吹き飛んでいく景色の中、視界を掠めたのは黄味がかった薄紅色の小さな膨らみだった。
ふと止められた足に、一歩先を駆けていた同行者が振り返り、黒檀の視線の先にあるものに気がつく。
「お、さすがに目敏いな。あれってばちゃんと食えんだぜ」
言うが早いか、すぐさま地を蹴った長身がその小振りの実が成る樹木の側に立った。ざっと見渡し色付きの良いものを選ぶと、手にしたクナイでぶつんとその実を落としていく。
「……っしゃ!!今日のデザートゲット!」
これ後で、一緒に食おうぜ!
そう言って相好を崩す男に「いらねェよ」と素っ気なく応えると、日を浴びた頬が苦く笑った。
山際に落ちかかる、最後の陽が赤い。
見せびらかすように差し出された大きな手のひらの上で、金の産毛に包まれた果実が数個、節のある長い指に器用に包みこまれていた。
* * *
大戦から7年が経ち、一応の落ち着きを取り戻した世は逞しい成長と回復をみせていた。
終戦直後、『火影になるって言ったって、お前らはまだ下忍だろう。いくら力があるからと言って、まだケツも青いような若造共が勝手な事を言ってるんじゃないよ!』と美しき火影にぐさりと釘を差された木の葉の双璧も、今や努力の甲斐あって立派な上忍である。
「あっちィ……風呂入りてェな」
「まーまー、こんだけ暑かったら水でも全然いいってばよ。どっか水浴びできて、ついでに寝床も作れるとこがあるといんだけど……」
次第に闇が濃くなっていく夜の森に、ナルトは今夜の宿営地を探すべく辺りを見渡した。上げた顎の先、茂った木々の隙間に瞬くのは夏の大三角だ。着込んだベストの内側、塩気でベタつく背中が気持ち悪い。研ぎ澄ました感覚の近くに水の気配を察して、ナルトは隣に立つ相棒に笑いかけた。
「川の音がするし、多分汗を洗い流す位はできるってば」
「つーか、もっといい場所がある。……まだ、残っていればだが」
「付いてこい」と言って高々と木の幹を蹴って飛び去る黒い影に首を傾げつつ、ナルトはその足に置いていかれないよう慌てて地を蹴った。相も変わらず、彼はこちらのペースなんて一向にお構いなしだ。自分のスピードに信を置いてくれているからなのかとほんの少し己惚れてもいるが、確認した事はないので実際のところは不明である。
風が耳を掠めていく音を聴きながら目を凝らすと、細い体躯が滝壺の脇に静かに降り立つのが見えた。轟音と共に落ちてくる大量の水を、確かめるように見上げる黒の双眸に声を掛ける。
「サスケ?」
「……やっぱ、ここだ」
そう言って跳躍したサスケは、滝の落ちてくる岩場を軽々と駆け上がると勢いよく流れ落ちてくる水の帯の裏にすいっと消えた。驚いたナルトの目に、コイコイと水際から手招く白が映る。先に消えた彼を追って岩を蹴り霧を散らす落水の影に入ると、驚いたことにその先には洞が続いており、奥には簡単な寝床らしきものまで用意されているようだった。日差しを知らない空気を閉じ込めた空間には、落ち続ける水流が作り出す清涼な風がほのかに漂っている。
「うお…涼しー!!なんだってばよここ、秘密基地!?」
「そんなたいしたもんじゃねェよ。……でもまあ、当たらずとも遠からず、ではあるか」
昔、ここで修行してた事があんだよ。
リュックの肩当てを外しながら素っ気なく言った言葉を理解するのに、ナルトは僅かな時間を要した。昔?修行?と順に考え、この地が昔『音隠れの里』と呼ばれていたのに気が付いたところで、ようやく思い至る。
ああ、昔って――里抜けしていた時、という意味か。
「……そういやそんなこともありましたねェ」
ニヤニヤしながら揶揄すると、鉄面皮の頬がぴくりと動いた。さすがにちょっとバツが悪いのか、「…昔の話だ」と小さく鼻を鳴らすと、汗で湿った任務服の上をばさりと脱ぎ捨て洞の入口を塞いでいる水の壁に向かう。腰を折り、勢い良く流れ落ちる清水に躊躇なく頭を突っ込むと、しなやかに引き締まった後ろ姿がざぶざぶと肩まで水で濯がれながら、頭を軽く左右に振るのが見えた。星あかりに透かされた水の中、急流に嬲られた黒髪が水中花のように揺らめいている。
