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ほとんどの場合、それは白い封筒だった。
少し起毛した厚手の和紙、ぴんと張る四つの角。
むりっと折られた口は封がされておらず、それは封筒というよりは、むしろ長細い筒状の袋と言ったほうが近いようだった。白地に黒で判押しされた文様は梅の花だ――天満宮菅原道真公か。チョイスとしてはまあ手堅いところだろう。
「――…で、先週なんだけど。私初詣の時にね、一緒にご祈祷もしてもらってきて」
呼び止めてきた彼女はそう言って、薄化粧の頬をわずかに染めた。引っ込み思案そうな見た目に反し、意外と口調は砕けて距離が近い。話しかけて来た時にもそうだったが、向こうからしたら、予備校であっても一年もいればお互いれっきとしたクラスメイトとしてある程度の親しみを持ち寄るのは、当然の事らしい。申し訳ない事に、こちらにはそんな感覚は毛頭ないのだが。
「だから、うちはくんにもね」
「……」
「ひとつ、どうかなって」
「あー…いや、」
本当ならば即座に断りたいところだったが、ふとこのあいだ受けたばかりの苦言を思いだしたサスケは、すんでのところでそれを我慢した。かわいそうに、そんな大事な時に心挫けさせるようなことするのはあんまりなんじゃない?先日そんな事を言ってきたのは同じアパートに住む同郷の男だ。
「………まあ、じゃあ、」
気持ちだけ、とやっぱり気が進まなくて言おうとした途端、セリフ半ばで「よかった!ならこれ、頑張ってね!」と勢いよく押し付けられた紙封筒に、う、とサスケは声を詰まらせた。自然を装っていてもやはり内心では緊張していたのだろうか。ひっくり返った声で回れ右する後ろ姿は、逃げるような小走りですぐさま離れていく。その場に残されたのはいつもの白い封筒と、ありがたいけれども更に増えてしまった神様コレクションに、ぐったりとなる只人の男だけだ。
(――つーか。そもそもがこんなもんに縋って受かるようなら、誰も苦労しやしねえってんだよ)
うんざりと思いつつテキストやペンケースを詰め込んだカバンの隙間にその紙封筒を放りこむと、サスケは大義そうに立ち上がりつつ、片方の肩へとそれを担いた。昼光色の蛍光灯が目に眩しい。空調管理が完璧なこの自習室は普段であれば机の場所取りだけでも結構な競争率になるのだけれど、ここ数日はさすがにインフルエンザを気にかけてか、人影もまばらだ。
予備校通いを始めた時、合わせて購入したナイロンのリュックも、すっかり身体に馴染んだものとなった。
紙封筒ひとつぶんの神様の重みは、なんだか寝不足で凝り固まってしまった肩に、妙にずしりとくる。

      ☆

【明日に迫るセンター試験、全国的にも大雪か】

(……勘弁してくれ、なんでよりによってこんな時に……)

一月も三週間が過ぎた、第三金曜日。
国立大学を受ける為には必要不可欠であるその公的試験は、受験には関係ない人々にもなんとなくそわついた話題として、ネットニュースのヘッドラインを賑わせているようだった。乗っている電車がホームに滑り込むのと同時に、スマートフォンをポケットにしまい鬱々とした溜息をひとつ吐く。まったく、ようやくここまできたというのに。これで明日大雪で交通網が麻痺だとかになったら、本当に堪らない。
プシー、といいながら開くドアをくぐり、降客の流れに乗りながら少し隙間のあるホームに降り立つ。どんよりとした曇り空の下、メルトンのピーコートの中に厚く着込んだタートルネックの首が、ちくちくとしたムズ痒さを訴えてくる。
こちらに来てから買った量販店のニットは温かそうなデザインにつられ買ったはいいが、これまで母親が買ってきていたものとは何が違うのか、やたら肌を刺すのが悩みの種だった。しかし顎下から尻あたりまでしっかりと覆われる暖かさは捨てがたく、首筋の不快さに悩ましく痒がりつつも、仕方なく今日もこれを着る。
「ほらぁ、だから言ったじゃないの、お母さんの言う事ききなさいって」
ひとり暮らしを始めてすぐ、最初に自分で買ってきた肌着を着た途端やっぱり肌に合わず不快を訴えたサスケに、ちょうど一年前、電話越しに母親は勝ち誇り言ったものだった。
まったく、これだから今まで通り私が買って送ってあげるって言ったのに。あんたは昔から肌が敏感なんだから、やたら安いのと、あとは迂闊に変わった素材のものを着たら駄目よ。

「すみません、戻りました」

言いながら戻ってきた管理人室の扉を開ければ、出迎えてくれたのは小柄な身を回転椅子にちんまりと乗せた好々爺と、同じく小さい体を補助用の折畳み椅子に腰掛けた、毛糸帽の老婆だった。
今日もふたりしてお茶を飲みつつ、昔話に花を咲かせていたのだろうか。入ってきた青年を仰ぎ見るふたりの手には、どちらも藍に白抜きの水玉模様が入ったまるい湯呑が収まっている。

