【2-1】Roast

店から歩いて十分、商店街を挟んで駅の反対側に行った住宅街に、オレ達の住む家はある。
そこをいつも、オレ達兄弟は毎朝五時半過ぎには出る。モーニングを食べに来る客の為に、店を開く準備をするためだ。
それは今に始まった習慣ではなくて、もうずっと前、オレが小学校に上がった頃から続けられている事だった。それまでは父さんと兄さんだけがそれを行い、更に兄さんがまだ幼かった頃には、父さんひとりが早出をしていたらしい。
家を出て、商店街の入口に着くとオレと兄さんは一度別れる。各々の役割分担が違うからだ。

「……おはようございます」

いつものように店のシャッターではなく、裏口で声をかけると、待ち構えていたかのようにすぐその扉は開いた。日の出前の路地にぱっと黄色い明るさが広がる。
「おはよう、サスケちゃん」
あたたかな声と共に、ふんわりと小麦とバターの焼ける匂いが冷えた頬を撫でた。もう「ちゃん」付けされるような年じゃねえんだけど、と小さい頃の名残が色濃く残る呼ばれ方に一瞬閉口しかけるが、いつもの事として受け流す。
店に出すためのパンを受け取りにここへ寄るのは、毎朝のオレの仕事だ。七年前、十歳になった日から、ずっとこれを続けている。
「出来てるよ、はいどうぞ」
いつものように差し出される大きな紙包み。それを、両手で受け取り、ありがとうございますと持ってきた麻製の袋に丁寧にしまった。まだ熱を持つ、焼きたての食パンは結構デリケートだ。ちゃんと気持ちを持って扱わないと、きちんとした四角が冷めた頃には斜めに傾いでしまう。
「今日は三本でよかったんだよね?」
「はい」
「寒くなってきたねえ、風邪とかひいてない?あなた達兄弟どっちも痩せ過ぎなんだからね、ちゃんと食べてあったかくなさいよ?」
「……はい、大丈夫です」
小声で答えつつも、今朝出してきたばかりのブルゾンの袖をちょっと引っ張ると、まん丸な頬をあかあかと染めてパン屋の女将さんは笑った。世話好きな女将さん。赤ん坊の頃からの付き合いであるこの人は、両親が生きていた頃から秋の終わりが近付くと、飽くことなく毎年同じ事を言う。
肌寒さの増す十一月の夜明け前。焼きたてのパンは袋の中にあっても、黙ってオレに豊かな温かさを伝えてきた。
女将さんに礼をして商店街の大通りに戻る。ぽつぽつと続く街灯の道標の中、同じく朝の早い幾つかの店が、シャッターを半分巻き上げているのが見える。
朝早いと云えども、大通りにはまったく人影が無いわけではない。ジョギングをする人や早朝出勤に向かうと思わしきサラリーマンとすれ違いながら歩いていけば、辿り着いた時には既に店の奥にはささやかな灯りが灯されているのが見えた。裏の勝手口の扉を静かに開ける。入ってすぐのカウンターには、やはりつい今しがた兄が市から戻ってきたばかりの八百屋から受け取ってきた野菜が、小振りのダンボール箱の中でみずみずしく収まっている。
「――おお、」
トマトじゃねえか、と箱の中に見える赤い丸みに思わず溜息を漏らすと、耳聡くそれを聞き取ったらしいその人がひょいとホールの方から顔を覗かせてきた。「それは店用。オレ達のはそっち」と隣りにある丸々としたキャベツを指す声に、がっかりしながら持ち重りのするパンの袋をカウンターの端に置く。
「まさか、今夜もコールスローかよ」
「だめなのか?」
「……いいかげんレタスとトマトの普通のサラダが食いてえな」
「仕方がないだろう。トマトは今高いんだ」
許せ、と最近すっかりご無沙汰な好物にちらりと言ってみたが、返っていた返事はつれないものだった。それに比べ、キャベツは今『寒玉』が旬だ、と楽しげに言いつつ、兄は顔を引っ込める。確か春先には春キャベツが旬だと言っていたし、夏は夏で高原キャベツがと言っていたはずだ。兄が食管理をするようになってから、我が家には以前と比べ年を通し、格段にその葉物野菜が食卓に並ぶ事が増えた。日本の農業技術の向上をオレは恨む。
今夜もまた食卓に並ぶであろうキャベツレシピにやや肩を落としながらも、オレはひとつ息をついて腕まくりをした。ホールの方からはコーヒーの香ばしい香りが漂ってくる。今日のブレンドを決めた兄が、豆の焙煎を始めたのだ。
急いでその隣に行って、豆の配合や煎り具合について兄からの注意を聞き覚える。今朝はかなり冷え込むから深煎りでミルも細かく、週明け月曜の朝だから軽やかで甘味の強めなブレンドで。ゆっくりと稼働する焙煎機の前で、朝一番のウェザーニュースや曜日、ここまで歩いてきた体感温度などで決められるブレンド法を聞くのは、オレにとって何より興味深い。
焙煎が終わり、豆を冷ます段階に入ると、ひとまずそこで勉強の時間は区切られる。いい香りに心を向けつつも、店の前を掃いたりテーブルを拭いたりとしていると、時間はあっという間だ。兄は兄で、豆の準備が終わっても今度はモーニングに供すためのサラダやサンドイッチの下拵えに忙しい。しばらくお互い殆ど話すこともなく、パタパタとあちこち立ち回る。
六時五十分。
奥のスタッフルームで糊を効かせたシャツに腕を通すと、いつも首周りが固い襟でひやりとした。ジーンズだった下も黒のズボンに着替え、前を閉めたベストの背中を調整する。
きちんと洗ってプレスしてきたエプロン。それを腰に巻けば、いつだってひとりでにすうっと呼吸が変わるのだった。後ろでは兄が同じように着替えをしている。魔法みたいな速さで結ばれる蝶結びに密かに毎朝感心させられながら、最後に指先から通した黒のアームバンドを二の腕の所定位置でぴしりと留めれば、身支度は完成だ。

