【5-1】Maturing

元を辿ればそこは、もともと赴任してきたナルトの前任者にあたる人物が所有していたものらしい。
猫の受け渡しについて相談した際、送り届け先である住まいを尋ねた兄に、ナルトはそんな説明をした。
あいつが勤務する郵便局から、歩くこと約十七分。商店街を抜け、オレ達の住む駅の向こう側ではなく、小学校や中学校がある街の中でも比較的緑が多く残る区画に、そのマンションはあった。長年勤めた郵便局を定年退職するのを機に、夫婦で地方へ移る事にしたというその前任者から、ナルトは格安でそこを買い受けたのだという。それまでは前の勤務地近くで借りていたマンションから、毎朝三十分程かけてここまで通ってきていたらしい。
「え、じゃあなんだお前、猫一匹の為にそんなでかい買い物したのか?」
最初に驚いた声を出したのは横で聞いていたアスマだった。まあ、驚くのはもっともだと思う。未成年であるオレでさえも、不動産というものがけっして安くない買い物だという事くらいは認識としてある。
「でかいって――まあ、でかいスけど」
「よく、だな」
「うーん、でもちょうど引越し考えてたとこだったし。それにその前任者のじいちゃんも、スゲエいい人で」
オレが部屋探し始めた時すでにそこ売りに出されてたんだけど、ちょうど買い手が付かないから値下げしようとしてたとかで。かなりまけてくれたんだってばよ?
そう言って笑うナルトは実際満足しているらしく、にこにこと激甘コーヒーを啜るのだった。ちょっと古いけど日当たりは最高だし、猫も気に入ってるし。嬉し気に細められた青い目に、確かに嘘はなかったのだけれど。

(……って、これのどこが『ちょっと』だ、どう見てもこれ相当な年代モンだろうが……!)

渡された地図と、地元人としての感覚。それらを頼りに辿り着いた場所で待ち受けていたのは、控えめに見積もっても築三十年はくだらなさそうな中古マンションだった。
いや、確かにこれが建てられた当時は、このデザインはさぞかし瀟洒で最先端だったのだろう。しかし平成の世になった今や、それらは既に時代の遺物だった。壁面に貼られたアイボリーのタイルは薄汚れて汚いし、わざわざ一室ごとに備え付けられている突き出したバルコニーは、防犯という観念が完全に抜け落ちている。月のない真冬の夜に、その建ち姿はどこか不気味でさえあるようだ。
(あいつめ、絶対また調子よく騙されやがったな)
がっくり落とした肩に思わず白い溜め息がこぼれる。と、気配を察したのか提げてきたキャリーバッグの中で、もそりと黒猫が身じろいだ。動いては傾いた重心に、少し痺れてきたキャリーバッグの持ち手をゆっくりと左から右へ替える。時刻は五時五十五分。ポケットから取り出したスマートフォンに表示されていたのは、約束した時刻の五分前だ。
(……仕方ない。行くか)
はぁ。吐き出した息が重い。
すでにとっぷり夜に染まった一月の空気に、それはもやもやと、やるせない感じで広がった。

* * *

『ピンポーン』
銀板の奥で籠った呼び鈴が鳴らされたのを聞く。
そこだけは新調された事があるのだろうか。近くに来てみるとその銀板は意外にも新しく、駅前や家の近所にも建つ近代的なマンションと同じものが備え付けられているようだった。
予め聞いていたその部屋番号に返事はない。念のためもう一度だけ鳴らしてみようと、冷たさにかじかむ指先で再びパネルに触れるが、やはり奥で響く呼び出し音に応答する気配はないようだ。
(まだ帰ってきて、ない?)
どれだけ待っても沈黙しか返ってこないインターフォンに、仕方なく腕を下ろした。そうして少し考えてから、反対側の壁際に移動する。タイルの床へ慎重にキャリーバッグを置いて疲れた腕を組めば、底冷えするエントランスと帰ってこない家主に、八つ当たりのようにいらいらと肩が揺れた。一瞬ナルトの携帯番号を知る兄に連絡をとも考えたが、出てくる前に要らないと言い切ってしまった手前、それもまた癪だ。
(……さっみいな、ちくしょう)
なんだかんだ言いつつもその暖かさからすっかり手放せなくなってしまったマフラーの内側、いりいりと思う。中の毛布の形が気に入らないのか、タイルの床に降ろされた途端、寝床をひっかき回していたらしい黒猫は、やがてかしかしとキャリーの底を掘り始めた。保温のため中に仕込んできた湯入りのペットボトルは、あとどのくらい持つだろうか。しんと冷えたエントランスに響く黒猫の爪の音に、そっとそんな事を憂う。
というかこんな所で待ちぼうけさせられる位なら、もっとぎりぎりまで家でその毛並みを撫でてくればよかった。
予定の時刻を過ぎてもいっこうに現れる気配のない金髪に、壁に寄りかかったオレはそっと奥歯を噛んだ。だいたいがここに来ることさえも、いまだにオレはすこぶる不本意なのだ。
あの日、あんな話さえ聞かなければ。
本当なら今日この時もオレ達は、すっかり定位置となった自宅でソファに寝そべりながら、冬休み最後の日をまったり堪能して終えるはずだったのに。

