マイ・ファニー・バレンタイン

ねぇバレンタイン

どうかこれからも髪の毛一本変えたりしないでね

私のためをおもうなら

いつまでもそのままで 私の大事な………

     * 

持ち帰ってきた解答用紙につけた丸の数は昨日自己採点した時よりも若干下回っていて、小さく溜息をついたサスケはくっと背中を伸ばすと、手にしていた赤ペンを転がした。「かちっ、ぶぅぅん」という何かが切り替わるような音がして、足元にあるハロゲンヒーターが赤々とまた燃えだす。一昨年引越したチヨばあから譲り受けた彼は、古びてはいても中々の実力の持ち主だ。しんと冷える冬の管理人室にとって、今やなくてはならない熱源となっている。

「――どう?」

緩んだ気配に、採点が終わったのを察したのだろう。ノートパソコンのディスプレイに開示された模範解答と解答用紙を見比べつつ、先程からずっと横で固唾をのんで待っていた彼女は、奇妙に押し殺したような声でそっと尋ねた。広げたパイプ椅子に座る姿も、スカートこそ短いが上はしっかりとコートを着込んだままだ。暖かそうな厚手のPコートは都内にある私立の女子中学校の指定らしく、金のボタンにまで校章が打たれている。
「問題はこれで全部?」
「……」
「何点以上が合格とか決まってるんでしょ?どうだったの、クリア出来てたの?」
「……まあ、一応」
合格ラインは越えてるが、と短く告げると、難しげに寄せられていた顔はパッと弾けるかのように破顔した。「なんだ、じゃあもっと嬉しそうにしたらいいのに!紛らわしいなあ」と朗らかに笑ういのに、なんとなくサスケは口を噤む。
「おめでとうサスケ君!よかったね」
「……ああ」
「? ……嬉しくないの?」
「思ったより、点が伸びなかった」
ムスリと答えると、パイプ椅子で背筋を伸ばしたいのは呆れたような溜息をついた。「え~?いいじゃないそれでも、合格は合格なんだから」という言葉に、知らずちょっと口先がすぼまる。
「いつもいつも完璧を求めすぎるのよサスケ君は。今はただ素直に喜んでおけばいいのに」
人生損するよ、などという洒落臭い発言をしたいのはそれでも嬉しげに目を細めると、ぎしりと椅子を鳴らしながら居住いを正した。華奢なせいだろう、耳慣れた重吾や水月の鳴らすそれよりも、彼女の立てる音はなんだか軽やかに響く。
2月13日。目指していた医師国家試験は2日前に全ての日程が終了しており、試験勉強から開放されていたサスケは、半休を取った重吾に代わりヒーターの燃える小部屋で急かされない時間を過ごしていた。ぽっかりと切り取られたような小さな空間、漂う穏やかな静寂。ここに来たばかりの頃はこの静寂に押し潰されそうだと感じたものだったけれど、今はこのゆったりと流れる時間が心地いい。6年生になってからほぼ完全に管理業務の全てを重吾に任せてしまったから、滅多にここで過ごす事はなくなってしまったが、サスケはやはりこの部屋の持つ気配が好きだった。何故だか試験勉強中、時々この小さな部屋の湿った空気が、無性に恋しくなったりしたものだった。
そうして久々の回転椅子に腰を落ち着かせつつ、ようやくネット上で開示された模範解答を元に管理人室で黙々と自己採点をしていたところに、突然いのがやってきたのだった。中学校から直接来たのだろう。帰ってきてそのままらしい彼女は、珍しくひとりだった。あれこれ理由をつけてはしょっちゅう顔を見せに来る少女とサスケは彼女が小学生の頃からの付き合いになるが、大体において彼女の横には相方となるもうひとりの少女がいる。
「お前、相方は?」と小窓越しに尋ねても、いのはにっこりと笑うだけだった。
そうしてその問いには返事をしないままデスクに広げられた試験問題と赤ペンを見ると、「ね、入っていい?」と言ってきたのだ。こないだの試験の自己採点してるんでしょ?静かにしてるから、横で見てていい?
「――まあ、でも、良かったね、本当に。春からはついに『先生』だね」
一言ずつ、区切るように言うと、いのは口の中でその余韻を確かめるかのように「サスケ先生、かあ」と呟いた。「名前で呼ぶような事は、ないんじゃねえか?普通は苗字だろ」と素っ気なく訂正を入れると、しっとりと長く流した髪を揺らし、いのが顔を上げる。いつの間にか、彼女はまた髪が伸びた。最初会った頃は確か、さっぱりとしたショートカットだった。
「そっか。それもそうだね」
じゃあ、『うちは先生』か。と気が付いたかのように言うと、いのはまたくしゃりと照れたように笑った。今日はごくうすいけれど、少しだけ化粧をしているのだろうか。ふっくらと笑んであがる唇には、ぷるんとした艶がのっている。
「で、なんか用か?つかお前相方はどうしたんだ、風邪か?」
なんだか妙に覚えのある科白を口にすると、いのは「違うよー」と笑って答えた。なんだかさっきまでの笑顔とは違う、から元気で仕上げたみたいな声だ。
「一応、声は掛けてきたんだけどね。サクラはまだもうちょっと、頑張りたいからって」
「頑張る?」
……なんだ、お前らも試験近いのか?などと首を傾げると、そんなサスケにいのは、可笑しそうに目を細めた。否定も肯定もしないまま、膝の上の鞄を抱え直すと、デスクの上に置かれた卓上カレンダーをすっと見る。

