【4-1】The way to make the Coffe

出会いは九歳。
その時から彼女の印象は、まずその声だった。
ほんの少しだけ大気を震わす、ウィスパーボイス。揺れそうでいて揺れないその不思議な静けさに、幼かったオレはいつだって、うっとりと聴き入ったものだ。

『もしかして、天使様ですか?』

私を迎えに来てくれたの?などと第一声から青い目に明るい髪色をしたオレに訊いてきた彼女は、実際のところ、その頃不具合だらけの身体を抱えていた。
沢山の薬と、幾たびもの手術。あの日も確か、ほんの少し彼女は熱があったのだ。ふわりと傾げた首は折れそうなほどに細くて真っ白で、だけど熱の花が咲いた頬だけが、目が覚めるような薔薇色だったのを覚えている。
(いや、天使って。むしろそれは、そっちなんじゃ)
尋ねられはしたものの、逆にその赤い唇から零れた声の響きがあんまりにも澄んで清らかで、その時シスターの手を握りしめていたオレはなんだか困ってしまった。慰問に時折訪れていた、街の郊外にある白い箱のような病院。うつむいた視線の先で、靴についたアニメのキャラクターに笑われたようだった。正直、オレはその靴も、靴につけられたキャラクターも、全然好きではなかったのだ。しかしその当時教会には、サイズが合わなかったからなどと言っては、子供の靴が持ち込まれることが度々あった。多少のぶかぶかは当たり前。女の子のデザインでなかっただけでも上々だ。

『なに都合いいこと言ってんだお前、天使がこんな簡単に向こうから会いに来たりするわけないだろ』

バッカじゃねえの、などといきなり言い放ってはしょっぱなからシスターに叱られたのは、オレの横でうんざりとした顔でバスケットを抱えていた、やせっぽちの少年だった。藤で編んだその中に入っていたのは山ほどのヌイグルミ。今にして思えば、あの時本当は、彼も内心では栗色の髪をした女の子にどきどきしていたのだ。……本当に、外側からはわかりにくいのだけれど。トラブルの元になるからと実際コトが起こるたび何度も注意したのに、そのしちめんどくさい性格だけはその後長い年月をかけてもまったく改善されなかったのだから、あれはあれでたいしたものである。
『じゃあ天使様でないなら、なんて名前?どうやって呼べばいいの』
そんなふうに尋ねられ、オレはその時、ようやく下を向いていた顔を上げた。震えそうになる喉に、こくりと唾液を飲みこみ、抱えてきていた絵本の束を持つ手に、ぐっと力をこめる。思えばオレはあの時生まれて初めて、ずっと避けてきていた『他人の目を見て話す』というのを、実践してみたのだった。だって彼女は、すごく素直で優しい目をしていて。それにいきなりバカなんて言ったあいつにも、全然怒ったふうにみえなかったし。

『オレってば――…』

おずおずと、それでもようやくその名前を告げれば、不思議な声は確かめるようにその音を繰り返した。
たぶん、オレが初めての恋に落ちたのは、この時だ。
だけどシスターがいつも言っていた通り、神様は常に平等だった。みそっかすのオレ、何やらせても飛び出すアイツ、夢見がちで外に出ることが叶わなかった彼女。てんでバラバラな性格だったオレ達だけれど、その熱病に罹ったのは全員同じ日、同じ場所からだった。
古い話だ。もう、二十五年ほども前のことになる。


「――お待たせいたしました、お次の方どうぞ」
わかりやすいように片手を上げ椅子から立てば、待ち構えていたらしいその男性は、すぐに停止線を越えこちらへとやって来た。
いつもより比較的混んでいるせいか、待ち時間が長かったのに苛ついたのだろう。五十代程だと思われる男性はつっけんどんな仕草で、持ってきた幾つかの荷物を突き出してきた。伝票の差出人には有限会社の社名。ここの商店街に店を構える、個人商店の店主だろうか。
