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入ってきた時から、目立つ客だった。
片方はまず金髪碧眼。どう見ても外国人の外見にしょっぱな身構えると、慣れたものなのか向こうから「ああいや、オレってばクォーターで。国籍は生まれた時からずっと日本です」とうち明けられた。大きな身体付きに穏やかな眼差し。外国人の血が混じっている事に加え自分でも鍛えているのか、半袖Tシャツから出た腕は長く、いかにも力が張っている。
「……ええ、八月あたりに入居出来る物件で。通勤にバスを使うので市バスの通り沿いで、最低でも2DK以上の広さで……」
席につくことなく、そのまま感心したように壁一面に張り出された物件情報を立ったまま眺めだした片方に対し、落ち着いた動きでカウンター席に座っては早速条件を並べたのは黒髪の男性の方だった。こちらは華々しい雰囲気の片割れとは打って変わり、じつに物静かな佇まいをしている。黒髪、黒い瞳、象牙色の肌。いかにもごく一般的な日本人らしい項目が続く彼であったが、しかしてこちらはこちらで、非常に目を惹く人物だった。端的にいえば、とんでもなく端麗な顔の持ち主なのだ。細くしなやかなモデルのような体形はその容姿にぴったりだったし、その上オーラ、といったらいいのだろうか。静謐だけれどどこか凄みさえ感じられるような空気が、たえずそのすらりとした長身を包んでいる。

「――なるほど、ではお住まいはおふたりで。ルームシェアという事でよろしかったですか?」

確かめれば、ふと振り返った金髪君は大袈裟なほどこくこくと嬉しげに頷き、黒髪の方は無表情のまま素っ気なく「はい」と答えた。……なるほど、とカウンターの内側、初老の店主は思う。地元で不動産屋を構えて20年、色んな客と接してきたが、これはまた特別正反対な二人組だ。ざっと見たところ、この金髪君が押せ押せで頑張った結果、黒髪氏が絆されめでたくこうなりましたといったところだろうか。なんにせよどうやら物事の決定権は、常に黒髪氏にあるらしかった。ふんふん頷きながらハウジングマップを見比べている相方に、「おい、ウロウロすんな。座れ」と命じるその感じも、いかにも上からな口調である。
「では借りられる時にはふたりの共同名義のような形での契約となりますね。お手数ですが、こちらの方にそれぞれご記入お願い致します」
そう言って顧客カードを差し出せば、並んだふたりは大人しくボールペンを手に文字を書きこみだした。こちらもまた正反対な趣き(枠ギリギリでバランスを取る金髪君と、きっちりすっきり美しい黒髪君)で整えられていく記入事項に、店主はそれとなくちらりと視線をはしらせる。ほぉ、実業団員と勤務医?それぞれを見ればいかにもではあるが、ちょっと無い組み合わせだ。いったいどこで知り合ったんだか。気になる所ではあるけれど、まああまり詮索するべき事ではない。
「えー……そうしますと、条件としてはバス通りである事、2DK以上、8月入居、月々と家賃の上限はこのくらいで。それと駐車場付きであることですね、あと他にご希望は?」
尋ねると、少しだけ考えた様子の黒髪氏の方が「……出来たら南向き、あと二階以上のRC造り。こっちはガスはプロパン……あ、都市ガスもあるんですか。じゃあ出来るだけ都市ガスが使える物件で。プロパン高いので」と落ち着いた声で付け足した。物件のリストを広げつつ、ふむふむと頷く。こちらの彼はどうやら見た目通りのしっかり者、むしろやや神経質というべきか。きちんと対応しないとすぐに見限られるタイプだな、そんな事を思い今更ながら背筋をのばす。
「わかりました、ではその条件で。そちらの――うずまき、様?うずまき様の方からは、なにかご希望は?」
「へ?オレ?」
ふと思い出して隣にいる金髪君に尋ねると、はたと意識が戻ったらしい彼はきょとんとその頬杖を解いた。どうやらこの大きな青年は、相当自分の相方に惚れ込んでいるらしい。指示された通り席に座ってからは隣で話をする眼鏡の横顔に、じっと飽くこと無くうっとりしていた彼だ。
「何平米以上の広さとか……」
「まあ広くても狭くても、どっちもいいとこあるしなあ」
「オートロックなんかは?」
「あれば安心だけど、防犯は自分らでもするし。一応そういうの相談する先もあるからさ」
相談する先?と一瞬訝しむと、その間を狙うかのように「……あ、」と何かに気が付いたらしい金髪君が小さく声を上げた。
お、ようやくひとつ位は自分の意見を言う気になったか?
任せきりだったその彼の変化に体ごと向けると、少し照れたようなその顔が(えへへ)とはにかんで言う。

「……なら、防音」
「は?」
「防音とかがさ、完璧になってる物件があるといいなあ、なんて」

ないです?と天使みたいな笑顔から出された実にあけすけな条件に、隣にいた黒髪の君はその場で即思考停止したらしかった。絶句する唇、大きく見開かれた瞳。あ、この彼もしや意外と童顔?フリーズする美形に、そんな事を思ったりする。
「はあ、なるほど……防音ですか」
「うん」
「それは外からの音というより、中の音が外に漏れないように、という意味で?」
「うんそう、壁が特別厚いとか、なんかそういうさ」
「――すいません、ちょっと」
潜在的なシグナルが彼を突き動かしたのだろうか。ようやく復帰したらしい黒髪の彼は短くそう断ると、隣で人畜無害そうな笑顔を浮かべる相方の喉元に、いきなりぐっと腕を回した。(ぐえっ)という呻きと共に金髪頭が言葉を切る。ラリアットのような形のままぐるりとこちらに背を向けると、回転椅子で回れ右をしたふたりはこちらから隠れるようにして何やら言い合いだす。
「ふざけんなよてめえ、なんつー条件付けてんだ!」「なんでだって、訊かれたからさ……他のはだいたいサスケ言ったじゃん?」……怒りをあらわにする黒髪の彼に、言った金髪君はしどろもどろな様子だ。

「いやでも、だってさ、サスケってば自分じゃ気がついてねえかもしんないけど、お前意外と………」

そういって最後にごにょごにょっと何かを耳元に吹き込まれると、怒り心頭な様子だった肩が急に固まった。
後ろ向きのままだから表情は見えない。けれどどうやら相当威力のあるひと言が、この瞬間そこに落とされたらしかった。つやつやした黒髪から覗いたまっしろだった耳が、冗談みたいにみるみる先の方まで見事な赤に染まっていく。……意外と、なのか。ほーん?と目を眇めつつ、震える肩を眺める。

「――ありますかってば?そういう物件」

そうやってうすい耳に見事爆弾投下を果たした金髪君は、くるりとまたこちらを向いては照れくさそうに尋ねてきた。うつむく黒髪君はまだ動けない。なんだ、彼の方がこの金髪の大男をいいように扱っているように見えたのに。本当のところは主導権を握っているのは、こちらの方ということか。