「――2月だねえ」

唐突にそんな事を言ういのにますます不可解に思っていると、続けて彼女は「今日が何の日か、わかる?」と試すような目線を流してきた。わけがわからなくてただ話を待っているサスケに、さすがに少し焦れたらしいいのが「……もう!」と小さく溜息をつく。
「だから、今日は13日でぇー、」
「そうだな」
「で、金曜でしょ」
「13日の金曜日?」
なんだ、そんな迷信信じてんのかと呆れると、すかさずいのからの「ちがーう!」というツッコミが入った。
あ・し・た!明日だよ!とどこか叱責するように言われ、カレンダーを見たサスケはようやく気が付く。そうか、そういえばもうそんな時期かと、明日に迫るその日にサスケはうすい感慨を抱いた。いつもたいして思い入れもなく過ごしている日だが今年はその上に試験で頭が一杯で、例年以上に全く意識が向かわなかった。

「あー………わかった、そうか」

バレンタインか、とどこか居心地悪くなりながらも答えれば、わずかにむくれていたいのはぱっと表情を解き、『正解!』というかのような笑顔になった。多分明日は土曜日で管理業務が休みだから、前倒しで今日という事なのだろう。もしかすると、重吾も彼女の協力者だったのかもしれない。今にして思えば半休の申請をしてきた時も「出来るだけ管理人室にいてくださいね」なんて妙な事を言っていたし、やけに目が泳いでいるような気がしたのだ。
忘れてたでしょ?とニヤニヤするいのに無言の肯定を返すと、おもむろに彼女は膝の上に乗せたバッグを開けだした。びぃーっ、というファスナーを引っ張る軽快な音が、閉じこもった部屋に明るく響く。そうやって紺のナイロン製のバッグから出された物は、思った通りリボンをかけられた、小さなギフトボックスだった。知り合った7年前から毎年サスケは彼女とその親友だというもうひとりの少女から、それぞれ可愛らしく包まれた手作りの菓子を受け取っている。
「? クッキー……じゃないのか?」
見せられた包みが例年よりも随分と改まった雰囲気なのに気が付くと、サスケはぽつりと呟いた。包み紙こそ毎年違うけれど、例年通りであれば彼女達がバレンタインにくれるのは、いつも決まってクッキーなのだ。何年前だっただろうか、甘いものが苦手なサスケに料理教室に通いだしたという彼女達が、クッキーを焼いてきてくれた事があった。それが中々の出来で後日気に入ったという旨を伝えたところ、それ以来毎年バレンタインにはその無糖のクッキーが、チョコレートの代わりに渡されてきたのだ。
多分、日々研鑽を積んでいるのだろう。小学生の頃から料理教室に通っている彼女達だったが中でも香ばしく焼き上げられたチーズと黒胡椒のクッキーは年を追うごとに完成度を上げており、去年貰ったものに至っては、素人の腕ながらちょっとそこいらの店に並んでいても遜色ないのではという程のレベルにまで達していた。声にほんの少しがっかりしたような色が混じってしまったのはそのせいだ。サスケは押し付けられるように渡される甘ったるいチョコレート(毎年何人かは、必ずそんな果敢な女性が大学にはいるのだ)には閉口するばかりだったが、あのクッキーだけは割と毎年楽しみにしていた。
そんなサスケの思いを感じ取ったのか、僅かな落胆を感じさせる呟きにもいのは気分を悪くした様子はなかった。
「そ、今年はクッキーじゃないの。ごめんね~」
とあっけらかんと笑い飛ばすと、今更ながらに何か飲み物が欲しいかと訊ねてくるサスケに首を横に振り、にこやかな笑顔と共に手にしていた包みを差し出す。

