藍に舞う二翼

覚えたことを忘れぬよう、せんは必死で走った。
まわれ右して方角は丑寅。見張り小屋の柵を潜り山への細道を行けば、やがて教えられた通り、ぽっかりと開かれた陽だまりへと行き着いた。お地蔵さんは五つ、その内の真ん中のひとつの後ろへ回り目を凝らすと、茂みの奥に隠された参道が見える。脇にある獣の道と間違えてはいけない。大丈夫、よぅく目を凝らせば、大きく両手を広げ阻む雑木林の向こうにきっとその目印は見つけられる。
「ただね、誰でもというわけではねぇんで。なかにはどうしても辿り着けないって場合もあるらしいんですがね」
番台の横、磨かれた框。気楽な風情でそこにひょいと腰掛け話をしていたのは、今朝がたふらりとやって来た若い薬売りだった。せんには初めて見る顔であったが番頭や他の奉公人達の様子から見るに、その人物はどうやらここの店では随分と歓迎され
る人物らしい。飄々とした気安い風情が慕われているというのもあるが、なにしろ背負ってくる薬がどれもこれも滅法効く。ちょいとね、まえここで突然病人が出た時、世話になったことがあって。身を寄せている旅籠前の表通りで水を打っていたせんに、そんな話を耳打ちしてくれたのは叔母だ。その彼が話していたのだ。
失せもの探しの神さま。
それは願えばたとえどんなものであろうと、きっと持ち主のもとへ帰してくれるという、たいそう霊験あらたかな御柱なのだという。
「――ま、俺も聞いただけの話ですが。それにしても無くしたものをわざわざ探して持ってきてくれるとは、神様ながらじつに親切なもんスよね」
いやはや、いったいどんな謂れに拠るものなんだか。そう言っては顎にたくわえた鬚を弄りながら、痩せた薬売りはどこか可笑し気な笑いを、その薄い頬に浮かべていたのだが。
(見つけた、あれだ)
ふうふうと、短く切れる息のまま閃くように思う。背伸びした目線の先ついに捉えたのは、葉の重なりの合間から微かにのぞく、さびれた赤だった。踏み出そうとした足にふと辺りを見渡す。濃い緑に加え、茶に黄を取り混ぜたのび放題の下草と、薄暗く茂った先の見えない薮。どうしよう、危ないだろうか。たしかこういった場所には蝮がよくいるのだ。だから迂闊に踏み込むなと、かつて住んでいた多摩の古老は口をすっぱくして言っていたものだ。
(……けど、『いちばんは、信じること』)
ならば、と息を飲みこぶしを握る。聞き齧ってきた言葉に覚悟を決めると、桃色の唇をきゅっと噛み、せんはぐっと額の上あたりで両の腕を揃えた。盾のようにしたそれにありったけの勇気をかき集め、草鞋の足で濡れ葉を踏みしめる。深く息を吸って、ゆっくりと吐き、そうして次は止めたそれに(えいやっ)とばかりに藪へと飛び込んだ。迎え撃つ薄い葉が、着物の袖からむき出しになった肌をひりひりと裂いていく。うう、まだかな。本当にこのまま行って大丈夫なのかな。行けども行けども終わらない行軍に再び不安が頭をもたげたが、しかし次の瞬間、唐突にそれらが掻き消えた。
耳を撫でる穏やかな銀の風、おつむりに感じる金色のぬくさ。
藪の中とは明らかに違う気配におそるおそる両腕をおろすと、せんは固く閉じていた瞼を、ゆっくりともちあげた。
「ああ、あった……!」
よかった、と目にした景色に思わず息が漏れる。そこに在ったのは古ぼけた一基の鳥居と、その向こうに構える小さなお社だった。
元は青磁のような薄青であったと思わしき屋根は雨風に晒され剥げちょろになっているが、正面には一応の注連縄も掲げられている。近付いて確かめた白いお札に描かれているは、一風変わった墨の八咫烏だ。ここだ、間違いない、本当にあの人の言った通りだ。三本足に双頭という他所ではあまり見ないその姿に頷いて、そうして懐から用意してきた書付を取り出すと、せんは丁寧にそれを供えた。
ぱん、ぱん!
大きく打った柏手が、ふかぶか垂れた頭の上、ひろがる夕空に高く響く。にじむ橙、たなびく薄紫。黒い山の影にお天道様が隠れるその前に、あらんかぎりの真摯さでもって、せんは縋るべきその名を呼んだ。
「おねがいです、どうかあたしの頼みをきいてください――くらま様!」