リュックに括られたカンテラを外しながら、ナルトは脱いだまま荷物の上に広げるように置かれたジャケットをちらりと見た。着込まれた風合いの中に、所々微かなほつれが見える。熟れた様子の仕事着に、ナルトは彼が戻ってからの年月に思いを馳せた。サスケが再び木の葉の額当てを締めるようになってから、早7年。いつの間にか、それは彼が里抜けしていた年月を倍にしてもまだ足りない程になった。
「――サスケ、火」
呼びかけに振り返ったサスケは、振り払った頭で雫を飛ばしながら悠々とした足取りでこちらへ向かってきた。その傲岸かつ優雅な佇まいに、今日もナルトは密かに感嘆する。……まったく、腹立たしくなるほどに綺麗な男である。水も滴るいい男とは本当によく言ったもので、ただ濡れているというだけで圧倒的な色気を醸し出すその風貌は、まるでひと振りの稀なる刃のようだった。触れれば瞬時に切り裂かれるであろうと解っていても、その裂傷さえも悦楽の内に溶けてしまうのではないかという、危うい誘惑。
しかしてその怜悧な美人はカンテラを構えるナルトの前に雑にしゃがみこむと、素早く印を結びそよ風のような吐息をブリキの灯火器に吹きかけた。ふぉ…と小さな火炎が巻き起こり、それは油の染み込む布芯の火種となる。
「くっそ暑いってのに、こんな事でわざわざ火遁なんてやらせんじゃねェよ」
「いいじゃん、この方が早いし、それにここスゲー涼しいし……オレってば、オマエの熾した火ィ見んの好きなんだってば」
低く毒づくサスケに悪びれる事なくにかりと笑いかければ、まだぽたぽたと水滴が落ちている横顔が小さく舌を打った。しかし本気で不快に思っているわけではない事は承知の上なので、ナルトは今更気にしたりしない。今のは「満更でもない」が混じった「ちっ」だ。
「メシは?」
「サクラちゃんお手製兵糧丸。夏バテ防止の為、滋養成分増強中だって」
「へー……それはそれは」
サクラ印の兵糧丸は、効能は素晴らしいが味に保証がない。引き攣った笑顔であぐらをかいたサスケに桜色の包みを渡すと、彼は黙ってそれを受け取った。文句のひとつでも言おうものなら、肋の一本や二本は諦めなくてはならない事をよく承知しているのだ。気が付けば何故か三人の中で一番の権力者となっていた、憧れの女の子。医療スペシャリストとして後進の指導にあたる事が多くなった最近は、彼女が現場に出ることはめっきり減った。
……代わりに二人きりで任務に就く事が増えたのは、喜ぶべきか、嘆くべきか。
「――ああ、さっぱり!今日もほんっと暑かったってば」
「もう、七月も半分過ぎたからな」
実に大雑把で男らしい沐浴をしていた彼に倣い、しばし滝に打たれてから雫を落としつつ戻ってきたナルトの言葉に、兵糧丸を飲み下したその口がこれから更に増していくであろう暑気にげんなりするように言った。彼が暑さに弱いのを知ったのは、もう10年も前だったか。同じチームになってすぐの頃も、よくこうして気温の高い季節にはぼやきを口にしていた。背を向けて座っている、上を着ないままの白い上半身が闇に際立っている。雪原の背中はそのままだが、浮いた背骨は記憶よりもずっとしっかりとしたつくりに成長しているようだった。
「そうだ、七月だってばよ。……オマエ、もう24歳になった?まだ23?」
「なんだ、しつけェな。まだそんな事気にしてたのかよ」
飽くことなく毎年この時期になると投げかけている質問に、サスケは微かにその表情を顰めた。この恒例行事の始まりは、まだ下忍になりたての頃……他愛ない話の流れから7月生まれだと告白した彼に、誕生日を訊いたのが始まりだ。「誕生日なんて忘れた。月だけ覚えてりゃ十分だろ」と素っ気なく跳ね除けられて以来、未だに彼から自分の生まれた日がいつなのかを教えて貰えた事がない。
「どうだっていい事だから忘れちまった」と言われた時はうっかりそれを信じてしまったものだが、よく考えたら登録やら健康診断やらで自分の生年月日を書く機会はちょこちょこあるし、そんな器用な物忘れあるはずがないのだ。……と、いうことはつまり、自分はこの質問からうまいことはぐらかされただけだということで。
