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「サスケェー!!」

いつも通りの時間に家を出たサスケが門を抜けて自宅前の路地に出ると、甲高い舌足らずな声が追いかけてきた。がっしょがっしょと斜めがけにした通園バッグを発信源とした賑賑しい音が近づいて来たかと思うと、おぉ~は~よぉ~!!という声と共に黄色い塊が容赦ない勢いで制服の背中にぶつかってくる。
ほぼ毎朝のこの儀式にすっかり慣れたサスケは、少し背中をしならせてそれを受け止めるとぐるりと向きを変えた。
はふはふと息を上げているヒヨコ頭のこめかみに、ぐりぐりと拳骨をねじ込む。
「お前な、往来で人にぶつかってくんなって何度言ったら解るんだ」
「いてててて!」
痛いと叫びながらも声が笑っている。仕置が全く効果ないのも毎朝の事だ。
「いつもごめんだってばね~サスケ君」
苦笑しながら隣の家から赤毛を束ねた女性が出てくる。ほら、ナルト離れなさい!と一喝すると、引き剥がすようにヒヨコ小僧の園服の首根っこを捕まえた。

  * * *

うずまき一家がとある地方都市に建つうちは邸の隣に越してきたのは、靄掛かる柔らかな春の空気に街が丸ごと包まれたような、そんな初春の頃だった。
引越してきた日の夜、背の高いハンサムな父親と、気風の良さそうな赤毛の母親に伴われてうちは家に挨拶にきた子供は、モジモジとジーンズの母親の足の後ろで所在なさそうに立っていた。応対に出たサスケの母親に何やら話しかけられると、恥ずかしそうに母親の影に隠れたまま片言の言葉で答える。

……すげえ、お人形さんみたいだな。

廊下の奥でそれをそっと覗いていたサスケの、その子供への第一印象はこれだった。
ふわふわと揺れる金髪。ふくふくとした頬は滑らかで、ほんのりピンクに染まっている。
何より印象的だったのは、とびきりきれいに透き通った青い瞳。
金の長い睫毛に縁どられた碧眼を眺めて、サスケは引き出しの奥にしまってあるビー玉を思い出した。日に透かすと青く輝くそれはサスケのお気に入りであったが、あの子の目には劣るかもしれないとこっそり思う。
「……新しいお隣さん?」
二階の自室から降りてきた兄のイタチが、階段脇に隠れるサスケに声を掛けた。そうみたい、と返すとへえと感心したような声をあげる。
「キレイな子だな」
「……うん」
「二歳くらいか?」
「さっき三歳って言ってた」
「ふうん。しっかり守ってやらないと、あっという間に悪い虫が付きそうだ」
兄の発言に「は?」と振り返ると、至極真面目な顔でイタチが金髪の子を見つめている。悪い虫って…………悪い虫??
「……いやあれ、男の子だろ」
「あれ?そうか?」
学力では飛び抜けて優秀な五つ年上の兄は、時々とんでもなく天然だ。この時も真顔で驚いているイタチを眺めて、サスケは軽く溜息をついた。玄関先ではにかんでいる子供は確かに大層可愛らしかったが、短い髪や意思の強そうな眉には男の子特有の負けん気が現れている。どう見ても、女の子とは間違えようがないと思うのだが。
「なんだ、男の子だったのか」
興を削がれたかのようにイタチが呟いた。サスケが見蕩れてたから、女の子かと思った。
「……兄さん!?」
「そうか、残念だったなサスケ」
「いや、そうじゃなくて!見蕩れてなんかいないし!!」
「いやいや、心ここにあらず、って感じだったぞ?」
からかうような色を乗せてイタチが笑う。この人は勉強のしすぎでとうとう頭がどうにかなってしまってきているのではないだろうか。俄かに血がのぼってきた頭を必死で自制しながらも、サスケは自分の顔が熱くなっていくのを感じた。
奥で騒々しくなってきた二人に気がついて、母親のミコトがこちらへいらっしゃいと呼んだ。なんとなく決まりの悪い気分で、サスケは含み笑いをやめない兄と共に新しい隣人達の前に進み出る。
「これが先ほど言いました兄のイタチと弟のサスケです。二人共、こちら、うずまきさんよ」
「はじめまして、イタチです」
「……サスケです」
「はじめまして。うずまきミナトと言います。こっちが妻のクシナ、それと息子のナルトです。うちはさんのご兄弟とは少し年が離れちゃってるけど、仲良くしてやってね」
金髪のハンサムは長身を折って礼をしながらそう言うと、ほらナル君もゴアイサツだよ、と後ろを振り返って声を掛けた。クシナと呼ばれた母親の後ろから引っ張り出された子供は、突然現れた黒髪の兄弟に少し緊張した面持ちで二人を見上げる。
「……うじゅまき、なると、です」