「「おかえり」」

揃った声も、穏やかに機嫌がよかった。暖房のきいた管理人室に弾んでいた会話の余韻が漂う。
「随分と早いようじゃが、もういいのかの?」
わしの方の時間はまだあるから、部屋で勉強してきてもという老人の気遣いに感謝しつつも断わって、サスケは肩に引っ掛けていたリュックを降ろした。そうやって手早く交代の準備をする青年に、じんわりと親身な視線を向けるこの老人は、去年までここに住んでいた先代の管理人だ。
以前会った時はほぼ毎日作業着を身につけていた老人だったが、今回は朝の清掃がないからなのか、それとは違う洒落っ気のある自前の普段着姿だった。小柄な身にあたたかそうなウールのズボンにこなれた襟付きシャツはしっくりとしていて、そこになんの石だろうか、楕円にカットされた臙脂の石を要にしたループタイを襟に通している。
「大丈夫です、あとは俺が。ありがとうございました」
コートも脱ぎ、ハンガーに通したそれを壁際の定位置に引っ掛けると、サスケはあらためて先代に向き直った。
正月明けからこちら、明日のセンター試験への追い込みのためいよいよ時間に余裕のなくなってきたサスケに代わり、日中の管理業務の代行を買って出てくれたのがこの猿飛翁であった。どうやら管理業務と受験勉強を両立させようとしつつも、さすがに思うようにはいかずちょっと息を切らし気味になっていたサスケに、見かねたチヨバアが連絡を取ってくれたものらしい。
茶飲み友達の彼等は、SNS仲間でもあるのだ。さてもこの情報化社会を軽やかに渡っている老人達である。
「無理なんてひとつもしてないからそう言わんでいい。どちらかといえばわしの方こそ、久々に楽しませてもらって礼を言いたいくらいじゃよ」
 そんな事を言って、しわ顔を笑み崩しながら翁は言った。
そうしてから年寄りとは思えない身軽さでひょいと立ち上がると、飲み終えているチヨバアの湯呑も受け取り、それを流しに置く。
 そのまま腕まくりをしようとするのを慌てて止めると、振り返った翁は「そうか、じゃあ頼むとするかの」とすんなり引いた。回転椅子の背凭れに着せていた暖かそうな上着を着込むと、ちょうど頃合かとばかりに向かいに座っていたチヨバアも立つ。
「――そうじゃヒルゼン、行く前にあれを」
帰り支度を整えた翁をふと思い出したかのようにチヨバアが呼び止めれば、禿頭にハンチング帽(やはり本来この人物はなかなかの洒落者なのだろう)を載せようとしていた老人はふいに動き止め、ああそうだったとばかりに振り返った。
「いかんいかん、そうじゃ今日はこれを忘れてはいかんのだった」
 そう言ってはダウンジャケットの胸元を探り、内ポケットからまたもや見覚えのある小さな紙の封を出す。
「――これ、」
「持っていくといい。明日、うまくいくように」
 笑顔で渡されたのは、『御守護』という墨字と共にこれまた見事な花の紋が入った紙封筒だった。 繊細な花弁をびっしりとまわすその花の絵は、世に知られた菊花の紋だ。
「あと、これはわしから~」
更に便乗するかのように、横からいつもの人をくった笑いと共に赤いものが視界に入ってくる。差し出されたのは、どこに隠していたものか朱色のダルマだ。小柄なチヨバアが持つには両手で一抱えもあるそれには、我慢を示すふくれつらの下で、『必勝』と入れられたまるまるとした土手っ腹が広がっている。……気持ちはありがたい。ありがたいがこれは……またものすごく、場所を取りそうな激励だった。気づけばあんぐりと口が開いてしまっていたサスケに、愉快げにチヨバアは話しだす。
「きのうふたりでな、ヒルゼンのところの近くにある、明治神宮に行ってきたんじゃよ」
 満面の笑みでそう披露したチヨバアに、おぼろげながら猿飛翁の今の身を寄せている先を思い出した。確か、千駄ヶ谷とか言っていたか。上京一年目の頭ではいまひとつ地図が広げられないが、たぶんその社はその近くにあるのだろう。
普段は地方にいる娘夫婦のところで同居している翁は、今回手伝いに来てくれている間、こちらに住む息子夫婦のところに滞在してくれているのだ。
「いちばん人相も良さそうなのを選んでやったからな。早く目玉を入れられるといいのう」
 そんな言葉と共ににこにこと袋入りのだるまをまたもや押し付けられ 、サスケはなんとも言いようがなく黙った。
ご利益に人相は関係あるのだろうか。合格に見た目は関係ない気がする。
「それじゃあ、わしらはこれで。――うまくいくよう、祈ってるからな」
 渡されるがまま、赤い丸みを抱えてみたはいいがその先どこにやるべきかもよくわからず、やや放心していたサスケは掛けられた声に(はた)となった。
とんとん、と軽く叩かれる肩。気がつけばすでに管理人室のドアを開けて出ようとしている老人達を追って、ひとまずデスクの上にその合格グッズを預けると慌ててその後ろについて自分も外に出る。
戻ってきたひやりと冷たい空気に、きゅっと肺が縮こまった。 しっかりとした足取りで去っていくふたりは、やはりどちらも年寄りとは思えないかくしゃくぶりだ。
「じゃあ、わしもヒルゼンを送りながら商店街まで行くから。明日の朝も見送りしてやるからの、寝坊するでないぞ」
そんな事を言いつつ並んで去っていくふたりをエントランスの外で見送ると、サスケはぶるるとひとつ背中を震わせ肘を抱えた。寒い。ニュースでも言っていたが、これは本当に明日の朝は、色々と雪に対する策をたてておかなければならないかもしれない。

(……『きっとうまくいく』、か……)
 
ここ数日何度も言われるその言葉を反芻すれば、肺だけでなく心臓もきゅ、と縮こまるようだった。いや、この場合は心臓でもなく肝だろうか。いずれにせよ体のどこかが小さく固くなるようだ。
 受験勉強を再開してから十ヶ月。予想はしていたけれど、二年ぶりに飛び込んだ受験戦争の世界はなかなかに容赦のないもので、ここにきてサスケはやはり十代の頃の自分と現在との差に、今更ながら溜息がでる思いだった。
勉強は嫌いじゃないから別にそれほど苦ではない。全部が全部楽しいわけでは勿論ないのだけれど勉強というのは元来そういうものだと思っているし、やらなきゃならない事はただやるだけだ。
それは現役高校生の頃と変わらないのだけれど、なんというか、この、追い詰められる感じは現役生の時とは比べ物にならなかった。なにしろ一度は離れようとしていたとはいえ、立場だけでいえば自分はすでに『三浪』なのだ。予備校に行ってもなんだか周りと比べ、我が身が一段階老成してしまっているのが肌で感じ取れて、それがまた自分の中での崖っぷち感に拍車を掛ける。

(……今回落ちたら、さすがにもう見限られるだろうな)
 