「おはようございます」
「おはようございます」

今日も一日、よろしくお願いします。
向かい合って立つ店のホール。朝一番に家でも済ませた挨拶を目を見て言い合い杓子定規な仕草で深々とひとつ礼を揃えると、ちょうど時間は七時になる。
表の大通りには目的地へと向かう沢山の人々が急ぎ足で前を通っていく中、正面入口の鍵を開け営業中の札を出すのは店主の仕事だ。

「――というのが、毎朝の流れでしょうか」


乞われるがままに語られていた話の終わりに、オレはふと思いを巡らせていた、今朝の記憶から意識を戻した。
止まってしまっていた泡だらけの手はグラスを持ったままだ。落とさなくてよかったと密かに安堵しつつ、タイムロスしてしまっていた分を取り戻すかのように再び手を動かし出すと、カウンターの向こうからは「へええ」という声間延びした声がした。いつもの定位置に見える頬杖。伏せられた文庫本の横には、先程出したばかりのブレンドが柔らかな湯気をくゆらせている。
「やっぱ今でも、その開店前の挨拶って変わらないんだねえ」 
話を聞いていたカカシがのんびりと言えば、カウンターを挟んだ向かい側で話し手であった兄がにっこりと微笑んだ。確か話のきっかけは、この寝ぼけ眼の常連からの「イタチっていつも朝からすっきりしてるよねえ」とかいう、他愛ない声掛けからだった気がする。
「ええ、祖父がここを開いた時からずっとだそうですから」
「知ってる。昔聞いた事あるよ」
「父からですか?」
「ううん、オビトから」
話を聴き終えても依然茫洋としたままの顔で、カカシが久々にその名を告げた。オビトというのはオレの叔父だ。祖父と反りが合わなかったらしいその叔父はどんな経緯があったのかオレが赤ん坊の頃にはもう祖父から勘当同然の扱いとなっており、オレ自身顔も写真でしか見た事がない。
「ああ、オビト叔父さん」
「そうそう」
「叔父さんは子供の頃、店の手伝いを一番よくしたと昔父からも聞いた事がありますよ」
「そうなの?けどアレ手伝いになってたのかなあ、確かにしょっちゅう入り浸ってたけどね」
今頃どこでなにしてんのかねえ、あいつ。食うに困って行き倒れにでもなってなきゃいいけど。ぼやっとした目付きのまま、全然心配してなさそうな口調でカカシが言った。父の代から毎朝うちに来ているカカシは、叔父の小学校からの友人だ。本人がいう事には、友人なんて大層なものではなくただの腐れ縁らしいが。
「またそんな。そういうこと、口に出すものじゃないですよ」
横から入ってきた注意に目を遣る。眉を顰めるような声。
長く伸ばした髪をひとつに纏めた男性が、温和そうなその顔を曇らせている。
「滅相もないことを簡単に言って。本当によくない事になったらどうするんですか」
感心できないですね、などといかにも教育者らしい言い方で、男性は言った。この人とカカシは職場の同僚だ。もう何年前の事だっただろうか、カカシに連れられ来店してから、日を置かずやってくるようになったうちの常連のひとりである。
「いやだって、もう十年以上も音信不通なのよ?」
「便りがないのは元気な証拠だっていうでしょう」
「どうかなあ、電話どころか切手さえ買えない状況にいたりして」
「またそんな…どうしてあなたはそうオビトさんの事になると」
「ほっとけほっとけ、イルカ。そいつ絶対そんな事ないってわかってるから言ってるだけだ。相手にするだけ無駄」
真面目な叱責にどこか揶揄するような声音で割って入ったのは、またその隣りに座る顎髭の常連だった。この人も兄同様、最近になって親から跡目を継いだばかりの、商店街にある小さな酒屋の店主だ。やはりカカシ同様力の抜けた肩で頬杖をつきつつ、言い合うふたりの様子にニヤニヤと体を向けている。
「大丈夫だって、オビトってヤツはすげえしぶといから。滅多な事はねえよ」
「そういう問題じゃないでしょう?」
「それかカカシだけは、こっそりあいつと連絡取り合ってるか。いっつも一緒にいたもんなー?お前ら」
「あのね、誤解を招くような事言わないでくんない?オレあいつと全然仲良くなんかなかったデショ、同じ教室にいただけ」
「小・中・高と全部同じクラスだったってだけで十分ミラクルだろ。願掛けしても中々そこまでコンプリートできるもんじゃねえぞ、普通」
そう言ってその人はトレードマークである髭をちょっと触ると、おもむろに出した電子タバコに火を点けた。早々食事を終えてしまっていたから、単に手持ち無沙汰だっただけなのだろう。わりい、お冷のお代わりも頼むな、とオレを呼ぶ声ものんびりとしたものだ。
