【5-2】Maturing

(くそ、なにかといえばやたら子供、子供って……!)
繰り返し思いながらも、速くなった足のまま近くのコンビニまでの道程をイライラと行く。そりゃあすんなり聞いてもらえはしない事くらいわかっていたが、しかしそれでも容赦ない返答だった。
オレだってナルトがクロの事を可愛がっているのは理解している。
可愛がるどころか、むしろ溺愛と言っていいレベルだ。
理解してはいるけれど、しかしそれでもやっぱり、あのまっくろな毛並みを撫でられなくなるのは嫌だった。餌をねだって鳴く甘えた声、不機嫌そうであっても帰宅すれば迎えに出てきてくれる、色違いの瞳。説得は難しいだろうけれど算段はあった。視力に絡めて頼み込めば、兄さんもそれにナルトだって、もう暫くの間オレに猫を世話させてくれるだろう。そう見込んでいたのに。
(……しまった、財布)
自宅から五分の所にあるコンビニエンスストアは、着いてみると意外に客がいた。年末だからだろうか。弁当などの冷蔵品の辺りだけでなく、いつもであればあまり人のいない日常雑貨のコーナーにも、それとなくウロウロと何かを探す人がいる。
今更ながら手持ちが無いのに気が付いたのは、間抜けなことに店に入ってからだった。売り言葉に買い言葉で、カッとなってでっち上げた外出理由ではあるが、このまま手ぶらで帰るのはなんとも格好がつかない。
「ほらほら、店の出入り口でそんな立ち尽くしてるんじゃねえよ。迷惑だっつーの」
邪魔邪魔、とせっつくように言われ振り返ると、自動ドアから店に入ってきたのは、どういう訳かうちでまだまたり鍋を囲んでいる筈のゲンマだった。酔ってはいても、さすがに寒かったらしい。コートを羽織ったその背中は腕組みに丸くなっている。
「……なんで、」
「バーカ、お前ひとりじゃ酒売ってもらえねえだろ」
ほら、さっさとカゴ持て、カゴ。追いかけてきた割にはいつもと同じさばけた言い口で促され、店先にあった黄色いバスケットをひとつ取ると、ゲンマは慣れた様子ですたすたと店の奥の方にある酒類の冷蔵コーナーへ先に行ってしまった。追いかけてはその横につくと、開かれたその扉から取り出された缶ビールをカゴに入れられる。
ひとつ、ふたつ、みっつ。四つ目の缶ビールを入れたところで「お前、どれがいい?」と突然言われ、一瞬ぽかんとなった。が、「飲んでいいのか?」と尋ねると「いや、聞いただけだ」と返される。だったら訊くなよ、と内心で呟くと、そんなオレを見透かしたかのように、ニヤリとゲンマが意地悪な顔をした。ビールを選んだ手が緑茶とウーロン茶をさらに一本ずつ取ると、ばたん、と冷気を閉じ込めガラスの扉は再び閉められる。さすが二大巨頭である。
「――さっむ。冷えるなァ」
会計を終えたゲンマは店を出るとすぐ、手に下げたレジ袋を探り、買ったばかりの煙草に火を点けた。煙のにおい混じりの白い息が、ゆらゆらと流れる。猿飛親子とは違いこいつがいつも吸うのは、世間でもよく見かける紙巻の煙草だ。
「まあ新潟ほどじゃねえけど」
「新潟?」
「鮭やっただろうが」
突拍子もなく出てきた地名と話題にようやく、(…ああ)となる。左側にいたところを少し歩調を調整して右に並び直したオレに、ゲンマは微かな目線を寄越した。漂ってくる煙の流れから、敏感にオレが風上を取ったのに気が付いたのだろう。咥えた煙草をゆらゆらと噛むその口元は、何を考えているのかどこか楽し気だ。思わせぶりに見えて、じつは単純に酔っているだけかもしれないが。
「美味いぞ、あれ。酒のあてには最高」
「そりゃ良かったな」
「お、なんだ拗ねてんのか」
「るせえ。てかなんで新潟で鮭なんだ、有名なのか?」
鮭つったら北海道だろ、と深く考える事もなく口にすれば、ゲンマは真面目に驚いた顔をした。
なんだお前、村上の塩引き鮭知らねえのか。
呆れたような声色に、なんとなくこちらも「あ?」と声が低くなる。ムラカミ?