「早くして」
ぼそっと低い声が、ざっと書き込まれた伝票に目を走らせていたオレを催促した。言い方にささくれは感じたが気にせず書き込まれた項目をチェックする。
こんな事で逐一腹を立てていては、実際カウンターでの業務は務まらないのだ。掛けた眼鏡の位置をそっと直す。最近また視力が落ちたのか、ここのところどうもレンズが合ってない気がする。
「品名が『雑貨』となってますが、中身に生ものや危険物のようなものは入ってないですね?」
マニュアル通りに確かめると、男性はうんそうとぞんざいな返事をした。急いでいるのか、それともただのせっかちか。苛々とカウンターに寄りかかった腕は、わかってる事わざわざ訊きやがって、面倒な手間かけてんじゃねえよとでも言っているようだ。
「――なあ、オタク外国人?お国はどこなの」
列に並んでいる時から、ずっと気になっていたのだろうか。持ち込まれた荷物を秤にかける段になると、男性は今度はそんなことを訊いてきた。ちらと黒くはない瞳でその顔を見る。苛々は急いでいたわけではなく、やはりどうもただのせっかちと八つ当たりだったらしい。
「日本人ですよ、見た目ちょっと違うように思われるかもしれませんが」
すっかりお決まりとなったセリフをまた言えば、男性は「へえ」と短い相槌で返してきた。合計金額、千八百六円です。話に流されることなく穏やかに告げた値段に、じじっ、と男性が小脇に抱えていた黒いセカンドバッグのファスナーが開かれる。
「そんでも、あれだろ?」
キャッシュトレイに放るように置かれた千円札二枚を受け取ると、男性はまだそう言っては話を繋げて来た。アクリル板越しに見返してくる碧眼に、彼は更に興味を持った様子だ。
「オタクのじいさんばあさんは違うんだろ?元々の国はどこなの、その髪の色とかだったらヨーロッパとかロシアとか、それとも」
「――お客様、」
興味本位な質問に割って入ってきてくれたのは、つい先程窓口業務を交替したばかりの同僚だった。赤いラインの入ったブレザーを着た彼女は、もうこの局には二十年以上いるという、ここで一番のベテランだ。
「申し訳ありませんが次のお客様がお待ちですので」
息継ぎを入れない声でそう彼女が突っぱねると、拒否が伝わったらしい男性が一瞬ムッとした。しかしそうは言いつつもちらりと後ろを見る。昼休みの郵便カウンター前は、限りある時間の中出てきている人達でいっぱいだ。
「百九十六円のお返しです。ありがとうございました」
これ以上刺激するのはよくないだろうなと努めて穏やかに返せば、男性は差し出されたキャッシュトレイに少し黙った。何も言わないままの手がむずと小銭を掴む。セカンドバックはそのまま財布になっているのだろうか。硬貨を乱暴に突っ込むと、男性は無言のまま局の自動ドアを出て行く。
「優しくすることないわよ、あんなのにまで。図に乗られるだけだから」
離れ際こそっと耳打ちされた言葉に、思わず苦笑が漏れた。あんなの、といえどもお客なのだ。それに実際のところ、周りが思うほど外見のことであれこれ言われたりするのは、別に何か思うようなことでもなかった。平気、というよりも慣れきってしまったというか。だいたいがオレ自身、自分がどこの国にルーツを持っているのか知らないのだ。三十三年前の十月、第二水曜日の朝、教会の前に置き去りにされた赤ん坊だったオレはそこに住むシスターにそのまま引き取られ養子となったけれど、実際のところそれまでどこでどう生きていたのかはまったく謎のままだった。お国はどこかなんて訊かれても日本としか言いようがない。だいたいが海外旅行にも行ったことがないから、パスポートだって持ってないし。
「……お待たせいたしました、お次の方」
どうぞ、とまた手を上げる。次のお客は女性だ、レターパックを、という言葉に頷いてみせる。
