【4-2】The way to make the Coffe

『……あっ……』

熱の籠った溜息の合間、その声が上がるたびに、ぞくぞくとしたものが腰から背中を這いあがっていくのを感じた。
まっしろなシーツを掴む、細くしなやかな手。綺麗に整えられた爪先はいつも淡い桜色で、身悶えの中強く握られると、その柔かな手のひらに三日月のような爪痕を残した。
やわらかな乳房はサイズこそは慎ましかったけれど、それでも充分に男の本能を刺激するもので。マシュマロのようなそれに顔を埋めるのが好きだったオレは、いつまでもただそうしていては、よく彼女に笑われたものだった。
とくん、とくんとゆっくり、しかし正しいリズムで動いている心臓の音。長い闘病生活の果てようやく彼女が手に入れたそれを聴くのは、オレにとってはその神秘の声が漏らす喘ぎを聴くよりも、もっと尊く、幸せな音に聴こえたものだった。

『んっ…や、ぁ、あ……っ』

慎重に、ゆるゆるとかき混ぜるにつれて、しどけなく崩れては開かれていく肉。ぬるい水音は尽きることなく溢れ出て、差し込んだオレの指に絡んでは、物欲しげに濡れた輝きをみせた。吸い寄せられるようにして合わせた唇は震えるほどに繊細で、怖いくらいやわらかくて。キスのたびに無理のひとつでもしてしまったら、あっという間に壊してしまうのではないかと、酷く緊張しながらいつも吸い上げていたのだった。
ねえ、という声に誘われ腰を引き寄せると、甘い髪の匂いがさらりと零れ、やわらかく汗ばんだ身体はオレに崩れ落ちてくるのだった。妖しく誘うその赤い肉の中へ、オレは割って入る。――ナルト。あの声が、オレを呼ぶ。

(――違う)

妄想の中で感じるその締め付けに、オレは自分で自分にそれを伝えた。
これは夢だ。ただの夢。本当の彼女だったらこんなふうにはならない。いや、彼女ではなく、嘘なのはオレの方だ。これはただのオレの妄想だ。オレがなりたかったオレ。ただの空想の産物。現実の、本当のオレは。

『……ごめん、やっぱり』

そう告げるたびに、大好きだったあの声が気遣わしげな溜息をつくのが、オレには何よりもせつなかった。だけどどうしても駄目だったのだ、だってオレはあくまで彼女を守りたかっただけで。
女性として幸せにしたいというよりも、ただその笑顔を壊さないようにしたかった。
だけどそうやって、どれだけオレが彼女を好きでも、結局オレは――