「――けどやっぱりそういう事言うのってどうかと思います。バチが当たりますよね?イビキさん」
やはり同じカウンター席だけれど椅子をひとつ開けて座る男性に、イルカと呼ばれた常連が首を巡らせた。今まさにコーヒーカップを口に運ぼうとしていた手が、「うん?」と止まる。
綺麗に剃り上げた頭で着込んだ漆黒の和装に草履姿という、およそモーニングには似合わない姿でトーストに齧り付いていたその人は、市街地から少し外れた所にある地元の寺の和尚だ。カカシのように毎日ではないけれど、この大きな人もちょくちょくうちの店にやってくる。
「何が?」
いかつい顔には不似合いなほど穏やかな声で、和尚が訊いた。
「バチが」
「誰に?」
「カカシさんに」
「……どうだろうな、御仏はお忙しいから」
ふ、と可笑しげな息を漏らし言うとまたトーストに戻る和尚に、教師は「えーっ」と不満気だった。そんな、当ててくださいよバチを!などという容赦のない言葉に、横で聞いていたカカシの方が「えっ何それヒドイ!」と目をむいている。
「――おはよー……」
カラン、と言いかけたところに鳴らされたドアベルに、ふとその場の会話が止まった。なんとなく全員で振り返ったその先に、朝日を背にぼおっと立つ小柄なシルエットが見える。
おはようございます、アンコさん。丁寧に返す兄にゆらりと手を上げて、くたびれ果てたモッズコートのままぼさぼさ頭のその女性はよろよろとカウンターに寄り掛かった。また何日も寝ていないのだろうか、どこか据わった感じの目の下にはくっきりとしたくまがある。
「イタチごめん、アレ出して」
おもむろに告げられた注文に「ダブルで」という付け足しまであるのを聞き、兄の表情が曇った。「……朝からですか?」と確かめる声にも、気遣わしげな気配が漂う。
「そう。お願い」
「だいぶ追い詰められてます?」
「まあね。朝からトビたい気分なのよ」
ふふふ、という崩壊寸前の笑顔に覚悟を決めたのだろう。「……かしこまりました」と慇懃に答え、兄は厨房の奥へと下がった。崩れ落ちるようにしてカウンター席の椅子に座り込んだ女性も、うちによく来る客だ。幼馴染グループの紅一点。「紅」というにはいささか殺伐としすぎているような気もするが。
「あーっ、もーほんとヤバイ、ヤバイよ」
カウンターに突っ伏してそう喚くと、彼女は洗っていない頭をぐしゃぐしゃと掻き回した。彼女は週間の少年誌に連載を持つ漫画家だ。仕事に行き詰まると、彼女は逃げるようにしていつもここにやってくる。
「なんだァアンコ、お前また描けなくなってんのか」
しっかりしろよ、センセイ。機械仕掛けの吸い口を噛み噛み、酒屋の店主はへらりと笑った。アンコと呼ばれた女性とカカシ、和尚、そしてこの酒屋の店主は皆地元生まれの地元育ち、全員が幼い頃からの知り合い同士だ。
「とうとう廃業か?」
「うっさいアスマ、黙っててよ」
「つーかお前、今日やけに頭ぺたんこじゃねえか?風呂は?」
「しょーがないでしょ、五分あったら頭洗うより、今は一コマでも描かなきゃならない時なの!」
朝っぱらから既に満身創痍なその雰囲気は酒屋の店主でなくとも確かにかなり危機感を覚えるものではあったが、怒鳴り返すやつれたすっぴんはそんな事構ってられない様子だった。赤の他人同士とはいえ四十年も付き合いがあると遠慮なんてものはほぼ無くなるらしい。傍で聞いているとぎょっとするような殺伐とした会話を、普段からこの人達は平然と繰り広げる。
「どうしても決め台詞が決まらない……いいのが思いつかない」
「決め台詞もなにも、お前が描くのって全部血みどろのバトル漫画じゃねえか。なんかカッチョイイ必殺技だけありゃーいいんじゃねえの」
「そーゆー訳にはいかないの!もーホント、わかりもしないのに簡単に言わないでよね、嫁が怖いからってそんな偽物のタバコぷかぷかさせちゃってるくせにさ」
「なっ…仕方ねえだろこれは!オレだって本当なら、ちゃんと煙の出るやつをだな…!」
「――お待たせ致しました」
こちらでもいつもの言い合いが勃発しようとしたその時、奥から現れた兄の手に捧げられていたのは特別仕様のトースト皿だった。普段店で出しているものよりも一回り大きなそれには、切れ込みが入れられた熱々のバタートーストの上に、照りも見事な餡子がこんもりとふた山乗せられている。
ことりと置かれたその一品に、「うわあ、きたきた、これこれ!」と、くたびれ果てていた漫画家の目が輝いた。
いただきまーす!と華やいだ声をひとつあげ、不眠と不摂生で荒れた唇が、がぶりと大きくそれに齧り付く。
