【6-2】Boil Water

散らかり放題に違いない。
そう思い込んでいた部屋は、しかしポケットから見つけ出した鍵で入ってみると意外なほどきちんと片付いていたわけだが、辿り着いた時それに感心できる余裕は、オレにはなかった。
脱力した大男はただでさえ重いところへ、追い打ちをかけるようにナルトのマンションにはエレベーターがない。ぐったりとした両脇を兄と二人掛かりで支えながら、部屋のある四階までの階段を、息切れしながらのぼりきった。
ごりごりと靴の踵が引き摺られる音を響かせながら、階段と反対の端にある部屋までを歩く。パーテーションを挟んでリビングと床続きにある寝室は、部屋に上がればすぐにわかった。狭い玄関に難儀しながら靴を脱がし、騒ぐ猫をやり過ごしながら更に進む。寝室のベッドは起き抜けの形のままになっていたが、ひとまずその掛布団の上に転がされると、コートのままの身体は「うう、」と呻いては、またきゅうと丸くなった。
(き、きっつ……!)
はあはあと膝を着いたまま、しばし息を整える。初めて入る他人の家だが正直感慨もなにもなく、とにかく今は肺へ酸素を取り込むだけで精一杯だ。
「こら、まだ休むな。着替えを手伝ってくれ」
ついさっきまで心配そうな顔をしていたのに、違うとわかれば容赦ない。気が付けばどこからか部屋着らしきスウェットの上下を見つけ出してくると、兄はまだぐったりとしたままのオレに指示を出した。
え、着替えって、またこいつ持ち上げんのか?
とんでもなく重かったその身体の記憶に一瞬閉口するも、ほら、と促す声に仕方なく腰を上げる。
「オレがボタンを外すから、お前は背中を支えてくれ」
言われるがままベッドの上に膝でのぼり、そのまま横たわるナルトの頭の向こうへと回る。見下ろしたその顔はやはり苦しげではあったが、先程のような悲壮感はなかった。
硬いタイルからやわらかなベッドへ移れただけでも、かなり違うのだろう。アスファルトから起こした時には堪えるように食い縛られていた口元も、今はほどけて熱い息を吐いている。
(ん? これ無精髭か?)
その口元の下辺りでちくちくと顔を覗かせる、見た事のないそれ。それにふと気が付くと、オレはまじまじと目を凝らした。男性的な丸みを帯びた顎をうっすら彩るそれは、髪や眉よりもほんの微か色の濃い藁色だ。
へぇ…こういうふうになるのか。オレとは明らかに違うそれに妙に感心すると、ベッド下にいる兄から「おい」と呼ばれる。は?
「なにを見とれているんだサスケ、しっかり支えてくれ」
そう言われはたと顔を上げると、いつの間にしたものかナルトのワイシャツの前は下まできちんとはだけられ、そこにはスウェットのトレーナーを構える兄がいた。ぼんやりするな、という声に慌ててその背をまた支える。
頭からという指示に従い、ぐっと抱え上げるようにして上半身を持ち上げていると、兄はてきぱきとその脱力した腕からワイシャツごとダッフルコートの腕を引き抜いて、そのまま項垂れている金髪にすぽんとトレーナーを被せた。袖口から迎えにいく要領で、手早く両腕を通す。なんというか本当に、何をやらせても手際のいい兄である。よし、引くぞ。号令に慌てて再び持ち上げる腕に力を入れると、少しその尻が浮いたところで下敷きになっていたダッフルコートが、ズバッと引き抜かれた。つられそうになる背中を咄嗟に引き寄せる。なんだかどこかの映像で見た、テーブルクロスの一発芸みたいだ。
「こら、なに笑ってる」
思い付きに一瞬おかしさが込みあげたところを、すかさず兄に叱られた。密着した厚い背中からは、体温に立ちのぼるナルトのにおいがする。
「――よし。ひとまずはこれで」
着替えさせた身体を再び横にさせ、上掛けで覆う。ようやく病人に相応しい寝床が用意できたところで、兄はまた立ち上がった。
「そろそろ到着される頃だろうから、俺は下で先生をお迎えしてくる。その間お前はここで、うずまきさんに付いていてくれ」
あと、『サスケ』も。先生が来るまではまだ出すなよ。それだけ言い残すと、ベッドサイドに置いていた部屋の鍵を拾い上げ、兄は寝室を出ていった。少しの間をあけてから玄関の方で、重い扉が開く音がする。
「……だとさ。もうちょいそこで我慢だ」
バタン、と扉が閉まる音が廊下に響く。それを聞き届けて、オレは部屋の端に置かれたままのペットキャリーを振り返った。部屋に入った瞬間は出せ出せと大騒ぎしていた黒猫だったが、ひとしきり暴れてもオレ達が聞き入れないこと(なにしろナルトのあれこれで手一杯だった)から悟ったのか、今はじっと大人しい。けれど不満は不満で隠す気はないらしく、色違いの瞳はじとりとオレを睨んでいた。くるりと前に回された長いしっぽの先もぺしぺしと、キャリーの底を叩いている。
「まあ、あとでうまいもんやるから。そう怒るなって」
笑って手をのばし鼻先を掻いてやろうとするも、黒猫はぷいっと横を向いてしまった。やれやれと手を引っ込めてから、立ち上がったオレはようやく部屋の中を見渡してみる。白い壁、木目のあるフローリング、それなりに新しい空調設備。外観こそは古いけれど部屋に入ってしまえば、中は十二分に手入れの入った部屋だ。
(ふうん、一応ちゃんと自分でアイロンとかしてんのかな、あいつ)
部屋の一角、クローゼットと思わしき扉のノブには、ぴんと襟の尖った白いワイシャツが、ハンガーに掛けられぶら下がっていた。静かになった途端、カチカチと聞こえてきた音に視線を動かした。どうやら音の出処は、ベッドサイドにある置時計からのようだ。慌てていたし、普段に無いことをしていたことから随分と時間が経っているような気がしていたが、こうして時計を見ればまだナルトとの待ち合わせ時間から一時間も経っていない。