「はぁ〜〜〜んんん、かわっ・かわいいんんん……!」
遅れて現れた鼻に抜ける黄色い声に、出迎えた黒猫は即警戒を強めたようだった。
去年の年末、三十日の晩。変な声の主はアンコである。
不自然過ぎるほどの猫撫で声に、玄関先で兄に抱かれ出迎えをしていたクロの尻尾が一気にビビビと逆立つのがわかった。駆けるようにして寄ってきた初見のショートカットに、色違いの両目が(カッ!)と見開く。
自然な反応だ。オレだって彼であればそうするだろう。
「やだもう~~~抱っこさせて!」
そういっては頓着することなく伸ばされてきた手に、猫は牙を剥いたがそれにも相手が怯まないのを見て取ると、今度は躊躇なく兄の身体を駆け登った。爪を立てられたセーターが重みでだらんと伸びる。こら、サスケ! と言う兄の声にも、隠れるようにして背中にぶら下がった黒猫は動こうとしない。
「……うーわ、なんだ今の声。お前どっからンな声出したんだ?」
そら猫も逃げるわ、と言っては頬をひくつかせたのは、叫びを上げたアンコの後ろ、一緒にやってきたらしい長髪の男性だった。
少し斜めになった肩、いつもどことなくかったるそうな力の抜けた佇まい――カカシ達程常にではないけれど、不知火ゲンマもちょくちょく店にコーヒーを飲みに来る、地元幼馴染勢のひとりだ。仕事先から直接来ると言っていたからだろう。ラフな姿のオレ達とは違い正統派なピーコートの下、粋なピンストライプのワイシャツにスーツを着込んだままのこの男は、都心にある建築事務所に勤める設計士である。店で話を聞く限り、どうやら主に店舗設計を得意としているらしい。
「なによゲンマ、文句あんの?」
「……ねぇけどよ」
「あっ、そうだこれ! ビール持ってきたよビール、あとチーズとかも中入れてるから!」
冷蔵庫入れといてね! と手渡されたレジ袋を受け取ると、猫をぶら下げたまま笑んだ兄は、丁寧に礼をした。「サスケ」と呼ばれる声に、並べようとしていた皿を置いては玄関へと向かう。
「……お!」
出てきたオレの変化を見た途端、ゲンマはちょっと芝居がかったような感心を見せた。え、あ、ほんとだ! とまだ黒猫に気を取られていた様子のアンコも、オレを振り返っては今更のように言う。復学に合わせ、伸ばしっぱなしになっていた前髪を切ったのは、まさしくその日の昼間の事だ。スッキリしたじゃない! という大袈裟なアンコの声に、ふんと鼻で息を抜く。
「いいねェ、男前に戻ったよお前」
切りたての前髪にゲンマはちょっと芝居がかった口調でニヤニヤする。どこか揶揄する言い方に、思わずムッとなった。昔からゲンマとカカシは、オレにちょっかいをかけては苛立たせる二大勢力だ。小さい頃から店でちょろちょろしている所を捕まえられては、いちいち言動をからかいの種にされてきた。
「ほら、これ」
しかしそんな出会いがしらの先制に身構えていると、そんなオレを軽くいなすかのように、ゲンマが手に持っていたものを差し出した。濃い藍色に染められた、やや小ぶりの紙袋。渡されたそれはどうやらどこかの土産物らしい。
「なんだこれ」
受け取った紙袋は案外重い。オレは訊いた。
「ん? 『イヨボヤ』」
「いよぼや?」
「今回オレ村上に行ってきてさ」
靴を脱ぐゲンマはそんないい加減な説明しかしてくれなかったが、中を見れば、紙袋の底、ビニール袋の中に入れられた赤い物は、どうやら適当な大きさに割かれた魚の燻製らしかった。
あ、これ絶対クロ好きだ。
見てすぐ思った時には、勝手知ったる様子でもうゲンマは家に上がっている。「変わってねえな、ここ」という宛てのない呟き。この人もアスマ達同様、幼い頃は叔父と仲が良かったのだ。
「遅いじゃない」
リビングに現れたゲンマに、先に来て鍋の火加減を確かめていたカカシが顔を上げ言う。馬鹿いうな、朝から日帰りで北陸まで往復だぞ、という返しに「それは難儀だねえ」と、さして気の毒そうでもなく絶賛冬休み中の高校教師は口にした。始業時間を厳守しなくてはならないカカシに対し、普段フレックスを使っているゲンマが店に現れるのは、いつも九時過ぎだ。
従ってこの二大勢力が揃うのは久々だ。
あまり近くには寄るべきではないゾーンである。
「アンコとは?」
「ああ、たまたまそこで会っただけ」
「また、照れちゃって」
「あほか。火のない所に爆発物仕掛けてどうしたいんだ」
ねえよ、とざっくり言い切ると、コートを脱いだゲンマはカカシの横に座った。そうね、とあっさり引いたカカシは哀れむような目で、全力で抵抗され続けているにも関わらず、しつこくまだ猫に手を出そうとしているアンコを眺める。横で会話を聞いていたイルカだけが、やや落ち着かない表情だ。ぐつぐつと煮える鍋の前、久々に出してきた来客時用の丸椅子に座ったその人は、斟酌のない会話に居た堪れないというように肩を竦めている。
猫を見たいというアンコの言葉に乗っかるようにして、カカシやイルカまでもがうちに来ることに決まったのは、つい先週の事だった。
「なんかおいしいもの持ってくね!」と張り切ったのがアンコで、それに対し「え~、じゃあオレも野菜とか持ってくよ」となどとのんびり口にしたのがカカシ(カカシの家は今では数少なくなった、江戸野菜を専門とする野菜農家だ)、そんな二人に「えっ、あっ、……じゃ、じゃあオレなんか作ります!」と何故か困ったように挙手したのがイルカだった。
そうこうしているうちに誰かが、「ならいっそもう、ぱあっと賑やかにやる? 忘年会しようよ忘年会!」と言いだし、それを皮切りにゲンマ達幼馴染連にも声が掛かり、あれよという間に店に集う面々が集まる事となったというのが、事の次第である。ちなみにオレはそこに一枚も噛んでいない。

