【6-1】Boil Water


(………は?)

待たされた挙句、ようやく現れたかと思えばいきなりその場で崩れ落ちた大きな身体に、状況が把握できないままオレは声を失った。
見開いた視界に映る光景。
冷えたタイルの上で横たわる長身は、うつ伏せになったままぴくりとも動かない。

(は? いや……え?)

息を止めたままの心臓がばくばくと煩く鳴って、酸素の足りていない頭はこの今の状況にろくに付いていけなかった。いや、まさか。そんな――いくらなんでも。違うに決まっていると頭では考えるのだけれど、記憶に深く刻まれたそれがしつこく警鐘を鳴らすのが止められない。
そう簡単に、【それ】は訪れたりしない。
解ってはいるのだけれど、しかし【それ】が訪れる時には誰にも、どうにも止められないという事も知っていた。
脳裏に蘇ってくる夏の記憶。放り出された路上、漂うガソリンのにおい。打ちつけられた身体はどこもかしこもが燃えるように熱く、腫れあがった関節はぴくりとも動かせなかった。這いつくばった視界に広がる雨上がりの路面は、まだ黒々と濡れている。真夏の太陽の光はすべてに降り注ぎ、きらきらと跳ねまわるその凶暴な眩しさに、思わず目を閉じかけたその瞬間――…

「――フ・ナァーオ!」

想定外の展開にフリーズしたオレを、しかし再び呼び戻したのは足元からのひと声だった。プラスチック製のペットキャリーの扉部分、格子になっているそこに見えるのは、ピンと尖るように立てられた三角の耳と、見張られたオッドアイの必死な光だ。
猫の目から見てもこの非常な事態は伝わったのだろう。飼い主の一大事に、今すぐここから出せとばかりに黒猫はニャアニャアとキャリーの中で騒ぎだした。内側に爪を立てているのか、実力行使とばかりにがたがた揺れては喚きたてる黒猫に、ようやくハッとなっては「ばっ…バカ、ちょっ、やめろって!」と慌てて止める。
(そうだ――ンなわけねえだろうが)
落ち着け、と自分に言い聞かせ、深く息を吸った。絞るようなまばたきを一度だけぎゅっとする。
そうしてから吸った息を短く吐くと、気持ちを入れ直すかのように暴れる猫をペットキャリーごと両腕で抱え上げ、スニーカーの足でタイルを蹴った。ぐったりとする大きな身体の横、急ぎ身を屈めキャリーを下に置くと、倒れたままの横顔を確かめる。
まだ少しこわばりの残る指先でその口元を隠すマスクをそっと外せば、そこにはふぅふぅと浅く速いけれど、確かな呼吸がされているのが見て取れた。
――…クソが。驚かせやがって。
安心する半面、なぜか舌打ちも付けたくなるような気分で思わず腹の底から息を吐く。しかしふと思いたち少し伸びた金髪のかかる額に目をやると、曲げた指の背でそっと、その米神あたりに軽く触れてみた。
熱い。それも、ちょっとない熱さだ。