     *

時は明治、西暦一八七三年。
王政復古の大号令からはや六年、新政府主導のもと積極的に海外からの新しい文化を取り入れるようになった我が国は、めざましい変化の時を迎えていた。
『散切り頭を叩いてみれば、文明開化の音がする』などという流行り文句が謳いあげるように、人で賑わう街には続々と赤レンガの洋館や建ち、髷を切り断髪頭となった男達が行き交う。かしましく連れだっては人力車で歌舞伎座へと繰りだす、ご婦人方の口元はみなお歯黒を落とした白い歯だ。ガス燈、牛鍋、太陽暦。開かれた港から入ってくる異国の文化はみな目新しく先進的で、これまで閉じられているが良しとされてきた此の国で、それらはある種熱病のように世を席捲し、誰もが新しい文明の到来に熱狂し浮かれていた。

などというのはあくまで、東京などごく一部の都会での話。

「……あああ、もう!」
手元に集中していたところ、慣れた声を聴く。隣で吐かれた深い溜息に、たきはふと作業の手を止めた。そっと隣を盗み見てみれば、予想通りのうんざり顔。いいかげん飽きたんですけど、これ! ほっかけ手拭いの横顔は、そう言っては座っていた筵の上で、行儀悪く足を投げ出した。やっぱり。そろそろ言い出す頃だと思った。
「……かえちゃん」
「もーやだ。もーやらない。明日にしようよ明日に、あちしもうお腹すいちゃった」
ね、たきもそうでしょ? そんな事を言っては、投げ出した娘はたきの顔を覗き込む。くるんと上がった長い睫毛が、お茶目な様子でぱちぱちとしばたいた。かえは美人だ。そうして甘え上手だから、すごく男衆から人気がある。自分の美質をよく心得た幼馴染のおねだりに、しかしたきは応じるわけにはいかなかった。
「だめだよ。もうじきに日が暮れちゃうし、それまでに出来るだけ切っておかなきゃ」
ぴしりと筋を通しては、甘えを断る。華やかなる都会はいざ知らず、田畑を相手に暮らす農村部では、大部分の人々にとって灯火油はまだまだ貴重で高価なものだった。
切っているのは蓼だ。今年の春先、一番ツバメが飛び始めた頃に種を撒いては育ててきた、今日刈ってきたばかりの一番刈り。藍染めの原材料となる『すくも』を作るには、この蓼を刈ってきてすぐに刻んでは、完全に乾燥させ、葉と茎とに分ける必要があった。だからこの時期、村ではみな家族総出で蓼を刻む。そういうものと、昔からずっと決まっている。――決まっては、いるのだ。
「……ほら、がんばろ! だいじょうぶだよ、あとちょっとだから、ね?」
そう言っては拵えた笑顔で取りなすと、たきは横でまだ山になっている草の束をひとつかみ取り、まな板の上に揃える。ざく、ざく、ざく。右手に持った大ぶりな包丁で大雑把に切っていけば、刃を入れるたびに濃い緑からは、夏草の青臭さがむっと立ち昇った。皆でやらねばならぬ事と決まっているし、わかってもいる。それについて文句はないのだ、そういうわけではないのだけれど、でも。
(たしかに、飽きた……)
ぽつりと。小さな溜息と共に、たきは思う。まな板と共に正座した筵は、昼間からの日差しにぱさぱさと毛羽立っていた。近頃、蓼を刻みながらたきはよく考える。灯火油を使わない、ガス燈とはどんなものだろう。牛鍋とはどんな味なのだろう。もしも自分が街で生まれていれば、きっとそういった物も日常的に、見たり食べたりできたのだろうに。もちろんここで生まれ育ったことに対し嫌だとか不満だとか言うわけではない。けれどなんとなく、モヤモヤするというか。……うまく言えないけれどこういうのって、ちょっと、『不公平』なんじゃないだろうか。まあそう思ったところで、どうにかできるという話でもないのだけれど。できるわけでもないのに考えてしまうから、余計に厄介なモヤモヤなのだ。
「――あれ? ねえ、見て」
あれって、うずまきさんだよね? 堂々巡りのなか、いきなり掛けられた声にはたとなる。促されるがまま指された方に顔を向ければ、はたしてそこにいたのは、すっかり見慣れた明るいシルエットだった。洗いを繰り返された生成りの尻半纏に柿渋色の山袴、盛り上がった肩に担がれた大きな背負子。夕暮れを背に西から帰ってくるその出で立ちは、格好だけなら完全に地元の百姓だったが、しかし降りてくる薄闇にも、明るく映えるその髪は、この辺りでは稀有な金色だ。『うずまきさん』はたき達と同じ、この村の住人だ。経緯はよく知らないが数年前どこからかやって来ては、村の端にある小屋に居ついた青年だった。