「んんん~~~!おいっしー!」
そう言って、うっとりする彼女は幸せそのものの表情だったが、オレは口いっぱいに広がっているであろうその甘さに、想像だけで胸がやけそうだった。その昔兄が自らの為に考案した「あんバタトースト」は、表には出していないうちの裏メニューだ。バターのしょっぱさと兄の炊いたなめらかな餡子の甘さのコラボが絶妙であると、一部の常連客から絶大な支持を得ている。
「朝からすごいボリュームですねえ」
「うん、いきなりふた山いってるからね」
「うわ~~ん最高、これであと三ページ頑張れる!」
「お前なあ、行き詰まる度にそんなもんばっか食ってると、あっという間にデブになるぞ」
「あン?なによアスマ、喧嘩売ってんの」
「いやまじで。最近顎のあたりとかヤバイんじゃないか?」
「ふん、それならそれで結構だわ。食べたいもの食べずして何が人生よ」
「あっそ」
じゃあもう好きにしろ、と匙を投げるアスマからの視線も完全無視で、アンコは更にがつがつと小豆色の山を頬張った。忙しさの余り、入浴どころか食事も満足には出来ていなかったのだろうか。ずしりと重そうだったトーストは、気付けはもう半分が消えている。
「――ちょっとサスケ、なんて顔してんの」
傍目にも、砂でも吐きそうな顔をしていたのだろう。うえ、と思いつつそのてんこ盛りな糖の塊を睨んでいたオレに、思わずといったようにカカシが苦笑した。飲みかけのコーヒーカップが、ソーサーの上にかたりと置かれる。
その長身に追いつかないかのようにひょろりと痩せたこの男は、昔から朝は殆ど食べない。いつも開店直後に来るけれど、頼むのはコーヒー一杯だけだ。
「別に。全然普通だろ」
「いやそれ絶対普通じゃないでしょ、眉間の皺すごいよお前、自分で気が付いてないの?」
「こーんなよ、」と口にしながら人差し指でまゆに縦線をつくるカカシに憮然となったが、更にそれに追い討ちをかけるかのように、見た周りの常連が(ああ、それな)といったように頷くのがまた腹立たしかった。賢しげに微笑み、カカシがまたコーヒーを飲む。
「自分が苦手なら、味を想像しなきゃいいのにね」
「そういえばそうですよねえ」
「付き合い良いんだな、案外」
「次男だからじゃない」
「え、それ関係ある?」
「あるよあるよ、やっぱ小さい頃から上に付き合ってばっかだからさー」
「なるほど、そういうものですかね」
「……うるせえ、ほっとけよ」
やかましい一同にボソ、とひとつ乱暴に吐き捨てると、すかさず兄から「サスケ、」と注意が入った。面白くない気分で、がしがしと食器を洗う。
「本当にすみません、言葉が乱暴で」
物憂げに眉をひそめ、兄が言った。いーよいーよ、と鷹揚にカカシが返す。
「だいじょーぶよイタチ。オレら皆、ちゃんとわかってるから」
「――あァん?なんだそれ、どういう意味だ」
訳知り顔のカカシに、思わず歪んだ声が出た。そんなオレを余所に常連客達は、困り顔のイタチに向けてうんうんと意味のわからない賛同を見せている。
「サスケはさー、キツい言い方する相手に程、安心して甘えてるんだよね」
は?
「乱暴な態度は、好きの裏返しでしょ?」
んなわけねえだろが。
「そうなんですよ、お気付きでしたか」
内心でのオレの突っ込みも余所に、訳知り顔なカカシの言葉に兄は感心したような声をあげた。なにがそうなんですよだ。勝手な思い込みも甚だしい。
「気付くよ~、子供の頃から見てるもん」
「本当に嫌いなのとそうでないのとでは皺の寄り方が違うんです」
「へえ、ならその基準でいけば、オレらの中でダントツに雑な扱い受けてんのは間違いなくカカシだよな。てことはさ……」
予想通り、飛び出したのはそんなうんざりな推量だった。「えー、オレ?」と名指しされたカカシは、何を考えているのか妙に嬉しげだ。
「確かに!あんたいつも散々だもんね」
「そうねー、だいぶ気に入られちゃってるからね」
「そういえば呼び捨てにされてるのもカカシさんだけです?」
「アスマは一応『さん』付いてるし、あたしも。イビキだってそうよね」
「まあ、そうだな」
「……あっ、でも待ってそんな事ないよ」
「え?」
「ほら、もうひとり。呼び捨てだしオレより酷い扱いされてる人がいるじゃない」
言いながらにんまりするカカシに、盛り上がっていた輪が一拍静まった。
カウンターの内側では兄の穏やかな微笑みと、サイフォンからのこぽこぽという、琥珀色の雫が落ちていく音。もうひとり?と場の沈黙に押し出されたように誰かが呟いた瞬間、出し抜けに店の入口でカラン!とドアベルが勢いよく揺らされた。