水曜の朝、泣いているオレを見つけたシスターはたいそう驚いたけれども、同時にこれは自分の脳がもしかして寝不足と衝撃のあまり、とち狂って以前の記憶を再現してみせているだけなのかと思ったのだそうだ。
なぜならばその前日、シスターは既に一度、まったく同じような光景を目の当たりにしたばかりだった。
火曜日の晩に捨てられていた子供。
それが『アイツ』である。


「あああ、なんだよクソやってもやってもやることばっか増えて、全然減らねえなあこんちくしょうが!」
巻き舌でそんな回文のような愚痴を言っては突っ伏した背中は、確かに疲労がべったり張り付いたような気配が漂っていた。夜の局内、午後十一時半過ぎ。電車通勤の人間であるならば、そろそろ仕事か家かを決めねばならない時間だ。
確かこの人は家が少し遠いんだったか、とぼんやり思い出しつつ、斜め前の位置で作業をしていたオレはゆっくりと顔を上げた。うう、と背中を正し、ひとつ伸びをする。上げた腕に軽く力を加えると、脇辺りの筋が伸びてすうっと新しい血が巡るような感じがした。柔軟は高校の頃、陸上をやっていた時に教わったものだ。卒業と同時に陸上はやめてしまったけれど、案外その時得た知識や経験が今になって役立ったりしている。先日の全力疾走にしてもそうだ。
(いやしかし、ホント助かったってば……一気にノルマクリアできたもんな)
一応は非公式のものだからという理由でひっそりとホワイトボードに書かれた販売数のグラフを眺め、ホッとまたひと息つく。ずっと最下位のまま一向に数が増えなかった自分の棒グラフが突然逆転したのは、つい一昨日のことだ。移動してきてまだ四カ月。流石に今年はもう無理だろうと、覚悟していたのだが。
「くそう、いいよなァナルト、お前もうすっかり余裕の表情だな」
気の抜けた表情に、気持ちも筒抜けだったのだろう。顔を上げたその人は、そうは言いつつも実質もうノルマクリアまであとほんの僅かという、五つ年上の先輩局員だ。
ノルマは確かに毎年辛いし厳しいし、なんでこんなものがと思うものだが、それでもここの局長は理不尽な追い立て方をしないぶん、まだマシだといえた。非正規雇用の配達員から始めて猛勉強の末試験に受かり、内勤に移ってから十年。もっと理不尽で酷い尻叩きをする局長に遭遇してしまった年は、本当に自分で買うしかないと思い詰めたりもしたものだ。
「その余裕で昨晩はデートか?楽しかったかよ」
まったくこの忙しい時によォ、などといったひねた言い方に一瞬たじろぐと、そんなオレに事情を全部知っているその人は、ニヤリと伏せたまま、チラリと上げた目だけでオレを見た。コテツさんは少々意地悪な人だ。異動した先で、入社した時同じ局にいたこの先輩と偶然にも再会したのは十五年ぶりだけれど、このぎりぎりな感じの悪ふざけっぷりは全然変わっていない。
「またそういう。相変わらず容赦ないってば」
ふう、とひと息の間に顎を引いて言うも、向こうは笑うばかりだった。一応表面上はオレもこんな感じだけれど、実際のところこれっぽちも腹なんて立たない。何故かというと、この人もオレとかなり近い境遇で育った人だからだ。
高校を出てすぐ、とにかくまずは自分で自分の食い扶持をと働きだしたオレに、どうせ働くなら正社員になれ、ついでに年とっても居やすいように内務の試験も受けてみろとオレに勧めてくれたのは、誰であろうやはり同じく両親不在のため施設で育ったという、この人である。
「――まあでも、楽しかったのはその通りかな。オレってば大人気だったし」
今年はまたかなり、うまくやれたってば。そう言ってはポンと腹を叩けば、妙にしっかりとした手応えをみせたそこにコテツさんは呆れたようだった。
うまくやれたって、そりゃお前ただ単に、体形がサンタっぽくなってきたって意味か?
