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「絶対に死ぬほど後悔するってばね」と真っ先に不吉な予言を宣べたのは、他ならぬ彼の母親であった。連日の暑さに束ねられた豊かな赤毛が、不安げに傾げた彼女の首に合わせ、思わしげに揺れている。
「新幹線の駅まではうちの母が送ってくれると言ってますし、イタチの下宿先まではオレ何度か行った事ありますから」
「でもね、そうは言っても小さい子連れて大移動するのって思った以上に大変よ?トイレひとつ行くのだって結構神経使うし」
「コイツもうひとりで用足せるでしょう?平気です」
数々の不安要素を列挙するクシナを前に、サスケはことさらしゃっきりと背中を伸ばしてみせた。ここ数か月でまた更に伸びた身長は、きっと渋る彼女を頷かせるのに幾ばくかの効果を発揮するだろう。

「……本当にいいの?この子は相当なバカだってばね?」
「……大丈夫、知ってます」

大真面目に確認を取ったクシナに、サスケはこっくりと肯いた。
「ええっ、かーちゃんもサスケもヒドイってば!!」と声をあげたヒヨコ頭が不満げに頬を膨らます。
――じゃあ、必ずマメに連絡をするって約束できるなら、としばらくしてから不承不承了解を口にした母親の胸に、聞くや否やちんまりとした体が小型爆弾みたいに勢いよく飛び込んでいった。「やったー!!かーちゃんだいすきだってばよ!」と叫んだ声が、きんきんとリビングに響く。

「サスケサスケ!ありがとだってばよオレぜってーいい子にしてっから!」
「……オウ。頼んだぞ」

夏の青空みたいな碧眼がぴかぴかと喜びに輝いているのを見て、サスケはにやっと口の端をあげた。
夏休みまで、あと一週間。
出し抜かれて驚く兄の顔を思い浮かべつつ、高揚してきた気分のままに、サスケはふわふわした相棒の頭をぐりぐりっと撫でまわした。

  * * *

「……いい?絶対に、サスケ君から離れないこと」
「わかった」
「人が多い場所で走らない。勝手にどっか行かない」
「だいじょぶ」
「ケンカもしない。サスケ君の言うことちゃんと聞く」
「うん、しない。オレってばちゃんとサスケのいうこときく」
「あとは……おしっこは早目に言うこと。こないだみたいに間に合わなくてお漏らししちゃったら大変だってばね」
「わかってるってば!」

八月の第一週の金曜日。
渋る母親達をまんまと説き伏せたうちは家とうずまき家の子息達は、揃って母の前に立たされると最後の注意事項をくどくどと聞かされていた。手には先ほど購入したばかりの、東京行のチケットが二人分。夏休みに大学進学の為に上京している兄の元へ二人だけで押しかけてやろうと最初に言い出したのは、黒髪の中学生の方だ。一も二もなく「だいさんせいだってばよ!」と盛り上がった幼稚園児は、先ほどからチカチカと変わっていく電光掲示板に興味深々だ。新幹線も停まる大きなターミナルは平日のためかサラリーマンらしきスーツ姿の男性が多く、その中でTシャツにリュック姿の中学生と幼稚園児は、まるで一点だけ落とされた絵具のしずくのようだった。特に興奮に今にもはちきれそうな園児の方は、明るい髪の色も相まって一際カラフルに目立って見える。
兄弟、……と言うには、似ていなさすぎる二人組である。

「サスケ。ちょっとしたことでイライラしちゃ駄目よ?年上なんだから落ち着いて、ちゃんとナル君の事みてあげるのよ」
「わかってるって」
「携帯忘れずに持った?電車に乗った時や降りる時にはちゃんと連絡してね」
「はいはい」
「困ったらすぐに周りの大人に助けを求めるのよ?バカげた意地張ってないで、イタチにも電話してなんとかしてもらいなさい」
「……大丈夫だって。母さんこそ絶対アイツに連絡すんなよ」

何その言葉使いは!と軽く窘められたサスケはぷいっと横を向くと、わくわくのオーラをむんむんと発しながらこちらを見上げている幼稚園児と目が合った。にっかりと笑うその顔に、共犯者めいた笑顔を向ける。