あんなに苦労したのに、となんとなく引き合わないような気分で文字盤から目を離そうとした時、ふとその横の壁に飾られた大判の写真にようやく気が付いた。写真?……いや、絵だ。キャンパスノート程の大きさの紙に描かれた、一枚の絵。描きだされているのは木々に囲まれた中に建つ、白い教会だ。立体感をもって重ねられた色は絵の具などを用いたものではなく、色鉛筆の軽さに近い。しかしどうも線の感じからすると、それとも違うような。
(この教会って、もしかして)
セミダブルのベッドの横、焦げ茶色の木製フレームに収められたそれに、年末ゲンマとしたやり取りが思い起こされた。訊かれた時にもそうだったが、教会の子という言葉自体にはうっすらだが記憶がある。確か以前なにかの折に、店でナルトが口にしていた言葉だ。ということはこの絵の教会は、ナルトの生まれ育った家だということだろうか。
と、しげしげと考え込んでいたところ、ふてくされてそっぽを向いたままだった猫がすいっと顔を上げた。続いて玄関の方に感じる人の気配――そうだ、先生は猫、大丈夫ですか? ええ、大好きだよそんなの! 大歓迎だよ――そんなやり取りが聞こえたかと思うと、次いでカチャリと扉が開く音がする。
「よかったな。予定よりもかなり早く自由になれそうだぞ」
聞こえてきた会話に、くるりと大きくなった色違いの瞳に向け目配せをする。ナルトはまだ目覚めない。先ほどまで聞こえていたカチカチという時計の音は、いつの間にかどこかにいってしまっている。


一度は呼びかけに応じ目を開けたナルトは、しかし診察が終わった途端、再びトロトロとした眠りに戻ったらしい。
「まあ元々すごく疲れていたみたいなところに、熱でかなり体力も消耗しているしね。今はなにしろ、ゆっくり休ませるのがいいよ」
寝室から出てきた医師は、リビングで待っていたオレ達にそう説明する。そうしてから持ってきた鞄を床に置くと、よっこらしょと言いながら用意された椅子に腰を掛けた。
千手先生はこの街に古くからある、個人医院の現院長だ。地元ではずっと先々代の開業以来、何かあれば真っ先に頼られている医院だった。また、その一方で子供たちからは、学校医としても馴染みが深い。もちろん地元の小中を出ているオレや兄さんもその内のひとりだ。小さい頃から学校の健康診断といえば、冗談好きで気風のいい、この先生がお決まりだった。
腰かけた医師の足元に、慎重そうな顔つきで黒猫が鼻をすり寄せている。
「ひとまずは問題ないとは思うけど、でも明日の朝までは様子をみてあげてくれるかい? もしもあまりに咳が酷かったり苦しそうになったりしたら、またすぐ俺のところに連絡するように」
いい、わかった? そう言って足元にきた猫を、先生はひょいと抱き上げる。ナルトの時と同じく黒猫にとって、この初老の医師は悪くないタイプのようだった。意外なほどすんなり大人しく抱き上げられる猫に、先生はンフフと鼻を寄せる。どうやら「大歓迎」というのは嘘偽りない本音だったらしい。
「わかりました。いつもすみません」
ホッとしながらも恐縮した様子で、椅子から立ち上がっていた兄は頭を下げた。しかし診察代について尋ねると、先生は破顔して「ああ、いいよいいよ。いつだって」と挟む。
「まあ彼が自分で起きれるようになったら、様子だけ見せにくるよう伝えてよ。カルテも作っときたいし」
支払いとか諸々はもう全部その時で、本人じゃないとややこしいこともあるからさ。すらすら言いながら、先生はまた猫を覗き込んだ。ほんと、ここエレベーターさえあればなあ。最後にそんなぼやきをこそりと混じえ、先生は猫の顎下を擽る。
「そうですか――ではそう伝えます。なにからなにまで、本当にすみません」
ありがとうございますと最後に兄は謝辞を述べる。そうしてまた先生と向かい合わせに座る様子を、オレは同じく部屋に置かれていたソファに座り眺めていた。ああ、そういえば君らと彼の関係性って、店のお客さんなんだっけ? ふと思い出したかのように訊いてきた医師に、兄は「ええ、まあ」と答えた。
「それがなにか?」
「いや、なーんか彼どっかで見た気がするんだけどさ。どうも思い出せなくて」
さっき本人に訊けたらよかったんだけど、まあ今まだそういう状態じゃなかったからさ。猫を撫でつつ、先生はそんな事をひとりぼやぼやと言う。と、くぐもった振動音を感じ、横を見た。隣の座面に置かれているのは兄の黒いコートだ。どうやらポケットに端末を入れたまま、先ほど脱いだのをここに置いたらしい。
「兄さん、電話」
知らせたオレに、兄は振り返ることもなく「ああ、いい。そのままで」と言った。
なんだか不必要なほど淡白な口調だ。着信を知らせる振動はしばらく続き、一度は静かになったけれどしかし数秒おいてから、諦めきれないかのように再び震え始める。
「一応相手だけは確認してみたら? 俺のこと気にしているようなら構わないから」
流石に見かねたのか、三度目の着信が始まったところで先生が口にした。
いえ、いいんです、相手もわかっているので。
兄は言う。今度は不自然なほどにっこりとした笑顔だ。なんだか覚えのある違和感に、ぴんとひとつの可能性がよぎる。
「……研究室?」
窺うように言えば、はたして兄は黙ってそれも無視をした。やっぱり。この人がこういう頑なな態度を取る場面なんて、そう多くはないのだ。
「研究室の人からだろ、なんで出ないんだよ」
何度もかけてきてるのに、大事な話かもしれないだろ。ソファの背もたれ越しに言い募れば、やがて根負けしたかのように深い溜め息を吐きながら、兄は静かに椅子から立ち上がった。ほんの僅か言い渋ってから、仕方がないといったようにオレを見る。
「別に大事な話とかじゃない。今日は都内で学会があったから――その後の、親睦会に誘われているだけだ。その話はもう前からメールで知っている」
行かないという返事も既に返している。表情を変えないまま、兄は淡々として言った。研究室というのは事故の前、兄がよく訪ねていた大学院の考古学研究室のことだ。もちろん大学四年生だった兄はそこの正式な一員ではなかったわけだが、どうも研究室訪問の機会があった際、教授含め研究員の人達からすっかり気に入られたという話だった。