濃い灰色で敷き詰められた空を見上げ、冷たくなった頭でサスケは思った。医者ばかりの一族の中、自分の実家は本家として、病院の経営やらなにやらをすべて取り仕切っている。
前回の失敗の時はさすがに(まあ今の状態では仕方がないだろう)と言ってくれる親族も多かったが、今回はそうもいかないだろうというのは、自分でも思われた。きっとこの先も総領息子として見てもらうにもどこか見下されるだろうし、なによりここに送り出してくれた両親、特に父親の顔に、思い切り泥を塗ることになる。父親は決して融通のきくタイプではない。しかしそんな父が、家に戻るのではなく、こちらでこのまま管理業務を続けながら予備校に通いたいと言った自分に、ただ一言「わかった」と答えるのみであとはすべて好きに任せてくれたのに。
 ――…はあ、とかじかんだ手に、重くなった息をはきかけた。曇天の街はうす暗い。雪は夜になる前にもう降ってくるのだろうか。しんと冷え込んでいく夕刻に、出した息が直ぐ様白くなって沈んでいく。
もし本当に雪になるなら明日は何時に家を出れば、などと鬱々と思考を巡らせつつ、暖房のきいた管理人室目指し踵を返そうとすると、遠くから「かんりにんさーん!」というかわいらしく揃ったコールが飛んできた。
覚えのある声に振り返ると、やはり顔見知りの二人組。
既に一度家には帰っているのだろう。いつも背中でかしゃかしゃと賑やかな合奏を聴かせているピンクとラベンダーのランドセルは今日は見当たらなかった。似たようなデザインの色鮮やかなふたつのダウンジャケットは、解放された肩が実に身軽そうだ。
「よかったあ、間にあったね」
「うん、よかった。会えなかったらヤバかったよね」
 行きかけた足を止めたサスケに追いついた途端、ふたりはそんなふうに言い合った。苦しそうな会話のなか、切らした呼吸さえも楽しげだ。
「……なんだお前ら、俺に用か?」
囀る声にどうやら目的地が自分の所だったのを察し、サスケは抱えていた肘から手を外し少し姿勢を正した。背中が伸びた事でいちだんと高い位置になった顔に、見上げた少女達はえへへぇとまた笑う。
「あのね、この前ね、最近きてるおじいちゃんに、管理人さんなんで最近あんまりいないのってきいたらね」
示し合わせた訳ではないが、いつもなんとなくそういう立ち位置なのだろう。嬉しそうに顔を赤らめつつもじもじしあうお互いから一歩前に出るかのように、ショートカットの方の子が口火をきった。後ろにいる子の方は黙ってはいるが、それを盛り上げるかのように(うんうん)と力強く頷いている。
「管理人さん、最近昼間いないのは受験勉強してるからだって」
「…ああ、」
「それで明日、すっごく大事なテストがあるんでしょう?それで合格できないと大学のテストも受けられないって」
言い回しだけを聞いていると微妙な勘違いも生じているようにも思えたが、サスケはとりあえず「まあな」と言うに留めた。よくは知らないが確かこのふたりはまだ低学年の筈だ。国立大学のややこしい点数配分なんて、まだ知る必要もないだろう。
「……で?」
ぞぞぞ、と足元から這い上がってくる冷え込みに耐えつつ、サスケは先を促した。やばい。まったく、こうなるなら早々と上着を脱ぐんじゃなかった。
「で、ねー?」
そんな心中には露ほども気が付く様子もなく、少女達は赤い顔を見合わせクフフと笑いあった。そうしてからくるりと後ろを向いたかと思うと、なにやら相談がしてあったのかふたりしてこそこそとやっている。
「――じゃん!これ、作ったの!」
勿体ぶるかのような間のあと、披露されたのは小さな小さな袋のようなものだった。
ざくざくと縫われた目は激しく思い切りがいいものだったが、生地そのものは光沢のある白いものが使われ、真ん中には可愛らしいが堂々と主張した仕様で、『おまもり』という赤い文字がはいっている。
「――……お守りか」
差し出された贈り物に、つい出そうになった息をどうにか堪えた。
訊くまでもなく、これは彼女達の手作りだろう。
可能な限り本物の御守に倣おうとしたのか、蝶々結びの紐まで縫い付けてある。
「あのね、あたし達さっきお地蔵様にもお参りしてきてね!」
たぶん通学路の途中にある、小さな地蔵尊の事を言っているのだろう。黙るサスケに構う事なくそれを押し付けると、少女達は張り切ってまた喋りだした。
明日ね、ぜったいぜったい、受かりますようにって!
北風で赤くなった頬をもっと明るく染めて、ふたりは言う。
「だからね、おまもりもつくったし」
「…ああ」
「管理人さんならね、絶対大丈夫だって!あたしたち信じてるから!」
「ああ……そうだな、わかった」
いよいよ寒くなってきた身体でそう答えれば、ふたりはまた揃って満足げに(えへへ)と笑った。ぽっぽっと赤く盛り上がるほっべたは、まるでそれ自体が咲き誇る梅の花だ。
じゃあね、がんばってね!大事な日なんだからおなか痛くならないようしょうかのいいもの食べて、今夜ははやく寝なきゃだめだよ!――などと最後に妙に所帯じみた事を付け足しながら(これはきっと普段彼女達が親から言われるのだろう)走り去っていくふたりを見送りながら、放心のままに立ち尽くす。