「……なァ?大丈夫に決まってるよな、ナルト」
「うんうん、そーだってばよ、オレらがそろえばムテキだねってとーちゃんも言ってた!」

妙な自信を漲らせているナルトといやに楽観的なサスケに眉を顰めた母親達は、そっと後ろを向くと落とした声でひそひそと話し合った。
ふたりの熱意に圧されて了解してしまったが、間違いなくこの子達はこの旅を気楽に考え過ぎている。
「ミナトったら……ごめんねミコちゃん、うちの人がまた無責任な事を」
「いいのよクシナちゃん、こちらこそごめんね。よくよくサスケには言い含めてはあるけど、不安でしょう?ナル君ひとりで他所にお泊りするのも初めてだし」
「うん、まあそこは多分うちは兄弟がいれば問題無いと思うんだけど、行くまでの道中がね……」
「ああ、ナル君元気いいもんね……」
仲はいいようだけれどもケンカも多いこのコンビをもう一度振り返って、クシナとミコトは憂慮の溜息を吐いた。
……先に泣くのはどちらの方だろうか。ああやはり某TV番組のようにお守りと称した小型カメラを幼稚園児の方の首にぶら下げておくべきだったと、今更ながらに悔んでみる。

「もう、そんなに心配しなくたって大丈夫だって。そろそろ新幹線来ちゃうから行くよ」

あれこれ言ってもまだ足りないというように顏を曇らせているミコト達にしびれを切らし、サスケは天井から吊られている電光掲示板を見遣ってそう言った。「じゃーねかーちゃん、いってきますってば!!」と幼い敬礼と共に張り切って宣言するナルトに、母親達の頭には拭えない不安がよぎる。
自動改札の一番端にいる駅員に二人分のチケットを提示するサスケの横を勢いよくぴゅっと走り抜けていくナルトに、慌てたクシナが「ナルトォ!や・く・そ・く!!思い出すってばねー!」と叫んだ。あ、そっかというように急停止したナルトが待っているところに、ポケットに切符をしまいながら歩いてきたサスケがゆったりと並ぶ。

「……よし、じゃあ、行くか」
「ううう~~~ワクワクするってばよ!!!」

何故だか余裕綽々な様子のサスケとバネ人形みたいに弾むナルトを見て、ふたりの母が同時に
「「手を繋ぎなさーい!!」」
と声を張り上げた。
一瞬(えー……?)といった顏を見合わせた凸凹コンビは、しょうがないなァというようにひとつ溜息をつく。
渋々とさし伸ばしあった手の先で結ばれた手のひらは、しかし案外しっかりと力強いものだった。

************

実を言えばサスケ自身も新幹線を利用した経験はこれまでの生涯でまだ数える程しかなくて、だからホームに滑り込んできた誇らしげに白く輝く流線状のボディを目にした時、隣で歓声をあげるナルトにサスケは一見呆れたような顔をつくりながらも、内心では抗いがたい興奮にそわついていた。
ポケットに仕舞った切符をもう一度取り出して、割り振られた指定席の号車ナンバーと座席を確かめる。
クシナからの言いつけを律儀に守っているつもりなのか、しっかりとサスケの手を握ったまま乗り込み口にできた人の列に並んでいたナルトは、開くドアと共にに噴き出した「プシュー」という音が聴こえると、待ちきれないというようにその場でぱたぱたと足を踏み鳴らした。「オレッ、オレが先ね!!」とせっかちに叫ぶと、ぱっと繋いでいた手を離して前に並ぶ人の列の中に飛び込んでいく。

「ちょっ……おいっ、待てよナルト!!」

急に振りほどかれた手が思いの外ショックで、慌てて声を掛けたが、すでにナルトが背負っていたオレンジのリュックサックは流れ込むスーツの合間に飲み込まれた後だった。初っ端から見失ってしまった金髪にかすかな狼狽を感じながらも、急いで車内に踏み込み背伸びしてみる。整列したシートの最前列でぴょんぴょんと弾むヒヨコ頭を発見すると、サスケはホッと安堵の息をついた。
「サスケー!オレここがいい!!」と響き渡った甲高い声に、ちょっと物憂げなサラリーマン達の視線が集まる。