「よし、じゃあカンパーイ!」

今年も一年お疲れさまでしたァ! と体育会のようなノリでアンコが音頭を取れば、揃ってはいないものの、ダイニングテーブルのあちこちで缶ビールが上がった。布巾を手にした兄がかぱりと土鍋の蓋を開ける。もわっとテーブルの上に広がる、だしの香りが効いた熱い湯気。
「やったあ、おいしそう!」
歓声をあげ真っ先に箸を伸ばしたのは、やっぱりというかアンコだった。これ箸そのまま自分のつけちゃっていいです? と確かめたのはイルカだ。けっこう空腹だったのだろうか、意外にもしっかり身を乗り出している。

「白菜これカカシんとこの?」
「そうそう、採れたて。葱も」
「おお、ぶっとい葱!」
「いいでしょ。今年はまた特に甘いのができてるのよ」
「えのきってどれです?」
「あ、春菊の横に入れましたよ。混ざっちゃったかな」
「あれー? この春雨なんかうちのより細い気がする」
「マロニーなんじゃないですか、それ。あれも美味いですよね」
「うっま、つゆ美味いなこれ、〆楽しみ」
「そういやイビキどうした?」
「あいつとアスマんとこは年末は忙しいってよ」
「鱈どこ〜鱈! 私食べたいんだけど」
「おっま、やたら突き回すなっての!」
「底に沈んでませんか?」
「お玉あるよお玉。それで掬ってみなって」