「ああ、でしたら最適のお部屋がありますよ」

そう言えば、にこにこしている金髪君は素直に「え!なになに、ホント!?」と身を乗り出してきた。ぴくりと黒髪君の痩せた肩が身じろぐ。けれどまだこちらを向くまでは色々回復できていないらしい。それにしても実際なに言われたんだろうなこの人。ああ、ああ。首筋まで真っ赤にしちゃって。
そんな光景を目の端でそれを捉えつつも、カウンターの内側で初老の店主は人の良さそうな笑顔をにっこり拵えた。
不動産仲介業一筋20年、自慢じゃないがこういうカップルの有り様も、その攻略法も、悪いがこちらは熟知しているのだ。
金髪君の方は実業団員といえどもあんがい年収がしっかりしているし、勤務医の彼は今はまだ研修中ということもあってか収入は思ったほどではないが、まあ堅い仕事であった。これならばまず入居審査に落ちるということはないだろう。であるならばここはひとつ、いやふたつみっつ、ランクを上げた物件を推していくべきだ。
初老の店主はにっこり笑う。そうして彼は、話を切り出した。
「ええ、家賃はご希望よりオーバーしてしまうんですがね。けどバス通り沿い、音楽学校の近くにある物件で……」

  * * *

「すんませーん、**電機の配送の者なんスけど」
間延びする訪いに振り返れば、朝から開けっ放しになったままの玄関に、ひょろりとしたシルエットがこちらを覗き込んでいるのに気が付いた。
夏の光に、青いユニフォームが黒ずむ。そういう規則になっているのか、ここに来るまでは被っていたらしいキャップを脱いだ頭も、その暑さに束を作っているのが見て取れた。ダンボール箱を開く手を止め立ち上がる。すると続けて、「冷蔵庫と洗濯機持ってきたんですが。うちは様のお宅はこちらで間違いなかったです?」という一応は丁寧だけれどやはり愛想のない声が、立ったままのナルトに向けられてきた。
「あー……はいはい、あってますってば」
答えてから、顎を伝う汗を拭う。やっぱり少し妙な感じだが決して間違いではないその宛名に返事をすると、ナルトはほんの少し尻の付け根、しっぽの名残がある辺りがむずむずする。なんだか不思議な感じだ。変なんだけど変じゃない。可笑しいんだけど何故か、妙に居住まいを正してしまうこの感じ。
「まだ荷物は下なんスけど、持ってきてしまっていいです?」と男が言う。 あ、頼んますってばと頼めば、ぺこりと礼だけ残し男は玄関から立ち去った。
八月に入り、流石の北海道も汗ばむような毎日になっていた。「時期外れだからあまり物件を選べないかもな」と最初は憂慮していた真夏の引越しであったが、実際決行してみると、話はわりあいすんなり進んで。最初に入った、駅前の不動産屋との相性も良かったのかもしれなかった。本当の事をいえば、条件を並べてからすぐ勧められたこの部屋は、もともとはかなりの予算オーバーだったのだ。けれどそこはさすが元大家というか、やはりうちはサスケというべきか。当初口ごもり気味だったのだけれど、途中から何故か急に自棄になったかのように猛然と家賃交渉を始めたサスケにより、最終的にはまあこのくらいなら……というラインにまで、月々の家賃も抑えられたのだった。
カーテンがまだない全開の窓から、向かいの公園に植えられた木々のてっぺんが見える。内見したとき案内してくれた不動産業者の男性から、夏が終われば、あの緑が綺麗な黄金色に変わるのだと教えてもらった。角部屋の二方向に広がる窓から見える秋はきっと見事だろう。今日やってきたばかりだというのに、今からもう数ヶ月後も楽しみでならない。
「………あの、終わりましたけど」
出し抜けに掛けられた声にはたと横を見ると、いつの間にか先程の青年が、再び帽子を脱いで立っているのに気が付いた。ぼやっとしているうちに、若いのに手際のいい配送業者の青年達は早々と設置も終わらせてしまったらしい。腰のあたりに無愛想に出された、使い古されたクリップボード。挟まれた納品書に、「……ああ!そっか、認めがいるのか」とようやく気が付く。
「ちょい待っててな、どこやったっけ」
ハンコ、ハンコと呟きつつガムテープや梱包材の散らかるダイニングテーブルにナルトは戻った。確かこの辺に、とテーブルの上をがちゃがちゃ浚うが、今朝から幾度となく使われていた筈の黒いシャチハタは見つからない。おかしいな、ついさっきガスの開栓に立ち会ったサスケが、ここで使ったのを見たばかりなのに。
「あれ?」
「………」
「いや、変だな……絶対この辺にあるはずなんだけど」
困り顔で言うと、じっと立っていた配送の若い男は僅かに焦れたようだった。「別に、ハンコが見つからなければサインでもいいっスよ」というぼそりとした声に、え?ああそっか、サインかと頭を掻く。
「『うちは』だけで大丈夫?」
「大丈夫ス」
「……これ、筆跡とか関係するかな?」
「?……おたく、うちはさんじゃないんスか?」
「いや、うちはです。こちらでサインします」
貸して、と素っ気なく入ってきた声に顔を向ける。やっぱり開けたままになっていた玄関でスニーカーを脱いでいたのは、先程ゴミ捨てに行くと言って出て行ったサスケだった。今日から住むここのマンションには、24時間ゴミ出しができる専用の集積場がある。家賃交渉の際、あともう一声値を落としたかったサスケを納得させたのは、なんであろうこの至極便利なゴミ事情が関係しているようだ。
色々詮索するのも面倒なのかこういったことはよくあるのか、若い男は入ってきたサスケに、今度は何も確かめなかった。じゃあ、と差し出され直した納品書に、玄関から廊下に上がったサスケが片手間な感じで素早くサインをしている。青いユニフォームの横、逆光の中に見えるジーンズの腰が驚く程に細かった。白いTシャツの肩が文字を書くのにほんの少し傾ぐ景色に、何故か腹の底にジワ、と甘ったるいものが広がる。ああ、……まだ早いって。真昼間だぞ?
「よし、だいぶ片付いたな」
男が出て行くと、先ほどよりもかなり数の減ったダンボール箱にを見渡しサスケは言った。ようやく納得した、という感じだろうか。ブルージーンズの腰にあてられた手が偉そうだ。
「……うう、気に入ってるものとかも沢山あったのに」
がらがらになった箱を見下ろし、ナルトは言う。山積みのダンボール箱を挟みサスケと早速ひと悶着やりあったのは、今日の昼前の事だ。