「勝手に座ってんじゃねェよ。ここはオレらの席じゃないんだから」
「えー?だってオレってばいちばん前がいい」
「ダメだ、今すぐ降りろ。てかお前勝手に靴脱ぐなって」
「だってかーちゃんがイスにはクツで乗っちゃダメだって」
「裸足だろうがなんだろうがここはダメだ。席移るから早く履き直せよ」

「なんだよ、サスケのケチ」とふくれっ面を拵えたナルトにちょっとムッとしながらも、のろのろとしゃがんで脱いだばかりの靴にやる気無く足を突っこんだナルトを待っていると、背後から大きな影が差し、高い位置から「あのさ」という声が降ってきた。
おっかなびっくり振り返ると、シワの寄ったワイシャツの襟元を息苦しそうに寛げながら、物干し竿みたいな長身がどろっとした目で見下ろしている。

「そこ、オレの席」
「あっ……すいません、すぐ退きます」

ひらべったい声になんだか妙に威圧されてしまい再びシートに目を戻すと、ナルトは未だもたもたと小さなかかとを靴に押し込んでいる最中だった。緩慢な動作に業を煮やすと、華奢な体に腕を回しつま先に引掛けたままの靴ごとぐいっと力を込めて抱き上げる。

「なにすんだよォ!」
「るっさい!モタモタすんな」

先程記憶した座席番号を探し出してそこに誰も座っていない事を確認すると、サスケは緊張で強張った腕を解いて抱え上げていた幼稚園児を降ろした。憮然としたナルトが反抗的な視線を送ってくる。

「サスケェ、オレってばもう年長さんなんだかんな。かってに抱っことかしてくんなよ」
「ざッけんなよせっかく移動させてやったってのに。だったら靴ぐらいぱっぱと履きやがれ」
「今はくとこだったの!」
「おせえよグズ」
「なっ……グズとか言っちゃいけねーんだぞ!?」
「ハア?偉そうに言ってんじゃねェよ幼稚園児が」

徐々に大きくなっていく言い争いに、前の席の乗客が広げた新聞の陰で「ん!んん!!」とこれみよがしな空咳をしてみせた。通路を挟んで斜め前に座っている小奇麗だけれども派手なオバサンは、興味深い見世物を見つけたかのような目でこちらを覗いている。
さっと冷めた頭で気を取り直し、赤い顔で睨み上げてきているナルトに「……とりあえずここ座れって」と促すと、少し考えたらしいナルトが「オレ、窓の方がいい」と言ってきた。無言で頷くと、ぱっと不機嫌が飛び去った空色の瞳が明るく輝いて、中途半端なままだった靴を脱ぐ。
シートの座面に正座するようにして窓に張り付いたナルトは、カエルのように手のひらをぺったりとガラス面に広げ、人の行き交うホームを見渡した。白いソックスに包まれたちんまりとした足の裏が、わきわきと忙しなく動く足の指につられ膨らんだり萎んだりしているように見える。

「なあなあサスケ、もうしゅっぱつ?」
「……もうちょいだな」
「こどもだけでしんかんせん乗るなんて、オレたちってスゴイな!」
「………そうな。スゴイな」

だよなー!スゴイよな!!と嬉しげに言ったその顔が、ぴかぴかに磨かれた窓ガラスに映ってサスケに届いた。
発車のベルが鳴る。
ごとん、と動き出した電車に不安定に揺さぶられた肩を慌てて抑えてやると、また「だいじょーぶだってば!」とうるさがるような声が返ってきた。ちょっと前までは何でもやってもらった事には「ありがと!」と応えていたくせに、なんだかここのところのナルトはやけに反抗的だ。そういえば出る前にクシナから「ナルトってばこのごろやたらと何でも自分でやりたがるんだってばね、ムカつくかもしれないけど我慢してやって」と言われたのを思い出す。
これも成長の一段階なのだろうかと年長者めいた事をぼんやり考えつつも拭えない不快感を露わにしていると、そんなサスケに気も留めない様子のナルトが「あっ、そーだ!!」と背負ったままだったリュックの肩紐をずらした。