「ほれ、鮭ってのは卵産むのに、生まれた川へ戻ってくる習性があるだろうが。新潟県村上地方の三面川ってのはな、鮭のその習性に目をつけて、沢山の鮭を戻ってこさせる事に世界で初めて成功した川なんだぞ」
だから養殖じゃなくて、人工増殖。そう言ってゲンマは指に移していた煙草を口元に戻し、小休止のように深く煙を吸った。
先端で灯る熱がチリチリと、白い部分を灰にしていく。咥え煙草で語られた話というのはこうだ。江戸時代、三面川の鮭は乱獲で激減してしまったのだが、或る時、鮭の産卵に纏わる法則――いわゆる回帰性というものに、気がついた藩士がいた。その藩士は決して身分の高い者ではなかったという話だが、しかし当時の村上藩の藩主はそれを蔑ろにせず、訴え出たその者の意見を受け止め、さらに積極的に取り立てたらしい。
そうしてその藩士を中心に、五十年もの歳月をかけ三面川は大規模な河川工事が為され、より沢山の鮭が産卵のために戻ってくる川になった。
結果、鮭の数は復活どころか何倍にもなり、藩の財政も潤ったという。
「――とまあ、そういう話。よかったなあサスケ、お利巧さんの頭がまたひとつ賢くなって」
うっかり聞きいっていたところ、ふーっと煙を吐いた横顔が最後に付け足す。唐突に投げ込まれた余計な一言に、不本意にもぱっと意識が戻った。
途端にへの字になった口許のまま肩を竦め、マフラーの内側で舌打ちをする。ここのところ出張続きだったとかで、しばらく店に顔を出していなかったゲンマだけれど、やっぱりこういった部分は昔から変わらない。腹立ち紛れにスニーカーの足先で小石を蹴る。そんなオレにゲンマはますます愉快気に煙を吐いたが、やがて取り成すようにこう言った。
「けどなー、そんな話はさておき。お前マジで勉強がんばれよ、二学期丸ごと抜けてるんだろうが」
大丈夫なのかよ、とどこかふわふわした酔っぱらいらしい口調のまま、ゲンマは訊いてくる。
下を向いていたオレはそのまま「ふん」と小さく鼻を鳴らし、口を噤んだ。
「いくらイタチが付いてるったって、やんのはお前自身だからな」
「……」
「本気出さなきゃ、あっという間に置いていかれるぞ」
「るせえなあ。言われなくてもちゃんとしてる」
酔っているせいもあるのだろう。くどくど言われた目上くさい言い振りに面倒になると、オレは視線を足先のままに言った。今だって全然、遅れなんて取ってねえっての。堂々とした断言に、ゲンマも(まあ、そうだよな)と前を見る。実際クラスの奴らと比べても、遅れなんてまったく取っていないはずだ。なにしろオレの専属家庭教師は、小さい頃から身内贔屓一切なしのスパルタ進行で有名なのである。
「ま、しかしお前ここにきてよく観念したもんだよ。もう完全に学校やめる気でいたのに」
街燈に照らされた夜の路面は、でこぼことした影が浮き上がって見える。足元に広がるそれに気を取られていたところ、隣りでふとそんな言葉が落とされた。
思わず「は?」となったオレの横を、急ぐ気配をちらつかせ宅配ピザのバイクが走り抜けていく。今日はうちと同じく、人が集まっている家も多いのだろうか。先程から幾度となく、同じような宅配のバイクが排気音を響かせている。
「だろ?」
「なっ……ンな事ねえよ」
「噓つけ。正直学校やめて店入れるんなら、いっそ視力だって戻らないままの方がいい位の気でいたくせに」
いっそ黙っときゃ見えるようになっていようがいまいが、誤魔化せるくらい思ってただろ、お前。にやにやするゲンマはそう言うと口から煙草をちょいと取り、指に挟んではまた(ふぅーっ)と長く細い息を吐いた。漂ってくる煙に思わず開いてしまっていた口を閉じる。
……くそ、なんでこいつ。
まるで見てきたかのように言い当てられる内情に、余裕で彩られたその横顔を睨み返した。
「けどまあどんな心境の変化か知らねえが、行くの決めたなら真面目にやらねえとな」
「だから、べつに心境の変化とかは関係ないっての」
「視力回復してきたから行くってだけか」