「――あーあー、ダメじゃないのお前、この寒い中そんな格好してちゃ」
 
妙に間延びした声と共に、今度はいきなり後ろからふわりと掛けられてくる温もりがあった。そのままぐるりと回されてくる軽くあたたかなマフラー。完全に見覚えのあるそれに、口許を塞がれたサスケは一瞬、(む、)と一度顎を引いた。しかしすぐに気を取り直すとその目で斜め上にある寝ぼけ眼を睨みつける。
「いきなりなにしやがる」
「えー、なによそれ、寒そうにしてたからかけてあげたのに」
効きそうだね、それ、どこの応援団から貰ったの?睨みつけてくる黒も意に介せず、その手の内にまだあるものを見たカカシはそう言ってにっこり目を細めた。そもそも先日、小さな巾着詰めの神様を片っ端から断りまくっていたサスケに、『お守りくらいありがたく貰っておけばいいじゃない』などという提言をしてきたのは、他でもないこの男である。
がっちりと装着されたマスクは今日も健在だったが、しかしこれはインフルエンザ予防ではなく、単純にダストアレルギーゆえのものであった。学校帰りのカカシは通年通して、同じマスク姿だ。
「あ、ちゃんと糸と針使って作ってくれてるんだ、これ」
「……」
「なーに、その顔。いいじゃないの応援してくれる気持ちくらい。面倒な子だねえ」
「うるせえ。オレの勝手だ」
 つっけんどんに言い返すと、やれやれというようにカカシはカバンを下げたまま肩を少し竦めた。いつもはなにかしらでぱんぱんになっているそのブリーフケースは、ここのところ実に軽そうだ。
「……お前また今日も、こんな早くから帰ってきてんのか」
 のびのび気楽な様子にまたぼそりと言ってやれば、油性マジックでぐりっと書かれた「おまもり」の文字ににこにこしていたカカシは「うん、自由登校期間だからね」と悪びれずに答えた。
今年高三を受け持っているカカシは、今現在、自宅学習で生徒達のきていない学校生活を満喫中であるらしい。
「つーか自由登校って生徒の話だろ。なんでお前まで自由になるんだ」
 事情があるにせよ、それでも夕方前にふらふらと勤務先から帰ってきたカカシに呆れると、ぼさぼさ頭の下でタレ目がまたにんまりとした。だーって、こんな時でなきゃ有給消化できないし。受験生を前にそんな事を言うカカシに、こんな担任嫌だとサスケは思う。
「でもべつに、有給や半休とってるからってずっと遊んでるってわけじゃないのよ。家に仕事持ち帰ってるってだけで」
「……へぇ?」
「学校だと埃っぽいからさ。やっぱできることならオレ家で仕事したいのよ」
「そのわりには随分と身軽そうだがな」
 すかすかのブリーフケースにじとりと睨めば、気にした様子もなく「えー?そんなことなーいよ」とカカシはうそぶいた。仕事を持って帰ってと言いつつも、やはり彼は生徒達が大人しくしているこのひと月を純粋に楽しんでいるのだ。カカシの勤める私立高校はスポーツ活動が盛んな事で知られているが、同時に体力が有り余って無茶をする子も多うようだった。警察やらどこかの店やらに生徒を迎えに行ってくるというのも、わりにしょっちゅうやっているらしい。
 そんな会話をしつつエントランスに戻り管理人室の扉を開けると、ごくごく自然な様子でマスクの長身も付いてきた。
なんだよ、と横目で問えば、「マフラー」とマスクの下の口が一言答える。ああそうか、結局つけっぱなしだった。
「それ、持ってく?明日」
 気がつけば首周りでしっくりとその温かさを蓄えつつあるふかふかのグレーに、目を細めカカシは首を傾けた。しっとりとした毛織は見た目の地味さに反しいやに感触がいい。意外にも実は、かなり高価なものなのかもしれない。
「は?なんで」
「いや、だってあったかいでしょ、それ。お前結構似合ってるし」
「……要らねえよ別に」
 そう言ってしまえばもう巻いているのもなんだか落ち着かなくて、サスケはぐるぐるとされていたその毛織物を、今度は逆向きに巻き取った。畳むことなくそのまま「ん、」と突き返されたそれに、カカシはちょっと呆れ気味だ。
 それでも苦笑しながら返されたそれを受け取って、カカシはゆるりと小さな部屋の中を見渡した。白茶けた壁にスチール製のラック。頑丈さだけがうりのそれには、分厚い辞書やテキストがそのまま置かれている。
「――どうしたの、あれ」
 先程デスクの上に置かれたきり、待ちぼうけさせられているかのようなダルマにふと(ぷ、)と吹き出すと、振り返ってカカシは訊いた。誰から、猿飛さん?という推量に小さく口篭り、わずかに考えてから「違う。チヨバア」と答える。
「なるほど、おババ様か」
「どうしたらいいんだあれ、飾らなきゃいけないのか」
「そうねえ、まあとりあえずは飾っておいて。目玉入れるんだよ、空いてる方に。合格した時にだけど」
そんで目玉が入ったら、神社で最後お焚き上げしてもらうんじゃなかったっけ。茫洋とした口調でのそんな説明に、サスケはまた黙ってその丸々としたお腹と、空白のままになっている片目を見た。合格した時に。じゃあ合格できなかったらこれはどう処理したらいいのだろう。ずっと埃を被らせながら置いておかなきゃならないのだろうか。
「こういうの、なんで皆ああも嬉しそうに、渡してくるんだろうな」
 ぽつりと零せば、うん?とまたカカシは首を傾げた。受けるのも、受かるのも、自分じゃないだろ。もそもそと続ければ、ああ、とわかったようにまたタレ目が笑う。
「そりゃあ、あれよ。みんなお前のこと応援してるから」
「……」
「お前がいつもここで勉強してたのとか、それでも毎日欠かさずちゃんと仕事もしてたのとかさ。ずっとここで見て、がんばってるなって思ったから、そのままガンバレって言ってるだけじゃない?」
「そりゃまあ、そうなのかもしれねえけど」
呟けば、またどこかモヤモヤとしたものは行き場をなくし溜まるようだった。どうやら交互に通電するような設定にされていたのか、先程からうっかり点けっぱなしにしてしまっていたらしい新しい赤外線ヒーターが、「かちっ」という音をたてて急に赤くなる。

