考えてみたら別にたいして好きな訳でもなかったのに、あの時どうして選択してしまったんだろう僕は

「どうやら彼には秘密があるらしい。――冒頭からの予感を実証するかのように、その日【先生】から【私】に送られてきた返信は、一見しただけでもただの手紙とは明らかに違っていた」
守られた静寂の中、声は語る。中人数の教室は前のホワイトボードに向け全体的に緩やかな傾斜がつけられており、さながら小さな舞台劇場のようだった。
座席と座席の間、階段仕立ての細い通路を、背の高い彼は片手にテキストを広げ、目線をわずかに伏せ進む。整った横顔の、向こうに見えるは秋だ。入学したての頃、もえるようなグリーンでキャンパスを彩っていたカイノキは、今は窓枠に囲われた空をしっとりとした黄金色で埋め尽くしている。
「……目方が重く、並の状袋にも入らず、また入るような分量でもない」
こつ、こつ、革靴の足音は響く。痩せた長身がみせる装いは、今日もいつも通りの糊のきいたワイシャツに、ぴしりと線の入った細身のスラックスだった。
銀縁の眼鏡をかけたその顔は驚くほどに色が白く整っているが、しかしその表情が変わるところを、僕は見た事がない。ミスター・アンドロイドと彼が密かに呼ばれているのは、生徒の間では有名な話だ。感情と表情をインプットされ忘れた、無表情にして無慈悲な(なにしろ課題が容赦ない事でも有名な人物なので)、近代日本文学史の若き助教授。
「原稿用紙に書かれたそれは、いっそ手紙というよりも冊子だ。帰省中の主人公のもとに送られてきたそれにより、件の【秘密】はいよいよ明らかにされ、それと同時に【先生】その人の死までもが知らされる」
こういった読者に対する駆り立てるようなアプローチは、この作者が最も得意とするところだな。辿り着いた教壇で、ふいに彼は言う。眼鏡の奥にある切れ長の瞳がテキストから上げられ、ゆっくりと場を見渡した。
そうしておもむろに腕を下ろした彼は、教卓へとテキストを置く。
あとは君達もよく知る内容だ。 国語の教科書でもお馴染みの部分――いわゆる『先生の遺書』と呼ばれている、罪の告白文。
「まあ改めて言わずとも、勤勉な君達は今日までに読み返してきているだろうが」
ならば説明など不要だな? ちらと確かめてくる目付きと言葉に、内心ぎくりとする。たしかにそこの部分については高校生の頃に教科書で読んだが、細部についての記憶は曖昧だった。というか正直なところ、まだ先週の課題書も実は読みきれていないのだ。とりあえず一番ユルそうで、かつ新たに覚えなければならない事が少なさそうという理由だけで、国文学部を選んだ僕なのに。読まねばならない本や集めねばならない資料がこんなにもあるなんて、まったくの計算外だ。
「こうして自然主義文学が文壇の主流を占める一方で、明治後期になると本作のような、反自然主義を掲げる作品や作家が現れた。のちに登場する新現実主義や耽美派・白樺派なども、この反自然主義文学の影響から派生したものだ。次回はその反自然主義から生まれ、新現実主義を訴えた作家群について取り上げていく」
以上、本日の課題については後ほど、教務課を通し掲示しておく。――すべて計算ずくなのだろうか、決められた終了時間のきっかり五分前に、そう言って彼の講義は毎回結ばれるのだった。 テキストを置いた手が肘を伸ばし、ほんの少しだけ砕けた仕草で教卓の縁を掴む。折り上げたシャツの袖から出る白い腕は筋を張っていかにも男性的なのだが、どうしてかやはり妙に、艶めかしくもある。
「ここまでで質問のある者」
杓子定規な口調のまま、教壇に立つその人は最後に問う。すぐさま「はい」という声が上がり、幾人かの生徒が挙手をした。どこか興奮したその顔ぶれは、揃えたかのようにすべて女生徒だ。ミスター・アンドロイドは無表情・無慈悲ではあるが、そのうえでとてつもないモテ男でもある。どうして女ってやつは口では優しい人が好きと言うくせに、現実ではその真逆に走るんだろうな。
「では、そこの」
やれやれと項を掻く僕のずっと前の方で、最前列に座る一人が「ハイ!」と勢いよく立ち上がる。嬉しげに張りきって出された質問は妙に凝ったものだったが、なんだか如何にもインターネットで探してきたといった感じの、半端なマニアックさを漂わせたものだった。無表情な美形は、微動だにせずそれに答える。二人目、三人目と答えていくうちに挙手の手は徐々に減り、やがて最後のひとりが残された。
「あの、昔初めてこの作品を読んだ時から、疑問だったのですが」
指名された彼女はいつも最前列に陣取る助教授ファンの子達とは違う、別のグループにいる子だった。
「……父親が危ない状態なのに、何故【私】は列車に飛び乗ったのでしょうか。【先生】は既に亡くなっていると手紙にはありますし、このやり方では彼は【先生】だけでなく、事によっては彼は自分のお父さんの最期にも立ち合えなくなりますよね?」  
尊敬する相手とはいえ、【私】はどうして他人である【先生】に対しそこまでしたのでしょうか。文学史に対する質問としては場違いであると、本人も自覚してはいるのだろう。起立した女生徒はなんとも自信なさげで申し訳なさそうだったが、しかし他の者達にはない真面目さがそこにはあった。