けっして褒めてはいないその言葉に、う、と言葉に詰まる。言われてみれば。ここ数年、オレの腹回りが年を増すごとにサンタらしさを蓄えていることは、確かに否めないかもしれない。
「病院だっけ?」
「そうッス」
「ご苦労なことだな、毎年毎年」
そう言っては突っ伏していた身体を起こすと、オレと同じように腕を伸ばしたその人は、ふわあと欠伸をした。
慰問に訪れていたあの病院で、外国人然とした容姿を活かし、イブの晩にオレがサンタクロースに扮するようになったのは、十七の頃からだ。発案者はアイツ。何かにつけてはリアリティが大事だといつも主張していた彼は、毎年やってくる病院でのクリスマスイベントの目玉に、『本物の』サンタクロースからプレゼントを受け取ろうという企画を盛り込んだのだった。ちなみにアイツはその時、発案だけはしたくせにその後は完全に部外者のような顔をして、特別なにもしていなかった。向こうは向こうで、バイトに忙しかったのだ。高校卒業後、どうやったら地味でも堅実にこの先食べていけるだろうとあれこれ考えていたオレに対し、アイツは早々と一生をかけて追うべきものを見つけていたから。
小さい頃から貯めてきたほんのささやかなお年玉と、都市伝説でしか聞いたことなかったような怪しげなアルバイトをいくつも掛け持ちした果てに、その次の年の春、アイツが手に入れたもの。
それは中古であってもオレからしたら目玉が飛び出るほどに高額な、一眼レフのカメラだった。
「そういやお前、その後あれどうなった、あれ」
帰宅よりも、少しでも増えていく一方の仕事の山を切り崩す方を優先すると決めたのだろう。伸ばしていた腕を戻した先輩は、背中を反らす姿勢のままオレを見ると、そんなふうに訊いてきた。なんとも曖昧で指示語ばかりの質問に「はあ?」と声が出る。そっくり返りそうな程に体重をかけられた回転椅子の背凭れが、ぎしっといかにも油の切れていそうな声をあげる。
「あれ?」
「ほら、いただろうが」
「なにがですってば?」
「お前ンとこに来たけどいなくなった、家柄も顔もとんでもなく分不相応だった嫁」
ざくざくと言い切られた言葉に、さすがのオレも苦笑するしかなかった。まあ確かにその通りなんだけど。しかしここまで直接的な言い方をするのは、この人くらいなものだ。
「あれ一応、ちゃんと籍まで一度はお前ンとこ入ったんだろ?」
「はあ、まァ」
「ほか行ってどうなった、きっちり不幸になったか?」
「そんなわけないでしょうが、どうもなってないってばよ」
てらいのない口振りは、オレに対してだけでなく、元妻だった彼女に対しても容赦はない。更に輪をかけて乱暴なことを言ってくるその人は、しかしそれはそれでオレを気遣い、味方になったつもりで言ってくれているのだった。
この人もなあ、と思いつつ首に締めたネクタイを緩める。ストレート過ぎるその口の悪さは、きっとアイツ同様、揉みに揉まれた幼少期に、色々と鍛えられた結果なのだろう。
まあそれだけに理由を求めるのは間違いであるのも知っているけれど。なんでもかんでも生い立ちに繋げて考えるのは、フロイト先生だけで充分だ。
「不幸になんてなるわけないってば。――だいたいがいなくなったなんていっても、彼女は本来の居場所に戻っただけなんだし。元々オレの方が間に入っちまっただけなんだから」
大昔、なにかの折に聞かされたどこぞの精神科医の話を思い出しつつ、今度は肘を曲げ、身体を捻って肩甲骨のあたりを解しながら、オレは言った。あれは中学だっただろうか、高校だっただろうか。たまたま担任になった教師でひとり、説教の度にオレとアイツの生まれ育ちに関連付けてはそのストレート過ぎる性格ゆえに問題を起こすアイツを変に擁護しようとしてくる、精神分析かぶれの輩がかつていたのだ。
「オレの方がって、お前だって別に横から割って入ったわけじゃなかっただろ。あれ確か、一度はちゃんと死亡扱いになったんじゃなかったか」
ぎぎぎぃ、とまた背凭れを軋ませて、先輩は言った。よく覚えてますね、とちょっと驚くも、向こうは「忘れねえだろそりゃ、あんなの普通に暮らしてたら滅多にある話じゃねえし」などと呆れて言う。