「だいじょーぶだよ、サスケ。ちゃんと受かるからさ」
 
知らずうつむいてしまった頭にいきなりぽんと手を置きながら、よしよしと黒髪のてっぺんを撫で、のんきな口調でカカシは言った。
子供の時分に周りからよくされたその久々の仕草に、一瞬ぎょっとして固まりかけたサスケであったが即座にそれを振り切り苛々と赤面しつつそのぼやけ顔を睨めつける。。
「……だから、さっきから何なんだてめえは、気色悪いことすんな!」
全力のしかめつらで唸ると、嫌がられることまで想定内だったのか、ニヤニヤしながらカカシは言った。いやー、オビトからさ、俺お前のこと頼まれてるから。自分の分までガッチリサポートしてやってくれってさ。払われた手を軽く振りながら、飄々としてカカシは笑う。
「サポートだァ?要らねえよそんなもん」
「まあまあ、そう言わないでやんなよ。あいつ本当は自分でむちゃくちゃ世話焼きたいんだけどさ、オレは今サスケに触れない方がいいからって、そんなこと言っててねえ」
「あァん?なんだそれ」
「ほら、オビトのヤツ大学も国家試験も全部一回は落ちてるじゃない?昔からなにやらせても、なんでかあいつ一度は必ず落ちるのよ。そろばんの級審査もプールの二十五メートルテストも、あとクラスの委員決めで、リンが副長になった時の級長選も」
 あれであんがい、気にするタチなんだよね、あいつ。
 かけていたマスクをゆっくりと外しながら、カカシはそう言って目尻を下げた。なんとも情けない昔話に、ぷかりと田舎にいる剽軽者の叔父の顔が浮かぶ。
「まあとりあえず、だ。あんまり今日はもう根を詰めないで、簡単な基礎問題を軽く解いとく程度にした方がいいよ」
 外したマスクをポケットに入れつつそう進言してきたカカシに、無言のままサスケはその覆いのなくなった顔を見た。
そうは言っても、そもそもスタートからして他よりも遅れている自分だ。まだまだ抑えておきたい問題や、復習しておきたい文法も沢山ある。なんとなく言い返したい気持ちを抑えつつ、ぎし、と自分だけ椅子に座る。子供の頃からの付き合いだ、考えていることはだいたいお見通しなのだろう。無言のままで返事をしないサスケに、カカシはちょっと苦笑い気味だ。
「……ま、今夜はあったかくして。明日もし本当に雪になるようだったら、予定より朝も早く出なきゃだし。ここまできたらもうインプットはもういいにして、体調を整える方に専念しなさいね」
あとこれ、あげる。そうやってつらつら言いながら最後にコートのポケットから出されたのは、これまたつるりとした表に『合格』と書かれた絵馬と桜の花がプリントされた、真っ赤なパッケージの温カイロだった。
なんだこれ、と思わず息が出ると、「うちの高校でね、今年校長が三年生にって作ったの」とカカシが答える。
「お前にもと思って、一個貰ってきたからさ」
「……」
「試験前、緊張と寒さで手の動きが鈍ってると、思わぬところで時間取られて焦るから。突っ張ってないで、御守り代わりに持ってきな」
「……御守りなんて、これ以上たくさん要らねえよ」
 まだ手の内にある小さな布包みに視線を落としつつそう言えば、そうねえ、とカカシは苦笑した。たぶんまだ他にもある、デスクの引き出しの奥にしまわれたまま今後も日の目をみなさそうな、山盛りの神様達の事を思い出したのだろう。
「いいじゃないの、たくさんなんて言ったところで、お前んとこにいるのは八百万の御柱の中のほんの一握りデショ」
そんな事をのんびり言いつつ、カカシは軽そうなブリーフケースを持ち替えた。背の高いロングコートの後ろ姿が、「じゃあね」といって扉から出て行くと、一瞬入り込んできた底冷えするエントランスの空気に、驚いたようにヒーターがまたカチリと鳴った。
     ☆

ぽきっ。
終わりかけた証明の途中で、またシャープペンシルの芯が折れた。
かち、かちかち。
考えが散らばってしまうのを防ぐように、立て続けにノックをする。
さりさりと紙を黒鉛を削っていく音が静かに響いて、真冬の夜の中、電灯で明るくされた管理人室の中で、滔々と流れ落ちていくようだった。あふれる、あふれる、書き連ねるべき答え。延々解いてもまだ終わりのない回答に、またぽきりと芯が折れる。
勉強を管理人室でするのは、大学受験を決めた時からずっと続けている事だった。畳と小さな文机しかない自分の部屋は長く問題集と向き合うにはどうも足が痺れるし、それになぜか、この管理人室の狭さと閉じ篭った感じは、集中するのにやけに具合がいいのだ。
(――…うん、できた。ここの部分はクリアだな)
先日の模試で誤回答してしまっていた所をあらためて見直して、自分で書き直した正答を眺めひとつ息をついた。
上げた目線の前、デスクの端に、今日また貰った菊花の御守りと、お手製の「おまもり」が目に入る。ふたつのそれは、予備校で山程もらったそれらとはやはりなんとなく別格で、一応他の物とは別に見える所へと置いたのだ。
(よし―――次、)
ひと息ののち、また問題に向かう。
かちかち。かち。
シャープペンを鳴らし、紙面に散らばる消しゴムのかすを手のひらで払う。
(……絶対大丈夫、か……)
そんなもの、ない。溜息の内にそう思いつつ、サスケは新しい問題文へと目を滑らせた。
どれだけ完璧だと思っていても、本当はそんなものはないのだ。それはたまたま、結果がうまくいった事についてあとから言える事で。結果が出る前に完璧なんて言うのはそう思い込んでいるだけだ。その事は、誰よりも自分がよく知っている。だからできるだけ完璧に近付けるよう、ただひたすらにやれる事をやるしかない。
馬鹿馬鹿しかろうが、遠回りだろうが、不器用な自分にはそれしかやりようがない。
俺は兄とは、違うのだから。


(けど、やっぱり。それでも駄目だったら―――)


―――ぽきん。
か弱い、ごく弱い音をたて、紙に線を書いていた黒鉛が折れた。充分すぎる程あたたまった部屋の中、心臓がどきどきする。なのに頭の中と体の内側はひえびえとして、自分だけが外の温度に取り残されているようだった。まるで調節機能が狂ったヒーターだ。ダイヤルをどちらに回しても具合のいい温度に設定が合わせられず、ここのところずっと、こっそりとひとり途方に暮れている。
……がっかり、するんだろうな。
視界の端にちらつく「おまもり」の文字に、知らず重い息が押し出された。見えない後ろには赤いダルマ。そちらもまた、じっと黙ったまま、ただひたすらに朗報を待っている。
……もし失敗したとしても、もう一度また、挑戦できるだろうか。
ふいにその事を考えると、どんどん頭が重くなっていくようだった。このままここで管理人として暮らしていくのだって勿論悪くなんてない。だけどそれはたぶん、自分にとっては、本当に与えられた仕事とは違うのだ。自分がするべき事ややりたい事は、今はもう、確かに決まっていて。
そしてそれこそが、今は亡き兄が死の間際まで、一番応援してくれていた事だったように思うのだ。
 
―――でも。さすがにもう、次なんてのはな―――

……コンコン。
控えめなノックの音に、いつの間にか手が止まっていたサスケは、はっとして顔を上げた。
コンコンコン。
今度はもう少し、強い音。管理人室に直接入れる扉の方ではなく、すりガラスの方だ。
「どうぞ。あいてる」
ぎし、とここのところ油の切れかかった回転椅子の背もたれに身を預け、サスケは言った。すりガラス越しに映るシルエットから察するに、訪問者はよく知った相手だ。
こいつも仕事帰りか、それともこれから行くところだろうか。そんな事を思っているところへ、小窓に指がかかりすうっとそれが丁寧に引かれた。外の夜気が流れ込む。澄んで冷たいその外気に、かけすぎたヒーターで赤く火照った頬が、気持ちよく鎮められていく。