「――ぶ、えーっくしゅん!!」


うたた寝の中、我慢できず飛び出したくしゃみはなんとも様にならない音で、いかにも湿った感じのそれにさあっと周りからの無言の非難が集まるのを感じた。
……うう、ごめんってば。
落ちかけた毛布を引っ張り上げては、もそもそ謝る。
よく見る夢ではあるけれど、こんな沢山の人達の中で見るにはちょっと恥ずかしい感じの内容に、誰に指摘されたわけでもないのになんとなくわざとらしい咳払いなんかで誤魔化してしまった。忙しさは佳境を越えていたが、休みがなかったのは皆同じだ。疲労に沈む局内は、いまだ殺伐とした空気に包まれている。
「マスク、してくださいよ」
ぼそりとそんな注進をしてきたのは、初日からずっと入ってくれているアルバイトの大学生だった。は、すんません…あとで買ってきます。低く押しの強そうなその声に、なんとなく敬語で答えてしまう。
一月五日、午前九時。怒涛の三が日も乗り越えて、後はゆっくりと普段の落ち着きを待つばかりの郵便局は、今日はもうかなり入っているアルバイトの数も減ってきていた。 
とはいえ、局員であるオレ達はもちろんずっと勤務が続いていて、家に帰れないのももう三日目だ。ずず、と落ちてくる鼻をすすり上げては眠い目を擦り、仮眠用に決められたソファから降りる。背中も痛い。
「おォい、ナルトー」
間延びした声はこれまた疲労に満ちていて、ゆらりと振り返ったところにいたコテツさんの顔には、深く掘ったようなクマがまざまざと浮かんでいた。
お前今日、家帰るんだろ?だったらオレ今からちょっと、寝てもいいか?
眠気の限界なのか、すでに少しろれつの回らなくなっている口が、平坦な口調でそんなことを言ってくる。
「ああ、どうぞ。オレ代わりますってば」
なんとなくぞくぞくする背中にやばいなと思いつつも、そう言ってオレは、手に持ったままだった毛布をコテツさんに渡した。この人もオレと同じく、もう三日は家に帰れないままでいる筈だ。局員の中では独身で比較的若い部類に入るオレ達だけれど、流石にそろそろ限界だ。
抜けてしまったアルバイトの代わりに作業に入ると、冷えた床からの冷気に、全身にぶるっとひとつ大きな震えがはしった。うう…寒い。本格的な寒気に、思わず羽織りっぱなしのブルゾンの前を合わせる。やばい、これ絶対風邪ひいた。丈夫さだけが取り柄だったのに、やはり三十路も半ばに差し掛かると、そうも過信していられないのだろうか。
「もう、クシャミがオジサンみたいよ、うずまきサン。しっかりしてよ」
後ろから掛けられた声に振り向くと、そこにはこの二週間ほどですっかり仲良くなった、アルバイトの女子高生が呆れたという感じで立っていた。
ほら、マスク。ちゃんと付けて。
なんだかどちらの方が年上なのかわからなくなるようなしっかりとした口調で、どこで入手したものか、白い使い捨てマスクを差し出してくれる。
「うう…ありがと」
「どういたしまして」
「……いのちゃん優しいな」
「なに言ってるの、私たちだって明日から学校なんだから。ここで風邪広められたら困っちゃうのよ」
優しくしてくれるのかと思いきや、びしばしとそんな事を言われて、オレは思わずまたトホホと肩を落とした。いのちゃんは厳しい。だけど指摘された通り、学生さんの多いここで今風邪を蔓延させるのは、雇い主側の人間としてはいささか問題あることは間違いない。
「――ねえ、郵便局のお仕事って、やっぱりすごくきついの?」
ありがたく使わせてもらったマスクの下で、ちょっと苦しくなってきた息で呼吸をしつつ作業をしていると、すっと隣に入ってきてくれた彼女がふとそんな事を尋ねてきた。
うん?と半分になった顔で、隣を見る。本当はちょっと訊きにくかったのだろうか、なんとなくその表情は、訊いてみてはしまったものの、ちょっと失敗したかなあといったような微妙な様子だ。
「きついっちゃ、きついけど……なんで?」
「なんか、さっき寝てる時、ちょっと泣きそうな顔してたから」
ごめんって、言ってたし。そんなことまで指摘されると、流石にオレもバツが悪かった。そうか、結構声、出てるもんなんだな。ぽつぽつそんなことも思えば、他の恥ずかしい部分はどうだったのだろうと気になってくる。……まあ、彼女とのあの時、オレはただただ必死だったから特別何かを言うようなことはなかったのだけれど。
アイツの死亡が一度国によって認定された時、恋人であった彼女のその当時の沈み様ときたら、本当にそのまま死んでしまいそうなものだった。
実際かなり、あぶないところにまでいっていたのだ。
ある時、電話もメールも何もかもに反応をしてこなくなった彼女が気になったオレがその部屋を訪れると、呼び鈴に出てきた彼女は何故か手に包丁を持ったままだった。
「なにしようとしていたの?」と怖々尋ねたオレに、彼女は放心したまま首を傾げたものだ。何だかとにかく、必要な気がして。考えた果てにぽつんとそう答えた彼女は酷く痩せていて、まるで生きながら幽霊になったようだった。
だから元々、オレが彼女のそばにいるようになったのも、その危うさを見張るためだったのだ。
それに正直、国がどういおうと、オレはアイツがそんなあっけなく死ぬなんて絶対にありえないと思っていた。なにしろしぶとい男なのだ。むしろ殺したって死なない類の輩である。
好き勝手自由に飛び回るアイツに、彼女はずっとあこがれていた。彼女が必死で健康な身体を欲しがったのも、アイツに付いて外に飛び出したかったからだ。オレは彼女のことが好きだったけれど、悔しいがアイツに憧れる気持ちは、申し訳ないが彼女よりオレの方が沢山持っていたと思う。絶対敵わないと、誰よりもよく知っていた。だからどんなに彼女の近くに行けてもどこかオレは、彼女の事はアイツからの『預かりもの』のように思っていた。
どんなに好きでも、優しくしてくれても、『オレの』ではないのだ。
肌を重ねるようになっても、いざ繋がろうとするとオレの方がダメになってしまっていたのは、きっとそのあたりが関係しているのだろう。
「……あれ?うずまきサン、本当に顔色悪いかも」
訊かれた質問に黙りこくってしまったオレだったけれど、どうやら本格的に具合が悪かったらしい。厳しいことを言いつつも、やはり気にかけていてくれたらしいいのちゃんはマスクで半分になったオレの顔を見ると、じっと目を覗き込みつつ言った。
大丈夫?という声がなんだか遠く聴こえる。あんまり大丈夫でもなさそうだなと思いつつも、それでもにこにこ頷いてみせると、頭一つ下の位置からオレをみていたその顔が、ほんの少しほっとした様子でまた作業する手元に視線を落とした。
「熱あるのかな、顔青いし」
「うーん、どうだろ…あんまオレ、熱とか出ない方なんだけど」
「大丈夫?今日サスケくん猫連れてうずまきサンの家まで来てくれるんでしょ、お迎えしないとってこの前言ってたけど、その様子じゃあ日をずらしてもらった方が……」
「ん、そうだ……そうだったってば!」
思い出させるようなその口振りにはたと気が付けば、体調は悪くとも俄然やる気が出てきた。
高校が始まる前に、猫のサスケをオレの元へと戻しても大丈夫だろうかとイタチから尋ねられたのは、うちは珈琲店が正月休みに入る前のことだ。画像は相変わらず毎日送られてきてはいたが、実際のサスケ(こちらは猫の方)に会うのは、実にひと月近くぶりなのだった。
それにもう片方のサスケに会うのも、一週間ぶりだ。店が休みに入ってから毎朝会えていた彼に会えなくなっていたこの一週間も、オレにとってはだいぶ長くつまらないものだった。サスケはどちらも、本当にかわいい。あいつらすっかり仲良くなってるよな、なんだか引き離すのもアレだよななんてちょっと思いつつも、やっぱり楽しみなそれに励まされるような気分で、寒気を堪えオレは作業を進めた。
……思えばたぶん、それが一番の問題だったのだ。
本当だったらいのちゃんが心配してくれていたように、日をずらすなりなんなりするべきだったのに、オレは自分のことばかりでその体調不良をうちは家に連絡しようなんて、これっぽちも考えなかった。
最後にオレが覚えているのはとにかくどうにか辿り着けた、自宅マンションのエントランス前での光景で。
独り身に戻ってから初めて我が家にやってくるそのゲストの姿に、寒気も忘れただ浮かれてしまった。