ふたりの間にあるのは『友愛』だけだと、うちは先生は思われますか?

最後に添えた質問に、集まる視線の中、訊ねたカーディガンの肩はさらに小さくなる。――なるほど、言われてみれば。やーんびーえるだ、びーえる! ――各々思い付くままの小声に、にわかにさわさわと教室内がざわめきに染まる。僕はといえばまだ未読の部分からの質問に、(へえ、そうなのか)と思うばかりだ。あちこちで湧きあがり始めた会話に女生徒は少し迷っていたが、やがて逃げるように座ってしまう。
「……質問は以上か?」
問い掛けからたっぷり六十秒は経っただろうか。ぼそり落とされた返答に、うるさくなりかけた教室にすうっと、また静寂が戻ってきた。
眼鏡の奥の瞳が今しがた座ったばかりの質問主を見る。感情の一切感じられない声と目に彼女はハッとし、十月の空気は急激に、その温度を下げたようだ。
「悪いが俺はそういった研究については専門外だし、質問自体、本講義において問題にすべきものではない」
「あっ・あの、すみま、せ……!」
「が、それでも敢えて、ひとつだけ答えるとしたら」
慌てる女生徒を尻目に、言葉を区切るようにして彼は言う。話しながらも教卓の縁を掴んでいた手が外され、戻ってきた体重に教壇に立つその体が静かに起こされた。
不意を打つかのように長い腕が、スッと動く。ゆっくりと、しかしどこまでも優雅な仕草で彼は折り上げていたワイシャツの袖をのばすと、白い指先で小さなカフスボタンを器用に摘み、返した手首の裏側で丁寧に留める。
「……彼が後先考えず、心の儘に電車に飛び乗ってしまったのは、ただひたすらに彼が若く、幼かったからというだけだ」
袖を直した腕を下げ、おもむろに彼は言った。
「馬鹿で、愚かな子供。たとえ彼等の間にあったのが『友愛』以上のものだったとしても、それは一時的なものだ。熱はいずれ冷める。優先すべきものを見誤り、間違いを選んでしまった彼は、だから結局、【先生】の死にも間に合わなかった」
物語から読み取れるのは、それだけだ。黙る一同に向け、彼は言い切る。ぴくりとも動かないその美形が、酷薄な言葉に更に冷たく、生気を欠いているようだった。
では本日の講義はこれまで。後は各々教務課の掲示板を確認しておくように。
そう言っては流れるような動きでテキストをまとめると、彼は小脇にそれを抱え、教卓から離れるべく一歩を踏み出そうとする。