「そう」
「視力ねえ――お前どうすんの、あの猫。本当にあの金髪君から取っちまう気かよ」
あれだよな、その猫の本当の飼い主っての、前に店で元嫁と会ってた奴の事だよな? 気が付けばすっかり昔話のようになってしまっている話に、のんびりとした口調で言われようやく気が付いた。なるほど、考えてみればゲンマはナルトとはいつも出勤の時間帯が違うから、店では一緒になったことがほぼ無いのである。
「ナルト、とかいったか。オレ朝も会わねえから聞いただけだけどさ、なんか随分と面白いやつなんだって? お前とずいぶん仲良いとか」
「あ? 良くねえよ」
「でも猫預かってんだろ? 朝もまだお前がコーヒー淹れてるって」
「そうだけど。けどソレはソレ、コレはコレだ。やり取りは全部兄さんがしてるし、オレは別にあいつと仲良くなんかねえよ」
すっぱり言い捨てると、ゲンマは「ふぅん?」なんて言っては釈然としない顔をした。おおかた実際を見ていないのをいい事に、カカシやアスマ辺りがまた誇大広告のような話をこいつに吹き込んだのだろう。如何にもなことだ。あの中年達も余程、娯楽に飢えているとみえる。
「けど仲良くないって言うわりには結構思い切ったこと頼もうとしてるよな、お前」
と、不本意すぎる状況評価に胸の内で毒吐いていたところ、斜め上の高さから少し呆れたような声が降ってくる。やはり追いかけてきた理由はこちらがメインだったのだろう。思った通りの切りだしに、咄嗟にオレは身構えた。
「まあなぁ、預かってるうちに情が移って、手放したくなくなる気持ちは解るけどな」
「……」
「けどもしそれでイタチがいいって言ったら、お前その本来の飼い主になんて言うつもりだったんだ? 聞いたぞ、そいつもあの猫のこと相当可愛がってるんだろ?」
「――っ、それは!」
飄々とした口調のまま痛い所を突かれると、さすがにちょっと、すぐには言い返せなかった。訪れた沈黙のなかゲンマのコツコツという足音だけが、夜の住宅街に秒針みたいな正確さで音を刻んでいる。
「……けど、ずっとじゃねえし。あくまで目が治るまでの話だ」
だから、と黙った末あやふやな弁解を口にすれば、白く曇ったオレのそれはなんとも頼りない風情で、ゲンマの煙と一緒に後ろへと流れた。ふうん、と咥え煙草の口元がまた言う。街燈に照らされたアスファルトは黒に濡れていて、なんだか雨でも降ったあとのようだ。
「なあ、どんなやつ?」
言葉が継げなくなったところ不意打ちでされた質問に、は? と思わず気の抜けた声が出た。そいつ、そのナルトってやつ。お前から見て、どんなやつよ。聞き返したオレに、ゲンマはやけに楽し気にしている。嫌な予感。こいつがこういう顔してるのは大概オレに対し何かしら引っかけるネタを見つけた時だ。
「……なんでそんなこと訊く」
慎重に、オレは返した。
「え? いやだから、オレ朝そいつと全然被んねえから。実際お前から見たらどんな奴なのかなって」
「どんなやつもなにも、あいつはただの客だ。特別あれこれ言うことなんて」
「なに言ってんだお前、ただの客にそんな我を通すような真似しようとしてんのか?」
そりゃねえよ、とにやにや言われると、確かに言い返せないものがあった。結んだ口でしばし考えてから、やがて仕方なく口を開く。
「どんなやつ、っつーか……すべてに於いて、いちいち無駄が多いやつ、かな」
ぼそりと答えれば、意外だったのか今度はゲンマが「はあ?」と言って眉を寄せた。なんだそりゃと傾げる首に、一瞬見上げたオレも顔を戻す。
「無駄ってなにが」
「なんか、人にいちいち世辞みたいなこと言ってきたり、後からでもいいようなことを、わざわざ伝えに来たり」
「ふうん」
「かと思えば一番肝心なことは言わねえし」
「ほぉ」
「それで自分が困っても、へらへらするばかりだしよ。まじでなに考えてんだかオレには理解不能だ。職場の年下にもいいように言われてるし、なにがそんな面白いのか、店の中でもやたらオレに構ってきやがるし」