「おーい、おかえりなさーい!」
すぐさま呼び掛けたかえの声に、気が付いた彼が振り向く。向こうもすぐに見知った村娘の姿に気が付いたのだろう。山袴から覗く膝小僧がゆっくりとこちらを向くと、長い腕が「ただいまぁ」と、道の半ばで大きく振られた。日焼けしたその顔で、人懐こい空色の瞳がやわらかく笑んでいる。村ではいまだにこの他所から来た青年に対し身構える人もいるけれど、たきはこの人が好きだ。だって働き者で、正直だし。それにすごく笑顔が可愛い。たしかに少々おっちょこちょいなきらいはあるけれど、でもそれも含めたいそう魅力的な人物として、村の大部分からは迎えられていた。
「おお、やってるな。すげえ、もうこんなに終わったのか」
近付くなり筵の上で山となった蓼に、感心の声があがる。さすがだってばよの一言に、隣りのかえが(えへん)と胸を反らした。
「まあね。なにしろあちしたち、五つの頃からやってるからね」
さも当然だというように、先ほどまでの文句は棚にあげかえは言う。まあ嘘は、言ってない。でも作業をした大部分はたきだ。かえはさっきから、口は動いても手は止まったままだった。
「そっか。偉いなあ」
「そうよ。偉いでしょ」
「やっぱり子供の時分からやってると違うな。オレもいつも夜切りするけど、なーんか急ぐと、茎に葉っぱがいっぱい、くっついてきちまうんだ」
一見ただ切るだけなんだけど、やると難しいよな。山盛りにされた蓼を眺め、彼は言う。たしかに、『すくも』に使うのは葉の部分だから、分別のとき茎にそれが多く持っていかれれば、それだけ出来高が下がってしまうのだった。だからたき達は最初に、母や祖母からできるだけ損の出ない切り方を教え込まれる。そのやり方も、家それぞれだ。そうやってずっと、この村では知恵を護り伝えてきた。
だからきっと他所から来たこの青年には、その技がないのだろう。どうしよう、教えてあげようか。難しいなと言いつつものんびりした笑顔にちらりとそう思い、「あの、」と言いかけたとき、それを遮るかのように隣りのかえが「ねえ」と声をあげた。
「もしも切るの大変なようなら、あちし、手伝ってあげるけど」
……そっち行く? 今夜。下心ありありでそんな申し出をしたかえに、思わずたきはぎょっとなった。
「へ? 今夜?」
「そう。たくさんあるでしょ、切るの。一緒にしてあげる」
そのときコツも、教えてあげるし。大胆な娘はそう言うと、長い髪をさっと後ろへ流した。そうして年頃に膨らんだ胸をさらに反らしては、かつてない婀娜っぽさで見せつける。すごい、かえちゃん、どこでそんなの覚えたの。普段の甘え方とは違うそれに唖然としながらもどこか挑むようなその横顔に、たきの心臓はどきどきと妙な早鐘を打ちだした。だが、
「あ~……いや、大丈夫。ありがとな、気をつかってくれて」
日に焼けた顔にほんのり苦笑を浮かべ、その人は言う。自分でやらねぇとさ、ほら、練習にならねえし! そんな言い訳を口にすると、彼は何気ない仕草で短く刈った金髪を掻いた。明るい髪色から覗く指先は、全部がほんのり藍色だ。──藍作農家ばかりが集まるこの村で、うずまきさんはまだ新米だ。そうして彼は蓼を育てるだけでなく、最近は自分で染めまでを試みているのだと。そんなふうに聞いている。
「ま、それにコツならば、今度たきも教えてくれるみたいだしな」
だろ? と目配せと共に言われた付け足しを合図に、わずかに張っていた空気は緩み、同時にぷうっと隣の娘の頬が膨らんだ。うん、これこそがいつものかえちゃんだ。ようやく普段に戻った幼馴染に、息を漏らしてたきも足を崩す。
「……あっそ、ならいいけど!」
 きっと腹いせというよりも、苦し紛れなのだろう。不貞腐れたかのようにそう言い捨てると、かえはムスッとして座り直した。
でも、だったら寄り道なんてしてないで、とっととまっすぐ帰って来なくっちゃね。
そんな姿勢を正してのひと言に、金髪の彼は驚いた様子で、「…えっ?」と顔を上げた。
「寄り道って、なんで」