「うはーっさびさび!やばいってばよ今日、まじ寒すぎンだろ!」

突然流れ込んできた朝の空気に驚かされ振り返ると、そんな賑々しい声が飛び込んできた。
足早に入ってくる、着膨れた大きなシルエット。ぐるぐる巻きにされたマフラーから覗く短かい髪は、薄曇りの朝にあっても明るい黄色だ。
「?……どしたんだってばみんな、急にしんとして」
後ろ手にドアを閉めながら、一様に振り返ったカウンターに向けやってきたそいつは言った。
たまたま目が合ってしまったのだろう。ちょっと困ったように顎髭をいじったアスマが、「ぅん?あっ、いや――別に?」とうやむやな返しをする。
「なに、なんかあった?」
「そういう訳じゃ」
「おっ、今日は和尚も!オッス、おはよございます!」
「あ?ああ、おはよう」
確実に毎朝いるわけではない和服に妙に体育会じみた挨拶を済ますと、にっこり笑いながらその男は着ていたコートを脱ぎ、満席となっているカウンターを通り抜け、すっかり定位置となったボックス席に腰掛けた。大振りな仕草で腕が動くたび、表から持ち込まれた街の気配が漂う。
「あー寒かった、ここの店あったけえな」
席のシートに背をもたれると、鼻先を赤くした顔をほこほこさせて、ヤツが言った。深いところからほおっと吐かれた息が、ゆったりとその肩をなだらかにさせている。
「……来たよ、期待のダークホースが」
ぼそ、と誰かが呟くと、にやにやと無遠慮な視線がオレに集まるのを感じた。すこぶる不愉快な気分になりながらも黙って泡の付いた手を洗い流し、雫を拭いながら伝票片手に、朝の光の中で今日も機嫌良さそうにしている大男の方へと向かって行く。
「――おっ!?」
なんだよ今日、いつもと違うな!
糊を効かせたシャツの上、ぴしりと着込んだ艶めくギャバジン地のベストに、ヤツは早速目を付けたようだった。背中が開いた黒のカマーベストは、昨日の晩兄から渡されたものだ。
「どうしたんだってば、その黒チョッキ、衣装替えか?」
相変わらずのそのずれた感性に、いきなり伸ばした背筋が崩れそうだった。くそ、このオッサンめ……なんで『チョッキ』なんだ。他の単語は選べなかったのか。
「……チョッキとか言うな。ベストだ」
それでも悪意ゼロな笑顔に我慢を効かせ、オレは静かに訂正した。……こいつに悪気はないんだ、悪気は。ただ単に感覚が、どうしようもなくオヤジなだけで。
「ん?ベスト?」
「そうだ。チョッキじゃねえ」
「どこが違うんだってば、一緒だろ?」
「一緒な訳あるか、全然違うだろうが!」
よく見ろ!と胸を張ってみせても、ヤツには到底通じないようだった。青い瞳が上から下までしげしげとオレを眺めるが、出てくるのは(うーん?)という首傾げばかりだ。
「違うかなァ?」
「ちげえよ」
「んん~~、オレにはよくわかんねえや」
けどさァそれ付けてた方が、なんとなく腹冷えなくて良さそうだよな!――目的は全く果たせないままそんな余計なコメントだけは加えるヤツに、知らず舌打ちが零れた。そんなオレ達に呆れるかのように、壁に掛けられた古いゼンマイ式の柱時計が、こちりと音をたてて「3」をさす。
「ご注文は?」
いつもの時間と、何をどう言っても無駄そうなやり取りに諦めをつけて、オレはうんざりと伝票を構えた。幸か不幸か、こんなやりとりにもすっかり慣れてしまった。どうせこの先の流れも決まっている。オレが胸ポケットから出したボールペンをカチッとノックさせれば、すかさずヤツは世にも嬉しげな微笑みをその顔に浮かべ、決まって今日も言うのだ。
「厚切りトーストと、あと『サスケスペシャル』ひとつな!」