その頃からなにくれとよく声を掛けて貰っていたようだったが、事故の後も変わらず、時折こうして連絡をくれる。
しかし兄はどれだけ勧めても、頑なに応じようとしない。
きっと今回も、同じだったのだろう。立ち上がった兄はそのままこちらに来ると、コートのポケットから呼び出しを続けているスマートフォンを取りだし、ためらいなく電源を切った。
「さあ、これでこの話は終わりだ」
出来すぎなほどに整った笑顔で、兄は静かになった端末を手にしたままコートを取り上げる。
まるで何もなかったかのような風情だ。
なんでもないような顔でまた自分だけ切り捨てる姿に、思わず背もたれを掴んでいた手に力が入った。いつもこうだ。ならばこちらはこちらで、考えがある。
「じゃあいい。だったらオレも、学校戻るのやめる」
立ち上がっての唐突すぎる宣言に、兄の笑顔が固まった。
……何を言っている? サスケ。
静けさを装った問いかけに、ぐっと睨みで返す。蚊帳の外に置かれた先生は、猫を胸に興味深そうな顔でこちらを眺めるばかりだ。
「なんでそうなる」
「なんでも」
「……あのな、サスケ。話を混同するな。お前の学校とオレの交友関係、同列において議論することからしてまったくもって意味がないだろう」
「知るかよそんなの。オレには学校行って友達つくれとかいう癖に、自分はしないとか納得できねえし。それならオレにだって自分の行動を選ぶ権利はあるだろ。だいたいがもう義務教育でもないんだし――それに猫の事だって結局は、言うことをきいたじゃないか」
だよな、クロ! いきなり話を振られて、抱きかかえられたままの黒猫はきょとんと眼を丸くした。猫……猫はもっと、関係ないだろう? げんなりとした口調で兄は言う。
「いいから、とにかく今夜はもう無しだ。第一うずまきさんの具合だってどうなるかわからないのに。ひとりでいて、また倒れたりでもしたら心配だろう?」
俺は今夜ここに残るから、お前は家に帰って明日に備えなさい。溜め息と共に、兄はくるりと背をむけた。結んだ髪の下、首の後ろあたりを軽く抑えながら、コートを抱えた後ろ姿が椅子に戻っていく。
「……わかった。ならここでひとりナルトについてる人間がいれば、問題ないってことだな?」
拒否を貫く背中に向け、オレは念をおした。
「オレがいる」
「は?」
「今夜一晩、オレがナルトについてる」
だから兄さんは早く電話を。焚きつけるように急かすオレに、振り返ったまま唖然として、兄は言葉を失った。
この人がこんな顔をするなんて、いったい何時ぶりくらいだろう。久々の表情にふと気分が上がり、頬が緩みそうになったのを堪えたところに「ごほん」というわざとらしい空咳が割り込んでくる。ずっと見ていた先生だ。
「――ま、心配なのはわかるけどな。でもたしかに弟へは友達作るよう言っておきながら自分は違うってんじゃ、そりゃあサスケからしたら納得できない話だろ」
な~、ネコチャン。同意を得るかのように覗きこんできた医師に、黒猫はスンと鼻を鳴らす。想定外のアシストに、兄はさらに絶句したようだ。
先生まで、という絞りだしたような呟きに、医師はにやにやと共犯者のような笑いを浮かべた。
コートを抱えたその腕が、脱力したように下がる。考えてみればあのコートも、元はと云えば父のものだった。重たい黒のロングコート。去年までの兄はもう少し軽くて丈の短い、深藍色のコートを着ていた筈だ。
「心配しなくていい。ひとりと言っても何かあれば、俺もすぐに駆け付けるから」
いいから、行っておいで。思い遣るような声に押され、兄は観念したかのようにスマートフォンを持ち直すと、静かにリビングを出た。こちらを気にして、部屋の外で話すつもりらしい。少し間を開けてから抑えた音で、玄関の扉が開けられるのが聞こえる。
「やれやれ、ようやく山が動いたな」
重い鉄の扉が閉まる音を聞き遂げると、医師はそう言って、座っていたダイニングチェアの背にもたれ苦笑した。ぎいっという木の軋みが小さく響く。……ありがとう、ございました。立ったまま小さな声で伝えたオレに、先生はちょっと驚いたように目を大きくする。
サスケ、そんなことも言えるようになったんだなあ! 仰々しい驚きに途端にムッとなったが、寸でのところで我慢した。先生は色素の薄い瞳で、なんだか感心したかのようにオレを見る。
「そうかあ、大きくなって」
「……」
「いや、けどまぁ、あれだ。イタチは昔から、子供扱いされなさすぎだったからな。あのくらいしてやって、本当はちょうどいいんだ」
子供を子供扱いしてやらなくて、どうするんだって話だな。そんなふうに言って、先生は笑った。オレからしたら兄は完璧な大人だが、この人の目から見ればそうではないということだろうか。でも不思議と、馬鹿にされたような気はしない。先生はにこにこしながら、ふたたび猫の顎下をせっせと掻いている。
「さて。それじゃあ兄弟喧嘩も落ち着いたようだし、俺もそろそろ行くかな」
ひとしきり掻いてもらったら、満足したのだろう。とうとう膝の上で丸くなりだそうとする猫に区切りをつけるように、先生は言った。
イタチが戻ったら、一緒に下まで降りるとするか。
そう言ってすっかり力の抜けてしまった猫を両手で抱き上げると、オレに向かい差し出す。
「しかしなんだな、やっぱ兄弟っていいな。俺のは姉さんだけど」
だらんと長くのびた猫を受け取りつつ、首を傾げる。知らなかった話にその顔を見上げると、そんなオレに医師はにやりと子供じみた笑いを浮かべた。
暖かそうな濃いグリーンのセータ―の胸を張りながら、先生は軽く腰を伸ばす。そういやちょうどお前たちと同じくらいの年の差だな。うちンとこの姉さん優しかったし、なんだかんだでいつも俺に甘かったけど。のんびりと懐かしむように言いつつも、しかし医師は最後に何故か辺りを憚るように見回すと、そっと声を潜めオレに言う。