「今日、西から帰ってきてたでしょ。うずまきさんの畑、村の南側じゃない」
でしょ、と虚を突かれたようなその顔に、かえがダメ押しのように言葉を継いだ。ぽかんとする空色にようやく気が晴れたらしい。どうやらまんまと図星を言い当てた娘は満足げに微笑むと、再びふふんと不敵な目線を流す。
「どこ寄ってきたの?」
「え?」
「だから、畑の帰り。西になにかあるんでしょ?」
知りたいなあ、あちし。今度は苦し紛れではなく、厳密に腹いせだろう。歌うような口ぶりで、かえが質問を繰り返す。
「――西?」
しかしそんな呑気なやり取りに、小さな訊き返しが落とされたのはまさしくその瞬間だった。低いけれど妙に胸を騒がす、甘さ混じりの男の声。まるきりの不意打ちで現れたそれに、たきは驚いて腰を浮かせる。
「あっ……おかえりなさい」
引き出されるように、迎えの挨拶が出た。本当に、いつの間に来ていたのだろう。声の主はやはり、この村の青年だった。
伸びた黒髪、ぬばたまの瞳、上等な練絹のような白い肌。慎ましく調ったその貌かたちは、絵草紙の姫君もかくやと思わせる程だ。しかしその眼差しはじつに、鋭利であり厳しい。
「西って、なんだ」
まっくろな瞳を細く眇めて、質問をする彼はじっと金髪の青年を眺めた。すらりと伸びた細い体躯に、ずいぶんと着古された襟無しの洋風シャツが、くたりとまとわりついている。六年前に村人から譲ってもらったそれは当初から相当な草臥れ具合だったはずで、長身の彼に着られながら、暮れていく村の片隅でぼんやりとした白をみせた。
「あ、あ~……その、ええと」
突然現れた片割れに、金髪の青年は狼狽えたように口篭る。先程までの余裕ある姿勢は一変、青い目はきょろきょろと黒髪の青年を避けるかのように泳ぎだした。どうしたんだろう、いつもならばこの人の姿を見るだけで、彼はきゅんきゅんと子犬のようにはしゃぐのに。普段とは正反対のその反応に思わず思う。彼は金髪の青年の同居者だ。六年前、そろってこの村に現れた時から、ずっと彼等は一緒だった。
「……まさか、お前」
薄い唇がゆっくりと、確かめるように動く。いよいよきつくなった切れ長のまなざしに、金髪の青年は(ハッ)として目を見開いた。
「いやっ――その、違うの! これにはちゃんと理由があるんだってばよ?!」
藍に染まった指があわあわと宙で広げられる。「ほお、理由」とじりじり追い詰めてくる容赦ない美形に、いよいよこれまでと悟ったのか、両手を前にしたまま彼はぽろりと口を零した。だって、オレってば聞いちゃったんだもん――あれ、あの名前。クラマって。
「くらま?」
なにげなく繰り返した単語が、ぽつんと響く。それはいったい、どんな呪文なのだろう。その途端ふたりの青年は、揃って勢いよく振り返った。ぽかんとする娘達に、ようやくふたりは話途中だったことを思い出したらしい。ぐっ、と黒髪の青年がいきなり襟後ろをつかむ。
「……ちょっと来い」
声を掛けるのもそこそこに彼は自分達の家の方に向き直ると、遠慮ない力強さでぐいと引っ張った。エッ、となる空色が一瞬立ち止まる。いいから、来い! 改めてそう命じると、彼はぐいと歩きだす。
あの細い腕のどこに、こんな力があったのか。袖まくりの白い腕にぼんやりと思っていると、そんな娘達に、大柄な青年は(エヘヘ)と笑った。
「ええと――じゃあまた、な!」
ぽかんとする娘達に金髪の男はそんな事を言っては、悪戯じみた顔で笑う。
「……なあに、あれ」
落ちてくる夕闇の中、小さくなっていくふたつの影に、ぽつりとかえが呟いた。あれは一応、けんか、なのだろうか。だけどそれにしては妙に一方的な感じだ。なんとなくうずまきさんの方なんかは、あんまり深刻そうにもみえなかったけれど。
じじじ、と草むらで地虫が鳴く。夏の夜の始まりを告げるそれに、たきは一瞬耳を奪われた。何だか知らないけれど、まあ、ほうっておいたらいいのだろう。そんな事を思いつつよいしょと立ち上がり、ぽんぽんと蓼だらけの前掛けを叩く。ああいうのは、そういうものなのだ。これも村では大昔からずっと決まっていることである。
「よし、あたしたちも帰ろうか、かえちゃん」
幼馴染を振り返り、たきは言う。今日もたくさん刻めた。これで夜は、すこしは楽ができようというものだ。