「今日さ、かーちゃんオレにおべんと作ってくれたんだ」
「そうか、オレも」
「なーなーサスケ、もうおべんと食べてもいい?」
「……まだちょっと早いんじゃないか?」

発車が10時前だったのを思い出しながらポケットから携帯を取り出すと、時刻はまだ出発してから5分と経ってない時間だった。
そういや電車に乗ったら連絡しろと言われてたんだっけなと気がついて、ついでのように『今新幹線に乗りました』とメールを送ると、すぐさま『よかった、ちゃんと席わかった?』という返事が返ってくる。返信の速度から鑑みるに、多分ふたりの母は今日は揃って携帯とにらめっこし続ける所存なのだろう。(心配しすぎなんだよな)とうっすら面倒に思いつつ、サスケは『わかった』とだけ送り返すと携帯の画面を閉じた。
一息ついてポケットに携帯を仕舞い顏をあげると、すぐ隣でオレンジのリュックサックを開けてきれいに結ばれたお弁当の包みを躊躇なく暴こうとしている幼稚園児が視界に飛び込んできた。
うォいまだ早いって言っただろが!?と心の中でつっこみつつも「まっ…!」と掠れた声と共に手を伸ばしたが、短パンの腿の上であっという間にランチクロスは広げられ、喜色満面のナルトが現れたランチボックスの蓋をぱかりと開ける。

「じゃーん、スゲーだろ!今日は『きゃらべん』なんだぜ!」

「……キャラ弁?」と訝しみつつ覗き込んだお弁当は、先程走ったせいかちょっと片側に寄せられてしまっていた。しかしその僅かに傾げたような造形は、どうやら何かのキャラクターを模したものらしい。赤いマスクを被っていると思わしきそのキャラクターに「なんだこれ」と呟くと、「ホカゲレッドだってばよ!」と得意気な説明が返ってきた。

「ああ、今やってる戦隊モノか」
「ゴカゲンジャー!サスケしらねェの?」
「昔は観てたけどよ……」
「たんぽぽぐみのヤツらはみんなみてんだぜ!サスケってばオクレてんなー」

オレってばぜったいホカゲレッドがいいな!と断言するように言ったナルトは早速添えられていたフォークを掴むと、いただきまーすと手にしたフォークをそのホカゲレッドの顏の横にあるウインナー目指し振りかざした。はっと気が付いたサスケが泡をくったように「…待て!だからまだ早いって」と制止すると、ええー?いいってばよべつに、と不満気な声があがる。

「こんなに早くから食っちまったら後で腹減るぞ。大丈夫かよ」
「へいきだって。オレちゃんとおやつも持ってきたし。サスケにもあげる」
「……本当か?」
「うん、だからだいじょーぶだってばよ。サスケもいっしょにたべよ?」

自信ありげに頷くナルトにあえなく説得されて、サスケはそろそろと押し止めていた手を引っ込めた。
……まあ、ここまでハッキリと大丈夫と言うのなら、多分本当に大丈夫……なのか?
怪しむ気持ちが残ってないわけではなかったが、少し片寄っていても料理上手なクシナの手によるお弁当は中々に美味しそうで、育ち盛りの胃袋はその景観だけで十分に刺激されたようだった。にわかに空腹を感じ始めたサスケも、上棚に置いたリュックを降ろして今朝ミコトに渡された包みを取り出し、シートに備え付けられている簡易テーブルに置く。あっいいないいなオレもその机出して!と騒ぐナルトに同じようにテーブルを開いてやると、小さな手が慎重な仕草で膝上のランチボックスをそこに置いた。
しまった手ぐらい洗った方が良かったかなとチラと思いつつも、今更この幼児を連れて手洗い場にまで行くのも億劫で、サスケは気付いた事に蓋をしてそのまま待っているナルトと共に「いただきます」と手を合わせた。
早すぎる食事の挨拶に、さっきこちらを見ていたオバサンが再びそっと振り返る。

「サスケのおむすび、なにおむすび?」
「おかかだな、多分」
「見て見て、今日のウインナーかにさんだ!」
「……そーか、よかったな」
「あのさ、あのさ、おれってばかーちゃんのおべんとの中で、たまごやきがいちばんすきなの」
「ふーん」
「だからさ、サスケ食べてもいいってばよ」
「――んん?」
「すっごくおいしいから、サスケにあげる。かーちゃんがおいしいもの食べるとだれだってすぐにニコニコになるって、まえ言ってたから」

確かめるように見上げてきた空色に、つい開いてしまった口からぽろりと米粒が落ちた。
……これって、つまり、あれだろうか。
さっきからオレの顔が、笑ってないという事だろうか?