――なんだこの大荷物は。
午前中、元の住まいとの近さから先に現地入りしていたサスケがまず唖然として呟いたのは、そんなひと言だった。ホッケーの道具をはじめ、衣類、履物類、本(主にスポーツ雑誌のバックナンバーだ)、体を鍛えるための諸々の器具、ここ数年でその時々ではまった趣味の道具の数々(キャンプ用品や釣り道具やスノーボードやら色々)、あとはもう、本当に雑多なものだ――ファンレターや貰い物のヌイグルミ(チームキャラであるカエルやら何故かご当地キティちゃんやら)をはじめ、ファンからもらったあれやこれやがごっそりと入れられたダンボール箱。
ナルト自身の運転する軽自動車の後部座席はもちろん、借りてきた小型トラックの荷台でも山になっているそれらはすべてがナルトの荷物だった。そちらのトラックを運転してきてくれたのは、手伝いを買って出てくれたナルトのチームの後輩だ。運転席でハンドルを握ったまま、何故かドギマギとした面持ちでマンションから出てきたサスケに挨拶しようとする彼への対応もそこそこに、それらを見たサスケは即言い切ったのだった。
無理だ。こんなに入らねえぞ、と。――そこからはもう、いつものパターンだ。
「気に入っていようがいまいが、使ってねえもんは持っていても仕方が無いだろうが。だいたいがお前服とかも買い過ぎなんだよ、なんでたった5年でこんな荷物が増えてるんだ」
お前あっちから越す時は、ここまでじゃなかっただろうが。東京でのアパートを引き払う際、カカシに代理を頼んだ引越しに立ち会ったらしい彼は、そんなふうにも言う。言わんとすることはまあわかる。確かにこの数年で自分の荷物がかなり嵩増したというのは、今回自ら荷造りをしてみてよくわかった。
「服はしょーがないってば、こっち来てから体型ちょっと変わったから前着てたのきつくって」
「だったら昔の分はとっとと捨てろよ」
「………でも気に入ってんのも多いし。なんとなくいつかまた着る時もくるかなって」
「そりゃ何十年後の話だ、服でも靴でも、着る体はひとつだろうが。そんな大量になんて必要ねえんだよ、洗い替え含め三枚もありゃ充分だ」
ざっくりそんな断言をするサスケに「えええ、乱暴」と思わず呟けば、切れ長の瞳がきりりと睨みつけてきた。うるせえ、荷物はクローゼット外には置かないって言っただろうが。そんないつかの張り紙みたいなことを、この彼は今でも言う。


「けどさぁ――まあ正直三枚ってのは、やりすぎだと思うけど。けどだからって、サスケまで荷物減らす必要ないってばよ?」
ごめんな、なんか……お前はもともと、ちゃんと考えて入る分だけしか持ってきてなかったのに。
結局なんだかんだ言いつつも、片付けられた結果その大部分が自分の物で埋められてしまったクローゼットを見遣りながら、ナルトは眉を下げ言った。
最初こんな沢山の荷物は入りきらないとなった時、手伝いとして向こうの寮から一緒にトラックを運転してきてくれた後輩も言ったのだ。このまま下ろさず、向こうに持って帰れるものがあればと。
自来也の独身ハウスには去年のオフシーズン頃からからこちら、トライアウトによって入ってきたチームの新入り達が沢山身を寄せていたが、そんな彼らも今年のGW前に一斉に部屋を外に借り出て行ってしまっていた。寮父の長門を慕ってなのか、若者らしい気安さでしょっちゅう今でも出入りはしてくるが、それでも部屋そのものは随分と空いたのだ。自来也と長門の事だから、たぶん頼めば空き部屋にしばらく荷物を置いておくくらい、わけなく請け負ってくれるのではないかと思われた。後輩ではないが、ナルトも真っ先にまず『長門にどうやって頼もうか』などと考えたものだった。
それを「いつまでもそんな甘えてもいられないだろう」ときっぱり断ったのはサスケだった。さすがにまずは手放せる物の再確認(主に衣類や靴類。一時期スニーカーにはまってしまった時期もあったのだ)は命じられたわけだがそれでもまだ大荷物なナルトのために、元々物の少なかったサスケは更にそれを小さくまとめ直しては、借りた部屋の収納の大部分をナルトに明け渡してくれたのだ。
「別に。俺は俺で、最初からひと部屋余分に貰ってるしな」
残された領収書の控えに目を通しながら、もそもそ言うとサスケは腰に手をあてた。二人暮らしといえども、ひとりで静かに机に向かえる場所はどうしても欲しい。そんなサスケの希望から、ふたつあった洋間のうち片方は主寝室に、そうしてもう片方はサスケ個人の為の書斎に割り当てられているのだ。ほんの少しだけ、サスケはそれを負い目に思っているらしかった。いや、本当はたぶん、結構申し訳なく思っているのだ。だって少しだけ予算オーバーとなったここの家賃を相談し合った時も、彼はひと部屋ぶん自分が多く出そうとした位なのだから。結局はナルトが頑として言い張って、綺麗に折半となったわけなのだが。
「……でもさ」とまだ言おうとすると、それを無視するかのようにサスケは、ダイニングテーブルに置いていかれた家電の取扱説明書をぱらぱらとめくりだした。
それに、という声。風の通りのいい部屋に落とされたそれには、先程までの妙な歯切れ悪さはもうない。
「服なんかはともかく――お前には捨てちゃいけない大事なものだって、沢山あるんだろうが」
声が切れるのを待ったのだろうか。相変わらず視線は取扱説明書に落としたままではあるが、そんな事を付け足したサスケに、「え、」と呟いたナルトは思わず部屋の端に視線を走らせた。
何度も動かされ、ちょっと他の物より風化の進んだダンボールが数個。仕舞われるのを待っているそれは、今はいない両親の遺品や、昔家族で住んでいた家から持ち出してきた品々達だ。
事故で両親が他界したあと、寮に入ることを決めたナルトはそのまま都内にあった両親名義で借りていたマンションを、事故後わりとすぐに引き払ってしまったのだった。当時は堪らなかったのだ。濃密にまだ漂う家族の気配の中ひとり食事をしたり、誰も「おはよう」を言ってくれない朝を迎えるのが。今となっては残しておいてもよかったのかもなと思わなくもないのだけれど、それでも大切に箱詰めにしたそれを、ナルトは引越しのたび一緒に連れて動いている。
………いいから、気にしないでとっとと片付けろ。
そうやって言われたぶっきらぼうな優しさに、ナルトはじわじわと胸の奥に温かいものが満ちるのを感じた。さっきのむずむずとはまた違うもの。でもうんと先ではそれらはきちんと繋がっているのだ、たぶんそうなんじゃないかと、ナルトは思っている。
「ん……――ありがと」
言いながらちょっとくすぐったくなって、ナルトは鼻の下を擦った。ああ、好きだな好きだな。そんな事を思いながら、Tシャツの彼をうっとりと眺める。
「……へへへ」
「なんだよ」
「いや、サスケかっこいいなと思って」
好きだってば、とこみ上げたものを思わず言葉にしながら、その無愛想な唇を掠め取った。いきなり塞がれた視界に、黒い瞳が一瞬驚いたように目をつぶる。水遊びにでも興じているのだろうか。盆休みの初日、向かいの公園からは大はしゃぎする子供達の声が、高らかとここまで届いてきていた。すぐに離れたナルトがそっと目を開ける。明るくなった視界に見えるのは、早々とまぶたを上げているサスケの憮然顔だ。
「……くだらねえ。手伝ってやるから、てめえもとっとと作業に戻れ」
ち、と舌打ちしつつ甘さを打ち消すかのようにそう言うと、サスケはちょっと乱暴な仕草で説明書をテーブルに戻した。つっぱったような背中が、ナルトを置いてまだあるダンボール箱の山へと向かう。口ではそんなでも、けっして悪い気はしていないのだというのがうっすら伝わってきた。だってほんのちょっとだけ口許が優しい。ほっぺただってよくよく見たら、さっとひとはけ桃色がのっているようだ。
――ああ、だめだめ、だからまだ昼だって。またもやうずつき始めた甘苦しさに、ナルトはそっとTシャツの胸を握り締めた。箱に書かれた内容物を表すマジックの文字に、サスケがふむふむといった感じで身を屈めている。曲げられた腰の辺り、浅く履いたブルージーンズとTシャツの隙間から、日焼けを知らないまっしろな肌が顔を見せていた。華奢さに浮いたウエスト周りに、僅かに彼の下着が覗くのが見える。
小さな尻を差し出されているかのような姿勢に、ずくんと下腹が疼いた。今度のはまた、かなりダイレクトな欲求だ。
いやだからダメだってばまだ作業だって終わってないんだし。そうは思うのだけれど、意思とは反し体は自然と動くのだった。すすす、とその誘うような体勢の後ろへと回り込む。……まあほら、けど考えてみたら、昼間だからしちゃダメなんて法律はないわけで。大丈夫ちょっと触りたいだけなの。ほんとそれだけ。それだけしたらきっと、気が済むから。