「――はい!受け取ってね」

「おう、」とも「どうも、」ともつかない有耶無耶な感じの返事をしながら受け取ると、間髪いれずにいのが「ね、開けてみて!」と身を乗り出して言った。これまでとは違う高級そうな細長い箱になんとも言えない嫌な予感を感じつつ、サスケはしゅるりと音を立てて結ばれていたリボンを解く。
金の蓋を開けると、中に収まっていたのは果たしておそれた通りの、つやめく黒い塊だった。
あぁ……という重い溜息が漏れそうになるのを、どうにか理性で踏み留まる。
「……チョコか」
「うん!」
「…………知ってるとは思うが、俺はチョコはあんまり……」
「でももう今年で最後だから。来年はサスケ君、ここにいないでしょ?」
申し訳ないながらも言い訳を口にすれば、いのは全部承知している様子でさっぱりと言い切った。
サスケ君がチョコ駄目な事なんてわかってるけど、でもいいじゃない最後くらい。一番最初のバレンタインの時頑張って作ったのに、あげたら即拒否されたの今でもちょっと恨んでるんだから。
……そう言われてしまえば、形勢は一気にいのの方へと傾くようだった。確かにそうだった。7年前のバレンタイン、市販のものらしき綺麗なラッピングの施されたチョコレートの小箱を持ってきた彼女達に、サスケは即座に「悪い、俺甘いもん駄目なんだ」と一刀両断にしたのだった。呆然とする瞳に涙を浮かべそうになる彼女達に対し、たまたま居合わせた重吾がその場では上手にとりなしてくれてくれたのだった。あの時はどうにか事なきを得たけれど(そしてその後、重吾からサスケへ年若い彼女達への配慮ある対応について、非常に丁寧かつ遠慮がちな指導がされたのだった)、やはり本人達には忘れ難い思い出であるのだろう。
「また重吾さんに食べてもらおうなんて、ズルい事考えちゃダメだからね」
無言で渡された小箱に視線を落としているも、そう先を取られると、うっすら考えていた逃げ道はあっけなく塞がれてしまった。「今ここで食べて?ちゃんと飲み込むとこまで見届けるから」といういのは笑顔だけれど妙な迫力があって、前のめるように膝に両肘を立て頬杖をつく姿は、一歩も退かない構えだ。
箱の中にちんまりと並べられたチョコレートは、全部で三粒だった。綺麗に仕上げられているけれども、多分手作りなのだろう。金で箔押しされた小箱は華麗ではあったけれど、どこにも店の名前が無い。
……まあ一粒位なら丸呑み出来るだろうかと自分に言い聞かせつつ、それでもどうにも指を伸ばせずにいると、焦れたらしいいのがぐんと身を乗り出し「もう!たった一口でしょ、いつまでもそんな悩まないの!」と言いつつ端の一粒を取った。
はい、あーん!
叱咤するというより微妙に苛立ったかのような口調で口先まで持ってこられたチョコレートに「よせって、自分で食える」と断るも、「ダメ!信用できないもん」というぴしゃりとした言い分に渋々ながらも口をうっすらと開く。
「ほらぁ、もっとおっきく開けて」
「……るせェ」
「もう、全然入んないって。それじゃチョコを待ってるってより、キスを待ってるみたいじゃない」
さらりと言われた言葉にぎょっと目を開くと、間近な視界には僅かに眉尻を下げる、色の白いいのの小さな顔があった。
明るい蛍光灯を背に笑う彼女の唇は、淡く色付いたピンクだ。
屈んだ肩からさらさらと長い髪がこぼれ落ち、しろじろとした蛍光灯の灯りに透けて光って見えた。そこからふわりとたちのぼるのは、甘酸っぱい果物のような香りだ。至近距離にまできているチョコレートを摘む指先が、びっくりするほど白く整っているのが、妙に目に焼き付く。