     *

ぽっかりといい天気の空に、白い雲が見える。久々の呼び出しに、向かったのは定期的に寄る宿場町からほど近い、古いお社だった。会うのは六年ぶりだ。これまで生きている事さえ、定かではなかった。だからそれぞれ随分と身の上がかわり、これまで見たことのない身なりに(へえ)と思うのはお互い様だ。そして大人になったというよりその成長をあらわすには些か老けたという言葉が似合うのも、これもまたお互い様だった。
「よーォ、ナルト。それにサスケも」
元気だったかよという言葉に、こくこくと金髪の大男が嬉しそうに頷く。最後に別れた時二十三だった彼も、三十路を手前に、随分とその身体に厚みができたようだった。しかし隣の男は黙ったままだ。むすっと不機嫌な表情のまま、路地裏の木戸に寄りかかっている。子供の頃から美形であった奴だがこうして成長してみても、やはり抜きん出た別嬪だった。やって来た薬売りに、その別嬪がおもむろに口を開く。
「――やっぱてめえか、シカマル」
怒られるにはじゅうぶん、思いあたる節があった。

時は明治、西暦一八七三年。
新政府主導のもと積極的に海外からの新しい文化を取り入れるようになった我が国はめざましい変化の時を迎えると同時に、大量の失業者と転職者も生み出していた。
なにしろお国の仕組みがまるごと変わったのだ。いわば業界最大手、泣く子も黙る超優良企業であると誰もが信じていた幕府が、一夜のうちに転覆したのであった。突然失職した上のお偉いさん方もそりゃあ困ったであろうが、それは下々の者達にとっても同じだ。そうしてその下々の者達の中にあって、さらにそのまた裏の側で働いていた者達――草の者や乱破衆(らっぱしゅう)、竊盗(しのび)、屈(かまり)、軒(のき)猿(ざる)など地方や一派によって呼び名は多岐にわたる――そういった、いわゆる世に云う『忍びの者』と呼ばれている彼等についても、それは例外ではなかった。
ナルトとサスケ、それにシカマル。共に齢は、かぞえで二十九になる。
今この瞬間、件のお社の境内で雁首を揃えている彼等も、かつてはそういった事情から職を失った、技持つ者たちの一員であった。