「――ただいま戻りましたぁ」

突然戻ってきた声に、ナルトはぎくりとして伸ばしかけていた不埒な手を止めた。靴を脱いで上がり込んでくる気配とがさがさというレジ袋の音。やがてひょっこり顔を見せてきたのはひとりの青年だった。ナルトの代わりに自来也の元に今度身を寄せることになった彼は、今日ナルトと一緒にトラックでやってきてくれた、ホッケーチームの後輩だ。
んもーセンパイ、やっぱり冷やし善哉なんて売ってなかったすよ、などとぼやきめいた事を言いつつナルト達のいる奥の部屋にやってきた彼は、その光景を見るとギョッとしたように動きを止めた。腰を折る細い身体に対し、不自然に伸ばされた手と今にも覆いかぶさろうとする厚い身体。手に下げられていたコンビニのレジ袋が、ぼとりと床に落とされた。頼んだものの代わりだろうか、中から焦げ茶色のココアの缶がひとつ、ごろりと床に転がり出る。
「すっ――すんませんでしたコレェ!今すぐ帰ります!!!」
顔を赤らめすぐさまそう叫んだ後輩に、サスケはきょとんとしたようだった。が、すぐにハッとして後ろを振り返る。
「何しようとしてる、お前」
「えっ?!いやその……っ」
慌てて一歩後ろへ下がれば、引いた拍子に足がなにか硬いものを踏んづけた。刺さりはしなくても妙に尖った感覚に、いって!と思わずたたらを踏む。バランスを失った身体がよろめくと、積み重ねられたダンボールの山に腰のあたりがぶつかった。アッ!と思った瞬間、斜めになったてっぺんの箱にサスケが手を伸ばす。咄嗟のファインプレーにホッとしつつも、次の瞬間ナルトは礼を言おうとした口が固まるのを感じた。

「………『マル秘』?」

ずれた箱の下、大荷物の中に紛れ込まされていたひとつの蓋に書かれた文字は、そのまま疑問形となって形のいい唇から呟かれた。
夏空にこだまする子供の笑い声が、沈黙に染まってしまった部屋に、かん高くすり抜けていった。




どうにか目に付く荷物はすべて片付けたのち、妙に恐縮し続ける後輩を見送りがてら一緒に買い出しに出ても、サスケはずっと言葉少なのままだった。
スーパーや全国にある量販店などが併設された、郊外型のショッピングモール。車で15分程行った場所にあるそこは、夕方の賑わいで広い駐車場もほぼ満車の状態だ。
「晩飯、今日はもう何も作らなくてもいいよな。いっそここで食ってく?」
ドラッグストアなのか、それともホームセンターなのか。両方のいいとこ取りをしたような巨大な店舗でカートを押しながら、ナルトは頑張って明るい声を出した。しかして盛り上げようと覗き込んだ相方の表情は、「ん、」と小さく返しつつもいまだ無表情のままだ。たぶんというか絶対、昼間見たあの『マル秘』ダンボールの件が尾を引いているのだった。さっぱり盛り上がりをみせなくなってしまった会話に、はあ、とこっそり溜め息を吐く。
『――中身なんなんですか、アレ』
結局その場では開封されなかったその箱は、やはり彼にとっても気になるところであったのだろう。帰り際、一瞬だけサスケが場を離れた瞬間を狙って尋ねてきた後輩に、ナルトは「なにって、マル秘っつったらアレだろ、見られちゃ困る男のさ」とだけ答えた。それだけでだいたい察しはついたのだろう。呆れたように「またそういう……!しかもどーしてわざわざそれを箱に書くんですか、馬鹿なんですか」と眉をひそめていた後輩は、ナルトから見ても正しいと思う。そーだよオレは馬鹿なんだよ。けど間違えて開けられんのも困ると思ったんだ、しょーがねえだろ馬鹿なりに一応考えてやった事なんだってば。