「……いいのかよ?お前卵焼きが一番好きなんだろ?」
「いいの。食べて食べて」
「お前の卵焼き、なくなっちまうぞ?」
「…………へいきだってば。またかーちゃん作ってくれるもん」

一瞬詰まったナルトに、「…なら、オレの卵焼きと交換するか?」と尋ねると、ゆくりない提案にぽかんと「あ」の字になった唇が、そのうちにきゅうっと両端を引っ張り上げた。
「するする!オレサスケとこうかんこするってばよ!」と興奮気味に揺れるナルトに箸の先で摘まんだ母親作の卵焼きを差し出すと、それを見たナルトは急いで赤いナントカレッドの顔の中にある黄色にフォークを突き刺した。「あーん」と言いながら近づいてくる桃色の口に卵を放り込むと、小さなフォークの先にあるナルトの『いちばんすき』をぱくりと一口で奪い去る。

「――うぁ、あっま……!!」
「――あ  ま  く  な  い ……!!」

もぐもぐと咀嚼しながらお互いに不本意な感想を述べ合うと、かちあった目と目から無性な可笑しさがこみあげてきた。母親の作るものよりも相当糖度が高いであろうふわふわのかたまりが、口の中でほろほろと崩れていく。

「な、かえりはさ、えきのおべんと買ってこうかんこしよってばよ?」
「……そうだな。イタチに買わせようぜ」

「ふくく」と笑いあった声に、振り返っていたオバサンが口元を緩ませながら前を向いた。
サスケェ、おちゃ!と言うナルトにリュックから出した水筒を開けてやりながら、サスケは(……クシナさんの意見は、大体に於いて正しいのだな)とこっそり思った。

************

『Ladies and gentlemen,
we will arrive at Tokyo terminal in a few minutes.――』

「……ナルト、おい、起きろって」
慇懃丁寧な日本語のアナウンスに続いて流暢な英語が流れ出すと、サスケはブライトブルーのシートの上で、猫のように丸まって眠るナルトの肩を揺すった。ふさふさとした金の睫毛が持ち上がり、けむるような青がしぱしぱと何度かまばたく。

「着いたぞ。立てるか?」
「んー……ここ、どこ?」

スピードを落としつつ流れていく窓からの景色と無機質な白い樹脂の壁に、一瞬戸惑った様子のナルトがぽってりとした手の甲でこしこしと目を擦った。
隣にいるサスケとその手にあるオレンジのリュックサックに、次第に腑に落ちたような顔になる。

「……サスケ」
「もうじきに着くぞ。降りるから準備しろよ」

言われた言葉にぱっと覚醒したらしいナルトは大急ぎで足元に転がされていた靴につま先をつっこむと、サスケの捧げていたリュックに腕を引っ掛け駆け足でデッキに飛び出していった。どうやら彼にとって扉という扉は全て、飛び出すか飛び込むかそのどちらかでしかないらしい。置いて行かれた格好のサスケは荷物をまとめてその後を追うと、はめ込まれた窓からホームに入る瞬間の景色が見たいのか、ドアの前でぴょんぴょんと跳ねている幼児を見つけた。

「止まるまではあぶねーって」
「サスケだっこ、だっこして!!」

ついさっき『かってにだっこすんな』と言った事はケロリと忘れたらしい。鮮やかに翻えされた発言に苦笑いを浮かべつつ、サスケは半袖の脇を両手ですくい上げるようにしてナルトを持ち上げた。思ったよりも随分と重量を増した小さな体に、情けなくも張った筋肉がぷるぷると震える。

「くっ……ず、ずいぶんと重たくなったなナルト……」
「まーな、オレってばまいにちたっくさんぎゅうにゅう飲んでるからな!」

すぐにサスケに追いついてやるってばよ~と宙で揺らされたその足に更に上腕筋を刺激されながらも、ドアが開く瞬間まで堪えたサスケは、抱き上げてもらった腕から逃れるようにホームに着地するとすぐさま走り出そうとしたオレンジのリュックをはっしと捕まえた。