「へーえ」
そうなのか、とゲンマがぷかりと煙を吐く。ふと静かだった住宅街のどこかで、子供の笑い声が湧くのが聴こえた。流れてきたそれにしばし耳を奪われる。そのうちにややあっとしてから、ようやくといった感じでゲンマが口をひらいた。
「――甘えてんだなあ、お前」
ふ、と緩んだ息で、前を向いたまま告げられる。
まったく、気難しい子猫がえらく手懐けられちゃって。
茶化すような言葉に思わず「あァ?」と眉が上がったが、そんなオレにもゲンマはまったく意に介さない様子だ。
「ンだよそれ、誰が」
「そういえばさ、オレ知らなかったんだけど」
瞬発的にカッと血がのぼりかけたところ、ぽんと投げ込まれた言葉につい声が止まった。…なんだよ、なに勝手に話変えてんだこいつ。そう思いながら唐突な話題転換に不機嫌を出すも、咥えた煙草をふかすゲンマは余裕然としたままだ。
ほれ、あの女。あん時店に来てた、別嬪の元嫁。
促すような言葉に苛立ちを抑えつつも言わんとしていることに記憶を巡れば、やがてゲンマの言うあの日の光景がオレにも思い出された。ナルトの結婚相手だったその人が突然うちの店に訪ねてきたのは、十月の半ばの頃のことだ。
「兄貴なんだってな」
「あ?」
「兄貴。あの、元嫁の再婚相手。あれあいつの兄貴なんだってな。去年だったか、ほら、いっときニュースになっただろ。中東のどっかの国でさ、テロに巻き込まれて死んだと思われてたカメラマンが、現地で保護されたってやつ」
知ってたか、お前。唐突に告げられた話に、思わずぽかんと口が開く。そんなオレにゲンマは(やっぱり)といったように小さく苦笑したようだった。
中東? テロ?
ニュースそのものに覚えはあったがあまりにも自分の日常とは関わりのない単語に、毎朝会っている気楽な笑顔がいまひとつ重ならない。
「……なんでアンタがそんな、知ってるんだ」
聞いていない話に慎重になりつつも尋ねると、そんなオレにゲンマはすぐ、「さっきあいつらが話してるのを聞いた」とあっさり答えた。
ていうかあそこの郵便局では結構有名な話らしいぞ、イタチも他の常連客から聞いて知ってたみたいだし。
そんな発言に愕然とする。オレが家を飛び出した後、家に残っていた大人達は卓を囲みながらその話をしていたらしい。……本当に。結局あいつらは味方のような顔をしていながら、大事な話はいつだってオレがいない場所でする。
「あの生きてたカメラマンてのがあいつの兄貴で。テロに巻き込まれる前、先にあの別嬪と婚約してたのは兄貴の方だったらしい。だからまあ再婚ていっても、結局は元の通りってことか」
「えっ…いやでも、それじゃあ」
あいつは、と聞いた話につい声が大きくなった。続く言葉は見つからないがただ頭によぎるのは、あの日の光景だ。
乱れたブレザー。
汗だくの首に引っかかったままの、赤い紐のネームタグ。
「……でもそうだったとしても、一度はナルトを選んで、結婚したってことだろ?」
どこかおそるおそるになった確かめに、しかしゲンマはゆるく肩を竦めた。さァねえ、ま、オレも話で聞いただけだから。道化じみた仕草でなんとも腑に落ちないその話は、結局は閉じられる。
「まあこういう話はさ、当事者達でないとわからないことも多いものだし」
外野は好き勝手言うけどな。自分こそまんま外野の顔で、ゲンマは言う。そうしてから短くなってきた煙草を摘むと、コートのポケットから小さな吸殻入れを取り出し、揉み消すように捨ててから次の一本に火を点けた。
新しく得た火種に、深く息を吸ってはゲンマはうまそうに煙を吐く。煙に巻くような終わりに一瞬あっけにとられそうになるも、しかしはたと気が付き、オレは口を結んだ。
「……で、それで?」
用心しつつ、慎重に返す。
「あ?」
「その話をオレにして何だっていうんだ。だから猫は譲れって?」
「や、べつにそんなんじゃねえよ。だいたいが俺、あいつにそこまで気を遣ってやる義理もねえし、顔あわせる事もないしさ」