里に戻ってきた彼にも毎年性懲りも無く尋ねているが、やはりその答えはいいように誤魔化されたものばかりだった。ここ数年に至っては、なんだかもうお互い意地になっているだけのような気配さえある。教えて欲しいナルトと、教えたくないサスケ。二人共成長がないですね馬鹿なんですか?としれっと評したのは、掛け持ち班員の暗部部隊長だ。
けれど最初に尋ねた時、彼が何故誕生日を教えてくれなかったのか。その理由だけは今のナルトにはなんとなく予測できていた。
大切なものが増える事を極端に嫌っていた、無愛想な少年。
……多分、彼は恐れていたのだ。誕生日を祝ってくれるような、親しい友が出来る事を。
そんな仲間達に囲まれて、復讐を忘れ安穏としてしまうかもしれない、自分の事を。
「……いンじゃねェの、もう。今聞けなくても、お前ならもうじき俺のデータなんていくらでも見れるようになんだろが」
――だろ?時期、火影サマ。
背を向けたままで告げられた言葉に、ナルトは一瞬喉を塞がれた。
戦禍の只中、「火影になる」と宣言した彼と、互いに競い合ってきたこの7年。ようやくその決着が着いたのは、つい先日の事だ。最終的な火影候補としてノミネートされていた二人を待たせたまま、普段よりも随分と長引いていた幹部会議は、中での激しい争論を物語っていた。
そうして、やっと呼び出された執務室。
強く美しき火影の朱の唇から告げられた決定に、彼は深々とその頭を垂れた。あまりに美しく潔いその所作に、拝命を受けたナルトの方が、彼に見惚れたまま礼を返すのを忘れた程だ。
「……そーゆーんじゃなくて。オレってば、オマエに、オマエ自身の口から誕生日を教えてもらいたいんだってば」
「なんだそれ。相変わらずくだらねェことにばっか拘ってるんだな、お前は」
微かに尖らせた口のまま隣りに座り込めば、少し目を伏せたサスケが鼻白むように言った。きっと彼の言う「くだらないこと」の中には、彼自身の事もカウントされているのだろう。ナルトの脳裏に、かつて自身が文字通り命をかけてこだわり抜いた、とんがった表情と、どうしようもなく繊細そうだった幼いまなざしが蘇った。憧れて憧れて、どこまでも追いつきたかった遠い後ろ姿。力では対成せるようになった今でも、その憧憬はナルトの中で微塵たりとも色褪せることがない。
「ごちそーさん、……つっても、やっぱ兵糧丸だけだとちょっと口寂しい感じだな」
「あ、さっきのヤツ食おうぜ。あれだったら多分、お前も食えるから」
そう言ってポケットからごろごろと取り出された果実を、サスケは胡散臭げな視線で検分しているようだった。「なんなんだ、それ」という声に「野生の桃だってばよ」と答える。桃と聞いて蕩けそうに甘い果汁を思い出したのだろう、眉根に皺を寄せたサスケにナルトは「あ、これ全然甘くないんだってば」と先回りするように言った。子供のゲンコツ程しかない小振りな膨らみは、食卓で提供されるような桃とは違い随分と硬そうであるし、色もお世辞にも「桃色」というには余りに黄ばみが目立つ。所々まだら焼けしているかのように桃色が混じっているのが、ご愛嬌といった感じだ。
ナイフを繰り、林檎の皮を剥く要領で手の内で器用に裸にされた桃の実を、ナルトは削ぐようにしてひとつ切り分けた。
「ほれ、口開けてみ?」
「……ホントに食えンだな?」
「だいじょーぶだいじょーぶ、間違いないって」
薄く開けた口許に切り取った果物を差し出すと、緋の唇からこぼれ出た真っ白な歯がさくりと一口、肌色の果肉を齧り取っていった。
さく、さく、とゆっくりと咀嚼する仏頂面が、飲み下す頃にはかすかな驚きを示す。
「……なんだこれ。甘いんだけど、甘くない」
「――な!?そうだろ?」
悪くないな、これ。
彼にしてはかなり高評価なコメントに、ナルトは心密かに快哉を叫んだ。さっぱりとごくごく薄い甘さのみをのせた初々しさ溢れる美味に、さしもの甘味恐怖症も感服したようだ。そのままナルトの手に残る半かけもつまむように獲っていくのを受けて、空いた手で再びナイフを使いナルトは自らもひと切れ口に放り込んだ。硬めの果肉は果物というより、瓜や冬瓜のような水物野菜に近い。だが甘やかな風味は間違いなく食事の最後を飾るに相応しい、デザートとしてのそれであった。山野の恵みの中で育まれた自然な甘さは、舌にあえやかな感動を残してするりと喉を落ちていく。