「――遅ェ」

開口一番、不機嫌そうにそう言い捨てたサスケは、以前見た学ラン姿でも店にいる時の黒ずくめの制服でもなく、厚手のスタジアムジャンパーにジーンズという、いかにも若者らしい恰好だった。
隣に置かれたのは、先日オレが彼の家に持って行ったキャリーバッグ。首には先日オレがやった白いマフラーがしっかり巻かれ、そうして学校に復学するのに合わせてだろう、長く伸ばしていた前髪が、今日はすっきりと短くされている。
渡した地図を頼りに来たらしい彼はどうやら約束していた時間よりもかなり早く着いてしまったのか、冷え冷えとしたエントランスで鼻先をちょっと赤くしては、マフラーに埋めた唇で白い息を吐いていた。
ようやくやって来たオレに、くろぐろとした瞳が一瞬、ふてたように細まる。
そうしてからゆっくりとこちらを向いたその顔に、ああサスケだなあ、ほらみろやっぱこいつ、髪切った方がかわいいってば、なんて思った途端、今度はオレの視界が斜めに傾いていき、サスケのその顔が驚きに――…

「おい、ちょっ――ナルト!?」










一瞬、どこにいるのか、本気でわからなかった。
なんだか身体がふわふわする。気だるさを含んだそれは妙にすっきりとした気持ちよさで、なんとなく吐精後の開放感にも似ていた。
けれどそんな晴れた気分とは正反対に、身体中はひどく汗ばんでいる。汗をたっぷり吸っているのは部屋着にしているトレーナーとジャージだ。なんだか身体も垢じみて臭い。あれ、そういえばオレってば、最後に風呂入れたのっていつだったっけ?曖昧さから徐々にはっきりしていく思考に、ようやくはたと気が付く。

――ニャーン。

部屋に響く猫の声。
ああそうか、サスケか。耳に覚えたその鳴き声に、やっと自分の部屋を認識する。
よかった、お前ようやく戻ってきたな。そんなふうに思いながら、引き寄せた腕の中にその身体を抱きしめた。つやつやの黒い毛に頬ずりをする。ほんのり甘いシャンプーの匂い。そうだ、お前がいないからオレってば、毎晩寒くてそれで風邪を――

(………ん?ちょっと待て。サスケ?)

どうもおかしな記憶の入れ違いに、ようやくオレはハッとして気がついた。いやおかしいだろそれ。いつの間にオレってば、猫受け取ったんだ?
そういえばと改めて確かめると、腕の中にいるやわらかな生き物はやけに大きく、そしてすべすべとしていた。黒い毛は確かに生えている。けれどそれは部分的なものだ、オレの知っている黒猫とは違う。

「……うぅ、ん……」

腕の中から聴こえてきたくぐもった声は、最早どう聴いても猫のものじゃなかった。いったん引いた汗がまたぶわっと全身に噴く。……え、いやなにこれ、どういう事?ぐらぐらする頭でそろっと捲った掛布団の中、そこで丸くなる白い身体。
なんでか着ているのは最後に見たスタジャンにジーンズじゃなくて、オレが仕事用にいつも着ているワイシャツだった。てかお前ズボンはどうしたのスボンは、まさかとは思うんですけど、いやその一応聞くだけなんだけどな!?その下ちゃんと、その、パ、パンツくらいは、穿いているんですよね…!?
……ん、と小さく呻きながら、泡をくうオレの腕の中、丸くなった少年は小さく身じろいだ。
まっくろな瞳がそっとひらく。ぼおっと濡れたそれはほんの一瞬だけオレを見上げると、掠れた声で言った。

「――…やめろ、寒い」

そうひと言だけ言うと、サスケはそっと、オレの胸にすり寄った。
ばくばく跳ねまわる心臓に身体ごと揺さぶられそうになるオレの横で、ベット脇にやってきた黒猫が、「ニャーン」とまた鳴いた。