「――いや、なんかまたおもしろそうなことしてんなと思って」
てらいもなく言えば、ピクリと柳眉が上がる。噂を聞いたのは本当に、単なる偶然だった。
いつも通り、贔屓客を回るルートを歩いていたところ、立ち寄った茶屋の娘が世間話のひとつとして話していたのだ。川崎宿の北の方、ほんの少し山間いに入ったところに、関東では珍しい藍作の村がある。そこから程なく離れていない場所に、失せもの探しに効のあるお社があるという話だった。
聞いた話ではこうだ。特に得意なのは、逃げた猫探し。
まさかと思い、見に行った。そうして見つけたのはお社の周りにきちんと張られた蝮除けの仕掛けと、その効果を祈るためであろう、双頭の八咫烏が描かれた護符だ。藪の影にあったそれをお社本体に勝手に移したのは、神なんてものはいっさい信じてない、この薬売りの仕業であった。
「いやあ、懐かしいな猫探し。下忍の頃めちゃくちゃやらされたよな」
罰当たりな薬売りはそう言って笑う。神さまの正体をふたりに特定したのは単純に賭けではあったが、しかしシカマルとしては、かなりの勝率を確信していた。こんな馬鹿げたことをする忍びは、自分の知るなかではかなり限られるからだ。
「で、おまえらなんでこんな事やってんだ?」
至極もっともな問いをシカマルは投げかける。
「うるせえ、知るか。てめえには関係ねえよ」
そもそもがオレらはもう廃業だ、こんなもの貰っても仕様がねえよ。返ってきたのは悪態だ。この口の悪さもじつに六年ぶりだったが、そんなふたりのやり取りに、金髪の大男はにやにやするばかりだ。
「まあ……とりあえず、よかったよ。お前らちゃんと、生きてたみたいで」
あの時は本当に、ひどい有様だったからな。いつかの戦場を思い出し、薬売りは言う。大政奉還後、王政復古の大号令を経て力をむしり取られた旧幕府軍は各地で抵抗の狼煙を上げたが、結局はすべて成功することはなかった。ナルトとサスケ、彼等が当時いたのは、その旧幕府軍の方だ。最後の戦いは、北の寒い国でだった。八咫烏を掲げる里の者たちは、そこでかなりの数が雪に埋もれて消えた。
「まあな。けどそんな事は今はどうでもいい、それよりもこっちだ」
しみじみとする薬売りに、サスケはすっぱり話を切る。そうしてずいっと押し付けられた二つ折りの紙に、「?」とシカマルは首を傾げた。
「なんだこれ」
「言ってんだろ、オレらは廃業だって。こっちはてめえが撒いた種だ。てめえの手で刈り取れよ」
そう言っては鼻を鳴らす男の後ろ、しゅんとしょげた雰囲気の金髪が見えた。どうやらこれは、件の旅籠で出会った少女のものらしい。店先で必死な様子で聞き耳を立てていた、おでこの横顔をふと思い出す。
贔屓にしてもらっている旅籠でその少女の話をしてきたのは、彼女の叔母だというひとりの仲居だった。本当にね、可愛そうな子なんですよう。あの子はこれっぽちも、悪くないのにね。鼻をぐずぐずさせながらの身の上話に、これこそちょうどいいじゃねえかとばかりについお節介をしてしまったのだが。
「いいじゃねえか、逃げた犬探すくらい。犬も猫もそう違わねえだろ」
 なんの気も無しにそう言うと、黒髪の男は「はあ?」と眉をひそめた。後ろにいる金髪も、きょとんとした様子でこちらを眺めている。
「犬?」
「犬だろ?」
「……犬なのか」
「……犬じゃねえのか?」
なんか多摩にいたとき飼っていた犬が、こっちに越してくるとき逃げちまったんだろ? あの子がたいそう可愛がっていた、赤毛の柴が。 
「大変だな、母親に死なれたところで、今度は親父が蒸発とは」
せめて犬くらい、傍に残ってもらいたかったよな。そう言った薬売りに、サスケはうんざりとしたため息を吐いた。シカマル、やっぱお前、自分で撒いた種は自分で刈れよ。そんな嘆きに、今度はシカマルの方がきょとんとなる。
「じゃあこれは、犬の名前ってことでいいな?」
ぺろりと広げられた紙きれに、文字がある。
慣れない手で懸命に書かれたそれは犬ではなく、『とうちゃん』と、誰の目にも読めた。