「けど喧嘩の時は、そりゃあ恐ろしくてな――俺いまでも夢にみるもん。ほんと、一撃必殺なんだぜ。あのデコピン」


しつこいくらい「何かあれば連絡しろ」を繰り返し、兄は行った。
(……よし、異常なし)
規則正しい呼吸音を確認し、そろりとベッドを離れる。リビングとの仕切りは少し迷ってから、結局は握りこぶしひとつほど開けておくに止めた。
リビングに戻れば待っていたかのように、黒猫がドアの前に座っている。ニーニーという甘えた声に、よしよしと頭を撫でた。そういえば夕食がまだだった。思い出して持ってきた荷物をごそごそ探ると、すかさず察したのか猫はぐるぐるとまたすり寄ってくる。
「ほら。落ち着いて食べろよ」
ひと言添えて出すと、すぐさま黒猫は食事に飛びついた。はぐはぐという旺盛な音をたてて、あっという間に茶色いドライフードが消えていくのを見る。
オレも食事にするか。夢中な様子のピンと立った尻尾に、ぼんやりと思った。これだけは不幸中の幸いというやつだろう。夕方過ぎの訪問だからということで、今回もまた兄の提案のもと、簡単な弁当を作ってきている。本来はナルトの分であるが、この状況であればオレが食べて差し支えないだろう。もしもナルトが起きて何か食べるようなら、粥でも作ってやればいい。
(箸くらいは、借りていいよな)
なんとなく足音を忍ばせながら台所へ向かうと、足を踏み入れてすぐ手前の方に、個包装の割りばしが一纏めに集められているのを見つけた。コンビニや総菜店などのものだろう。ビニールや紙など、その包装には統一感がない。
まあいいや、これで。束の中から紙の袋に入った箸をひとつ摘まみ出すと、オレはまたテーブルに戻ろうとした。と、視界の端っこ、電子レンジの置かれた台の下。ごっそり積まれているのは多種多様なメーカーのカップ麺だ。
(なるほど。道理で汚れてないわけだ)
振り返ってみたキッチンの使用感のなさに納得して、ダイニングに戻った。いただきます。いちおう小さく、口の中で唱える。
ナルトの為に作ってきた弁当は、もそもそとしてなんだか想定していたよりも美味しく感じられなかった。まあこの程度ならオレの胃に収まるので、良かったのかもな。そんな事を思いながら、使い捨ての弁当箱を小さく畳む。
(さてしかし。暇だ)
早々にする事がなくなってしまい、オレは椅子の上で伸びをした。テレビでも借りて観ようかと思ったが、元々あまりテレビ自体が好きではない。ならば本はと壁際に設置されたシェルフを見に行ってみたが、どうも家主には読書の習慣はないらしい。棚の大部分を占めているのは殆どが鉢植えの観葉植物で、読み物といえば数冊の実用書(二冊はパソコン関係、残りのすべては猫に関する指南本だった)とちょっとしたフリーペーパー、あとはおそらく中高生向けと思わしき英語の辞書で終わり。空いているスペースにはたぶん癖なのだろう、しわくちゃなレシートや小銭などが乱雑に纏められている。なんとなく雰囲気から想像するに、咄嗟に出されたポケットの中身といった感じだ。
(? なんだこれ)
ぐちゃぐちゃと集められた一番下、やけに目立つものがあるのに気付き、オレは目を凝らした。しばし考えてから爪先でひっかけ、引っ張り出す。発掘されたのはラメ入りのショッキングピンクのカードだ。白抜きで書かれた文字にはこうある。『セクシーパブ イチャイチャパラダイス』。
(………………ふーん。)
なるほどな、と明確な知識はなかったが字面から店のおおまかな概要を察し、オレはそれを黙って元に戻した。こういうの行くんだな、あいつ。まあ別に好きにしたらいいけどな。そんなことを考えながら、紙屑の山から覗くピンクを見下ろし腕を組む。
「ンナーオ」
どこかで鳴く声に部屋を見渡すと、食事を終えた黒猫はやはり飼い主の様子が気になるのか、寝室への入り口の前でこちらを見ていた。まるい手の先がカリカリと、ほんの少し開けたままのバーテーションの戸を引っ掻いている。寝室へ入ろうとしたものの、幅が狭すぎて通れないらしい。
「入ってもいいが、起こすなよ」
言い聞かせながらもう五センチほど隙間を広げてやると、すぐさま黒猫はするりとそこへ滑り込んだ。フンフンと鼻をひくつかせながら、寝室内を確認する。そのうち勝手知ったる様子でひらりとベッドに飛び乗ったが、「あっ、こら!」とつい口に出す前に、そのまま猫は眠るナルトの足元の方で丸くなってしまった。うまくしたもので、ちょうどそこは開いたナルトの、足の間あたりだ。
……まあ、いいか。なんとなく彼らのこれまでの日常を感じ取り、隙間の広さは変えないまま、オレはそっとその場を離れた。
猫について思うことはまだあるが、しかしそれはそれとして、たしかに黒猫はここの家に馴染んでいる。悔しいが認めざるを得ない。
(……なにか、飲み物でも貰うか)
そこはかとない敗北感に、ふとそんなことを思った。コーヒー、があれば嬉しいが。しかしとりあえずは緑茶でもなんでもいい。ちょっと一息つけるものが欲しい。
足音に気を付けながら再び台所に戻ると、オレは使用感のないキッチンの天板周りを確かめ、そのままその対面の壁側に視線を泳がせた。並んでいるのは冷蔵庫とレンジ台、あとは脚にキャスターの付いたワゴンがひとつ。ワゴンの上段にはトースターが置かれているが、何故か食器庫はない。まさかとは思うが、シンク上の水切り棚(吊り戸からぶら下がっているタイプだ)に置かれた数点が、ここの全食器なのだろうか。湯は欲しいときに都度そこにある電気ケトルで沸かすというのがここの方式らしい。こんなにも簡素化されたキッチンはなんだか新鮮で、思わずあちこち観察してしまう。
とはいえ、あまり見過ぎるのもなと迷っていると、調理スペースに置かれた電気ケトルの影に隠れ、瓶がひとつ置かれているのに気が付いた。角ばったフォルムに、茶色の蓋。……おお、もしやあれは。我が家では完全に馴染みがなかったが、スーパーやコンビニで見たことがある。
(やはり。インスタントコーヒー……!)