よろしく、おねがいします、……ってば?

家で練習させられてきたのだろう、間違えないよう丁寧に定型文のような挨拶を言い終えると、小さな子供は「ふふう」と安心したような声を漏らして笑った。途端、人形のように見えた顔に、生き生きとした表情が現れる。
……それはビー玉なんかとは比べ物にならない位、明るく透き通っていて。
綺麗な空色の瞳がきらきら輝くさまに、サスケは文字通り心奪われたまましばし見蕩れた。



「あのさ、あのさ!きのうさ、ようちえんでボーサイキョーシツってのやってさ!」
クシナの手から逃れた途端、興奮気味にしゃべりだす幼稚園児をサスケは見下ろした。
あの夜から早二年。ナルトがお人形さんみたいだという第一印象はかなり初期の段階で完全に崩壊しており、今ではこの金髪碧眼の子供が完全な突進型小僧であることをサスケは知っている。整った外見に反して、実際のナルトは常にリミッターの外れた好奇心と根拠のない自信に突き動かされる、果てしない行動力の塊のような子供だった。意気投合した母親同士に連れられて、お互いの家を行き来してはちょくちょく一緒に夕飯を食べたりしているうちにすっかり懐かれてしまったのだが、知れば知るほどあの春の夜にこれに見蕩れた自分を罵倒したくなる。

ああ、あん時のこいつ、マジで可愛かったのになあ。

鼻の穴をふくふくと膨らませてしゃべり倒すナルトを眺めて、サスケはこっそり溜息をついた。虚像を崩されたナルトは、もはやサスケの目にはただのちんちくりんにしか見えない。
……まあ、仕方がない。
ひとりっ子のナルトはお隣のうちは兄弟をいたく気に入っているが、去年の春に都内の大学に進学したイタチが家を出てしまったため、サスケ一人がこの小型爆弾のような子供を相手にしてやらなくてはならないのだ。この二年の間に、小学生だったサスケは中学へと上がり背丈もそれなりに伸びたが、それを遥かに凌駕する勢いで幼稚園児の体力は日々鍛えられつつあるようだった。
「……イタチめ、春休みは絶対に付きっきりでこいつの相手させてやる……」
「ねーねーねーサスケってば!!」
きいてる!!?と一際大きな声と共に学ランの裾がぐいぐいと引っ張られた。力に遠慮がない。
「聞いてるって。防災教室だろ?」
「そう!そんでさ、『レスキューたいいん』って人たちが来てさ、すっげーの!!」
「ふーん」
「ちょーチカラモチでさ、かけっこも速くてさ、とにかくもうオレってば決めたんだ!!」
「……何が?」
「おっきくなったら『レスキューたいいん』になるんだってばよ!!」
「へー、がんばれよ」
「……でもさ、でもさ、オレってばそれでちょっと困ってるんだってば」
モジモジと足をすり合わせて俯いたヒヨコ頭を、サスケは見下ろした。
いたいけなつむじ。
襟から覗く首が驚く程細いのを発見して、よくぞこれだけ動き回る頭をこの首が支えていられるものだと不意に感心する。
「オレってば、もういっこなりたいものがあってさ。どうしたらいいのかな」
「へえ。他にもあんのか」
何になりたいんだ?と他意もなくサスケが問いかけると、すべすべした頬にぱっと赤が散った。
決意したようにきゅうと唇を結ぶと、「みみ、かして!」と顰めた声で叫ぶ。
やれやれと内心思いながらも園児の高さに合わせてしゃがみ込むと、黒髪を掬うようにして片側の耳を小さな手がそっと囲ってきた。まだ冷たい3月の気温に、サスケの耳は冷たくかじかんでいるというのに、ぷくぷくとしたナルトの掌は温かくほんのり湿っている。
子供体温。小さな体内でめぐるましく生み出された熱が、薄い皮膚を通し伝わってくる。