カメラを手に入れたアイツは高校を卒業すると同時に、その世界ではかなり有名な写真事務所に潜り込むことに成功していた。そのうえ何をどうやったのか、いつの間にかそこの主宰者である、高名なフォトグラファーの弟子に収まっていたらしい。郵便配達に精を出すオレや、大きな手術と受験勉強を乗り越え晴れて女子大生となった彼女をよそに、そのすらりと伸びた身体で大きな機材を担いでは、その師匠に付いて西へ東へと飛び回っていたものだ。
「まあ確かにそうなんですけど……」
掛けていた眼鏡を外し、オレは言った。
そうやって世界中を旅しては撮影してきたアイツの写真が世に少しずつ認められるようになり、そうしてそれに伴うかのようにようやく、不器用なアイツとひたむきな彼女がきちんと向かい合うようになれてきた頃だろうか。事件が起きたのは、そんな二十代も終わりに差し掛かった辺りのことだった。すっかり不在が常態化していたアイツに呆れつつも、日本でその帰りをいつも待っていたオレと彼女の元に、中東アジア、きな臭さ漂う紛争地帯で起きたテロ事件に、取材で訪れていたアイツが巻き込まれたようだという知らせが突然入ってきたのだ。
「でも結局は、生きていたわけだし――事情が事情だったから、死亡の取り消しもすぐに国の方で受理してくれたしなァ」
だからホント、今は全然そんなの関係なく暮らせてるってば。
のんびりそんなふうに言いながら曇りの入った眼鏡を拭けば、ふん、と後ろでコテツさんは鼻を鳴らしたようだった。ちょっと鼻白むようなその空気に、つい苦笑する。
――テレビなどで正式な報道がされた事もあり、オレの身内が海外でテロに巻き込まれたという話は、局内でもわりと有名な話になっていたらしかった。
死亡したと完全に思い込まれていたアイツが、実は現地の病院に搬送され一命を取り止めていたというのがわかったのは事件からゆうに二年も経ってからのことだ。怪我こそそこまで酷くはなかったものの、爆風の煽りを受け強く頭を打ったアイツは、しばしの間記憶を失い、現地のごちゃごちゃとしたスラム街のような所でずっと暮らしていたらしい。記憶が甦り、現地の日本領事館へ自ら赴くまでの二年間。金も身分証もまったく無い状態で、それでもちゃっかりそこそこの生活を送っていたというあたり、まったくもってお流石としか云いようがないだろう。
ここまでが世間で報道された話だ。ここから先、そのテロ事件の少し後に結婚したオレの相手が元々はアイツの恋人で、そうして生存が確認されるとオレと別れ、本来の恋人であるアイツの元へと戻ったというのは、ごくごく一部の人にしか打ち明けていないことだった。
異動してきてすぐの頃、個人的に誘われた酒の席で訊かれるがままコテツさんにはそれを伝えたのだけれど、一直なところのあるこの人には、彼女が両方の男の元へとふらつく筋の通っていない女のように、どうしても見えてしまうらしい。
この話をすると大概の人が同じような感想を抱くようなのだけれど、実際のところ、オレ達の間の認識ではまったくそういった感じはなかった。
そもそもが結婚だって、オレの方から頼み込むようにして申し込んだのだ。彼女はそんなオレに絆されて、それを受け入れたに過ぎない。
「――あ、そうだそれにあれですってば。彼女今、お腹に子供もいて」
そういえばこれは話していなかったなと気が付いたオレがその事を告げると、聞いたコテツさんは「は?子供?」とどこか頓狂な声を出した。
そんな彼にちょっと笑いつつ、春には生まれるみたいですってば、と報告する。うちは珈琲店で最後に彼女と別れて以来直接の連絡はないけれど、彼女のお腹の子供はとても順調らしい。アイツはアイツで今、再出発を決めた海外の写真事務所(アイツの師匠でもあったフォトグラファーの方は、残念ながら現実にそのテロ事件に巻き込まれ亡くなっていた)で、かつてない程に大真面目に頑張っているらしかった。そんなふうに彼らの近況についての情報をオレにもたらしたのは、この頃すっかり会うことが減ってしまったシスターだ。
昨日の晩、慰問に訪れた病院でオレを待っていたその人はどこか困ったような微笑みの中、サンタに扮したオレにそっとそれを教えてくれたのだった。
「ふうん……相っ変わらず聖人君子みてえな寛容さだなあ、お前。よくもまあそんな笑っていられるな、オレだったらちょっと耐えらんねえわ」
一通り話し終えたところでそう落とされた声は、なんだか呆れや感心を通り越して、若干不気味がっているようでさえあった。へ?と返したオレに渋顔が向く。
お前今でも、その女が好きなんじゃねえの?