「野生の桃なんて、よく知ってたな」とちょっと感心するようなサスケに「下忍の頃、組んだチームの中に植物に詳しいじーちゃんがいてさ。その人に教えてもらったんだってば」と種明かしをすると、へえ…と物思うような相槌が返ってきた。
回転の早い彼だ、多分今の発言だけで、それが自分が里を離れている期間の出来事であることに気がついただろう。サスケがいた頃、任務は殆ど第七班で行っていたし、帰還後も下忍でいたのはほんの僅かな期間しかない。
「よかった、これ絶対いつかオマエにも食わせてやりたいなって思ってたんだよな」
動きを止めない端正な口許に嬉しそうに目を細め、ナルトが感じ入るように言った。切り分けるのを待ちかねているのか、無骨な手元を覗き込んでいた黒が、訝しげに上げられる。
「ハァ?なんで」
「ほら、昔さ、七班で吊り橋の復旧作業の任務に行った事があっただろ?カカシ先生とサクラちゃんが監視役で、オレとオマエが土木作業の手伝いしてて」
「……あの山賊警護も入ってたやつか」
「そうそう!そん時にさ、依頼人に桃を貰ったの覚えてる?」」
二つ目の桃にナイフを入れるナルトを眺めながら、サスケは記憶の引き出しを探った。
そういえば、そんな事も、あった……だろうか。
「あん時さ、サスケ甘いのダメだからって、折角の高級桃なのにひとくちだけしか食べらんなかっただろ。桃ってスゲーうまいのに、食えないなんてどんだけ不憫な味覚してんだろって」
「なんだそれ、余計なお世話だ」
返された悪態にも囚われず、小麦色の頬を緩めてナルトはニヤリと口の端を上げた。「だから初めてこの桃食べた時、『これだったら!』って思ったんだってばよ」と笑う。
「……ホント、くっだらねェ事にばっか、拘ってんだな……」
ナイフに乗せられたひと切れをまた摘みながらそう呟かれるのを聞くと、僅かにムッとした様子のナルトが顔を上げた。「オレにとっては、くだらない事なんかじゃないんだってば!」と少しムキになった頬が膨らむ。
誕生日の事も、彼に食べさせたかった桃の事も。
ぜんぶぜんぶ、オレにとっては本当に特別な事なのに。
「サスケ」
「なんだよ」
「あのさ……なんで、補佐の辞令、受け取ってくんなかったんだよ」
――それは今日一日、ずっとナルトの胸に閊えていた問いだった。
時期火影として新体制の面子を選べと言われ、議会や上層部を通して各自に辞令を出したのが数日前。我ながら完璧な人事だと満足感に浸っていたところに、火影補佐に任名したうちはサスケより辞退の申し出があったと連絡を受けたのは、昨日の事だ。
ショックだった。昔のままならいざ知らず、今の自分は曲がりなりにも上忍という肩書きもあるし、それなりに周りからの信頼も厚いと思っている。彼を追い抜かしたとは言えないかもしれないが、負けてはいないという自負もある。しかしここまできてもやはり彼は、形の上とはいえ自分の下に就くのは嫌なのだろうか。彼を従えようと思っているわけじゃない、ただ、一緒に並んで立ちたいだけなのだ。彼もきっと、それをわかってくれていると思っていたのに。
……ずっとずっと、あの毅然とした背中の隣に並び立つ事に憧れていた。自分にとっては、きら星の如き夢だ。
大戦の後、里に戻ってきた彼と火影の座を賭けて競い合いながらも、着実に夢に近付いているのが感じられて本当に嬉しかった。もし彼の方が火影になったとしても、きっと同じ選択をするだろうと。そう、自惚れてもいた。
見てきたものは違うけれど、自分達は同じ景色を目指していると思っていたのに。それさえも、自分だけの勝手な思い込みだったのだろうか。
「……別に。俺は俺の、行きたい道に行こうと思っただけだ。お前に決められるような事じゃねェよ」
ひやりとした光沢をのせる石の壁に視線を漂わせて、サスケは静かに答えた。逸らされた視線に、ナルトは妙な胸騒ぎを得る。
「オマエまさか、また里抜け……!?」
「……っざけんなよテメエ、喧嘩売ってんのか!」
今更んなことするかよ、と不貞腐れたような横顔に少しだけホッとして、ナルトは上げかけた腰をゆるゆると下ろした。でも、じゃあ、どうして?