「あっという間に秋も終わりだなあ」
ウィンドウ越しに並ぶ完全に葉の落ち切った街路樹に、誰かが言った。ハロウィンの半端な盛り上がりもひっそりと終わりを告げ、気がつけば十一月も半分を過ぎた街には、早くもあちこちで赤やグリーンの飾りが掲げられている。
「来週にはもう十二月か。早い早い」
ぼやっとした目付きのまま誰にともなくカカシが言えば、ニヤリとイビキを見たアスマが「坊主が走る月だな」と声を掛けた。「うむ、」とも「うん、」ともつかない返事を綺麗に剃り上げた禿頭が返す。じっくり味わいながら食べている時少しバターが付いてしまったのか、僧服から出た指先を、先程から丁寧にペーパーナプキンで拭っている。
「何言ってんの、師走の師ってアンタら学校の先生の事じゃないの?」
こちらもすっかりトーストを平らげた、アンコが言った。カカシとイルカはどちらも学校教諭だ。同じ法人が運営する学校の中等部にイルカが、カカシの方は高等部の方で教鞭をとっている。
「ちがーうよ、お坊さんがお経あげて回るのに忙しいから『師走』なんでしょ」
「え、そうなのイルカセンセ?」
質ねられた国語教師も、頭を小さく傾げる。
「うーん、その説が有力だとは云われてますが」
「なんだ、そうなの。私『師』って先生の事だと思ってた」
「諸説あるので、それも間違っているとは言い切れないですけどね」
「いやいや、けど今の時代の年末年始に一番忙しいのは、坊主や先生よりも彼の方だろ」
機械仕掛けのフィルターを噛み噛み、アスマが後ろを振り仰いだ。ウィンドウ越しに見える急ぎ足の人々をぼおっと目で追っていたらしいヤツが、急に話を振られ「ん?」となる。
「あ、オレ?」
「忙しいだろ、年末年始。昨日も駅ンとこで机出して出張販売してたしさ」
「わ、気付いてたんスか」
話の輪に加えられたのが嬉しかったのだろうか。どこか弾んだ声で、ヤツが言った。笑いながら、アスマが頷く。配達の途中、駅前通った時になとまた顎髭を触る。
「なに?年賀状?」
「そう、局員も順番で立つことになってて」
毎日一時間ずつの交代制なんス、と答えたナルトに、へーぇと誰ともない相槌が返される。
「大変だなあ、あれって確かノルマとかもあるんだろ?」
「んー……まあ、それは」
「大晦日とかは夜通し仕事してんじゃねえの?」
「ああ、そりゃもう。大晦日どころか年末年始は十連勤とか当たり前だってば」
苦笑交じりの言葉に、またカウンターからは誰が言うでもない「うわー」といった感じの反応が返ってきた。あの日の一部始終を見守っていたこいつらは、どういう訳かあれ以来すっかりヤツの親派になってしまったらしい。次の日も現れた金髪頭に「ねえねえ、」と最初に声を掛けたのはカカシだったが、それを機にヤツはあっという間に、この小煩い常連達と気安く話し合える間柄になってしまった。
「きついなあそれ、体壊さないか?」
「大丈夫ス、丈夫だけが取り柄なんで」
「いや~、そう思っててもいつの間にか体の方は結構ガタきてるもんよ?びっくりするくらい体動かないから」
「わぁい、カカシが言うと現実味あるわねー」
「おいイビキ、ちょっとこいつぶっ倒れないよう、ひとつ神サンに祈ってやれよ」
「神ではなく仏だ。うちは神社とは違うといつも言ってる」
「固いこと言うなって、ちょっとナムナムしてやるだけだろ」
「や、けどその前にオレってば教会の子だけど、大丈夫かな」
「なんだお前、生まれも育ちも日本だって言ってなかったか?」
「あ、いやそれはそうなんだけど。オレってば……」
「――お待たせ致しました、お先にブレンドです」
やがて戻ってきたボックス席でひとこと言えば、話途中でもカウンターの一団はざあっとまた静まった。同じく笑っていたヤツも目の前に置かれた真っ白なカップとソーサーに気が付くと、さっと机に上げていた肘を外し「おっ、ありがと!」ときちんとする。
「なんだよ、『サスケスペシャル』だろ?」
遠慮のない上眼遣いで、ナルトがニヤリとした。
「『ブレンド』です」
「つまんねえの。折角オレがいいオーダー名付けてやったのに」
「黙れ。だせえ名前勝手に付けてんじゃねえよ」
業務用の口調から一転、つんけんと言い返すも、すっかり慣れてしまった彼はもう全くビクつくこともなかった。しかし「あっそ、じゃあ」と早速シュガーポットに伸ばされた手には、すかさず斜め前から無言の圧力をかける。
そんなオレにすぐに気が付いたらしい彼は、(おっと)といった感じでその手を止めた。「…なーんて、うそうそ」などと誤魔化しつつ更に姿勢を正すと、ボックス席のベンチでコホンとひとつ咳払いをする。
「いただき、ます!」
そう言って、慇懃に礼をしてからおもむろに口に運ばれるカップを、思わず息を止め見守った。
赤みの少ない厚みのある唇が、ズズ、とひとくちコーヒーを啜る。

「…………にがい。」

ぽつんと落とされたわびもサビもない評価に、がっかりすると同時にイラッした。他に言う事ねえのかこいつは。飽きる事もなく毎朝毎朝、同じコメント出しやがって。
「……今日は冷えるから、甘味のある豆を使ったんだが」
苛立ちを抑え、オレは言った。
「え、これで?そうなの?」
「重さを出すために、挽き方もいつもより細かくしてある」
「はー、そうなんだ?よくわかんねえな」
アハハ、ごめんなー?とへらりとするその顔に、上から見下ろしつつぎゅうと睨めつけた。う、とそこにきてようやく息を止めたヤツが、困ったように頬を掻く。
「ごめんって、でもダメとか不味いとかじゃねえから」
言い訳するナルトにも、オレは「当然だ、店に出してるのと同じいい豆使ってんだから」と言うしかなかった。そういう意見が聞きたいんじゃねえんだよと憮然とするも、じっと伺いを立てるように見上げてくる青い瞳に、むうと口を噤まされる。