「あー、ええっと……そ、そろそろさ、アイツ向こうに着いたかな?!」

いやしかしここで挫けちゃいかんとばかりに話題を振る。ようやく気のない様子ながらもこちらを向いてくれた彼に、ナルトはホッと短かい息をついた。汗を沢山吸った半袖Tシャツから着替えた、長袖カットソーの腕をなんとなく捲り上げつつ、あらためてカートのバーを掴み直す。真夏でも日が落ちると急に涼しくなるここの気候にようやく慣れてきたらしいサスケも、今はコットンの白いシャツに着替えていた。ノーカラーで長袖のそれは、木の葉荘にいた頃からよく見かけたものだ。所持数が少ないだけでなく、物持ちも実にいい彼である。
「荷下ろしだけのつもりが、なんやかんやで最後まで手伝わせちまって」
「………」
「今度あらためてなんかご馳走してやんなきゃな。木の葉丸って何好きだったかな」
「………木の葉丸って、」
ぽつ、と出された声がありがたくて思わず「うん?」と勢いよく前のめりになって顔を覗き込むと、そんなナルトにサスケは一瞬眇めるような目つきをした。……会話は再開してやってもいいが、まだいちゃいちゃとした気分にはなれないらしい。
「あいつ、昔お前と最初に試合見に行った時、」
「あ!そうだってば、よく覚えてたな!」
すげえ、さすがサスケ!とすかさずヨイショを入れながら、やっと口を開いたサスケの言葉をナルトは引き継いだ。今日手伝いに来てくれた木の葉丸は、ナルトが途中で退学してしまった大学の後輩だ。まだお互いが名前で呼び合う事さえできなかった昔、一緒に行ったアイスアリーナでの練習試合の最中に転倒したチームメイトの代わりとして出ていたのが、その彼であった。名前が出たのもその時の一瞬だけだったのに、サスケは覚えていたらしい。相変わらず優秀なその記憶力に感心しつつ、ナルトはニシシと歯を見せた。
「あいつさ、大学卒業してから他のチームにいたんだけど、オレがこっちで現役復帰してんの知ってわざわざ追っかけてきたんだって」
「へぇ」
「なんか聞いたら、高校生の頃からずっとオレのプレーに憧れてたらしくって。なんつーか、悪い気はしねえよな。今はもうすっかりオレに対して、遠慮とかもなくなってるけど」
まさかあの帰り道には、あいつとこんな風に再会するなんて夢にも思わなかったよなあ。のんびりそう言えば、ようやっとサスケは(ふ、)とゆるんだ息を漏らしたようだった。たぶんあの時の、やたら長くて疲れた長距離行軍を思い出したのだろう。そういえばあのあと、久々に歩き過ぎたサスケがあの日靴擦れを拵えていたのを知った。やっぱり彼にとっても、あれは決して気楽な散歩なんかじゃなかったのだ。
「なあ、さっきのマル秘箱」
一瞬気が緩んだところを狙いすましてきたかのようなひと言に、へらりとしかけていたナルトはぎくりとまた顔を強ばらせた。……甘かった。やっぱり、全然、誤魔化されてなんかなかったようだ。
「中身は?」
「……ひみつ」
「開けてみてもいいか?」
「……いいけど、あんまりいい気はしないと思う」
たぶんサスケの趣味とは、合わないんじゃないかと。おそるおそるそう付け足せば、なんとなく向こうにも予測がついたらしかった。ふーん、という声が冷たい。そういえばいつだったかリンさんの事だけは可愛いって言ってたけど、サスケの趣味って他にはあんま聞いたことなかったな、荷物の中にもそういうの全く見当たらなかったし。もやっとそんな事を思いつつも、ナルトはすごすごと肩を縮こまらせる。
「なんで持ってきたんだ?」
ズバリ訊かれれば、返事のしようがなかった。なんとなく、としか言い様がない。20代男性としては至って健全で当たり前な荷物だと思うのだけれど、でもほんのちょっとだけ、サスケが怒る気持ちもわからなくはなかった。男同士とはいえ、自分たちは大真面目なオツキアイをしているのだ。ごく自然なこととはいえ恋人のいわゆる『オカズ』の品々を見て喜ぶ恋人なんて、そう滅多にいるもんじゃないだろう。
「あー……その、あれだ。なんとなくさ、捨てる機会がなかったっつーか。向こうに置いてくるわけにもいかないし」
ま、そのうちうまいこと適当に捨てるってば。極力重くならないようさらりと言えば、サスケはまた「ふぅん」と呟いた。家族連れで賑わう大型のドラッグストアは、喋りつつだらだら進んでもまだ果てが見えないほど広大だ。
「――それよりあれだってば、買ってくものってなんだっけ、忘れないようにしねえと!」
メモメモ、と空気を切り替えるべく急かすように言えば、黙ったままのサスケはそれでも後ろのポケットからスマートフォンを出した。メモのツールを開き、一覧にしてきた買い物リストを揃って覗き込む。そうだよ今日は記念すべき二人暮らし初日なんだぞ、もっとこう、ああ楽しかった!と後からも思い返せる感じの、いい一日にしたいところだ。
洗剤類、ペーパー類、キッチン用の雑貨、ゴミ袋。並べられている単語に従い、ナルトはどんどんカートに物を入れていく。そうしていくうちに、微妙に物静かだったサスケも少しずつ気分が上がってきたらしい。物を買うというのはどうしてこう、なんというはなしに浮かれてしまうのだろう。高い安いとあれこれお互いに言い合うのも、妙に楽しくて声が弾む。
「あ、なぁなぁこれ見ろってばサスケ、【恋するハミガキ】だって!」
『ハブラシ2本』のメモに従い日用品コーナーにまで来ると、他の物とは一種別格のようなパッケージに包まれた、グリーンのチューブが並んでいるのを見つけた。目敏く読み上げたロマンティックな宣伝文句に、サスケも(は?)と気を留める。どうやら海外製らしきそのハミガキ粉は、口内除菌と口臭予防に特別力を入れた商品らしい。9種類の植物エキス配合、スイートミントの香り。『モンドセレクション金賞受賞』という詳細不明でもなんだか権威だけはありそうな金色のラベルが、そうたいして大きくもないスリムなチューブに燦然と輝いている。
「……『口臭マスキング効果で、目覚めてすぐキスできる息へ』……?」
おお、これいいじゃんかとばかりに手に取って隣に見せれば、ほんの少しだけ目が悪くなったサスケはそっと目を眇めた。黙ってひっくり返し、その内容成分を審査していたその眼がやがて止まる。
「……は?1500円??」という唖然とした声に、ナルトも「へ?」とようやく棚の値段を見た。100g1500円(税込)。見直してみても、やはりその表示に間違いはないようだ。
「なんだこりゃ、ハミガキ粉だろ!?」
「うわ、ホントだ高ッけぇ!」
「無しだ無し、こんなの買ってられるか」
「や、――けどさ、これホントだったらいいじゃん。そんな高い買い物じゃないってば」