「ぐえっ……なにすんだってばよ!」
「だからお前、ひとりで行くなって」

乗車時に得た教訓から少し余裕の先制ができたサスケは、背中に背負う自分のリュックをゆさりと揺すり上げると、出鼻を挫かれて不満気なヒヨコ頭をぐりっとひとつ掴み撫でた。全体的に急ぎ足な人の波に流されて下へと続くエスカレーターに乗り込むと、近未来的なそのデザインにナルトが「ほぉっ」と溜息をつく。

「かあっっこいい……!なんかワープとかできそうだってばよ、このエスカレター!」
「エスカレーター、な」

そっと訂正をいれつつも、キラキラした目で淡い光を放つアーチ状の天井を見上げるナルトと同じように胸ときめかせていると、乗っていたエスカレーターは唐突に終りをつげた。
降り立った構内ではじき出されるように壁際に追いやられた二人は、うねるような動きでひしめきあう黒い群れに唖然となる。

「すげーヒトだらけだってばよ……」
「……ああ、どっから湧いてきてんだ?これ……」

見渡す限りの人群れに、思わず身を寄せ合ったナルトとサスケは驚きというよりもむしろ呆れるような声で言いあった。
まったく、本当にどこからこんなに大勢の人がやって来ているのだろう。
皆一様に其々の目的地を持っているのだろう。その迷いのない動きにのまれていると、流れに乗れなくてまごついている自分達がひどい田舎者のように思えてきて、なんだか妙な引け目を感じてしまう。

「ねえ、このちかくにイタチにーちゃんはすんでんの?」
「いや……イタチんちはこっからまた電車のったとこだ。ここはまだ東京駅だからな」
「またでんしゃ?」
「そう。地下鉄乗るぞ」
「……サスケェ」
「なんだよ」
「オレ、おしっこ」

控えめな声に下を見れば、もじもじとお互いをすり合わせている膝小僧が見えた。
結構のっぴきならない状態になっているらしいその仕草に、慌てて周囲の案内表示を見渡す。

「……あった!ナルト、走るぞ」

人の川の対岸にトイレの表示を見つけると、サスケはそこに最短距離で辿り着くべく、「もぉげんかいだってばよぅ」と呻くナルトの手を掴むと引っ立てるようにして人の群れに飛び込んだ。斜め横断を強行する子供達に、僅かに顔を顰めた人々が磁石が反発するように避けていく。ひょこひょこと怪しげな歩き方のナルトを連れどうにか男性用トイレに飛び込むと、半ズボンが慌ただしく降ろされすぐに勢いのいい放尿の音が聴こえてきた。丈の短めなTシャツの裾から、ちいさなまるいお尻がのぞいている。

「……よかったァ、ギリギリセーフだってばよ」

ホッとした様子でズボンを上げたナルトは、あっ、手ぇ洗わなきゃ!と思いついたように言うと靴を鳴らして洗面台に向かった。つま先立ちで器用に水栓に手を近づけて、自動で出てきた水で指先だけをちょちょっと濡らす。

「ナルト、もうちょっとしっかり洗え」
「えー……ちんちんさわったとこは洗ったってばよ」
「だめだ。もう一回やり直し」

ぞんざいな手洗いが目に付いて、やり直しを命じたサスケにまたナルトの頬が膨らんだ。作られたくちばしが、ぷちぷちと文句をつむぐ。

「なんだよ、きょうのサスケってばかーちゃんみたいだ」
「……やかましいぞ。オレもションベンしてくっからちょっとそこで待っとけ」

ぶうたれながらも手洗いをし直しているナルトを確認してから、俄かに尿意を感じてきたサスケも男性用小便器の前に立った。コットンのハーフパンツのジッパーを下ろし用を足そうとすると、手洗いを終えたらしいナルトがトトトッと横にくる。

「なんだ、ちゃんと洗ったか?」
「サッ、サスケ……!!」

驚きに掠れる声を不思議に思い見下ろすと、暑さのせいか普段より短くされた前髪の下で青い瞳が驚愕したように見開かれていた。いとけないピンク色の唇がわなわなと震えている。
しかし見張られた瞳の先にあるのが自分の股間であることに気が付くと、サスケは僅かに腰をひねってその熱心な視線を避けた。