「あー……その、サスケ?」
 
うすぼんやりとしたエントランスの灯りの中、ひとり立っていたのは思った通り、金髪の大男だった。予想とは外れ単に家から出てきたところなのだろうか。普段よく着ているオレンジのトレーナーの中にえんじ色の長袖Tシャツ、色の褪せた気楽なジーンズ。さすがに寒いかなと思ったのか、とりあえずといった感じでマフラーだけそこに加えた出てだちで佇んでいたのは、ここのアパートに住む店子のひとりだ。

「なんだ」
 
無表情のままで尋ねると、邪気もなく彼はえへへと笑った。たっぷりとぐるぐる巻きにしているカーキ色のマフラーが、情の深そうな口許までをぬくぬくと温めている。
「えーと、今忙しい?」
「決まってんだろ」
「……そ、そっか」
「試験前夜だぞ」
「だよな、うん。知ってるってばよ」
で、なんだ?遠慮なく不機嫌を晒し尋ねれば、う、と大きな体はまたぎゅっと言葉に詰まった。
「その―――お前さ、今夜ってメシ、もう食った?」
ぐずぐずと言い淀んだ果て、唐突にそんな事を尋ねてくる男に、サスケは訝しげに眉をひそめる。
「……まだだが」
それが?と訊き返すと、その答えにホッとしたのか、マフラーの下でナルトはふたたび笑み崩れた。
あっ、いやそのさ……その、もしよかったら、今からうちに来て、一緒に食わねえ?
そんないきなりな誘いに、思わず「は?」と声が出る。
「行くって、今から?メシ食いに?」
「いや、つってもオレが作るんじゃないんだけどな!オレもこのあと夜勤だし、長くは引き止めねぇから」
「…はァ、」
「ほら、その――で、出前をな!頼もうと思って」
「出前?」
うん。オレってば給料出たとこだし、たまには奢ってやるってばよ!
そう言って妙に胸を張ったナルトの胸に抱かれているのは、何かふたつに折り畳まれた厚紙らしかった。
たぶんどこかの店の品書きだろう――紺地に白の縞模様の入ったそれに見える、『とんかつ』の文字。
カツか、とぼそりと呟けば、そのとおりとばかりに(うんうん!)と満面の笑顔が嬉しげに首を縦に振った。ぱちりと開かれた空色は、意味不明な期待でキラキラと輝いている。
明るく晴れたそこに、まったく似つかわしくないどんよりと疲れた顔の自分を見つけると、なんだか無性にイライラとそれをぶち壊してやりたいような衝動に駆られた。
……まったく、ほんとに。
どうしてお前らは皆揃いも揃って、こんな崖っぷちでどうにか踏みとどまっているような状態の男に、そうもまるごとの善意をぶつけてくるんだ。信じきった目をしてくるんだ。

「―――おい」

むしゃくしゃするような、そうかと思えばやたら胸が熱くなるような。そんなわけのわからない感情にいよいよ融通が利かなくなったサスケがそう言えば、その場で忠犬よろしく品書きを胸にしていたナルトは「へ?」と、首を捻った。
ごうごうというエアコンの音が耳に障る。タイミングを図るかのように、足元のハロゲンヒーターが「かちっ」とまた切り替わる。
「え、なに?」
「上着だ、ナルト」
「は?」
「部屋戻って上着取って来い」
出掛けるぞ、と一声に言って立ち上がると、古びた回転椅子はぎぎぎいっと驚いたような音を出した。デカケル?とまだぽかんとしているままのナルトをほったらかしにしたままばたばたとテキストを閉じ、壁に掛けてあったピーコートの袖に腕を通す。
へ?と不機嫌から今度は暴走モードに豹変したサスケにまだついて来れていないらしいナルトの呟きが、ばちんとヒーターのスイッチが切られた管理人室の中に寄る辺なく転がった。
え、出掛けるってなに、オレんちは?
要領を得ないまま、まだそんな事を言っているナルトに、最後に開けっ放しだった小窓に手をかけつつピシャリと言う。

「カツもお前んちも奢りも無しだ、俺は俺の食いたいものを食う。―――いつまでボケっとしてるんだお前は、いいから連れていって貰いたいならとっとと支度してこい、ドべ!」

     ☆

「もう、折角オレってばわざわざ部屋まで片付けたのに。これじゃとんだ草臥もうけだってばよ」
滅多にない機会を逃したのがそんなに悔しかったのだろうか。来る道すがら、ずっとぶうぶうとそんな事を零していたナルトだったけれど、目の前にきたあつあつの器から(ずずずっ、)と湯気のたつ麺をすすり上げれば、文句ももう湯気と一緒にカウンターの上で霧散してしまったようだった。
目尻を下げたその顔が、ほおばった好物に幸せそうにもぐもぐとやっている。一楽はナルトとカカシが贔屓にしている駅前のラーメン屋だ。いち推しは味噌チャーシュー。少し縮れてもっちりとした太目の麺に、こくのある甘辛な味噌の絡みが絶妙だ。
「ん~~あったまる、やっぱ寒い日はこれだよな!」
「…ああ」
「んあ、いっけね鼻水が…!なんでラーメンて食ってるとこんな鼻水出てくんだろうな、絶対麺つるつるしてると同時に鼻もつるつる落ちてくるよな」
そっけない相槌にも構うことなく、ぺらぺらとそんな事を喋りつつ咀嚼するナルトの隣りで、やはりカウンター席ののっぽな丸椅子にちょんと尻を乗せたサスケも、同じくちゅるりとコシのある麺をすすった。辛味を更に増やすため、カウンターに備え付けてある一味を更に足す。ついでにサービスで置いてある白髪ネギも山盛りで投入だ。
「サスケ一味入れすぎ。それじゃ口ン中火事になるってばよ?」
笑ってそんな忠告をしてくるナルト(向こうは何も入れない代わりに、チャーシューを更に大盛りにしていた。草加せんべい程の大きさのある一楽のチャーシューは、普通に入っている二枚だけでもかなり食べでがある)にふんと無視をしながら、サスケは加えた薬味を箸先でちょっと汁に馴染ませた。
「ちがう、これは眠気覚ましだ。腹一杯になると頭動かなくなっちまうから」
そんなふうに答え、ずずっと今度は自分も音をたててすする。視界が湯気で曇る。誘われるようにしてサスケの鼻も、むずむずと湿る。
「眠気覚まし?」
「ああ」
「今日このあと帰ったら、まだ勉強すんの」
「まあな」
当然の如く答えると、ふうん、とナルトはカウンター席で首を伸ばした姿勢のまま、ちょっとこちらを見た。アパートを出る前に一度、自室に戻ってから出てきたナルトは、今度はさっきまでのオレンジのトレーナーの代わりに、温かそうな厚手のパーカーを着ている。どうやらサスケと一緒に家に戻ってしまうと夜勤の出勤時間に間に合わなくなるらしい。カウンター下に設けられた荷物用のフックには、外出時彼がいつも背負っているワンショルダーが引っ掛けられている。
着替えられた霜降りグレーのパーカーの袖と首周りから、先程も着ていたえんじがちらりと覗き、羽織ったままの鮮やかなオレンジのダウンと合っていた。ナルトは色を使うのが上手い。明るい容姿に合わせているというよりも、元々ぱっと目に付く色合いが好きなのだろう。
彼のそういうところが、どことなく生まれも育ちも東京者っぽいよなと、地方出身のサスケには時々思えるのだった。まあだからといって、卑屈になっている訳でもないのだけれど。けれどその点に関してだけはちょっと敵わないななどとサスケがこっそり思っているのは、死んでも当人には教えたくない秘密である。