『ピルルルル!』

異常な体温に一瞬怯んだオレの耳に、今度飛び込んできたのはスマートフォンの甲高い電子音だった。まるで共同戦線でも張っているのかとでも言いたくなるような矢継ぎ早のせっつきに、混乱する頭を押さえそれでも表示された名前を見る。兄だ。
『サスケ?』
立ち上がりつつ急ぎ出ると、電波に乗って届けられた息遣いに、ついほっと息が漏れた。
どうだ、うずまきさんとはもう落ち合えたか?
たぶん早足で歩いているのだろう、そう尋ねてくる声は、ほんの少し息が短い。そもそも今日ここに来る手筈になっているのは、最初からオレだけではなく兄もだった。黒猫を連れて一緒に出たはいいが、途中で忘れ物(ナルトが用意したクロの食器だ)に気が付き、一旦家へ取りに戻るからとオレを先に行かせたのである。
『すまないな。もうじきにオレも着くから、うずまきさんにそう伝え』
「兄さん、ナルトが」
ナルトが倒れた。話途中でも告げると、向こうで兄が呼吸を抑えたのがわかった。声色だけでオレからの急ぐ思いは伝わったのだろう。一瞬黙った兄はすぐさま落ち着き払った声で、『今どこだ? うずまきさんの部屋か?』とだけ訊いてくる。
「いやまだ――下のエントランスで待ってたら、いきなり」
『わかった。すぐ行く』
そこで待て。変に乾く喉での報告に短く応えると、そのままふつんと兄は回線を切った。虚ろに響く間延びした電子音。キャリーバッグ足元の猫は出ることが叶わないのは悟ったようだが、だからといってじっともしていられないらしい。狭いキャリーバッグ内でぐるぐると、行きつ戻りつを繰り返している長い尾を目の端に捕らえつつも、再びオレはグレーのタイルに膝をつく。
「おい!」
声と一緒に手で揺さぶるも、はじめナルトは反応しなかった。一瞬迷ってからもう少し強い力で、呼びながら肩を押してみる。するとようやくそれが届いたのか、ぴく、と金の睫毛がかすかに震えた。ゆるゆるとした緩慢な仕草で、その瞼が開かれる。青い瞳は靄がかったようにぼんやりとはしているが、それでも一応それはしゃがみこむオレがわかったようだ。
「――…さす、け?」
眉を顰め、ナルトは小さく呻いた。酷い掠れ声だ。そのままゲホゲホと、厚みのある身体が苦し気に咳込む。
「……お前それ、風邪か?」
端的に尋ねると、咳込みから戻ったナルトは自分の咳で頭が揺さぶられたのか、先程よりもさらにぼおっと目を潤ませオレを見た。
たぶん、…わかんないけど。かさかさの声が、弱々しく答えを返す。
「マスク、いのちゃんが、くれて」
それだけ言うと、ナルトは再び咳込みに陥った。重ねるごとにどんどん掠れて擦り切れそうになっていく咳の音が、真冬の空に吸い込まれていく。悪寒も感じているのだろうか、ようやく咳の止んだ大きな身体は、自分で自分を抱き締めるかのようなポーズになると、やがて地中の虫のように丸くなり目を閉じてしまった。グレーのタイルは埃こそ落ちてはいないが、決して病人には長く寝かせておくには相応しくない場所だろう。
(どうする、こういうのって医者とか――救急車とか呼んだ方がいいのか?)
じわじわ寄せてくる焦りに、オレは思わず奥歯を噛みしめた。
そりゃあ現状みる限り風邪だと思う。風邪だとは思うが、しかしその程度はかなり酷いものに思われた。軽く見て放置した結果、もしも違ったら――インフルエンザだとかなにか他の特別な病気とか、重篤な状態に陥ってしまうようなものだったら。丈夫なだけが取り柄だとナルトはいつも笑って言っていたけれど、だからといってそれに頼りっぱなしというわけにもいかないだろう。とはいえこれが救急車を呼んでいいほどのことかの判断も、正直オレにはすぐに判断がつかない。
「サスケ!」
呼吸は、意識は確認したか? 実際本当に近くまで来ていたのだろう。もう着くという言葉通り回線を切って程なくして到着した兄は、走ってきたその足で倒れるナルトの横に跪くと、待っていたオレにまず尋ねた。息はある。意識も、一応。答えるオレの固い声に耳を傾けながら、兄は素早く倒れているナルトの全身を目で確認している。
「――ただ、熱が」
同じくアスファルトに膝を着いたままぽつりと付け足したオレに、すぐその額を手のひらで確かめた兄は途端にその眉を険しくした。
「確かに、これはよくないな」
そう言ってナルトに小さく断りを入れると、腕にはめた時計を素早く確かめ兄は立ちあがる。
「サスケ」
呼ばれるがまま顔を上げると、膝をつくオレに兄は「ちょっと病院に電話をしてくる」と言った。この時間ならば、まだ診て貰えるかもしれない。手際よくてきぱき進められる話に、黙って頷く。迷っていたオレとは大違いだ。
「少し待っていてくれ」
そう言って兄はコートの内ポケットからスマートフォンを出しながら、エントランスを出ていった。こんばんは。お世話になっております、うちはですが。人気のないマンション前の道にそんな科白が響くのを、頼もしい思いで聴く。話している様子から、おそらく相手は同じ町内にある個人医院であることが窺えた。内科と小児科を併設しているそこは規模こそは小さいが、地元では信頼を集めている院だ。うちではオレや兄はもちろん、祖父の代からずっと家族で世話になっている。
(……こいつ。こんなに具合が悪いなら悪いって、なんで先に言ってこなかったんだ)
ぐったりとした横顔は動かない。普段よりぱさぱさと伸びっぱなしになっている金髪に、あらためて隣に腰を落ち着けながら、オレは思った。直前でも連絡すればそれで良かったし、なんなら別に、もうしばらく猫を預かっても構わなかったのに。親切半分、でももう半分には複雑な思いを抱きながら、ちらりと横に置いたキャリーから覗く黒い鼻先に未練混じりの視線を送る。
「――…ぅ」
かすかな呻き。乾いた紙の表面を掻いたようなそれに、はっとして再び視線を戻した。
見れば青い顔をしたナルトがほんの少しだけ顔の向きを変え、うつろな目付きでこちらを見上げている。
「大丈夫か? 待ってろ、いま兄さんが病院に連絡しているから」
そう告げるも、半分閉じかけた青い目は朦朧としたままだった。咳こそ止まったようだが、それにしても酷い顔色だ。ぶるぶると寒そうに震える肩に、思わず着ていたスタジアムジャンパーを脱いで急ぎ被せる。この程度では気休めにもならないだろうが、無いよりはマシだろう。
と、乗り出した身体を戻そうとしたところで、着ている長袖の脇下辺りを引っ張られる気配がした。首を傾げつつ下を見る。白いマスクの下、ナルトが何やら唇を動かしている。
「なんだ、どうした」
「……ま…」
マスクで覆われた唇は不織布の下ではくはくと、尋ねたオレに対し、何か伝えようと動いたようだった。しかし嗄れた喉は声を出すのさえもう辛いのだろう。か細い言葉を聴きとるべくその口元に耳を近付けると、前かがみになったオレにナルトが「あた、ま」と囁くように言う。
「頭? 頭が痛いのか」
返したオレに対しナルトは否定を示すように少し睫毛を伏せると、そっと服を掴んでいた手を外し、代わりにそのマスクを僅かにずらした。現れた色のない唇がパクパクと形を変える。察するに言葉はどうやら、二文字らしい。『か』・『み』…ああ、髪、か?
「……オレのことか?」
絞り出された言葉にようやく合点がいくと、ナルトは嬉しそうに小さく頷いた。
そうしてぼやけた青い瞳は潤んだままオレの顔を見上げると、まるで眩ゆいものでも見つけたかのように、ゆっくりとその目が細められる。