わらわらと四方から伸ばされてくる箸の中、くつくつ音をたてる鍋からお火が通った鶏団子をひとつ拾っては食べてみる。ほっくり噛んだところから広がったのは、予想外にも滋味あふれる野菜の甘さだった。たっぷりの葱に、牛蒡、蓮根、人参……ほくほくと柔らかく火が通った肉と共にほろほろと野菜が崩れ、そこに優しい生姜がふわりと香る。美味い。
「味。大丈夫だったかな」
食べる手を止め、イルカが尋ねてきた。そういえばこの鶏団子は彼が家から持ってきたものだ。
「はあ。大丈夫、です」
「よかった。カカシさんに君たち兄弟は、あんまり肉が得意ではないと聞いたから」
魚だけでもいいけど、やっぱり肉も入った方が寄せ鍋は楽しいしね。そう言ってにこにこすると、その見かけによらず料理上手だったらしい国語教師は、ぱくりと自分もまた食べた。
肉が苦手なのは兄だけでオレは別に特別な苦手意識はなかったが、まあ敢えて訂正することもないだろう。実際これ、美味いし。これだったら肉が不得意な兄もきっと気に入ることだろうと横を見れば、果たして黒髪を束ねたその人はにこにこと、嬉し気に鍋に箸を伸ばそうとしているところだった。たぶん近日中に国語教師は、兄にこの鶏団子のレシピを伝授することになるだろう。
「なあなあ、そんでさ、お前なんで急に髪切る気になったわけ? あれだけ頑なにオレらの意見拒否ってたのによ」
腹は温かくなり、アルコールも程よく回ってきたのだろう。わけなく一杯目を食べきってしまい、再び具材を投入してはコンロの火を点け一同でまったり待機していると、いい色の顔になったゲンマがおもむろに訊いてきた。
ようやく鍋をつつく傍ら、なにくれと自分にちょっかいを出してくる客達に慣れてきたのだろう。兄の背中から降りた黒猫は、今度はテーブルの下、乱立する柱のような大人達の脚をくるりくるりとすり抜けながら、なにかお零れはないかと鼻をひくつかせている。
「別に特別意味なんてねえよ。年明けから学校行くから、それに合わせただけだ」
「え、なになにサスケ、学校行くの決めたんだ?!」
驚いたような顔で話に飛び込んできたアンコに、ふんと小さく鼻を鳴らした。十二月の半ばからこちら、うちにやって来る算段をつけてからずっと締め切りに追われていたアンコ(年末進行、とかいうらしい)とは、しばらく話をしていなかったのだ。
「いつから? 三学期から?」
「まあ、そうだな」
「やったね、視力戻ってきたんだ?!」
良かったねえ、と本当に喜んでくれているような笑みを見せたアンコにちょっと言葉を悩んでいると、そんなオレの横で兄が小さく苦笑した。
いえ、まだ完全にという事ではなくて。少し回復してきたというだけなんですが。
そう言っては補足する兄に(あ、そうなの)と一瞬何か思った様子のアンコだったが、しかしそれでも、素直に喜ぶべき事柄だと判断されたのだろう。まあでも、それでも前よりいいならね! ビール片手に機嫌良さげなその顔は、なにやらほこほこと嬉しげだ。
「回復してきてるならきっと、そのうちね」
「ええ、だといいんですが」
「前進しているってのが大事よね。あとはほら、それを止めないようにしないと」
「そうですよね、それはオレも本当に」
「――その事なんだけど」
遣り取りの中、唐突に口を挟んできたオレに邪魔をされると、穏やかに話し合っていた二人はふと会話を止めこちらを見た。
どうかしたか? と尋ねてくる兄に内側でこっそり気合いを入れてから、見つめ返してくる兄に向け、おもむろに口火を切る。