     *

 かごめかごめ かごのなかのとりは
いついつでやる よあけのばんに
つるとかめがすべった うしろのしょうめんだあれ

赤い格子越しに見る夜は、すべてが淡い。きっとなにもかもに幕をかけたいと思っているからだ。そんなふうに、ゆきは思っていた。
ようやく出てきた夕涼みの風は、一緒に客のだみ声と、女たちの嬌声も運んでくる。手にした団扇でそれを払い、そうしてゆきはまた窓からの宙を眺めた。口減らしのため田舎から十で売られてきてから、もう随分と、ここで過ごしてしまった。格子の中からはもう既に外へと出られていたが、しかし部屋持ちとなっても結局は籠の鳥なのだった。
娘としての盛りを過ぎた自分の手に、じっと目線が止まってしまう。謡う自分の声が遠い。幕はどうやら、こちら側にもかかっているようだった。
ああ、また夜が来る。
「――こんばんは」
ぼんやりしていたところ、突然上から呼びかけられ驚いた。反射的に仰ぎ見れば腰掛けた窓枠の上、さかさまのままひょっこりと飛び出す顔がある。
しかしただでさえびっくりする状況に加え、さらにゆきが驚かされたのは、その彼の目を引く容姿だった。格好こそ闇に紛れる事を第一としたものだったが、髪にも瞳にもある色彩は、どうあっても闇には染まらないものだ。
普段であればまずありえない状況に、ゆきの手から思わず持っていた団扇がするりと滑った。水色に赤の金魚が描かれたそれは廓の瓦屋根に一度かつんと当たったが、そのままひらひらと下へと落ちていく。
あ、侵入者が小さく呟いた。
「ええと、ごめん。あとで拾うから」
親切にもそんな事を言う彼に、再び呆気にとられてしまう。
呆然としているうちにも向こうは関係ないのだろう、流れ込んできていたおしろい臭い風がやみ、代わりにくるりとその長身が入ってきた。その、オレってば怪しいもんじゃねえから。大丈夫だから。どこからどう見ても怪しい忍び装束の男は、これまた丁寧にそんな事を言う。変な子だ。
「……わかった。大丈夫なのね」
で、なにしに来たの? よくわからないけれどとりあえず妙に腰の低いこの侵入者に、どこかわくわくし始めながらゆきは訊いた。
「いやー、じつは道を教えてもらいたくて」
**の屋敷って、どこですか? これまた普通な感じで訊いてきたのは、この廓街からは少し離れた場所にある屋敷だ。ゆきにとってもよく聞く場所。そこは明治になってから力を強めるようになった、財閥の屋敷である。
「教えてはあげられるけど、でも、そこに行ってどうするの? たぶんすごく人の多いお屋敷だけど。簡単には、入れないと思うわよ」
念のため教えると、彼は「ああ、うん。それは聞いてるってば」とあっさり言う。でもそこに、ちょっと探しものがあってさ。わかっているのかいないのか、きっと間違いなくこれからそこに侵入するつもりであろう彼は、事も無げにそんな事を言う。
「探しもの?」
どろぼう、するの? つい出た質問に、彼は「えええ、いやいや違うってば!」と慌てて首を振った。
「そういうね、法に反する事はしねえの」
だってもうオレ雇われじゃないもん。自分で選べるもん。そう言っては大柄な彼は、自慢げに胸を張る。そういうものなのか。
「じゃあなにを探しにいくの」
というか、見つけてどうするの。盗むわけでもないらしいその仕事に、ふと疑問をもったゆきはまた尋ねた。探すけど、見つけるだけ。それじゃ結局、見つけても仕方がないんじゃないだろうか。
「え? そりゃあそうなったら、話しあい」
さも当然といった感じで、侵入者は答えた。ずいぶんと平和的なことだ。でもなんとなくだけれどこの子が相手だったら、それもあんがい上手くいってしまう気もする。
「……あの、そんで、結局その屋敷の場所って、どういけばいいの」
興味のままあれこれ聞いてくるばかりのゆきに、さすがに少し焦れたのだろう。ほんのり申し訳なさそうに効いてくる彼に、つい笑って「ああそうだった、ごめん」と手早く説明をした。ふむふむ、なるほどいう頷くその影が、蝋燭の炎に照らされゆらゆらと障子に映る。
「そっか、わかった。ありがとな、おねえさん」
やっぱり本当は急いでいたのだろうか。説明が終わった途端そう言ってはさっさと窓枠に足を掛けた男に、ゆきは立ったままその顔を見上げた。まあ、そうよねという納得は勿論ある。しかしこのまま行かせるには惜しいというのも、偽らざる本音だ。
「おや、まさかお兄さん。このままタダでいくつもり?」
ついちらりとだしてしまった意地悪に、侵入者の彼はわかりやすく「えっ」と振り返った。ゆっくりと近付けた指先で、そっとその太い腿を撫でる。
傍目にはまっくろかと思われたその忍び装束は、近くでよく見ると濃き藍だった。
ああ、なるほど確かに、これこそが『夜』の色だ。長いことずっと見つめ合ってきたその色に、妙に腑に落ちてしげしげと眺める。
動かなくなった男に、ゆきは静かに腕を上げた、金の髪を柔らかく撫でる。青い目はよくみれば、こちらもただの青ではなく、晴れた「空」の色だ。
「……顔、隠すものじゃないんだね」
最初から露わなままのそれに、ゆきはやわらかく言った。このままでは、いろいろと不都合も起きやすいんじゃないのかい。あつい唇に目線を遣りながら、そんな事を言ってみる。
一度止んだぬるい風が、またゆっくりと窓から流れ込んできた。日に焼けたその顔は動かない。じっと見下ろすその瞳も、冷たくはないがまるで何かを待つかのように、じっとゆきを見おろしたままだ。
と、突然『ヒュッ!』という風切り音と共に、窓から何かが飛び込んできた。
勢いのまま畳に刺さったのは団扇だ。先程ひらひらと下に落ちた、水色に赤の一枚。
「――ごめん、ありがとな、おねえさん。いろいろ助かったってば」
待っていたのは返されるべきそれだったのだろうか。驚きに止まった遊女に、男はニシシと笑ってみせた。日に焼けた頬には薄い傷跡。三本あるそれがなんとも嬉しげに、ゆるゆると笑み崩れている。
じゃあ! とひと言残して、その礼儀正しい侵入者はきちんとまた出ていった。慌てて覗いてみたがすでに遅し。夜目にも目立つであろう金色は、こうして走り去る時もそのままなのだろうか。
「――なんだい、妬けるねえ」
顔は見せずとも明らかな存在感だけ残していったもうひとりに、ゆきはやれやれと肩をすくめた。腕をのばし、少々乱暴だが律儀に返された団扇を引き抜く。ぱたぱたと仰ぐそれは、やっぱりなまぬるい風しか起こさない。
まったく、暑い夜だ。汗ばんだ化粧の下で、ゆきはのんびりと思った。昔からいつも、妙な客というのはこういう日にかぎってくるのだ。めんどうなこと。だけど、こんなことでもなければ、夏の夜なんてものは、暑いばかりでかなわない。