牽制しつつ睨むオレに、ゲンマはしれっと言う。けれど飄々とした様子で前を向くと、「まーでも逆にいま家にいるやつらはさ。俺とは違ってそこそこ良識もあるから、こういう話もむやみに店でしたりしないだろうなって」と言って背中を丸めた。
「だから少しだけ、お前にも教えてやろうと思っただけ」
あっけらかんとした口振りと共に、会計からずっと手に持たれたままのレジ袋がカサカサ鳴る。言われてみればの話に何も言い返せなかったが、しかし「ホントお前ちっせえ頃から店で仲間外れにされると、すーぐそうやって拗ねるよな」などというからかいが繋げられると、途端にむうと口が尖った。咄嗟に反論しようと口を開くも、しかしそれを遮るかのようにゲンマが「まあ、でもさ」と言う。
「あたたかかった、だろうな」
「え?」
「ほら、あのお前淹れてやっただろ。あいつだけのためのコーヒー」
細かい部分はわからないにしても、きっとあの時のあいつにはすげえ、あたたかかったんだろうと思うよ。
言い渡された言葉に一瞬ぽかんとしたオレだったが、徐々に意味がわかってくるにつれ、頬に熱がさしてくるのを感じた。
「……知るか。そんなたいしたことじゃねえだろ」
ぼそぼそと小声で呟いてから、肩を竦めるようにして首に巻いたマフラーへ口許をひっこめる。
ぷかりぷかりと隣を流れていく煙に混じって、かすかにゲンマの香水のにおいがする。店に来る客の中には時々おそろしく主張する香りを撒き散らす人もいるけれど、ゲンマのそれは真逆だ。深い森の奥でひっそりと漂っていそうな、静かで落ち着く香り。
「は――っ。しっかしほんと冷えるなあ」
長く溜めた息に、思わず横を見る。なんだか先ほども聞いたような台詞だったが、ゲンマはさらに「雪でも降るんじゃねえか、これ」と言って空を仰いだ。
「あ、そうだ帰ったらお前あれ開けてみろよ。さっき渡した鮭のやつ」
そう言って振り向いてきた顔に、「ああ」とも「うん」ともつかない声で返す。そうだった、そういやオレ話の途中に飛び出してきたんだった。思い出した途端、忘れていた憂鬱が頭をもたげてきたオレに、察したのかゲンマは可笑しげに喉の奥を鳴らす。なんだかこちらはこちらで、大きな猫のようだ。どうも魚も好きなようだし。
「鮭っていえばさあ、村上では鮭のこと『イヨボヤ』って呼ぶけど、誰も『シャケ』とは言わないんだよな」
吐く息をまっしろにさせて、ゲンマはまた言った。
「へえ、なんで」
「たぶん純粋に鮭への敬意からだと思うんだけど、でも村上は酒も有名だからそっちに関係してるとの説も」
「そうなのか」
「いや、それはいま俺が考えただけ」
「……そうやって、なんでお前はいつも息するように適当なことを」
「今度聞いてみるよ。酒も鮭もうまいし、一緒に呑むとほんっと楽しいのよ、村上の人達」
家の前に着く。見慣れた玄関灯を見上げればやはり気は重かったが、しかしここまで来たら覚悟するしかなかった。
はあ、と深く深呼吸をして、玄関前のステップに右足をかける。そのまま半ばやけくそのような気分でステップを登りきると、そこでいきなりガチャリと玄関の扉が開いた。驚きに足が竦む。
「わ、すごい! 本当にいた!」
固まった俺の前に顔を出したのは、目を丸くしたアンコだった。一方こちらはへこたれない相手に、とうとう根負けしたのだろう。胸には脱力して足をだらんと伸ばした黒猫が、不本意そうに抱きかかえられている。
「なんだ本当にって。というか、すげえタイミングだったな、今」
同じく驚いた様子で、遅れてステップを上がってきていたゲンマが言った。
「いやすごいんだってこの子! 今さ、ブザーも鳴らないのに突然自分で玄関に向けて走り出して。私たちには音も全然聴こえなかったんだけどね、気配だけでサスケが帰ってきたのわかったみたい」
ネコスケは賢いねえ。いつの間につけられたものか初聞きの名であったが、呼ばれた黒猫はニャアと囁くような声で鳴いた。抱えられたままの腕のなか色違いの大きな目が、じっとオレを見つめてくる。