「……はぁ?馬鹿、ガキがくだらねえ事言ってんじゃ……!」
「はい、どーぞ」

――狙っていたのか、はからずもなのか。
つい言い返そうと口を開けたところに、間髪いれずぽんと、黒い塊が放り込まれた。
口いっぱいに溢れ鼻から抜ける、強いカカオの香り。しかし舌の上に広がるのは、予想していた甘さではない。ちょっと筆舌に尽くしがたい程の、強烈な苦味だ。
「――ン、ぐ……っ!?」
衝撃的な苦味と入り混じった酸味に、思わず抑えた口許からも堪えきれない呻きが漏れた。これはチョコレートなんかじゃない、無理に例えるならば湿気て固まったインスタントコーヒーに煉瓦と黒鉛を練り合わせたような、そんな物体だ。甘さといえるようなテイストは一切無い。ただひたすらに苦い。そして意図的なのかなんなのか、小石かという程に異様に固い。
なんだこりゃ……!!?とそれでもどうにかデスクにあったお茶で一気に飲み下すと、サスケは苦味の残る喉とまだ爆弾を抱えているかのような胸を押さえつつ、低く唸った。
そんなサスケを見下ろしながらニンマリと、
「何って、チョコだよ。対サスケくん用の、カカオ100%無糖チョコ」
と打ち明けられたいのの答えに、思わずあんぐりと口が開く。
「カカオ100?」
「うん。普通のミルクチョコレートはだいたい40%位?そこにお砂糖やミルクで味をつけてあの甘さにしてるんだけど、サスケくん甘いのダメなんでしょ?」
「だからって、コレはねえだろ……!」
こちらの嗜好は最大限に配慮されているけれども、現実に出来上がっているのはあんまりといえばあんまりな味わいの一品だった。多分これは間違いなく確信犯なのだろう。僅かに涙目になるサスケに、いのは大層気分が良さそうだ。

「――甘いほうがよかった?」

ふと。
からかうような口調ではあるけれどもその中にどこか真剣な響きを聴きとって、口の中に残るどうしようもない味わいにまた顔をしかめていたサスケは、ゆっくりとその顔を見上げた。
まっすぐこちらを見詰める、切れ長の瞳。
小学生の頃からすっきりと整っていた目元にあるのはただただ真摯で誠実なまなざしで、お茶に伸ばそうとしていたサスケは静かに手を戻し、「……いや、」と言いつつなんとなく背中を伸ばす。

「そんな事ない。甘いよりは、この方がずっといい」

そう答えると、それを聞いたいのは、くしゃりとその表情を崩した。
……そっか、よかったァと言う声には心底ホッとした空気と共に、数グラムの落胆がほのかに混じる。
しかしそれでもそんなサスケに、何かが満足したのだろう。やがて納得したように頷いたいのは「……よし!」と明るく呟くと、景気付けのようにひとつ膝を軽く打ち鳴らした。
「じゃあ、チョコも食べてもらったことだし。そろそろ私は退場しよっかな!」
という思い切るかのような言葉と共に、パイプ椅子を僅かに揺らして、いのは勢いよく立ち上がる。
「……あ、ねえそういえばドア開いたままだよ。閉めなきゃ」
三分の一程の隙間が残る管理人室のドアに、気が付いたいのはついでのように言った。ナイロンのバッグを掛けながら言われたどこか母親めいた忠告に、どうにか気を取り直したサスケは口許を拭いつつ、僅かに顔をあげる。
「ていうか、私が来てからずっと開いたままだったんじゃない?サスケくんてビシッとして見えて、なんかどっか抜けてるんだよねー」という遠慮のない指摘に、横を向いたまま思わずフンと鼻を鳴らした。確かにこの扉は先程いのがやって来た時、サスケが最後に閉めたものだ。
「折角ヒーターつけてても、ドアが開いてたら部屋の中の温まった空気も全部出てっちゃうじゃない。節電はこういうとこから始めないとって、前に重吾さんが言ってたよ」
「…………」
「なんか隙間風入ってくるなとは思ってたけど。こーんな寒い部屋に人を招き入れてるんだからさ、せめてドア位しっかり閉めとかなきゃ。こういうとこでもうちょっと気遣いをみせてもいいんじゃないかと思うのよね~、仮にも私女の子なのよ?」
「わかってる。だからわざわざ開けておいたんだろ、野郎とだったら別にこんな風にしねえよ」
言われた言葉の意味がよくわからなかったのだろうか。立ち上がったいのはコートのポケットに手を突っ込んだまま、キョトンとして首を傾げた。どういう意味?と質ねるあどけない声に、つい小さな舌打ちが(ちっ)と出る。
「だから…………問題、あるだろが。若い女がこんな風に狭い場所で男と二人きりになるのとか」
「え?」
「だいたいがそのスカートも短すぎて目の毒だ、お前ンとこの親父さんは何も言わないのか」
ぼそぼそと籠った声で言われた忠告に、聞いたいのはキョトンと目を丸くした。言ってから誤魔化すようにまたひとつ残ったチョコを自ら口に放り込むと、再び逃げようのない苦味が容赦なく口の中に充満する。しかし一度経験した事で、味覚にも耐性が出来たのだろうか。慣れてしまえば案外、これはこれで全く食べられないようなものでもない。
静まり返ったままの彼女をふと見ると、立ち尽くしたままのネイビーのPコートは、ぽかんとしたまま動けなくなっていた。
『ワカイオンナ』?などとオウム返しにされた言葉が、なんだか異国語のように奇妙に響く。
「それって私の事?」
「他に誰がいるんだ」
「…………『ガキ』じゃなかったの?」
「ガキでも女は女だ、当たり前だろうが」
『目の毒』、なんだ?
更なる問い掛けも無言で流すと、その場にはもう「ぼり、ぼり、」というチョコレートを噛み砕く音だけが、冷えた管理人室の中で小気味よくこだまするばかりだった。
指先にまだ残る最後の一粒まで、おもむろに口に入れ噛み砕く。苦味が広がり、足元にあるヒーターが何も考えていないようなタイミングで、再び「かちっ」と切り替わる。

