初っから最後に全部のケツ拭くのはオレの仕事だって決めてたみたいじゃねえか。ボルトの面倒みてるとか言ってたけどオレだってサラダが火影候補としてちゃんと扱われるようにめちゃくちゃ尽力したし、それにさ、オレばっかいっつも馬鹿だのドべだのそのうちにはデブまで言われても寛容に流してたのにさ、あいつちょっとサスケちゃんて呼んだだけでイライラすんのって心狭すぎじゃね?
……あ、考えてたらなんかどんどん腹たってきた。
こりゃとっとと会って顔見て文句言ってやんなきゃ済まねえな。

(くっそォ……こうなったら本気だして、はやいとこ全部片してやっからな)

手の中にある白い欠片。それをじっと見つめたのち、オレはひょいとそれを口に放り込んだ。
硬いその角を、奥歯でしっかりと噛み締める。澄んだ音をたてて砕けたそれをごくりと飲みこんで、大きく息を吐けば、ゆっくりと立ち上がった。手紙も虫も蛙もカラスも食ってきたオレだ。なんだって飲み込んでやる。


春には死のう。そう決めた。






(了)