感慨深く感じ入りながら、つるりとした瓶の感触を手のひらで確かめる。専門店であるうちでは当然これを用意していないし、逆に家では昔からお茶といえば日本茶が習慣化されていたので、購入されたのを見たことがなかった。掲げるようにして電灯に透かし動かしてみると、中で顆粒状の茶色い粉のようなものがサラサラと流れる。茶色のキャップは回すというより、半分外すようにして開けるようだ。少し手惑いながらもパクンと取れた蓋を取ると、中には更にもう一枚紙製のラベルが貼られている。ほう、二段階式防御か。感心するも、しかし中の紙ラベルには一箇所すでに破れが生じている。形と大きさから推測するに、ナルトが指でぶすりとやったのだろうか。
あちこち確かめながらも端の方に開けられた穴に鼻先を近付けると、ふわりと香ばしい匂いを感じた。すごい。確かにコーヒーの香りだ。まあうちの香りに比べたら雲泥の差なのは当然だが、しかし紛うことなきコーヒーの香りである。しかも思っていた以上に悪くない。
(――と言っても、味はきっとたいしたことないんだろ)
手にした瓶を眺めすがめつつ、さらさらと揺らす。ラベルの表示を読んでみても、これはやはり粉に湯を注ぐだけらしかった。いくらなんでも簡単すぎだ、そんなに簡単なことで良いものだろうか。意思をもって、その茶色い物体を睨む。それを証明するためにもここはひとつ試飲しかあるまい。敵状視察というやつである。
(電気ケトルって、これであってるよな……?)
初めて使う道具に戸惑いながらも、蓋を開けたところに水道水を注ぎ、コードのついた台に乗せる。本当は冷蔵庫に開栓済みのミネラルウォーターも発見したのだが、隣にあった牛乳の日付が恐ろしいものだったので、用心のため諦めた。この時点で店のコーヒーとはもう比べようがなくなってしまったが、致し方あるまい。カチンという音を立てハンドルについたスイッチを押す。オレンジのランプは点灯したが、その他の変化がないのに不安になっていると、少し経ってからシュウウといった泡が弾けるような音が中から聴こえてきた。どうやらこれで合っているらしい。ほっと息をつくと、横から「ニャー」という呼ぶ声がする。
「どうした。もう寝るのに飽きたのか?」
なんとなく勝ち誇るような気分で振り向くと、いつの間に起きてきたのか寝室で丸くなっていた筈の黒猫はすっかり目を覚まし、キッチンの入口でちょこんといた。たぶん台所でなにかしている気配に、自分もなにか貰えるとでも思ったのだろう。ンニャーオ、という催促するような声に、「わかったわかった。お前にもまたなんかやるからな」と笑って返す。
「でももう少しだけ待っとけ。先にこっちから」
言ってる間にまたカチンと音を立てて、オレンジのランプが消えた。湯が沸いたらしい。
ええと、カップ、カップ。口に出して呟きながら、水切り棚に置かれた食器に目を走らせた。皿、茶碗、いかにも麺類を食べるのに具合の良さそうな丼鉢。一番手前にはナルトが常用していると思われる、たっぷりと入りそうな大振りのマグもあった。
そうしてその奥にはほんのり華奢なネイビーの、マグカップがふたつ。
それらは使い込まれた食器たちのなかで、まだ来たばかりの新品なのだろう。手に取ってみるとカップの裏には、白いシールの欠片が剥がしきれず残ったままだ。
(……なんだ。わざわざ用意したのかよ、あいつ)
軽くて飲み口もちょうど良さそうなそれに、なんだかむずむずした気持ちのまま思わず舌打ちが出た。猫渡したらすぐに帰るって、言ってあったのに。そんな約束を思い出しつつも、用意されていた歓迎がなんともくすぐったい。
並んだカップからひとつを取って、おもむろに瓶の蓋を開けた。ラベルに書いてある分量はティースプーン山盛り1だ。開けられた穴からカップへサラサラとコーヒーの素を落として、かるく揺すって傾けて、だいたいこんなものかとけりをつける。目分量だが、まあ概ねあっているだろう。
「ニャアーン」
準備が整ったところ、また小さな鼻先に足元を小突かれた。すぐに爪研ぎの要領で脛の辺りをガリガリするものへと変わったそれに、「こら、ちょっと待てって」と適当にいなしながら、オレは慎重にカップへケトルの湯を注ぐ。
湯気がたつ。泡立ちながら満たされていく香りは、たしかにコーヒーのものだ。
……なるほど、これが。
悔しいが若干の胸の高鳴りさえも感じながら、キッチンに立ったままオレはそろそろと、片手で持ったマグカップに口を付けた、その瞬間。

「フ・ニャアーーン!」

突然の大きな鳴き声に、ぎょっと身が竦んだ。
ハッとして足元を見れば、頭を低く構えた猫。
次いで勢いよく跳びかかってきた一撃に、咄嗟に庇おうとしたマグカップの中身が、捻った動きにあわせ盛大に宙を舞う。
「ああっづーーーーー!!」
思わず出た大きな声に、今度は着地した黒猫がびくりとする番だった。庇うために体を捻ったお蔭か、幸いにも黒猫は無傷だ。しかしこちらは酷い。着てきたグレーのパーカーはたっぷりと琥珀色の液体を吸い、下のジーンズは腿の辺りまで斑模様になっている。
「お前なァ!」
勢いカッとなり睨みつけると、黒猫は一瞬たじろぐように前足でたたらを踏んだ。しかし彼には彼で引けない事情かあるらしい。トトトと数歩後ろへ下がると、なにやら促すようにこちらを見る。何度も繰り返し見る方向は、ナルトのいる寝室の方だ。……いけない、そうだった!
「ナルト?!」
床に零れたコーヒーもそのままに駆け付けるも、寝室のベッドはもぬけの殻だった。ガタガタという音にそちらを向く。方向から察するに、どうやらナルトは廊下にいるようだった。緊張を押し殺しながら、薄暗い廊下に出る。開けられている扉はトイレだ。けれどよくよく目を凝らし確かめてみると、どうも中で用を足している感じではない。
(……なんだ?)