「――……やだ、もう!」

やがて「ぷくく、」という堪えきれないといったような笑いと共にいのは呟くと、コートの肩がおかしげにすぼまり、呆気に取られていた顔が一転した。長い髪を揺らし、明るい声が管理人室に響く。その様子はさながら枝についた沢山の花が、一斉にほころんだかのようだ。なんだか一足先にこの小さな部屋にだけ、うららかな春がやってきたみたいになる。
ひとしきり笑うと、いのは滲んだ涙を拭きながら最後にもう一度サスケを見下ろした。
上気した頬には血の気が巡り、あざやかなピンクに染まっている。
――じゃあね。元気でね、うちはセンセイ。
笑顔で締めくくると、くるりと身を返して軽やかな足取りでいのは、管理人室の向こうへと消える。
僅かに残る賑々しい余韻を感じつつようやくお茶に手を伸ばしていると、再び思い出したかのように「コンコン」と小窓がノックされた。
訝しく思いながら施錠を解くと、エントランスに回ったいのがニッコリと笑っている。
「……なんだ、忘れ物か?」
「うん。そういえば、伝言を頼むのを忘れたと思って」
「伝言?」
誰に?と訊き返すと、マフラーに半分埋もれた口元が(ふふふ)と意味ありげに笑った。
あの人、あのおっきい人に。と言ういのに、やっぱりよく解らないまま首を傾げる。

「『あの雨の時はごめんなさい』と……」
「は?」
「――そうね、あとはやっぱり、『大嫌い!』かな」

北海道で仲直りできたら、ちゃんと伝えてね。
そんなど真ん中を打ち抜くような一言に、今度こそサスケは唖然として目を見開いた。ナルトのいる北海道にある大学病院に就職した事は、両親と水月にしか伝えていない事だ。隙あらばサスケを揶揄うネタを探しているおしゃべりな叔父とその相方である高校教師に情報が漏れるのを防ぐため、ここのアパートの住人達を始めそのごく数人のメンバー以外には、表向き卒業後は実家の病院にそのまま入ると伝えてある。
そうでなくともここ数年、ナルトのナの字も口にしないようサスケは気をつけてきた。
それがどうしてこの少女の口から、こうもあっさり出てくるのか。

「お前、どうして」

急激に乾きだした喉に強いながら訊いてみるも、小窓の向こう側で立ついのは、意味深な笑みを浮かべるばかりだった。
長く伸びた髪を揺らしいつの間にかすっかり大人の雰囲気になった顔が、悪戯じみた笑いをその艶めいた唇に、悠然と浮かべる。

「…………ひみつ!」

歌うように告げると、「きゅっ」と床を鳴らし振り返ることなく、彼女はそこを立ち去った。
強い西日がエントランスに差して、しんとなった部屋にはほろ苦いカカオの香りが、名残のように漂った。