「――…うん。いい」

さいこう、と。熱で枯れた声は動きだけでほとんど音にはならなかったが、見せられた笑顔はじつに満足げなものだった。
戻されたマスクの内側から、カサカサの溜息が最後にかろうじて聞こえる。そうしてオレを見ていた空色はぱたりと瞼を閉じると、今度は完全に落ちたまま動かなくなった。
沈みくぼんだ目の下に、上からのしらじらとした照明の明かりが深い影を落とす。
月のない今夜、ナルトの掠れ声が消えてしまえば、あとはもう冷えたエントランスには尻切れとんぼな沈黙が漂うだけだ。――…っていや待て。なんだそれ。

(……ど、どうでもいい……! )

バッカじゃねえのかこいつは! わざわざ残された果てしなく無駄なメッセージに、一瞬ぽかんとさせられたオレだったが理解するにつれて、徐々にむかむかしてきた。 髪だァ? それがどうしたってんだ、ンなもんこんな時にわざわざ言うことか。そう思っては奥歯を噛みつつ、再びの気絶に陥った巨体を見下ろす。こういうところだ、こういうところ。こいつのこういう、いちいち無駄すぎるところに、オレはどうしようもなく苛つくんだ。
「すまない、待たせたな」
戻ってきた声に振り返る。電話が終わったらしい兄は端末を片手に、エントランスに入ってきたところだった。
よかった、ぎりぎり間に合った。ディスプレイを片手で操作しつつ、兄はホッとした様子で説明する。千手先生、ちょうどこれから訪問診療の患者さんのところへ向かうらしい。事情を伝えたらついでだからと、ここへも寄ってくださるそうだ。
「そういうわけだ、サスケ。ひとまずはオレ達でうずまきさんを部屋まで――」
言いながら手早くポケットにスマートフォンを仕舞った兄だったが、そこでようやく顔を上げた途端、ぴたりと動きを止めた。
じっと観察してくるまなざし。遠慮のないそれに思わず「…なに」と呟けば、そんなオレに兄はそっと、気遣わしげに眉を顰める。

「やけに赤い顔をしているな、サスケ。まさかお前も熱か?」