「サスケ、ちょっと痩せたな」

――もしかしてそうやって、ここのところあんま食べてなかったってば?
じっと横顔を眺められた末、ふと言い当てられた事実に、ぼんやり違うことを考えていたサスケは(ンぐ、)と思わず喉を詰まらせた。その様子に、当たりだとすぐにわかったのだろう。心配するような視線が隣から送られてくるのが肌でわかる。
「食わねえと体動かないって。頭だってさ」
「……脳みそは体動かすのとはまた違うエネルギー使ってるからな。大丈夫だ」
「違うエネルギーって?」
「……糖分、とか」
「お前ますますダメじゃん!マジしっかり食えってば」
これやるから!と放り込まれてきたチャーシューを、無愛想に黙って、きたところへ返した。ちょっ…お前な!と言うナルトへ、「いらん」と素っ気なく告げる。
「いいから、まずは食えって。延びンだろ」
突き放すようにそう言えば、仕方なしといった感じでナルトはまた箸を持ち直した。切る間が惜しくてちょっと伸びすぎてしまった髪が、曇る視界にうるさい。邪魔なそれを耳にかけまたずるずると麺をすすりこんでいると、ようやくといった感じでナルトが「なあ、」とまた言ってきた。
まだ中身の残る器に向かったまま、視線もあわさず「なんだ」と答える。
「試験、どうなの――実際。どんくらい勝てそう?」
一応、気遣ってくれているのだろうか。ぽつぽつと尋ねてくる声は、いつになく静かなものだった。人で賑わうカウンター席で、広い肩がじっと動かないで待っている。
「まあ、七割二分ってとこだな」
本当に、嘘偽りないところを述べれば、なんだか一緒に溜め息まで引きずり出される思いだった。そもそもが明日のセンター試験が思うように出来たとしても、二次試験の方が配分も高いし問題の難易度だってはるかに上がるのだ。
それでも現役の頃だったら、八割は確実だった。やはり何もしてこなかった二年のブランクは大きいと言わざるを得ない。
「うわ、微妙な数字」
「……」
「……けどちょうど、オレん時の成功率とほぼ同じだな」
すすった麺でその頬をちょっと膨らめ、苦笑しつつナルトが言った。現役に復帰するのを決めたナルトが、賭けるような思いで脚にメスを入れる手術をしたのは、去年の事だ。
手術は成功し、厳しいリハビリ期間を乗り越えた彼は、去年の初冬からこちらで活動しているアマチュアのホッケーチームに籍を置くようになっていた。アマチュアとはいえ結構本格的な活動をしているそのチームへは、実際のところは、入るのだけでもなかなかに大変な事らしい。
そもそもメンバーの募集さえしていなかったそこに入るために、ナルトは大学時代の先輩やツテを辿っては、あちこち頭を下げて回っていたらしかった。バイトと掛け持ちの活動は以前よりも更に大変なようだったけれど、それでも彼は今、とても楽しそうだ。手術の際、ほんの少しだけ手助けをしたサスケも、あの時気恥ずかしく思いながらも怪しむ父親を頼って、本当に良かったと思っている。
「―――ガンバレとか、言うなよ」
ぼそ、と呟けは、きょとんとして空色の瞳がまたたいだ。
しかし何も言わずとも、彼には全部わかったのだろう。ふわりと何もかもがわかったかのようにその顔が苦笑にゆるむと、色のないその唇が「うん、言わねえよ」とそっと言う。
「まあ……そういうのはな。言わねえけど」
苦笑のまま、ナルトは言った。青い瞳がちらりと一瞬だけ、またこちらを見る。
「その、さ。受かったら――オレんとこへは、すぐには教えてくんなくてもいいから。父ちゃんとか母ちゃんとかカカシ先生とか。あと他にもいっぱいいる、お前のこと心配してくれてる人達にまずは報告して、その最後でいいから」

―――けど、さ。
 
いつの間にかもう食べ終えたらしい。箸を置いたナルトは、ちょっとだけ背筋を伸ばし、言った。今度の視線は前を向いたままだ。カウンターの向こう側にある大鍋からあがる湯気を、じっと見詰めている。
「けど、もしダメだったら」
「……」
「やってみたけど、そうなっちまったら。そん時は一番最初に、オレんとこ来て。それだけ絶対、約束しろよな」
きっぱりとそれを迫ってくる声に「…なんでだよ」と小さく返すと、ようやくそこでナルトはサスケの方を見た。
訝しむ黒とその目が合うと、すっかり温まった様子のその顔が、少しだけ困った眉で、示し合わせるかのようにひっそりと笑う。

「だって、ひとりでずっと泣いてるとさ。どのタイミングで泣き止んだらいいのかが、わからなくなってこねえ?」

だから、オレも呼べよな!
そう言ったナルトの顔が、ゆらゆらとした湯気に淡く煙った。口の中が辛い。鼻の奥も、つんと痛い。思わずケホ、とむせたような咳が引き出され、弾みでじわっと視界が揺れた。ああ本当に、なんでラーメンて食ってると、鼻水出てくるんだろうな。ぼやぼやとそんな八つ当たりめいた事を思いつつ、手の甲でちょっと鼻の下を確かめる。
「……阿呆か、だれがそんな泣くかよ、ドべ」
そう言ってまた鼻と一緒に麺をすすりこめば、「えーっ」とナルトは声を上げた。人の増えてきた店は温かい。忙しく立ち回る店主はきびきびとして、賑わうあちこちで穏やかな笑い声が湧いている。
口、やっぱ辛いんだろ?しかめられたままの顔にそう言ってくるナルトをちょっと睨むと、ニシシとその顔が嬉しげに笑った。
憮然とした顔でそれに返し、置かれていた水をコップいっぱい飲み干すと、すっかりあたたまった体でサスケは立ち上がった。