「オレにはわかんねーってば、サスケ。行きたい道って、それって目指すところは、オレのと同じじゃねェの?」
「……ああ、それは、そうだと思う」
「――……っ、ならさァ!!」
納得いかない様子で尚も言い募ろうとするナルトに、黒髪の麗人は深い息をついた。
気の進まない雰囲気を全身に漂わせながら、仕方なくといった調子で言う。
「――ナルト」
「なんだよ」
「お前、俺の事、ものすっっっごく好きだろ?」
出し抜けに言われた言葉に、ナルトは硬直したまま声を失った。
……いや、いやいやいや、ちょっと待て。今なんと?
「ハァ!?な……なに言っちゃってんだオマエ、ふざけんなって!」
「…………ダダ漏れなんだよ、お前」
「――どこが!!?」
「……だから、そーゆーとこが、全部」
濡れ髪をやるせなく掻きあげるサスケを前に、金髪の下がみるみる真っ赤になった。赤らんだ顔もそのままに、動揺を隠せない様子の次期火影は必死で声を搾り出す。
「……好き、とか。そんなんじゃねーし!」
「いや、好きだろ。ベタ惚れだ」
「おっま……!――…自分で言ってて恥ずかしくねぇの?」
「仕方ないだろが、事実なんだから」
「だから違うって!!」
「……そうだな、違ってたらよかったのにな」
「惚れっ、惚れてるって…そりゃ仲間として信頼はしてるけど!オマエ追っかけンのに青春の殆どを費やしちまったけど!……でも、ものすっっっごくって、だって、だってさァ――……っ!?」
……煩悶しながら喚き散らした声は、不意に響いた「ちゅぷ、」という淫靡な水音に呆気なくかき消された。切り分けた果実を摘んでいたはずの指先に突然の温もりを感じ、ナルトは信じられないような思いでそこを見る。
硬い指先を果肉ごと咥え込む、赤い、唇。
センセーショナルなその光景を目にした瞬間、下半身にずくんとした甘い痛みが走った。
白蝶貝みたいな歯に、かぷりと指の付け根を噛まれる。白い頬の内側に隠された指の腹が、ぬめる舌の付け根にしっとりと埋もれるのを感じた。
……あつい。あついあついあついやわらかいなんだこれとんでもねェよ……!!
ダイレクトに刺激された視覚は短い爪に濡れて絡む淫靡な舌先にクギ付けになったまま、最早一寸たりとも動かせない。
「……バーカ。こんなんで、勃たせてんじゃねーよ」
ほらな、と言って離れていったその口が、しゃくしゃくと果肉を噛み砕きながら呆れたように言った。
その声にはっとして、ようやくナルトは自分に起きた事を知る。
胡座をかく任務服のズボンの前では、生地を張り上げた素直な股間部が見下ろせた。わかりやすく膨れ上がって欲情を訴えているそこに、恥ずかしさと悔しさと居た堪れなさがカオスになって一気に押し寄せてくる。
「おっ、まっ、…なっ…にすンだよォ!!」
「何って、言葉で聞かせてもわからねェみたいだから、目で見てわかるようにしてやっただけだ」
「――ハァ!!?」
「だから……自覚、しろよ。俺がお前にとって、どうしようもなく特別な人間だってことに」
やれやれというように視線を下げたサスケは、完全に臨界点を突き抜けている様子のナルトに最後通牒じみた言葉を告げた。
カンテラの炎に照らされた頬に、黒々とした長い睫毛の影が落ちる。
「いいか?もし俺が、お前の補佐になったとする。補佐ってのは、火影を助け、守り、その手足となってやるべき事を恙無く執行するべき存在だよな」
「……そうだってばよ?」
「忍が忍である以上、どうしたって後暗い仕事だって受けなきゃなんねェ。火影になれば、今以上にそういう部分が目に入ってくるだろう。場合によっちゃ自らがその闇を担わなきゃなんねェ時もあるかもしれない。そういう時、お前俺を使う事できるかよ?」
「そん、なの――サスケにやらせる位なら、オレがするってば」