値段を知った途端あっさりその場を後にしようとしたサスケに、チューブを手にしたナルトは急いで追いすがった。だって明日の朝から毎日、起きたらまずおはようのチュウしなきゃだし。大真面目なその発言に、特売品のコーナーに並ぶそれに手を伸ばそうとしていたサスケが一瞬唖然としたのちぱっと頬に朱を散らし、あたりに人がいないのを確認してから小声で叫ぶ。
「……しねえよそんなの!」
「ええ、しないのそういうの?!」
あっさり打ち砕かれた積年の夢に思わず目を大きくすると、追撃するかのようにサスケが「フン」とそっぽを向いた。俺ァ寝起きにちょっかい出されるとイラつくんだよ。そんなロマンスの欠片もない発言に、浮かれていた肩ががっくりと落ちてしまう。
「あ、憧れてたのに……!」
「知るか。勝手に憧れてろよ」
「いってらっしゃいとおかえりのチュウは?」
「朝急いでるとこにいちいちンな事すんのかよ」
「ペ、ペアのマグは?」
「今あるの使えばいいじゃねえか」
「……オレこのあとユ○クロでお揃いの部屋着とかも買おうと思ってたんだけど」
「はァ?ふざけんなお前今服減らしたばかりだろうが。無駄にまた増やしてどうすンだ、だいたいがオレ、ペアルックなんて趣味じゃねえし」
やりたきゃ全部ひとりでやれよ。ざっくりそんな無理な事を言われ、ナルトは止めを刺された。ひとりでって、どれもこれもパートナーあっての物事ばかりじゃないか。ペアのマグを交互にひとりで使えとでも言うのだろうか、ひどい、あんまりだ、沢山コーヒーは飲めそうだけど。
「あっ…――けどさ、『アレ』は買うよな?」
日用品コーナーの棚の先にある、ほんのりひと気のないスペース。店の一番奥の方に設置されたそこには、衛生用品と書かれた案内が天井からぶら下がっていた。しばしふたりして、黙りこくる。五月にめでたく結ばれて以降、お互い寮住まいだった為もっぱらソレを行うためには民間施設(いうなればラブホ)を利用してきた。しかしこれからはもう、そうする必要がないぶん色々自分たちで用意もしなきゃならないわけで。
「アレは………またでいいんじゃねえの?ふたりして買うもんでもないだろ」
どうせまた他人の目でも気にしているのだろう。少し声を潜め、そんな先送りな発言をサスケはした。ええ、ダメだってばそんなの!さすがに今度はナルトの方も、黙ってはいられない。
「要るよ、要る要る!!絶対要るってば!!!」
「じゃあ明日俺出勤だから、その帰りにでも」
「そんなの待ってるくらいなら、今オレが自分で買ってくるってばよ!」
ひと声決めて向き直ると、ナルトは隣にいる相方に押していたカートを託した。先にオレそれだけ買ったら戻ってくるし、サスケ残りの買う物ピックアップしといて!鼻からの息も勇ましく、斜め掛けのいつものワンショルダーの紐を引く。
「見失ったら携帯かけるし、気にしといてな!」
「……ああ」
「んじゃ行ってくる!」
「なんかお前、必死だな」
そんなに、か?なんとなくきれの無い声に(へ?)となれば、見返したサスケの目にはある種の頑なさが浮かんでいた。……なんだか嫌な予感だ。少し久々だけれど、こういうサスケはよく知っていた。自分の殻の中であれこれ考え過ぎて、斜め上どころか、変なところへ突き出た結論に至っている時の顔だ。
「そんなに、だってばよ?」
慎重に、ナルトは言った。刺激を与えるのはまずい。できるだけやんわり、自然に流さなくては。
「なんで、サスケはキライ?」
「……嫌いじゃねぇけど」
「もしかして今日はしたくない?」
「……そうは言ってねえだろ」
なんとなく煮え切らない感じでいちいち返してくる言葉に、ほんの少しだけ、苛立ちにも似た不満のようなものがナルトの中で頭をもたげた。なんなのコイツ、こっちがこんなに聞いてやってんのに。そんな今までには無かったようなセリフを、こっそり胸のうちで呟いてみたりする。
なんかさあ、ナルトは言った。苛立ちとまではいかないけれど、見返してる無表情に、微妙な不満を感じる。
「オレだってさ、やりたい事、お前がイヤだっつーから色々諦めたりしてんのに」
「………」
「けどなんかこれじゃあオレばっかが二人暮らしに浮かれてるみたいじゃん。お前ノリ悪いしさ、ちょっと虚しいってば」
「は?なんだそれ、誰もそんな――」
面白くない気分のままつい当てつけるように言ってやると、黙って聞いていたサスケは一瞬カチンときたらしいが、言い返そうとした言葉を出す前に押しとどめた。瞳が合った瞬間、ほんの束の間その奥に何か言いたそうな気配がよぎる。けれどやっぱり声に出すには、まだ気持ちが追いつかないらしかった。結局黙ってしまった口元に、思わずゆるい溜息が出る。
「――まあいいや。とりあえずオレ、買ってくるな?」
これ以上揉めるのもなとばかりにちょっと笑いを見せると、白いタイルの床を見ていたサスケが静かに顔を上げた。沈黙する黒にはどこかいつも程の自信はない。けれども言われっぱなしで負かされたような、殊勝な感じもなかった。無言のまま無表情に戻ったサスケに「じゃあ後で」とひと言残すと、折りよく陳列棚の脇に重ねられてあった買い物カゴをひとつ取り、自然な足取りでその一角へと向かう。
(こんなのさ、別に一緒に買ったっていいのに。いちいち気にしすぎなんだよな)
だいたいがオレは、サスケ相手だったら誰にどう思われたっていいのに。そんな事を思いつつ、特に深く考える事なく中心に置かれている一番売れ筋らしいパッケージをひょいとカゴに放り込み、そのまま中下段あたりに並べられたカラフルなボトルに腰を屈めた。こういうのは買うのに恥ずかしがってるとますます恥ずかしくなる一方なのだ。ぽいぽいっと買ってしまえば、それもう終わりだというのに。
何食わぬ顔で会計を終え、先程別れた彼を探すと、果たしてその黒髪は既にナルトとは違うレジに並び、会計を終えたところらしかった。ナルトがいる場所から敢えて距離をおこうとしたのだろうか。一番端にある詰め込み台に移っては黙々と買ったものを袋に詰めているその背中に、慌てて近寄っては声を掛ける。
「なんだ、会計しちゃったのかってば?」
「……ああ」
「待っててって言ったのに」
「馬鹿、いっぺん買ったお前が俺とまた並んでたら、結局一緒だろ」
素っ気なく言いつつ、白い手は休みなく荷物を袋へと詰め込んだ。こんな他愛ない事でも適当に入れるのは許せないのだろう。一応中の構造を考えつつ物を入れているらしいその横顔は、やっぱり何を考えているのかよくわからない。
「……ごめん、ありがと。あとで半分出すってば」
ちょっとその顔を覗き込んで言えば、ちらと向けられてきた瞳はもう険が取れているようだった。
うん、よかった。こんなかんじで、微妙に空気悪くなってもなんとなくいつも流していけばいいのかな。
並んで同じ作業をするべくペリペリとレジ袋の口を開けながら、ぼんやりとそんな納得をした。