「まあまあ、とにかくおかえり。はやく家入んなって」
立ち尽くすオレにそう促しながら、アンコは猫を連れたまま再び奥へと戻っていった。ねーすごい、本当にサスケだったよ! 陽気な驚きで弾む声が、リビングの方で響くのが聞こえる。
想定外ではあったがとりあえず帰宅を果たせた事にどこかホッとしつつ、家に入ろうとすると、後ろから「あ、ちょい待ちサスケ」と呼び止められた。振り返るとまだステップを登りきっていなかったゲンマは、吸いかけの煙草を手にそのまま立っている。
「悪い、これ持って先入ってて。俺これ吸い終わってから行くわ」
そう言って差し出されたレジ袋を、手を伸ばし受け取った。すぐだからと笑ったゲンマはレジ袋を渡した手で、そのまま半分程になった煙草をそっと摘むと、再びふかい一服を吸い込んでから「なあ、ついでにもうひとつだけどさ」と言う。鼻先をかすかな森の香りが、またほんの少しだけ掠めてゆく。
「教会の子」
「は?」
「お前、教会の子って意味、わかる?」
唐突な問いかけに、話の繋がりがわからなかった。
「……意味って、そのままだろ?」
ちょっと考えてから思った通りを、素直に口にする。その答えは正解だったのか、それとも不正解だったのだろうか。答えを言わないままゲンマは何故かほんのり眉を困らせると、やがて静かな笑みで口許を形どる。
「サスケー? 早くおいでって!」
リビングからの催促の声に、はっとなり思わず振り返る。なんとなく急いた気分ですぐに顔を戻したが、そこで佇む男はついさっきの問いなど無かったかのような風情で、呑気にぷかりと煙を吐くばかりだった。
ほら、呼んでるぞと促す声にも、先ほどの余韻はない。
星のない夜の下すらりと立つシルエットからは、もう捉えどころのない煙のにおいがするばかりだ。


『――コツ。』
飛び込んできたその足音に、つらつらと辿られていた記憶はふつんと打ち切られた。
見れば中途半端に白い玄関灯の灯りの下、カーキ色のダッフルコートがぼおっと立っている。立ち尽くすその影は無言のままだ。新年早々の遅刻にバツが悪くなっているのだろうか。冷え切った真冬の夜のエントランスホールは、最初の足音が響くと後はそのまましんと静まりかえるばかりである。
「……遅ェ」
黙ったままの彼に対し、オレの口から出たのはまずその一言だった。背中の壁が冷たい。ふと時計を見れば、やはり十五分以上の遅刻だ。
「なにやってたんだお前は、人を待たせやがって」
そう言ってはむすりと結んだ唇は、我ながらどこをどう見ても不機嫌極まりないものではないかと思われた。しかし聞いているのかいないのか、久々のその碧眼はなぜか嬉し気に目を細めるばかりだ。
くそ、なんだこいつ。遅れてきたくせに。
反省のなさそうなその様子に思わず舌打ちが出る。風邪でもひいたのか、それともただの予防だろうか。一週間ぶりに会ったナルトは、珍しく大きなマスクをしている。

「―――……、」

ゆらり、ダッフルコートの影が揺れる。マスクに半分顔を隠されながらも、ゆっくりと急がないペースでこちらに近付いてくるその顔は、どうやら白い不織布の下でなにかを言ったらしかった。
は? と訊き返すも返事はない。それでも気配と匂いだけで十分判るのだろう。足元の猫はペットキャリーの中で、早々に立ちあがっては久々の飼い主に注目しているようだ。
「? なんだよ」
「………」
「マスク取れって、なに言ってんのか全然聴こえ――…」
ようやく異変に気が付いたのは、その時だった。
泰然としているように見えたナルトの足取りは徐々に緩慢に変わり、そうして目が合った瞬間、ふにゃりと目尻を下げたまま、大きな体は完全に動きを止める。
――ぐるり、裏返る青。
見る間に前のめりになっていくダッフルコートに、まるで引っぱられるかのように壁に寄りかかっていた背中が起きる。

「おい、ちょっ――ナルト!?」