そんな確かめる言葉に、考える間もなくこくりと頷いてみせる。九歳の出会いの時から、オレの『好き』はずっと彼女だ。変わったことなんて一度もない。
「キツくねえか?」
「は?まあ……楽ではないですけど」
「普通だったら、結構マジで人間不信になってもおかしくねえレベルの話だと思うぜ――それにほら、好きな女が他の男に走ったら、結構色々、悶々としねえか?」
「もんもん?」
首を傾げつつのおうむ返しに、コテツさんはどこかイラッとしたらしかった。…だからァ、という少し籠った声が、久々に人のいなくなった局に響いて消える。今日はクリスマスなのだ。気が付けば先程まで数名いた局員も、いつの間にかいなくなっている。終電を諦めたのは、独身者であるオレ達だけらしい。
「子供ができたってことは、そいつらがセックスしてるってことだろうが。お前平気なのかよ、自分が好きで抱いてた女が、今は他の男にやられちまってるんだぞ?男なら絶対、なんか思うとこあんだろうが」
ぐさぐさと言ってくる言葉は確かにその通りではあったが、あまりにもあけすけで隠しのないものだった。その場ですぐ、「いや、でもそれは…!」と反論しかけ、やっぱり止める。言葉を選ばず、直接的な単語をいちいち選んで使っているのは、たぶんこの人のことだからわざとなのだろう。
……やっぱりオレ達のあの関係を他人に説明するのは、ちょっと難しすぎるのだろう。
そんなふうに考えつつもおもむろに外した眼鏡を再び掛け直そうとすると、デスクの端に置いていたスマートフォンがぶるると鳴動した。
ぱっと現れるグリーンの画面。
先日アラームはいつも切っているから、時間は気にせずいつでも撮った時に送ってくれていいと伝えたからだろう。遅い時間であるが今日も律儀に送られてきたメッセージと画像に、一瞬硬くなった気持ちが、ほろりと優しいものでほぐされる。
「――いやでも、ほんとにオレってば今もちゃんと、毎日楽しいし。あんまり淋しいとかっていうのもないんですってば」
ホラ、と掲げて見せたディスプレイの中の黒猫に、疲れた目を擦っていたコテツさんはちらりと見たが、すぐに「ああ、なんだ。またそれか」と興味を無くしたように呟いた。
しかしその次の瞬間、「…んん!?」と呻いては一度引いた身を乗り出してくる。なんだこれ、どこで撮ってんだよ。言っては覗きこんできたその驚いた顔に、思わずニシシと笑いが込み上げる。
そう、よくぞ訊いてくれました。
まんまと仕返しできたような気分でまたその画面を見るオレに、コテツさんはまだ、半信半疑の様子だ。
「まさか、この一緒に写ってんのって――」
「うん、向かいの喫茶店のマスターだってば」
つい今しがたSNSを通じて送られてきたばかりのその画像には、きょとんとした表情の黒猫と、それを抱きあげながら自撮りをしているらしい黒髪の青年が、端の方でちゃっかり一緒に写っていた。家では結ばない習慣なのか、肩下にまで伸ばされた髪は、そこではいつも楽に下されたままだ。
店ではきちんと節度を守った態度を崩さないこの青年が、実はけっこう茶目っ気に溢れた性格であるのを知ったのは、こうして預けた猫の様子を知らせてくれる毎晩のやり取りからだった。普通に砕けた話題でも乗ってくる時は乗ってくるし、冗談だって言う。そうだよなあ、こいつまだ、二十二歳なんだもんな。しっかり者である彼の意外と多い自撮り写真に、なんだかつい可笑しくなってしまう。
「なんだ、猫預けた知り合いってお前、あそこの兄弟ンとこだったのかよ」
打ち明けられた秘密に参った、といったような溜息を引き出すと、思わずニヤリと口の端が上がった。
そんなふうに言ったコテツさんだったが、同時にすっかり目も覚めたらしい。そっか、そういやお前、朝はいつもあそこでメシ食ってるんだっけな。納得した、といった様子のその顔が「なあ、オレもそれ見てもいいか?」と途端に興味をもったように、手を出してくる。
一瞬迷ったけれど、結局渡した。時々はオレだって、自慢したい気分にもなるのだ。
「すげえ、マジで珈琲屋の兄弟だ」
よくこんな仲良くなれたもんだな、と感心しながら眺めている画像集には、沢山の黒猫のワンショットの他にも初めて飼う動物に盛り上がっているらしい兄弟の、楽し気な様子があちこちに納まっていた。