     *

「なあ、妬いた?」
妬いたよな、というしつこい声に、黙って無視をした。隣で走る男は先程から笑いが止まらないらしい。にやにやするその顔が、心底腹が立つ。
本当は絶対に嫌であるのに今もこうして駆けているのは、すべてこの隣の男のせいだった。というか、最初からぜんぶこいつのせいだ。だいたいにおいてサスケが不本意ながらもやっている事には、かなりの確率でナルトが関わっている。
そもそもはごく単純に、後ろめたさとそれに対するささやかな贖罪のつもりで始めたことだった。明治の始まりと共に職を失い里を失い、文字通り路頭に迷っていたふたりであったが、その後ようやく流れ着いたのが件のお社だ。屋根を借りたのは単に雨露をしのげればというだけだったのだが、そこには当時から、時折お供え物を持ってはやってくる百姓達がいた。
空腹のなか目の前に置いていかれた食料に、「気にするな。オレらが食うか、鼬や鴉が食うかだけの違いだ」などと一瞬拝んだだけでさっさと手を出したのはサスケ、「ええ…だ、大丈夫かな、バチあたんねえかな」などとオロオロ迷いをみせたが、しかしきちんと饅頭は美味かったのがナルトだ。そして単純なもので腹がくちくなったら、途端にたいそう後ろめたくなった。そんな時、ふたりは見つけてしまったのだ。
お社の手前、きっと手を合わせる際に、足元に置いたまま忘れてしまったのだろう。
使い込まれた鎌がひとつ、ぽつんと残されていた。
「なあ、せめてさ。恩返しくらい、しようってば」
言い出したのはナルトだ。しかしそれがどうして、最終的にはこんな大事にまで発展することになるのか。
ナルトと一緒にいると一事が万事、こんなふうになる。
「なあなあ、サスケ」
まだしつこく話しかけてくる男に、サスケはうんざりしつつ立ち止まった。なんだと答えるその瞬間に、素早く唇を奪われる。
「……妬いたんだよな?」
確かめてくるその目に、きりりと睨み返した。
ばかばかしい、くだらないこと聞いてくんな。もぞもぞ低く返したそれに、クククと金髪の男が可笑し気に笑う。
「はあ、やっぱ最高だってばよ、お前。どうしたって離れらんねえよ」
夜の狭間で抱きしめられながら、そんな事を言われた。ぐりぐりと摺り寄せられてくる、金の髪。汗ばむそれに、悔しいが嫌悪感は生まれない。
「……もういい。いいからとっとと終わらせて、はやく家に帰るぞ」
そう言って両手でまとわりついてくる胸板を押しのけると、その手を今度は掴まれた。絡み付いてくる藍の指先。するりと捉えてはしっかりと繋がれた手に、ナルトがニシシとまた笑う。
「うん、はやく帰ろう、サスケ」
二色の風が、夜の藍を駆け抜ける。
低く構えたその腕は後方。忍び装束を纏ったそれは大きく風をはらみ、まるで翼のようになってふたりを支えた。

「なァなァ、サスケ」
「今度はなんだ」
「オレさ、やっぱお前のその格好、一番好きだわ。めちゃくちゃ興奮する」
「……クソが。これだから嫌なんだ」