おそるおそる覗き込む。そこにいたのは橙色した灯りに照らされ便器に向かってえずく、ナルトの姿だった。
よく眠っていたところ、気分が悪くなり目が覚めてしまったのだろうか。懸命に吐きたそうにしているが見る限りでは気持ちばかりで、うまく胃の中のものを吐き出ずにいるらしい。
「大丈夫か?」
後ろからそっと声をかけると、前屈みに丸くなっていた背中はぎくりと驚いたようだった。えっ…さすけ? ぐちゃぐちゃに潤んだ青い瞳が振り返る。どうも倒れてからの記憶が混乱しているらしい。ずっと下を向いていたせいかその顔色は、赤らんで腫れぼったくなっているように見える。
「なんか…きもちわる……」
訴えている傍からこみ上げてくるらしい。掠れた声で言い終わる前に、ナルトは急いで顔を背けるとまた屈みこんだ。うええ、という声だけは出るが、実際の吐いたものは見えない。
……吐くだけの気力が、もう無いのだ。かといって眠るにも気分が悪すぎて、眠れないのだろう。
どうにかして出せてしまえば、きっと楽になれるのに。切ないほどにわかるその感覚に、なんだかこちらまで苦しくなるようだ。
「ごめ……みなくて、いいから」
消え入りそうな声で謝り、ナルトはうつむく。ぐったりと途方に暮れた様子にいつでも連絡しろと言ってくれた医師の顔が思い浮かんだが、しかしその前にふと、いつかの記憶が頭をよぎった。……状況としては少し違ってはいるが、試す価値はあるかもしれない。思い出したのは、父についての記憶だ。多くはないがたまに商店街の仲間内などで酒を飲んできた時、次の日ひどく気分が悪いと言って、寝込む時があった。大概は母に呆れられつつ薬を飲んだりして治めていたようだったが、年に数回はやはり吐くに吐けないような状態になっていたものだ。そんなとき、父がどうしていたか。
「……お前、自分で吐くやり方、わかるか?」
一応尋ねてみるも、ナルトは思ったとおり、どんよりと曇った目で水面を見るばかりだった。
オレにできるだろうか。そうは思ったがいよいよ限界な様子のナルトに、深呼吸をして覚悟を決める。たぶん大丈夫だ。ポイントは興味本位で一度教えてもらったことがあるから、なんとなくわかる。
「こちらを向いてみろ、ナルト」
後ろから呼びかけてみるも、ぐちゃぐちゃになっている自分の状態がわかっているのか、蹲ったナルトはすぐには振り向かなかった。
いいから、大丈夫だから。丁寧にまた重ねれば、その声にようやく気持ちが動いたのだろう。ぱさぱさになってしまった金髪はおずおずと動き、鼻を赤くしたナルトとようやく目が合う。
「……嫌だろうが、少しだけ我慢しろ」
言いながら、軽く腕をまくる。そのまま濡れている前を庇いながら、背中から抱きつく形でその頬に触れるも、ナルトはぼおっとするばかりで要領が掴めないらしかった。
「くち開けろ」と伝えその目を覗いたが、濡れた青は惚けたようにオレの顔を見上げるばかりで、やはり動こうとしない。仕方なく厚みのある下唇をそっと親指の腹で撫でてやると、ようやく誘われるようにしてその上下が開いた。
うすく開いた唇に揃えた人差し指と中指を、閉じないよう少しだけ潜らせる。そのままゆっくりとナルトの顔を前に向かせ、先ほどまでのように水面へ、すこし傾けさせた。
慎重に奥へと進めていく指に、ぬるりと唾液が絡む。
やがてさぐりあてた熱い舌の根を、オレは二本の指先で、そっとおさえた。
いくぞ、と金髪に埋まる耳元で囁く。静かに加える力――ぐうっという呻きに、触れている背中が震える。
「――げ、エッ…――!」
せりあがってきた気配に成功かと思った瞬間、強い力で後ろへと振りほどかれた。
ゴツンという尻が床を打つ衝撃に一瞬顔が歪んだが、しかしあっちはそれどころではないらしい。向けられた広い背中は大きく波打ち、やがて間をおかずしてナルトによる、派手な嘔吐の音が聞こえてくる。……やれやれ。これで少しはすっきりするだろう。
「なんだ。そんなところに隠れていたのか」
手を庇いつつ立ち上がり、首を巡らすと、こちらは心配しつつも音とにおいのせいで近寄り難かったのだろう、開けっぱなしになっていたリビングへの扉の影から黒猫が不安げな様子でこちらを窺っていた。
そんな彼にもう大丈夫だと投げかけてやりつつ、やはり記憶を辿りながらキッチンから持ってきた水で口を濯がせ、濡らしたタオルでナルトの口許を拭ってやる。そこまでくれば、ナルトはかなり楽になってきたらしい。とはいえそうなったら今度は後回しにされていた眠気が一気に襲ってきたらしく、肩を貸してやりながら一緒に寝室へ戻った途端、自らもぞもぞとベッドに潜り込んだかと思うと、すぐに眠りに落ちてしまう。
まあいい。こいつはこれで、ひとまず大丈夫だろう。
それはさておき。
(問題は、こっちだな)
見下ろした自分の様相に、遅れてきた溜め息が漏れた。まあ着替えは兄に連絡しておけば、あとでここに戻ってくるとき家から持ってきてもらえるだろう。とりあえずそれまでを考えればいいわけだが、しかしこの濡れた状態でずっといるのは何とかしたい。これでは猫を抱くことさえままならないし。
(そうだ。そういえば)
ふと思い出しオレは再び寝室へと戻ると、静かに中へ入り、目当てのものの前に立った。見下ろしているのはクローゼットの取っ手にぶら下げられたワイシャツだ。ナルトは明日休みだと聞いているし、これならば借りても支障はないだろう。
「う、う~……」
薄暗いのを幸いにその場で着替えていると、枕元の方からまたもぞもぞと、ナルトが身じろぐ気配がした。
前のボタンを留めながら、そろりと近付く。顔を覗き込もうとした瞬間いきなり「さすけ」と呼ばれ、思わずどきりとなった。
さすけ、さすけと乾いた唇は呼ぶ声を重ね、出された手は上掛けの上をなにやらさぐっている。あまり深く考えることなく彷徨う右手にそっと触れてやると、あっけないほど簡単にその動きが止まった。
「……さすけ」
安心したように囁く声が、熱に枯れてやけに甘く聴こえる。
ナァン、という返事に足元をみると、そこには闇に気配を紛れさせてきたのか黒猫が音もなくやってきていた。……なんだ。サスケってお前の方のことか。勘違いに気が付いたオレをよそに、黒猫はひらりとまたベッドに飛び乗ると、鼻先を器用に使いさっさと布団に潜ってしまった。なるほど。具合がよくなってくれば、遠慮は無用ということか。
(まったく。紛らわしい名前つけやがって)