最初に出したポーズをつけたようなツーショットはすべて兄の方だけだが、逆に餌をやったりトイレの片付けをしたり(猫砂用のピンクのスコップを手に生真面目にしゃがみこむ十七歳の後ろ姿というのも、これはこれでオレにはなかなかにジワリとくるものだった)といった世話をしている様子の写真は大部分が弟のしているものだ。
確かめたことはないけれど、たぶんこれは兄が弟に押し付けているのではなく、サスケが自分でやりたくてやっているのだろう。画像の中にある無表情から漂ってくるそこはかとない張り切りに、なんとなくオレはいつもそう思っている。
サスケはかわいい。猫だけじゃなく、人の方も。
最初突っかかってきた時こそ小生意気なガキだななんて一瞬思ったりもしたけれど、総じてずっとオレはあの少年に対して、好意的な視線でもって見ている。だってあの子は、すごく働き者だ。他のことに関しては知らないが、こと自分に与えられた仕事に対してはどんな他愛ない作業であっても、面倒だとか嫌だとか、そういったものを一切出さずきびきびと手を動かす。
「やべえなこれ、ちょっと売れそう」
てっきりオレと同じようにかわいいとか楽しそうだとか言うような平和的な感想が出るのかと思いきや、斜め前で呟かれた妙に脂ぎったセリフに、ほんわかした気分でスクロールされるスマートフォンを眺めていたオレはいきなりギョッとさせられた。
「は?売る?」
あまりにも想定外であったコメントに目を大きくするオレに、画面を注視していたコテツさんはゆっくりと視線を上げた。うん、という深い頷き。思わず口が開いてしまう。
「お前知らなかったのか?あそこの兄弟、ここの商店街ではちょっとしたアイドルなんだぞ」
まあ主にファン層の中心は、おばちゃん連中なんだけどな。けろりと明かされた話に更に唖然とする。けれど一呼吸おいて考えてみれば、実に納得な話でもあった。イタチの客あしらいは本当にその年齢からすれば感心するほどにスマートで紳士だし、サスケはサスケでなんともいえず、ほうっておけないような独特の繊細さがある。
そして二人とも、揃ってちょっとおいそれとはお目にかかれない程の美形。小さい頃から見ている人達であれば、かわいさも猶更だろう。
「お、またなんか来た」
そう言って勝手に開かれた画像(オレに対しなにか許可を取るなんてこと、きっと彼はこれまで一度も考えたことないだろう)には、【今日はサスケを洗いました】というメッセージに添えて、モザイクタイルの風呂場で毛を逆立てる猫と格闘する、サスケ少年の姿が送られてきていた。
肌着と思わしきゆるいランニングに、これまたウエストのゆるそうな短いベージュのパンツ。
極力身に着けた衣服を濡らさないようにと考慮したのか、原寸はハーフパンツであろうと思わしきそれは更に裾部分が折り上げられていて、足の付け根までもがむき出しにされていた。しまった、そういや風呂が何より嫌いだって、ふたりに伝えそびれてた。白い肌に赤く何筋も走っている黒猫の必死な抵抗の跡に、申し送りのミスを思い知る。
「……は?なんだこれ、『サスケ』?」
激しかったであろうその戦いにうっすら青ざめつつも、同時に込み上げてくる可笑しさをどうにか飲み込んでいると、突然その呟きは落とされた。
ぎくっと肩が飛び跳ねる。名前の件は、先日アンコさんにも、コテンパンにのされたばかりだ。
「へえ、サスケって猫の名前か?なんつうか、和風?なんだっけ、侍だったか忍者だったか……ありゃ漫画か?とにかくそういうの、昔いなかったっけ?」
あっけらかんと続けられた話に一瞬「え、」と虚を突かれたが、オレはすぐに状況を読み取った。
つまりこの人は、この兄弟の名前を知らないのだろう。
彼の中ではあくまであのふたりは『珈琲屋の兄弟』であり、それ以上でもそれ以下でもないらしかった。ほぅ、と息を吐きつつも、そそくさとスマートフォンを取り返す。
しかしそんな一瞬の安堵に胸を撫で下ろしたオレに、このまったくもって遠慮のない先輩は奇襲をかけるが如く、さらに凄いことを吐くのだった。オレの手に戻ったスマートフォン。そこにまだ映し出されているのは、いつの間にか拡大されていた白い内腿だ。

「……なんか、こっちはヌケそう」

――カツーン。
聴いた途端、あまりの衝撃に知らず手元が狂った。取り落してしまったスマートフォンが、音をたてて硬いタイルの床を滑る。
ヌケそう?ヌケそうって――なにが?