「だから、その――…そろそろ、いい?」
「………好きにしろ」

渋々ながらも許しを出すと、男は再びいそいそとシュガーポットへと手を伸ばした。銀のスプーンがグラニュー糖の山をざらざらと投入し、遠慮のかけらもなく添えられていたミルクピッチャーが傾けられる。やがてかき混ぜられたそれを、大層幸せそうな顔がズズズとひと口啜った。
ハァ、あったけえ。ふにゃりと脂下がったその顔が、幸せそうな息をつく。
「なあに、あれ」
呆れたように、アンコが言った。なんか、変なテンプレが出来上がってない?ここの所少し顔を見せていなかったせいだろう。目の前で繰り広げられた一連の光景に、そんな事を言う。
「ちがーうよ、あれはサスケの考えた新しい遊び」
ぽかんとするアンコに、ぬるい笑いを浮かべカカシが答えた。ふざけんな、何が遊びだ。ニヤニヤと細められるタレ目を振り返りぎゅうと睨みつけるも、ゆったりと足を組み姿勢を崩すその顔は、余裕げなままだ。
『――お願いが、あるのですが』
金木犀の香りを残し、あの綺麗な人が店を後にしたあの日、コーヒーを飲み終えてから同じく出ていこうとしたヤツ……ナルトをそう言って呼び止めたのは、兄の方からだった。
本当ならばこんな事をお客様に申し上げるのは、失礼な事だと重々承知しているのですが。
そんな前置きした上で、ぽかんとするナルトに向かい、これからも毎朝オレが練習の為に淹れたコーヒーを、試しに飲んでみてくれないかと持ちかけたのだ。
「いやーでもあれ、ひとつのプレイでしょ、もう」
そんな経緯で、あの日以来こうしてすっかり毎朝の恒例行事となってしまったこの流れに、あくびでも堪えるかのような口調でカカシが言った。その横で、二服目の煙草に火を点けようとしていたアスマも、同じような顔で「まあなァ」と頷く。
「ただし設定が特殊過ぎて理解不能だけどな」
「ふぅん、アスマ今度紅とやってみたら?」
「馬鹿じゃねえのかお前、やるわけないだろ」
こいつらの前でそういう下品な冗談は言うなって、と幾分か気分を害したらしいアスマの低い声に、苦笑しながら兄がカウンターから出てきた。兄の方は普段からずっとベスト着用だ。オレが着ているのと同じギャバジンで作られたそれは背中までしっかり覆われた正統派なデザインで、以前は父さんが身につけていたものでもある。
「けどまあ……本当に。面倒になったら、いつでもやめてくださっていいですからね?」
そうなっても、すぐにちゃんと新しいコーヒーをお持ちしますから、とすまなさそうに伝えながら、いつものように頃合を見計らって兄がプレートを差し出した。
こんがり焼き上げたトーストに、はちみつ色に溶けたバター。すっかり違うものに成り果てたコーヒーを口に運んでいたナルトだったが、それを見れば今度は嬉々としてそちらに手を伸ばす。
「面倒だなんて思わないってばよ?むしろオレの方こそ、毎日わざわざこんな風にしてもらって」
「出来たらちゃんと代金も支払わせて貰えたら、もっとありがたいんだけど」とまだ言うナルトに、イタチはそっと微笑むだけで答えを逃した。毎朝ナルトに出しているオレのコーヒーには値段がまだ付いていない。豆の合わせ方から抽出まで、ひととおりがまだ半人前であるオレによって為されたそのコーヒーはあくまでオレが私的に淹れたものだから、そんなものでお客からお金を戴く訳にはいかない、というのがその理由だ。
「わりいな、ホント」
なだらかな額に眉を寄せ、ナルトが言った。
「いえ、こちらこそうるさい事ばかりで」
「言ってくれたら、いつからでも払うからさ」
「お付き合いいただいてるだけで、十分ありがたいですから」
口を挟む間もないまま勝手に繋げられていくやり取りに、横で放置されたオレはフンと腕を組んだ。遠慮に遠慮を返しあうような会話の中、なんだかオレだけが子供だからと除け者にされているような気分になる。
「……うまいか?」
言葉を忘れたかのようにざくざくとトーストに齧り付いては何度も口に運ばれるカップに、ぼそりとオレは訊いてみた。やっぱりなんとも複雑な気分だ。ベースが大事とかいくら言われても、やっぱりどう考えてもヤツが飲んでいるそれは、既にオレの淹れたものとは別物だとしか言い様がない。
「もちろん、うまいってばよ」
「つーか、ホントよくも朝からそんな甘ったるいもの飲めるな。気持ち悪くないのか」
「え、なんでだってば、朝だからこそだろ?だって――」
「……何故なら人の脳を動かすために糖、つまりブドウ糖は非常に重要なものだからだ。一日の作業効率を上げるのに、ブドウ糖に変換されやすい砂糖とパンのような炭水化物を朝食時に摂取するのは、実際理に適った行動だといえるだろう」
ふと掛けられた声に振り返ると、ベルの音も密やかにいつの間にか二人組の男達が店に入って来ていた。
片方は朝からのサングラスにミリタリー調のカーキ色したコート、その斜め後ろにはもう一人の男。「いやこいつ、別にそんな大層な理由があって食ってるわけじゃねえだろ絶対」などと言いながら、革ジャンの上着のまま気安い笑いを浮かべ立っている。
「シノ!それにキバも」
見知った二つの顔に、ナルトの声がまたひとつ明るくなった。彼等はすぐ近くにあるペットショップの共同経営者達だ。うちの前に伸びる通りを挟んだ向かい側、ナルトの勤める郵便局の隣に、その店はある。
おっす!と先ほどよりも更に砕けた様子で朝の挨拶をするナルトに同じ返しをしながら、二人組はそのナルト座る席のすぐ横のボックス席に腰を下ろした。以前から時々やって来ていたこの二人だが、ある時ここでナルトと「…ああ!?」となってからは、割と頻繁に顔を見せるようになっている。どうやらナルトは、彼等の店においても常連客らしい。飼っている猫の為の(オレのクロ…!)ペット用品は、ほぼ全てそこで購入しているようだった。
「ブドウ糖だかサクランボ糖だかしらねえけど、そんなもん朝メシに関係ねえよな?」
ぎぎ、と椅子を引きながら、キバが言った。
「ん?」
「理由なんてそうたいしたもんじゃねえんだろ?朝から好きなもん好きなように飲んで、仕事前に気分上げたいだけだって」
少し悪ぶったような仕草で、ナルトの後ろの席に座ったキバが椅子の背凭れに肘を掛け振り返った。だろ?とニヤリとするオールバックのその顔に、「あ、バレた?」とナルトが同じく笑う。カウンターの常連達ともよく話すこいつだが、同い年だというこの二人と話すのは、さらに一段階上の楽しみのようだ。明るい空色の瞳は人の懐に潜り込むのが大の得意らしく、店に来るようになってまだ二ヶ月だというのに、いつの間にか常連客達の中に、見事に溶け込んでいる。
「あのさ、こないだのさァ」
何やら楽しげに盛り上がり始めたテーブル席になんとなく話を続ける気も失せて、一応の礼だけを残しオレはその場を後にする事にした。
最初の演説後、黙ったままだったサングラスから「俺らにはサンドイッチとトースト、あとブレンドふたつを」というオーダーだけを聞き取って、そのままもう何も言うことも無くさっさとその場で回れ右する。
「――あ、なぁなぁサスケ!」
行きかけたオレに、ナルトがふと呼び掛けた。
相変わらずの大きな声。店に響くそれに「あ?」とかったるく振り返れば、そんなオレを見たナルトはどこか眩しそうに、あのさ、と目を細める。