「猫を、さ」
「『サスケ』の事か?」
「そう。こいつさ、やっぱもうしばらくうちで預かった方がいいんじゃねえかな。その……ナルトの仕事が、落ち着いた後も」

極力重くならないよう自然さを装って切り出した話は、ここ数日ずっとオレが考えていた事だった。蓋をした土鍋の内側からは、ぐつぐつという音がひっきりなしに聞こえてくる。
オレからの提案にわずかに目を大きくした兄はぽかんと一瞬口を開けたが、それが何かを言う前に、オレは急ぎ打って出た。
「いやだってほら――ナルトもすぐには暇になるわけじゃないだろうし、身体の疲れもまだあるだろうし」
「……サスケ」
「猫の方だってオレ達にすごい懐いてるじゃねえか。うちにもすっかり慣れて気持ちよさそうに暮らしてるしさ、もちろん飼い主はナルトのままでいいから、とりあえずもうしばらくの間うちに――」
「サスケ!」
店で対応する際にも滅多にないことだからだろう。いつになく大きくなった兄の声に、周りで世間話に笑っていたカカシ達もつられるようにこちらを向いた。
動物の感覚で聴いてもその声は突出したものだったのだろう。客達が話に夢中になる中、いつの間にか場を抜け出しては壁際に置かれたお気に入りスペースで丸くなっていたクロまでもが、ピクリと緊張に耳を立てる。

「……馬鹿な事を。なにを考えているんだお前は」

深い溜め息をひとつ落とすと、兄は仕切り直すように姿勢を正した。
すみません皆さん、こちらには構わずどうぞ続けてください。そう言ってはそのまま話を打ち切ろうとする横顔に、ぐっと意見が込み上げる。
「兄さん、」
「なんだか火が強いですね、ちょっと弱めましょうか」
「兄さん!」
「ああ、ビールももう無いですね、持ってきます。今日アンコさんが持ってきてくださったのすごく美味しかったですよね、あれどこのですか? 初めて見るラベルだった」
「だから、オレの話も聞けよ――別にオレは我儘で言ってるわけじゃない、視力の事もあるから!」
「……視力?」
その単語についてだけは無視できなかったのだろう。強引なオレに、それでも兄は気を引かれたらしかった。
冷静な瞳がオレを見る。自分達の話に戻れと言われたカカシ達も、店ではあまりないオレ達の真面目な口論にじっと注目している。
「視力の事とは、どういう意味だ」
「オレの目、回復してきたのって猫預かってからじゃねえか。だからこのまま預かってた方が、いい影響が期待できるんじゃないかって」
実際口に出してみるとその理屈は思ったよりもまともで、そして説得力のあるものとして響いたようだった。ああそっか、それは確かにあるかもね。傍らで缶ビールを口にするアンコが、頬杖をついたまま小さく呟くのも聞こえる。
「駄目だ」
けれどもきっぱりと、兄は言った。立ち入る隙の無い言い切りに、一瞬ぬか喜びをした自分の甘さを知る。
「なんで、だって……!」
「いい加減にしろ、サスケ。そういうつもりでオレはこの件に関してうずまきさんに申し出たわけじゃない」
まったく、子供過ぎて話にならないな。
咄嗟に返そうとしたオレに、先手を打つかのように兄は言い切った。予想はしていたけれど思った以上に手厳しい返しに、ぐっと奥歯に力が籠もる。
「――あ、ちょっと!」
慌てたように尻を浮かすアンコを無視し無理に椅子を引く。ガタン! という乱暴な音に、丸くなったまま聞き耳だけ立てていた黒猫も驚いたように顔を上げた。
ずかずかと部屋を横切っては、夕方兄と行った買出しから戻ったきり、ずっとソファの背もたれに引っかけたままの状態になっていた上着を乱暴に掴む。張り詰めた空気を放り出すかのように玄関へと足を向けると、そこにきて漸く兄がオレを呼んだ。
「外に行くのか」
「……」
「行くのはいいが、行き先だけ告げていきなさい」
この期に及んでもあくまで我が家のルールを遵守しようとするその姿勢に、反射的にムッとなるもオレはどうにか堪えた。落ち着きはらった目線がじっとオレを見る。どうあっても揺るごうとしないその様子に、悔しくなりつつも負けじと睨み返す。
「――…っ、そこのコンビニ!」
押し付けるように言い捨て席を立つ。するといつもとは違う空気を感じたのか、黒猫はぱっと身体を起こした。それでもどう動くべきか彼にも判断つきかねたのだろう。お気に入りのカーディガンの上で、黒猫は戸惑うように前足をおろおろさせている。
そんな彼を一瞬だけ確かめる。不安そうに揺れる大きな瞳をじっと見つめたが、振り切ったオレは夜気で満ちた表へ飛びだした。