なんとなく気まずくなり触れていた指先を引こうとすると、なにを思ったか突然、ナルトの手がはっしとオレの手を掴んだ。揺らしても捻ってみても、その手は離れない。終いにはベチベチと叩いてさえみたが、呆れたことに眠ったままのナルトは、頑として力を緩める気がないらしかった。
どういうことだ、これは。咄嗟にその手の主を睨んだが、男は一向に目を覚ます気配がない。ぞくりと床からの冷えに肌がそばだつ。予定ではこの後は暖房のあるリビングで、夜を過ごそうと考えていたのに。
「ナーオ」
不意に鳴き声に呼ばれ顔をあげると、上掛けの隙間から顔を出したふたいろの瞳が、じっとオレを見詰めていた。
出てきた黒猫はなにもしない。けれどそのうちにちょんと揃えたまっくろな前足に顎をのせたかと思うと、まるでオレに向け見せつけるかのように、悠々とした仕草でふたたび眠りはじめた。優越感に満ちた薄目が、ちらりとオレを見る――なるほど、たしかにその場所は、文句なしの心地よさなのだろう。非常に不本意ではあったがひんやりとする床の上で、猫に見られながらむうっと考える。
「まあ――不可抗力、だしな」
わざわざ口に出して言うと、オレはそおっと掛布団の端の方をめくった。少し迷ってから履いていた靴下も脱ぎすてると、おっかなびっくり僅かに空いているナルトの隣に、足先から静かに潜りこむ――思った以上にあたたかい。猫のふわふわと、そして眠るナルトのしっかりとした体温。
「くそ、ナルトのくせに」
想像していたよりずっと心地よかったそこに思わず毒付くも、黒猫はうっとり目を閉じるばかりだった。知らんぷりの鼻先を、軽く掻く。チラと見た時計はもう0時過ぎだ。一瞬ずっと見ていなかったスマートフォンを思い出したが、ふうっと息をつけばなんだか、色々がどうでもよくなってくる。
(まあ、いっか……)
ゆっくりと目を閉じれば体中にじんわりと、なだらかな疲れが巡ってくるようだった。
隣からかすかに聞こえてくるナルトの寝息。
深く安らかに繰り返されるそれが、だんだん、ゆるやかに、遠くなっていく。


*****


(――どどど・どーゆーことだってばよ?!)
擦り寄ってきた確かな体温に、混乱はいよいよ頂点を極めた。
サスケ? え、なんでサスケ?!
ぐるぐるする記憶を必死で手繰り寄せる。だけどそれらはあまりにも取りとめなく、そして曖昧すぎる記憶たちだった。ていうか何なのこのめちゃくちゃ可愛い生き物、どうしたらこんなん育ったの?! そんなことを考えてる間に、また細い脚がするりとオレの腰に絡む。……いずれにせよこんなのに張り付かれてたら頭なんてまわりっこない。いや絶対無意識なんだ。無意識なんだろうけど! 

『コン・コン』

不意を打つようにして玄関のドアがノックされたのは、まさにそんな処理しきれない情報に頭が焼け落ちそうなる寸前の時だった。コンコンコン、と今度は三回。「サスケ?」という知っている声に、転げ落ちるようにベッドから出る。ヤバイ。なんでやばいとか思っちゃうのか意味わからないけど、でも何故かすごくヤバイ気がする。
コンコンコン、と尚も叩かれるドアに、オレは咄嗟に眠る少年をばさりと上掛けで覆い隠した。うわっ、という声が微かに聞こえた気もしたが、もつれる足でとにかく玄関へ向かう。
のぞき穴に屈み込む。声の通り、いるのはやはりあの青年だ。
「すまないサスケ、結局こんな遅くーー…?!」
覚悟を決め施錠を解いた途端、どういうわけか飛び込んできたイタチは最初迎えに出たのがオレであることに驚いたようだった。記憶にないがこちらの彼も、どうもここへ来るのは初めてではないらしい。鍵を開けた瞬間こちらの招きを待たず飛び込んできた青年に、オレはわからないながらもそんな事を察する。
最初こそ驚きに目を丸くした青年だったが、しかしそこからは流石の取り戻し方だった。
「……すみません、うずまきさん。早朝だったので」
チャイム、よくないかと。辺りを気にした申し開きに、ようやく今がまだ早朝の時間帯であることを知る。言われてみればイタチの背後に見える空は、たしかにまだ薄明けの藍色だった。手にはコンビニエンスストアのものと思われる袋。中にはスポーツドリンクや、レトルトの粥などが入っているようだ。
「――…てっめ、ナルトォ!」
お互い面食らったところで動きを止めていると、寝室から大きな声が聞こえてきた。ヒトが寝てるとこ、いきなりなにしやがんだ! 朝からすこぶる機嫌の悪そうな怨言に、次いでドスドスという怒った足音が近付いてくる。あっ…まずい。まずいってば今は。咄嗟にそう思ったがこの兄の手前、為すすべもなくオレは立ち尽くす。
「……あれ、兄さん?」
焦るオレをよそに寝室から出てきたサスケは、イタチを見た瞬間、一瞬驚いたような顔をしたがすぐさま平然とした様子でその名を呼んだ。白いワイシャツから細い脚が、にょっきりと出ている。先程のベッドでは気が付かなかったがよく見るとオレの服は、彼が着るにはサイズがかなり大きかったらしい。ちらちら見え隠れする内腿もさることながら、オーバーサイズのせいで必要以上に広がってしまっている胸元にまで、なんだかどぎまぎしてしまう。
「おはよう、兄さん」
すんなり言った彼は、そのまま何の頓着もない様子で、のびのびとしたあくびをひとつした。
「おはよう、サスケ」
イタチも言う。そうしてから静かにまだ開いたまま玄関の扉を閉めると、「それで、その恰好は?」というじつに自然な問いかけをした。わかる。オレもそこめちゃ聞きたい。外さないポイントになんだか手に変な汗をかきながら、オレは固唾をのんで答えを待つ。
サスケはすぐには答えない。
しばらく黙ったまま長く考えていたようだったが、やがて結局ぜんぶ面倒になった様子で、
「あー……まあ、色々あって」
と答えうなじを掻く。……いや、その色々が知りたいんだけど。つっこみたかったがまたひとつあくびをした彼は、もう何も話す気がなさそうだ。
「色々ってなんだ」と不甲斐ないオレと違い、更に追いかけてくれたイタチと並んでいたオレだったが、そんなオレをふいにサスケがじいっと見詰めてきた。というか、どちらかと言えばこれは『観察』だろうか? 立っているオレの頭のてっぺんから足の先までもをじろじろと眺めると、ぼさぼさの寝ぐせ頭のまま少年は納得したように頷き、やがて「…よし」と小さく呟いては奥へ引っ込む。よし?