「……そう言うと思った。ったく、そんなホイホイ前に出る火影がいるかよ。それにな、もし急襲でも受けた時、お前俺を盾にできんのか?むしろ自分が前に出ちまうだろ」
「……暗部とか」
「それも越えられたら?その時最後の壁となってこその補佐だろ」
「だって……!オマエが目の前で倒れんの見んのは、もう絶対に嫌なんだ!オレってばあんな思い二度としたくないって、13の時から散々思ってきてんだって!」
悲鳴じみた大声が、静謐な岩屋にわんわん響いた。
反響が収まるのを待って、サスケが静かに「……話にならねェな」と呟く。
「……やっぱどうしようもねェドべだな、お前は。いつまで俺をそう特別扱いしてんだ」
「特別扱い?」
「そうだろ?もしお前の言う通りにして、火影が補佐を守って死んじまったら、俺はどうしたらいいんだよ。立場ねェだろが」
「オレってばもうドべじゃねェし、そう簡単にやられることはないと思うんだけど」
「――万が一、の話だ。世の中『絶対』なんて、ありえねェ」
薄い唇から吐き出されたふかいふかい吐息に、灯芯の炎が頼りなく揺さぶられた。
どうしてこの男はいつも、最悪の事態ばかり想定するのだろう。
昔から変わらないそのクソ真面目で極端な結論に、ナルトは溜息が出そうだった。自分はもう万年ドべの劣等生ではないし、彼も個人プレイばかりの独裁者ではないのだから、そうそう悲惨な状態になることはない筈なのに。そもそも危険が及ぶのがサスケでさえなければ、自分が大人しく火影らしく奥に納まっていると思っているところからして、相当思い上がった発言である事に本人気がついているのだろうか。成長して随分と大人びた彼ではあるけれど、その思考回路には相変わらず1か100しかないらしい。もう少し、あそびを持たせた考え方をしてもいいと思うのに。
やっと落ち着いてきた頭で長いこと考えた末に、ナルトはふと幾度か考えた事のあるもう一つの選択肢を思い出した。
鉄壁のポーカーフェイスを上目遣いに見詰め、期待を込めて提案する。
「……じゃ、さ。オレが火影辞退して、お前が火影になったら……オレの事、補佐にしてくれる?」
「それはしない」
鮮やかな即答。迷うことなく答えたサスケを、ナルトは愕然として見詰めた。
……えっ、そうなの?
もしかしてオレってば、相変わらずの片思い?
木の葉の双璧とか運命の二人とか色々言われてきたけど、それってば周りが言ってるだけでコイツからしたら知ったこっちゃねェよって話?大戦中からあれやこれやなんか色々あってイタチにも任せとけとか宣言しちゃって、それでもなんかやっぱり微妙に方向性が間違ってるコイツとどうにかこうにかやってきてなんかもう唯一無二の存在?熟年夫婦?な域にまでオレ達はきてると思ってたのに、それも全部オレの独りよがりな見解だったってコト?
――あれ…おかしいな。オレってばなんか、目から、水が。
「……ザァァズゥゲェェェ!!じゃあどーしろってンだよォ!」
「――だからテメエが俺以外のヤツを補佐にすりゃいいって言ってんだろ」
「どこにそんなヤツがいるんだよ!」
「シカマルでもサクラでもちっと年いってっけどこの際カカシだっていいだろが!」
「だめだめだめオレはオマエがいいんだって!!」
「だァかァら!そりゃ無理だ!!」
「じゃあオマエ火影ンなってオレ使ってくれよ!!」
「それもダメだ!――俺だってなァ、なんかあった時、お前を盾になんかできねェンだよ!!」
だよ!、よ!、よ!……と叫んだ余韻が、冷えた空洞にこだました。
図らずも崩されてしまったポーカーフェイスが、ようやく秘めておきたかった失言に気付く。
こんなこと、一生言うつもりなかった。言う必要なんてないと思ってた。
『特別な誰か』を作る恐ろしさは、自分は誰よりも知っている。