どうも計り違いをしていたらしい。
買ってきた既製品のカーテンは、ぶら下げてみるとほんの少し長さが足りなかった。
やっぱこれじゃおかしいかな、と問えば渋顔が黙る。つんつるてんの端が揺れる部屋は、少し離れたところから見渡すとなんとも言えず滑稽だ。
「外して、明日店で交換して貰ってくっか」
「……それしかねえだろな」
ふたりしてちょっとガッカリしながら、付けたばかりのカーテンを外す。せっかく買ってきたのに。でもこれがひとりだったら、もっとガッカリだっただろう。外したカーテンを丁寧に畳んで袋に戻すサスケの横で、僅かに下を見る長いまつげが同じように残念そうな影を落とすのに、どこかホッとしてしまう。
沢山の買い物を終えついでに食事も済ませてから帰宅したら、時刻は既に九時を回っていた。濃い藍の空には蜂蜜色の月。すこしだけ欠けたそれは南南西の方角に、滴るような明るさで浮かんでいる。
「ああでも、今夜は電気つけなくてもいいくらいだな。すげえ明るい」
カーテンなくてちょうどよかったかも。
再び丸裸となってしまった窓に仕方なく部屋の照明を消すも、十二分に明るいままの室内に、ナルトは思わず言った。がらんと広く取られたリビング兼ダイニングには、隅々まで月光が行き渡っている。不動産屋に仲介されたここのオーナーは以前この近くにある音大で教鞭をとっていた紳士で、かつてこの部屋には大きなグランドピアノが置いてあったのだそうだ。わざわざ防音工事を施したというのはそういった経緯かららしい。内覧でここを見に来た時、不動産屋がそう説明していた。
落ち着いた色合いのフローリングに、長年重いものが置かれていたような丸いへこみを見つける。部屋のひとかどにみっつあるそれは、この部屋にいつかあった音楽の置き土産だ。
「――サスケ」
月光に照らし出された横顔があんまりにも綺麗で、気がつけば呼んでいた。
振り向いたところを、素早くキスでつなぐ。
抵抗されないのに気をよくして何度も啄めば、やがてその左手がそっと、ナルトのシャツを掴んだ。一瞬の別離に、赤い唇が小さく動く。「……窓、」という呟かれた単語には、どうやら隠されてもいないここでそんな事をするなという、咎めが込められているらしかった。軽く伏せられたまつ毛の震えに、胸の中が甘苦しさでいっぱいになる。
「なんで、いいじゃんか」
「そういうアブノーマルな趣味はねえんだよ」
「平気だって。誰も見てやしねえよ」
そう耳に吹き込めば、冴えた黒はほんのわずか、倦んだように細くなった。
すうとのびた眉がしなる。と、そこに長閑なメロディと、『オフロガワキマシタ』などという場の空気にまったくもってそぐわない、現実的な機械音声が流れてきた。……そうだった、帰ってきてすぐに、風呂のスイッチを押していたんだった。台無しにされた場であったけれどそれでもやっぱり名残惜しくて、合った瞳にじいと懇願してみる。けれど向こうはこれ幸いとばかりに、戻った無表情できっと言い渡すのだった。……ちくしょう、わかってる。サスケにロマンは求めてはいけない。
「――ほら、時間切れだ」
風呂いってこい、という予想通りの言葉に、ナルトは渋々固めていた腕を緩めた。あっ、じゃあそうだ、一緒に入ろうってば!明るく誘ってみても、すっかり平静に戻ってしまったサスケは「入らない」と素っ気なく言うばかりだ。
「えー……ケチ」
「俺は明日からもう仕事だからな。今日中に自分のとこは全部片付けちまいたいんだ」
ぶうたれるナルトだったがそう言われてしまえば我慢するしかなくて、自室に行ってしまったサスケを肩透かしな気分で見送った。こういうところはやはりサスケだ。これまで付き合った女の子達だったら、大概がいいように流されてくれるのに。
(………ちぇっ、仕方ねえの)
つれない恋人に、ほんの少し拗ねたような気分になる。けれど残念さはまだあってもそれでもなお見事な窓越しの金色に、ふと目を奪われたナルトはまたしばし立ち尽くした。この時期だから、特別な名月というわけでもないのだろうけれど。それにしても大きな月だ、この明るさならばその気になれば、本の文字くらいわけなく拾えそうである。
――ここでもし、サスケを抱いたら。
蜂蜜色の月灯りの中、ふわり想像したら堪らない気持ちになった。あの白い身体が肌を染め快楽に反るさまは、きっと夢のように美しいだろう。しかしそんな妄想をどうにか押しとどめ、ナルトは寝室へと向かった。収納の引き出しを開け、サスケの指示通り昼間きちんとしまった、洗い済みの新しい服を出す。
急いては事を仕損じる。これもここ数ヶ月の間に徐々にわかってきた、『恋人』としてのサスケとの付き合い方だった。特に仕事に関わる事で邪魔をするのはご法度だ。向こうは向こうで、ナルトに対し同じように考えてくれているようだけれど。
……先を譲ってくれた彼の為に湯をあまり汚さないよう気をつけつつ、短かい入浴を済ませて出ると、ナルトはまだ火照りを残す身体のままサスケの部屋の前へと向かった。サスケ~?風呂あいたってばよとノックもそこそこに扉を開けるも、窓のない奥の部屋からは暗闇が沈黙を返すばかりだ。
あれ?と思いつつ電気を点けてみるも、明るくなった部屋にもやはりその人は見当たらないようだった。拍子抜けして扉を閉めようとすると、すっかり思うような整理整頓が済んだらしいデスクの上に覚えのある小さな箱がふたつ見える。
ひとつはいつかの盗人が不要とばかりに捨てていった、彼の兄のものだった。しかしその隣にきちんと並べられた、中身のある革張りの小箱。デスクのいっとう目立つ場所に大切そうに飾られているのは、見間違いようもなくあの晩自分が彼に渡した、銀無垢の贈り物だ。
「……へへ、」
無性にこみ上げてくるなんともいえないあたたかさに、思わずむずむずした笑いがつい口から漏れた。やっぱりオレ、あいつを好きになってよかったな。しみじみそんな風に感じながら、逸る気持ちを抑え再びぱちんと電気を消してから、ゆっくり扉を閉める。
じゃあやっぱり向こうだろうかと月灯りの部屋へと行ってみると、はたしてその人物は明かりをつけていない部屋の中、音も無くそこに居た。自分の方が済んだから、昼間の続きを手伝おうとしてくれたのだろう。まだしまいきれていないナルトの荷物が入ったダンボール箱の横で、立ったままの彼が何か大きな本のようなものを開いているのが見える。
「――かわいいってば?」
ひょいと肩ごしに覗き込んだそれに言えば、一瞬驚いた気配が伝わってきた。が、やがて(まあな)といったように彼が小さく息をつく。白い手が持つのは古いアルバムだ。赤橙のフェルトのような生地でカバーがされたそれの開かれたページには、生まれて間もない頃のナルトが、ベビーベッドの中ですやすやとした眠りにまどろんでいる姿が貼られている。