今度こそ本当に想定外すぎるコメントに、吐いた息が戻らなかった。思わず絶句してしまったオレに対しその無礼な発言者は、依然余裕の表情だ。
「なっ――!?」
「いや、その弟の方、マジ肌キレイだしさ。顔いいし腰とか足とかも細ェしなんか毛なんかもなくてすべすべしてそうだし、そこらの女よりよっぽどそそるって」
だろ?と悪びれることなくそんな事を尋ねてくる先輩に、なんだか急に、これまでとはまったく違った反感がふつふつと湧いてきた。
なに言ってるんスか、そんなの感じるわけないってば。
自分でも思った以上に冷たい感じになったその声に、ちょっと驚いたらしいコテツさんがふと姿勢を正す。
「え、なに怒ってんのお前。マジ切れ?」
今更冗談だとでも言うつもりなのだろうか。軽い調子でそう尋ねてきたその人は、ぱちくりと目をしばたくとぐんと首を伸ばし、面白がるかのようにオレの顔を覗き込んできた。
「……別に。そういうんじゃねえけど」
でももう、これは見せないス。
そう言っては拾い上げたスマートフォンを胸ポケットにしまいつつ仕事に戻ろうとするオレに、ふうーん?というちょっと意外そうな声をまた上げる。
昔からなんでもやりたいようにやってくる人だと知っていたし、基本的にはそこに悪意というのがないのもよくわかってはいたけれど、なんとなく今回のは、許せない気分だった。
オレをからかうのは、全然かまわない。
けれどあの兄弟、とくに弟の方をそんな目で見られるのは、なんだかとても不愉快だ。
「――まあ、でもよォ」
珍しく不機嫌さをむき出しにするオレに、それでもまだあまり危機感は感じないのだろうか。再び作業の手を動かし始めたオレに対し、先輩はまだのんきに話を続けてきた。
その弟でどうこうってのは冗談だけどさ。けど真面目な話、お前その年だったらまだ時々は、どうにもなんかしたい時とかってのがあんじゃねえの?
さっきの無遠慮さ同様のずかずかと踏み込んでくる質問に、ふと気が付くものを見つけチラリと視線を上げる。
「猫とか珈琲屋の兄弟とか、そんなんに癒し求めんのは全然勝手だけどな。でもやっぱ、『彼女』には敵わねえじゃん?ほら、女には猫や兄弟じゃ満たされない何かがあるだろうが――オッパイとか、オッパイとかオッパイとかさ!」
「……まァたオッパブですかってば、コテツさん」
しつこく振られてくる下世話な話は、つまるところこれが目的だったのだろう。ようやくその最終目的地の読みが付いたオレは、熱弁と共に振り上げられたこぶしに先回りして言った。ふうう、と吐いた溜息に頬杖をつく。
悪言がそのままならば性癖もそのまま。
この人の巨乳好きは、十五年前から相も変わらずらしい。
「それに付き合うのはもう最後だって、こないだ言ったじゃないスか」
そんなふうに言いつつ肩を竦めるオレに、コテツさんはニヤニヤしつつ目を眇めた。そういうなってナルト、晴れてお前、独身に戻ったんだろ?同じく頬杖で合わせてきたその顔は、寝不足と疲労の中でも妙に嬉しそうだ。
ぶるる、とまた胸ポケットで震えたスマートフォンに気が付き取り出すと、表示された画像には、今度は大きな焦げ茶色した古いソファが一面に写っていた。
そこでぐったりと眠りこけているのは、薄着からしっかりとしたスウェットに着替えたらしい珈琲店の弟。
寝息でゆっくりと上下しているであろうその平たい腹の上には、同じく疲れ果てた様子の黒猫が、いつもよりふわふわした毛並みで丸くなっている。

【結果はイーブンでした】

添えられたイタチからの言葉に、思わず(ぶぶっ)と口元から笑いが噴いた。相当手強かったのだろう。眠るサスケ(人の方)の脇に落ちた手の甲には、健闘を称えるような絆創膏がいくつも貼ってある。
あ、なんだよ今度はなに送ってきたんだ!?
にわかにまたオッパイから兄弟に興味を移して来ようとしたコテツさんを適当にいなしつつ、オレは素早くまたスマートフォンをポケットに隠した。
沢山の画像展開に、働き過ぎたのだろうか。胸ポケットの中にあるそれはいつもより熱くなっていて、なんとなく腹の上に載せた、猫の温かさを思い起こさせた。