「……なんというか、すみません。たぶん、色々と行き届かなかった部分があったかと」
そう言って弟の様子に頭を下げてきたイタチに、首を傾げながらオレは振り返った。行き届かないって、どういうこと? 純粋に訊ねればいまひとつ話が掴めていないオレに、ようやく彼も気が付いたようだ。
「どこまで覚えていらっしゃるか、わかりませんが――昨夜うずまきさん、具合が悪くて倒れたんです。待ち合わせの場所で」
それで昨夜はサスケが、うずまきさんに付いていて。そう説明してくれたイタチだったが、何故か最後の方はどこか申し訳なさそうに言葉を濁した。しかし聞きながらようやく、オレの方はおぼろげだったものが筋立ってくる。そうだった、オレは昨日職場にいる時から具合が悪くて――そのあと待ち合わせのエントランスで、たしか倒れて。うろ覚えだけど、医師だという男性にも診てもらった気がする。そこからは休んでいたのだけれど、寝ていたら途中でひどく気分が悪くなって、それで――…
「帰ろう、兄さん」
少しずつ蘇ってきた記憶に処理がようやく追いつきそうになった時、ややあっとしてから、再びサスケが着替えた姿で戻ってきた。パーカーにジーンズという組み合わせだが、見ると前側がどうも汚れている。黒っぽい染みは何かの液体だろうか。すでに乾いてはいるようだが、パーカーの胸下の辺りから下のジーンズの腿までがどうにも目立つ。
「どうしたんだ、それ」
戻ってきた弟に少し驚いた様子でイタチが訊いたが、サスケはやはり「べつに」というばかりだった。あっけに取られているオレの前で手にしていたスタジアムジャンパーを羽織ると、頓着することなくさっさと前を閉める。なるほど、たしかにそうしてしまえば、染みはあまり目立たない。一瞬感心しかかったがそうは言っても、しかしジーンズの方は誤魔化しきれないだろう。
「あの、服。オレの着てくってば?」
咄嗟に声をかけると、靴を履こうとしていたサスケは僅かに動きを止めた。しかし、
「いや、いい。お前のサイズ合わないし」
そっけなく返された言葉に、そ・そっかと引き下がる。まあそうだよな、ワイシャツであれだけ差があるんだから。実例に納得はしたけどなんとなく納めどころがなくて、ついもぞもぞと玄関先で手を揉んでしまう。
所在なく靴紐を結ぶ手元を眺めていたオレだったが、しかし紐を結び終えると、サスケは小さく「…けど、」と呟いた。
「また時々、ここに来てもいいか?」
そう尋ねながら下から仰ぎ見てきた彼に、思わず惚けたように口が開く。えっ――…い、いいに決まってんじゃんか、もちろん。いつでもいいに決まってる!
「なっ…なんで?」
信じられないほどの嬉しさに思わず問いが口を付くと、サスケはじっとオレの顔を見詰め、そうしてふっとさらに後ろへと視線を移した。まあまた、コイツに会いたいし。そう言って手を伸ばすと、いつの間にか出てきていたのか見送りにきていた黒猫が、ニャアと鳴いて頭を差し出す。あ。猫ね。
「あと」
ほんの少しだけ肩透かしをくらったような気分になったオレだったが、すり寄ってきた猫を名残惜し気に撫でていたサスケは、そのうちにまた小さく呟いた。
続きに首を傾げるオレへまっくろな瞳が、ちらと視線を上げる。
上目遣いのその顔。すっきりと短くなった髪が、清々しい若さにやはりよく似合っている。
「……せっかくのカップも使われなくちゃ、意味ねえからな」
咄嗟に意味がわからずぽかんとするオレに、ゆっくりと立ちあがったサスケは唇の端を上げ、可笑し気に目を細めた。
そうしてから「じゃあな」という挨拶もそこそこに、少年は扉を開けさっさと出ていく。
カップ? カップってもしかして――キッチンに用意していた、あれのことだろうか。
「ちょっと待て、サスケ!」
ようやく思い当たった話に頬が熱くなってくるのを感じていると、唐突にイタチの呼ぶ声で意識を戻された。帰りこそ弟に先を行かれた彼だが、やはりそこは『そつ』がない。焦ってはいたようだがきちんとオレに向き合うと、
「すみません、またすぐにご連絡します。とにかく今はお大事に」
そう言っては手にしていたコンビニの袋を速やかにオレに渡す。翻る長いコート。なんというか、どこまでいっても手落ちがない青年である。

「ニャアオ」

足元に絡まってきたこそばゆい気配に、ほとんどあっけに取られていたオレは、はたと下を見た。
見上げてくる黒猫を、ひょいと片手で抱き上げる。渡されたコンビニの袋はずしりと重い。中を見ればスポーツドリンクや粥に加え、大きな果物ゼリーなども入っているようだ。
(きょうだい、かあ……)
閉じてしまった玄関の扉を静かに開け、猫を抱いたままサンダルをひっかけ、誰もいなくなった廊下に出てみた。
藍色だった空にはいつの間にか朱鷺色が混ざっている。眠りから覚めつつある街は穏やかな影に沈んで、残り僅かな時間を知りながら、ゆるゆると静かにまどろんでいるようだ。