「――わかんねーってば、そんなの」

静まりかえったままの教室に、声が上がったのはその時だった。教室の一番後ろ、皆から少し離れて座るその人物は、同じ学科の一年生だ。
金髪に碧眼という華やかな風貌を持つ彼はしかし、相当な苦学生であると噂されていて、日々バイトに追われているらしく大学にも滅多に現れることがなかった。そういえば彼、今までこの講義どうしていたんだろう? 珍しいその姿にふと思う。ミスター・アンドロイドは出欠も厳しい。なのにここで彼を見掛けるのは、考えてみたら初めてかもしれない。
「どういう意味だ」
ホワイトボード前の横顔が、冷ややかに言った。
静かに向けられる視線。長い前髪から覗く細い眉が、ぴくりと小さく尾を上げる。
「講義は終わりだ。早く教室を出ろ」
「『だから』って何だよ……間に合わなかったなんて、そんなのわかんねえってば。ムリでしたなんてこの本の中には、どこにも書いてねえし」
出席はしていなくても、どうやら提示された作品はちゃんと読んでいるらしい。ゆるく孤をかく長机の上、置かれた文庫本にそう言い切ると、彼は軽く背を反らし腕組みをした。オレンジ色したブロックチェックのネルシャツが、大きな窓を背景に肩を怒らせている。壇上を睨む青い瞳はただひたすらにまっすぐだ。対峙する黒の眼差しにも、まったく怯む様子はない。
「くだらないな」
底を這う声で、フンと鼻を鳴らしその人は言い捨てた。
「馬鹿馬鹿しい。子供の屁理屈か」 
「……知らねえってばそんなの、書かれてないもんは書かれてないんだから!」
「【遺書】と書いてある」
「それがなんだっての、作者が付けたタイトルだろ」
「作者を疑うのか?」
「ちがう! そうじゃなくて」
「いずれにせよ、結果は同じだ。【先生】が死を選ぶ事に変わりはないし、【私】はそれを止める事はできない」
わかったら、君はさっさと仕事に行きたまえ。
打ち切るようにそう言うと、助教授は口を噤み、すいっと横を向いた。長い脚が今度こそ一歩を踏み出す。男子生徒の真剣さといつになく声を大きくする助教授に、教室内にいた生徒達は皆圧倒され、動けなくなっていたが、その一歩にようやくホッとしたかのように、止めていた息を吐いた。
「――けど、オレだったら!」
ざわめきを取り戻しかけた教室に、再び声が響く。またしてもの反論に、席を立ちかけていた一同ははたとして、ぴたりと動きを止めた。
オレだったら全部、間に合わせてみせるってば。
静まり返った教室で金髪の彼だけが、迷いのない動きですっくと立ち上がる。
「あとで行きます、研究室」
ようやく出た丁寧語が、距離に負けない確かさで告げた。……必ず、行くから。そう言ってはさらに真摯さを増した声に、壇上にいる助教授はじっと黙ったまま、時を止めたかのように動かない。
綺麗すぎる横顔はやはり整ったままだったが、つくりものめいていたその頬にはほんのわずか、先程までとは変わって朱い血の気がさしたようだった。結んだ唇に決意をみなぎらせる男子生徒は、それを何も言わず見詰める。
……なんだよ、もう。そんなふたりに、ため息の合間、僕は思う。
 
どうやら秘密があるらしいのは、小説の彼等ではない。
このふたりだ。








【end】
2017.10.8発行の執筆者非公開小説アンソロジーに参加させていたださせていた際に寄稿したもの。「どうやら秘密があるらしい」というフレーズが冒頭シーンに必ず含まれる事、というのがルールでした。名前を伏せての掲載だったので、ショート・ショートを意識したり、いつも自分のタイトルは短かめなので撹乱を狙ったりといろいろしてみたのですが、こうして読み返すとたいして効果ないですね…。「このあと無茶苦茶~」のフレーズ(流行っていた)に繋がるようなお話を書きたかったので、そこはまあ満足かなと思っています。
苦学生ナルトの出欠事情については、四月に彼がうちは先生に直談判した結果、裏で個人授業をつけてもらうことで都合をつけていたのでした。
まあそんなプライベートレッスンしてたら色々生まれちゃうよね。ナルトとサスケだからね。
もちろん彼等には、このあと研究室でぐちゃぐちゃになって欲しいです。