「あのさ、……おれってば、おっきくなったらサスケになりてぇの!」

湿度の高い吐息を耳に吹き込まれると、想定外の悪寒が背中を駆け抜けた。
ぎょっとして、思わず真横に来た空色の瞳を見つめてしまう。
『いつから俺は職種になったんだ』という指摘さえ思いつく余裕もないまま、サスケは一瞬本気で口籠った。しかしどうやら真剣に悩んでいるらしい様子のナルトと目がかち合うと、呆れたように言う。
「……どうせなるんならイタチの方がいいんじゃねえか?」
「イタチにいちゃんも好きだけどさ」
「あっちの方が背も高いし、頭もいいぞ?」
「――や!!オレはサスケがいーの!」

だって、サスケがいっちばんだってばよ!!!

若木のような細い脚を力いっぱい踏ん張って渾身の宣言をするナルトに、サスケはしゃがみこんだままぽかんと口を開いた。
一瞬の空白。次いで、ぶわりと熱さが頭のてっぺんにまで一気に立ち昇るのを感じる。
急に押し寄せてきた恥ずかしさに慌てて開いたままの口許を掌で覆うと、サスケはのろのろと立ち上がった。不覚にも骨抜きになった足元に、ぐらぐらと体が揺れる。
(クソ……やられた)
妙に悔しい気分になりながらもそう認めると、改めて一直線な視線でこちらを見詰める幼稚園児を眺める。春の空を映す瞳。――ガラス玉なんかがどれだけ集まろうと、絶対に敵いっこない事に、サスケはとっくに気がついている。

「……ちんちくりんがこの俺になろうなんざ、百年早ぇよ」
「?? 100歳になったらサスケになれるってこと?」
「…………ばーか」

むうっと膨れた頬を、開いた二本の指で軽く押しつぶした。
『ぷふー』と可笑しな音をたてて、産毛に包まれた頬に詰まった息が尖った唇から噴き出す。
ナルトナルト、バスが来るってばねー!と遠くで叫ぶ、クシナの声。
その声にぱっとサスケの手を払うと、ナルトは「イーッだ!!」と顔いっぱいでしかめっ面を拵えた。

「バカスケ!!オマエなんかやっぱキライだぁ!」
「そーかよ、そりゃどーも」

黄色い園バッグをがしゃがしゃ云わせて、園服の後ろ姿が遠ざかっていく。
どこかで沈丁花が咲いているのだろう。青みがかった甘い香りを乗せた風が、肌を擽る。
……長い休みに入ったら。
ナルトと二人で、一人暮らしをするイタチの所へ突然押しかけてみようか。
唐突な思いつきに、ムズ痒い鼻先をこすりながら思わずひとりニヤつく。さすがに驚きを隠せないであろう兄の顔と、新幹線の窓に張り付いて目を輝かせるナルトが目に浮かぶ。


春が近い。
くすぐったいほどにやさしい季節が、またやってくる。







【end】
全力少年ナルト。彼はこの勢いでぐんぐん大きくなっていくので、そう遠すぎない未来、ぼやっと社会人になったサスケと一気に形勢逆転するのは時間の問題でしょうね。ちなみにイタチは大学で物理系の研究してる設定でした。

タイトルは「3月2日」に限らずどう読んでいただいても。何の記念日でも誰の誕生日でもない、なんでもない一日を選んだだけですので、読んでくださった方それぞれの「ある日」を入れていただければと思います。