その、喜びも……失った時の、耐え難い苦しみも。
「…サスケ」
「…今のは無しだ。忘れろ」
「サスケ、それって」
「……クソッ、馬鹿に付き合ってるうちにこんな要らん事を……!」
「それってさ、あの……サスケも、さ」
「なに勘違いしてやがる、そんなわけねェだろ。くだらない事考えてる間があったらさっさと他の補佐候補のこと考え――……っ、ム!」
再びの妖しげな水音に、往生際悪く連ねられていたサスケの言葉は呆気なく打ち切られた。くん、と掴まれた後ろ髪に、望まれるがままの角度を取らされる。続く言葉を全て飲みこもうとでもするように、不埒な舌先は深いところにまで差し込まれ、遠慮のない動きで熱に溶ける口内を探りだした。上あごを擽られ、歯列をなぞられ、掬い上げられた舌を丹念に吸い込まれた末に唇を甘噛みされれば、離れた瞬間にはどちらのものともつかない唾液が銀の糸を引く。
甘い痺れに慄く背中をそっと撫でられて、サスケはやっと至近距離の青が満足気にこちらを見下ろしているのに気がついた。去っていく唇を追うように未練がましく突き出してしまった舌先に、金の影が意地の悪い、それでいて愛しくて堪らないといった笑みを浮かべる。
「やーい。オマエだって、勃ってんじゃねーか」
……特別視してんのは、どっちだよ。
仕返しとばかりに耳元で囁かれた声に、サスケはかあっと血が上るのを感じた。慌てて下を見れば、ついさっき揶揄した相方同様、軽く張りだしているズボンの生地。
ニヤつく男の裸の胸を押し退ければ、触れた瞬間その肌が帯びる高い体温が伝わってきた。
――本当に。
いつまでたっても子供体温のままなのだ。この馬鹿は。
「な、オマエさ、いい加減そーやって、その妙なネガティブ思考で突っ走んのやめなって」
「うっせ……ほっとけよ」
「わかったから。オレ火影になったら、もうオマエの前に立たない。ちゃんとオマエに守られる」
「……どーだか」
「ホントホント、約束するってば。後味悪い仕事もしてもらうし、特別扱いしない」
安請け合いするような科白の羅列に疑いの眼差しを向けると、夏空みたいな明るさでにかりと笑うナルトがいた。いつの間にか絡み取られた指がその色の薄い唇に持っていかれたかと思うと、白い指先に恭しいキスが落とされる。
――だけど、と足された言葉に眼差しを上げると、細めた青の奥で真摯に灯る、炎の揺らめきを見つけた。敬愛と思慕を織り合わせた、世界にただひとつの嘘のない光。繋がれた大きな手のひらから伝わってくるのは、揺るぐことのない信頼。
「特別扱いは、しない……けど、オマエに暗い仕事させんなら、オレも一緒にその罪を背負う。不条理もエゴが生む闇も、全部オレが飲み込む。……でもさ、頭のいいオマエだったらきっと、できるだけそういうのを防げるようないい方法を考えられンじゃねェの?オレってばやっぱ、頭ワリィのは相変わらずだからさ。オレがオマエを使うんじゃなくて、オマエにオレを使ってもらいてェの」
だから――お願い。オレを、最高の火影にして。
……それはまさしく未来の火影による、一生に一度、彼の生涯を賭した渾身の口説き文句だった。
どこまでもどこまでもまっすぐで、切ないほどに熱烈で純粋な懇願。
静寂を閉じ込めた岩屋に波紋のように広がったそれが消えてしまう前に、思わず力の抜けた白い躰が広い胸に抱き留められた。悔しいが、頑なだった心に呆気なく、風穴を開けられたのを感じる。急に通りの良くなった胸に告げられた言葉は焔となって、どうしようもない熱を伴いながら鮮やかに燃え広がっていく。
「……そういうのって、他力本願って言わないか?」
呆れたようなサスケの声に、僅かに照れた様子のナルトが肩の上で小さく鼻を鳴らした。この次期火影ときたら、どこまでウスラトンカチなんだ。言うに事欠いて、補佐に使われたいだと?