「格好良いってばよ、それ」
「?」
「黒チョッキ。よく似合ってる」

不意打ちの褒め言葉に、思わず盆を持つ手に力がこもった。兄や死んだ父と同じギャバジンの店用のベストは、密かにガキの頃からのオレの憧れだ。
「……チョッキじゃねェって言ってんだろ」
背を向けたままの言い返しはぶっきらぼうな声になったが、それすらナルトにとってはまったく意に介さない事のようだった。見える方の目で、ほんの僅か振り返る。朝の日で明るくされたテーブルで、気の良さそうな顔がニシシと笑っている。
「ねー?やっぱり反比例してる」
戻ってきたカウンターで、オレにカカシがそんな事を言ってきた。は?と思わず真顔で聞き返すと、寝ぼけたようなタレ目がニヤニヤと更に目尻を下げる。
「ほらほら、まーたそんな顔しちゃって」
「……なに言ってんだ?お前」
「ベスト褒めてもらえて良かったね」
しれっと言われた言葉にハッと意味を解すると、頭のてっぺんまで一気に熱い血が昇るようだった。よくよく見てみればカウンターの常連達は皆同じ顔だ。どいつもこいつも型で判を押したかのように、にやにやとしたいやらしい笑いを浮かべている。

「――…るせえ!くだらねえ事言ってねえで、お前らとっとと仕事に行け!」 

カッとなってそのまま怒鳴れば、カウンターの内側からすかさず「サスケ!」という兄からの注意が飛んできた。
色付いた落ち葉で黄色く塗りつぶされた表通りを足早の人々が通り過ぎていき、「はいはい、行きますよ」とカカシ達が笑って席を立っていく。
人のいなくなったカウンター席には、綺麗に飲み干された五客のカップと、盛り上がっていた雑談の余韻だけが残された。消えていくそれを少しだけ留めおくかのように、カウンターの向こうで兄が緩やかに笑いながら、新しいコーヒーを淹れるためランプに火を灯す。
小さく息を吸い直し、再びオレは袖を捲ると、途中になったままだった洗い物に手を伸ばした。
店の中に響くのはナルトとキバの掛け合うような声だけになったが、それもナルトが出勤するまでの、あと十分だけの事だ。