     ☆

「……やっぱり。東京ってさ、大概こうなのよ、ホント」
次の朝。ピーカンに晴れ渡った空の下、エントランスの軒先で明るい空を見上げたカカシは、茫洋とした口調で言った。
大雪とか、台風とか、ナントカ警報とかさ。散々ニュースで不安を煽るわりに、実際はぜーんぜんたいしたことないままで終わっちゃうんだよね。
「まあその方がありがたいんだから、別に文句はないじゃろ。何事もないのが一番じゃよ」
そんなふうに見上げてくるチヨバアの手には、今日は小さな包みが大事に持たれていた。ほれ、昼にお食べ、しっかりやってくるんじゃよ。そう言って渡されてくるそれは、たぶん、絶対、いつものおかかおむすびだ。
「ヒルゼンがな、お前に『焦らずいきなさい』と」
「……ああ」
「受験票と、筆記具と…消しゴムは二つ三つ持ってる?あと喉を潤すものも―――会場きっとすごく乾燥してるからね、携帯はちゃんと電源切って」
「わかってる。ガキじゃねえんだからしつこく言ってくんな」
とんでもない身長差の凸凹コンビから交互に言われ、サスケはやや辟易しながらも、受け取った昼食を入れたリュックを背負い直した。やっぱり首周りはまだすこしちくちくする。でも耐えられないわけじゃないし、だいぶ慣れたお陰でもうそこまでは気にならない。
ひとまずこれが終わったら、一番最初は母親に電話をしてやらないと。
本当なら気になって気になって仕方がないであろうところを、プレッシャーになるのを恐れて敢えて特別な連絡をしてこなかった両親に、スマートフォンの電源を切りながらそっと思った。
今日の朝一番に、母親からきたメールは一通だけだ。『がんばって。イタチにもお願いしておきました』――田舎にある屋敷の奥の間で、兄の写真の前で熱心に手をあわせていたであろう、母の姿が浮かぶ。
「――…あ、来た。間に合ったね」
おーい、ナルト!呼ぶ声に、慌てた様子で遠くから走ってきた彼は、ぶんぶんと大きく手を振った。
ぐんぐんと地面を踏みしめこちらへと向かってくる明るいシルエット。仕事を終えた瞬間から相当急いで飛び出してきたのだろうか。今朝はパーカーの裾からもえんじのシャツが飛び出したままだ。

「――…は、あのっ―――サスケ!」

滑り込むかのようにやってきた見送りの集団のまん中で、息を切らしナルトはその顔を見上げた。冬の朝を映す、すっきりとした黒い瞳。落ち着きはらい、なおかつきちんと血の気のかよったその顔に、弾む鼓動に上下する肩のままホッとしたような息を吐く。
「あのっ……そ、そのさ!」
「……」
「その、なんていうか、が」
つい口から飛び出してしまったらしい一文字目に、直ぐさまハッなったナルトは慌てて自分で自分の口を塞いだ。
なんとなく条件反射で出てしまったのだろう。汗だくで目を見張った顔が「…じゃなくて!」と小さく叫ぶ。


「まっ―――負けんなよ!」


言い直すと、まだ整わない息に大きく胸を膨らめているらしいその顔は、何故だか耳まで一気に赤くなった。
まっすぐに向けられる強い光。
届けられたそれに、まだどこか不安の残っていた心の中心が、ぎゅっと引き締められたようになる。

「―――当然だ、てめえに言われるまでもねェよ」

フン、とその様子にいつもの悪言で返せば、冷たい街の空気の中、青い瞳はきゅうっと細くなり、へへへとその染まった頬が照れくさそうに笑った。
なあ、と出された声に視線をやる。口を抑えていたナルトの手が、すっと握りこぶしとなって前へと出された。
見覚えのあるポーズにどきりとする―――知っている。これはたしかホッケーの試合中、ベンチとリンクとでメンバーが入れ替わる時、選手同士か必ずやっている仕草だ。
無言のままそれを見下ろし、サスケはこっそりとひとつ、深呼吸をした。
乾いて晴れた、冬の空。
予報の外れたそれに、吐いた息が白く散っていく。
仰ぎ見たそこで完全にそれを見届けると、妙にどぎまぎしてしまう気持ちをポーカーフェイスに押し込み、サスケはおもむろにコートのポケットから自分の手を出した。





【end】
分別~隣人の間にあったお話。オフで発行した「分別奮闘記」の再録本に、おまけとしてお付けした小品でした。発行した時にはしろきちさん(https://www.pixiv.net/users/9028712)が素晴らしすぎる表紙を描いて下さったのでした。今にして思えば我ながら初オフですべてがよくわかっておらず、あまりの贅沢さと我儘さに震えます…

NSってお互いなんとなくどんな状況でも「がんばれよ!」って言葉は言わないような気がして、そういう所もすごい好きだわあ…て。ちょっと話が横道逸れちゃうのですが、二次創作をやっていて一番苦労するのが、こちらで用意した舞台の中で最も彼ららしいと思われる科白を選ぶ瞬間で。一方でまあ私が言わせたい科白というものもあって、でもそれは彼は言わないんだよな~言ったら違うキャラなんだよな~~という葛藤とせめぎ合ってる時間がものすごいしんどいです…でも大体自分の言わせたい言葉をそのまま言わせるよりも、悩んだ末に降りてきた言葉の方が結果自分も満足だったりするんですよね。二次のおもしろさだなあって思います。

ところで2016年当時センター試験と呼ばれていたものは、2022年の今は大学入学共通テストという名前に変わっています。今回の再録にあたってここを変えるか悩みましたが、まあタイトルも「中心」の意味を含めた同じ言葉にしたこともあり、そのままにしました。
時代ですねえ……そういえば隣人の終盤出した水月とのメールも、今はスマホでメールのやり取りとかしないよなーとか。まあこのふたりが年経ていく感じが出ていいか、とか前向きに考えてますが……しかし、時代……