「……オマエの身代わりで、俺が死ぬかもしんねェぞ」
「……いいよ。そん代わりオレってばサスケがいなかったら生きてる意味ねェから、すぐにオマエの後追っかけるかんな?」
「……後追い前提で命張る意味あんのかよ……」
「じゃあ絶対やられちまわないように頑張ってくれって」
「なんでそんなに盲信できるんだ。言っとくが俺一応、前科者なんだぞ?」
「あんな状況下で『火影になる』とか平然と言った奴が、今更何言ってんだ」
「何度も俺に殺されかけたくせに」
「まァね。そんでもオレは何度だってオマエを信じるってばよ。……てかオマエ、言ってること支離滅裂になってんの、気付いてる?これじゃ死なせたいのか死なせたくないのかわかんねーって」
最早何を言っても平然と切り返される問答に、サスケは渋々と口を閉じた。
頬を擽ぐる金の髪がどうしようもなくこそばゆい。身勝手さでは自分もよく苦言を呈される方だと自覚しているが、やはりコイツほどではないと改めて思い知った。
――昔も、今も。
プライドなんてかなぐり捨ててしがみついてくるこの腕に、俺は勝てた試しがない。
何を言おうが、足掻こうが藻掻こうが、結局のところはこの夏空の笑顔と、暑苦しい子供体温にやられしまうのだ。
……一度位は問答無用にかっさらわれる方の身にもなってみろと、ほんの少しだけ思う。
「――23日だ」
チ、と小さな舌打ちと共に呟かれた日付に、ナルトは「へ?」と間抜けに返した。
「にじゅうさん?」
「ご所望の、俺の出生日」
「え?あ、……あ!?」
「……俺の目を盗んで、隣で勝手に個人情報見てニヤつかれてたら堪んねェからな。そんな事されるくらいなら、先に教えてやる」
「――な、なあなあ、あのさ、あのさ、それってばさァ!?」
つい口を付いて出てしまったらしい少年の頃のままの口調に、サスケはうっすらと唇をほころばせた。
夢中でしがみついてくる腕は相も変わらず、うっとおしい程の熱っぽさだ。
肌を晒したままの胸と胸が触れ合えば、いつもよりテンポを上げているふたつの鼓動が重なった。
どうやら余裕があるように見えていたのは表面だけで、実際のところは違っているらしい。そういやハッタリをかますのが得意なのは昔からだったなと気が付いて、サスケは小さく喉の奥で笑った。
変わらぬ立ち位置に気を良くして、サスケは上気する男の耳元に唇を寄せると「まあ精々俺の尻に敷かれろよ」と低く囁いた。するとすかさず蕩けそうな声が「……うん、まかしとけって」などと答えるのだから、忍界最強の男が聞いて呆れる。
「なァ、オレってばいいこと思いついた」
「あァ?」
「あのさァ、来年から7月23日は祝日にしよ。んで、里を挙げて大々的にサスケの誕生を祝おうぜ!」
「――やっぱお前、今ここでいっぺん死んどくか?」
就任前からいきなり職権乱用を目論んでいる次期火影に、サスケは軽い眩暈を覚えた。やはり絆されたとはいえこんなヤツの面倒を見る役をうっかり引き受けてしまったのは早計だったかもしれない。
先手を打って小言を言ってやろうと口を開けば、何を思ったのかナルトは初雪めいた白さの腕を素早く捉え、熱い唇を性急に深く重ねてきた。
掻き回してくる舌が甘く感じられるのは、先程まで食べていた桃のせいなのだろうか。
悪くない味わいに、サスケは満ち足りた気分のままやわやわとそれを喰む。
「……サスケ」
「……今度は何だ。またくだらねェ思い付きだったらマジで燃すぞ」
「あの…このまま、押し倒しちゃってもいい?」
「は?」
「だってオマエ、キスしてる時の顔、ちょーエロくてかわいンだって!!オレってばもう、準備万端っていうか、臨戦態勢突入っていうか…!」
「……ンだそりゃ、いきなりそこまで求めてくんのかよ。先走り過ぎだろ」
「……ええーっと……あの、もう、オトナですから」
スミマセン、と言いながらものしかかってくる躰に呆れつつ、サスケは再び落ちてきたキスを受け止めた。
絶え間なく奏でられ続けている、澄んで清い落水の音が遠くなる。
灯火器の炎に照らされて、オレンジがかった紅に染まる野生の果実が視界に入ったのを最後に、黒瑪瑙の瞳はゆっくりと、その帳を閉じた。
【end】
サスケさんお誕生日おめでとうー!!お祝いなので、褒め殺しナルトをご用意してみました。
彼が「火影になる」って言った時点で、いつか必ず火影争いの決着がつく日がくるはずで。原作がどうなるかさっぱり読めないこんな時に、無謀にもやってしまいましたよ、未来捏造……。いずれにせよサスケはきっと素直にはNo.2の地位には収まらないんだろうな……そこんとこをナルトは上手く宥めて賺してどうにかして彼を落としてくれるといいと思います。尻に敷かれてるように見せてるけど、実際のところはナルトの方が一枚も二枚も上手という。
でも本当に、二人には大戦後も生きて、正々堂々火影争いをしてもらいたいです。
その時ナルトと拮抗できる位、サスケさんが成長してくれている事を祈りつつ……(2013.7.23)
…というような事を考えていた2013。まさかあんな形で「ふたりの火影」が実現されるとは思ってもみませんでした。神の造りたもうた未来に五体投地しつつ、でもやはりこういったifにも果てしないロマンがあるなと思う毎日です。ナルトとサスケならばきっと大丈夫という、盲目的な信頼があるからかもしれない。