まるいおでこを縁取るまだごく短かい金髪が、ふわふわと逆だっていてまるでヒヨコのようだった。ちいさなちいさな握りこぶしが、やわらかなしわを寄せるベビー服の胸の上できゅうと結ばれている。
「……悪い、勝手に見た」
律儀な彼らしく、サスケはまず言った。
「なんで、いいってば。全然謝るようなことじゃないって」
そんなふうに返すナルトに、それでも彼は丁寧にアルバムを閉じては元あった箱の中に返そうとする。その手を上から抑えるようにして、そのままナルトは今度は戻されたその横にある一冊を抜いては自ら開いてみせた。今度写っているのは幼稚園の制服に身を包んだ自分だ。黄色い登園バッグが懐かしくて、思わず目が細くなる。
「父ちゃんも母ちゃんも若いなー、この頃ってちょうど今のオレらと同じくらいかな」
続いて並べられた入園式らしき家族写真に、若い頃の両親の姿を見る。穏やかに笑う父親とちょっと鼻を赤くした母親。ああそうだった、この人は確か入学や卒業の式典のたび、毎回号泣する人だった。嬉しそうにハンカチらしきものを握ってはこちらに向けている笑顔に、そんな事を思い出せばまたあたたかな可笑しさがこみあげる。
「……旅行の写真が多いんだな」
観光地での写真が多いからだろうか。あちこち出かけては撮られている三人での写真に、サスケが感心するように言った。言われてみれば、確かにそうだったかもしれない。その頃自来也が監督をしていたチームの試合を見るために遠征したこともしばしばあったし、そうでなくともひとりっ子のナルトを、両親はあちこち連れ出してくれたものだった。
「うん、旅行にはしょっちゅう行ってたかも」
「ふうん」
「サスケんとこはあんま出かけたりしなかったの?……って、ああそっか、病院あるからか」
「まあな。うちは長い休みとかも殆ど取ることなかったから」
――あ、でもここは行ったことある。ふと示された声に見れば、青空の下どこかのシンボルらしきオブジェの前でポーズをとる、小学校高学年位のナルトがいた。ナルト自身はどこだったか覚えがないが、サスケの方はそのオブジェに見覚えがあるらしい。そうなの?と訊けば「ああ」という、確かな声が返ってくる。
「都内から田舎に引っ越す前だったか。父さんが院長になる前にって、家族で」
景色は最高だったけど、確か風がすごく強い場所で。
そんな言葉に「へえ、」なんて応えていると、ふと記憶の中にあったいつかの写真を思い出した。振り返った瞬間の笑顔、端に写りこんでいた風になぶられた長い髪。もしかしたらあの写真は、そこで撮られたものだったのかもしれない。
「じゃあオレら、もしかしたらこの時にも一度会っていたのかもな!」
オレンジのフード付きのTシャツでおどけている少年と同じような笑いをつくり、ナルトは言った。あの時の彼はたしか、白いシャツを着ていたんだったか。少しずつ復元されていく記憶に、なんだか嬉しくなってくる。
「はァ?いや、いくらなんでもそりゃねえだろ」
「いやだってサスケこの時確か半袖シャツだったじゃん?オレも半袖だし、ひょっとしたらさ」
「……なんでお前、そんな事知ってるんだ?」
ポロリと出たひと言に、サスケは耳聡くすぐさま反応した。お前やっぱり最初にうちに来た時、俺の部屋で勝手にアルバム見ただろう?ずばり低い声に言い当てられてしまい、ぎくりと肩が上がる。
「俺が風呂入ってる間だな?……あの時すでに相当怪しかったが」
「え!?いや、それはさ」
「正直に言え」
「………だってオビトさんがさ」
ごめんってば、とほんのり責任転嫁しつつも謝れば、睨んだ顔がやっぱりといったように舌打ちをした。むすっと尖らされた唇があまりに昔見た子供時代の彼と同じで、しおらしさも忘れ思わずぷっと息が噴き出る。
神妙さに欠けるナルトが気に障ったのだろう、聴きつけたサスケが「……てめぇ、」と低く言った。
腹を立てた様子でこぶしが飛んでくる。湯上りの胸のあたりに入れられそうになったそれを咄嗟に掴んで、巻き込むようにして引き寄せた身体ごと両腕で胸の内に閉じ込めた。
「――なあ、」
したいな、と貝殻みたいなまるみをみせる耳にまたもや吹き込む。
一瞬黙ったサスケはやがて小さな溜息をついた。風呂くらい入らせろという言葉に、くんと鼻を鳴らしその顔を覗き込んでみる。
「……なんにもにおわないってばよ?」
「んなわけねえだろ、鼻まで馬鹿になってんじゃねえの」
離れろ、というにべもない言いつけに渋々腕を緩めると、余韻も残さずサスケはさっさとした足取りでその場をあとにした。取り残された腕が寂しい。初めてした時以来、サスケはいつもこうだった。する前には必ず自分の身を清めたがる。どうもそれにはちゃんと理由があって、自分の身体のありとあらゆる部分を、ナルトが執拗に口にしたがるのを気にしているらしかった。いいのにな、ホントに。ナルト自身はそんなふうに思うのだけれど、本人が嫌がるのだから仕方がない。
「………ああそうだ、ナルト」
早くもじりじりとし始めた待ち遠しさにいっそもうベッドで待ってようかななどと考えていると、行きかけたサスケがふと声をあげた。すこしだけいつもよりも早口なそれ。とびきりの不自然さはないものの、なんとなくテンポの乱れた言葉は、いやに芝居がかったようにも聴こえる。
「さっきのあの箱――マル秘箱の事だがな」
暗い廊下から背中越しに向けられた声に、ナルトは目をしばたいた。ん?なに、オレってばちゃんとあとで捨てるってばよ?ぶり返された話題にそう続けるも、話しかけてきたサスケはこちらを向く気はないらしい。
「どうして急に?あっもしかしてさっきオレが風呂入ってるとき、お前こそソッチ開けて見た?!」
もしやアレもソレも見られたのだろうか……!と秘めたる嗜好の数々に泡を喰っていると、ほんの少しだけ振り返った横顔で、サスケは苦く笑った。「……バァカ、違えよ」という声が妙に優しい。再開した頃からだいぶ伸びた襟足は、今やシャツの襟にゆるく掛かるほどになっている。
「そうじゃなくて。アレ別に、捨てなくてもいいぞ」
「へ?」
「男がそういう欲を持つのは当たり前の事だ。我慢するような事じゃねえし、いい年してそんなんで変に溜められて悶々とすんのもみっともねえし、それに」
ふいに声を止め、サスケはしばし何かを考えていたようだった。
どこか困ったような諦めの混じるその目と、ほんの一瞬だけ視線があう。

「――俺だって、男だからな。こんな膨らみひとつ無い身体が相手じゃ満足しきれない部分があるだろうってのは、わからなくもねェよ」

聞いた途端、え、と思わず声が漏れたが、後ろ向きのサスケにそれは届かなかったようだった。打ち切るように言い終え珍しくひらりと手を振ると、静かになった背中はそのままバスルームへと消えていく。
夜も更けて、蜂蜜色の月光はますます色を濃くしたようだった。
やがて新品の冷蔵庫だけが退屈そうな機械音を奏でる部屋に、サスケが使い始めたシャワーの音が、控えめな感じで流れてくるのを聴いた。