「なに見てんだよ」
「サスケ……サスケのちんちん、毛が生えてるってばよ……!」
「……それがどうした」
「おとなのちんちんになってる……!!」

ハァァ!と衝撃を受けたような様子のナルトに唖然となったサスケだったが、言われた事の意味に気が付くとぶわっと恥ずかしさが巻き起こった。
取り出そうとしていた性器を思わず手のひらで隠して、「なっ…見んな、バカ!!」と声をひそめて叫ぶ。

「なんで!?見して!オレ見たい!」
「……でかい声出すな!あっち行け」
「サスケのちんちんとーちゃんのみたいだってばよ!?」
「だっ…から、黙れって!」
「あっ、でもごめん!」
「?」
「とーちゃんのほうがおっきいや」
「……そーゆー事も言わなくていい。とにかくその口閉じろ!」

辺りを憚らないナルトの声量にちらほらとトイレ内にいる他の人から生ぬるい視線を投げかけられて、焦りと羞恥から小便器の前に立つサスケはふるふると自らの肩が震えるのを感じた。
いやに冷たい汗が、滝のように背中を伝っている。

「ねーねーねーなんでサスケはこどもなのにちんちんはおとななの?それっていつ……」
「……ナルト、」

――お前、ウザイぞ。
興味深々に見上げてくる幼気な顔に威嚇じみた科白をねじ込むと、一瞬虚を突かれたかのようになった表情が、みるみる「くしゃり」とひしゃげていった。ぺしゃんこにされたほっぺたに、堪えるような力がきゅっと走る。

「……いいから、こっち見ンな。外で待ってろ」

そう言ったきり言葉を打ち切ったサスケに、張り詰めた気配のままのナルトはほんの少しだけ伺うような目を残すと、ぷいっとそっぽを向くように回れ右をして、大きく腕を振りながらタイル張りのレストルームを出て行った。
それを見届けるとサスケはふうっとひとつ息をつき、股間を覆い隠していた手のひらをそっと退けた。やっと戻ってきた尿意に身を任せ、スッキリとした気分で悠々とトイレを後にする。
(あいつ、まだ怒ってっかな)と藍色のタイルに覆われたトイレ前の壁をさっと見渡すと、そこには想定していたふくれつらはどこにも見当たらなかった。背中で弾むオレンジのリュックはおろか、溌剌とした甲高い声の反響さえも残っていない。

「…………ナルト?」

押し寄せる不安に揺らされた呼びかけは、自分でも驚く程細く頼りないものだった。
雑踏の中、金色の残光に必死で目を凝らす。

「――ナルト!!」

ようやく絞り出すように出た声は、人混みの中で揉みくちゃにされると他愛なくかき消えた。
構内に漂う「おおん、おおん」という何とも知れぬ唸り声が、まっしろに焼き切れたかのように動けなくなったサスケの焦りを、煽るように通り抜けていった。

************

気が付くと握りしめた手の内側はびっしょりと濡れていた。
そんな場所に、こんな大量の汗をかくのは生まれて初めてだ。
氷を握り溶かしたような冷たい汗に怯みつつ、ハーフパンツの脇でそれを拭うと、サスケはぎゅっと歯を食いしばり再び辺りを見渡した。
離れていたのはほんの数分。
この行き交う大人達の中、動くにしても幼稚園児の足では高が知れている。
……頷くようにひとつ深呼吸して、サスケは壁を伝うようにして歩きだした。どうしたらいいかわからなくなった時は、まず深呼吸してみろと教えてくれたのは兄だ。肺一杯に取り込んだ酸素が、停止寸前の脳に行き渡るのを感じる。
賑やかな照明が溢れている奥を目指すと、そこは売店街のようだった。碁盤の目のように整然とブース分けされたリノリウムの通路を、見落としのないよう注意しながら早足で縫っていく。
フワフワした金の髪を、着ていたグリーンのTシャツを捜す。
……いない。売店のショーケース前にも、雑多なお土産雑貨のスペースにも。もしやと思い二度ほど戻ってみた、試食コーナーにも見当たらない。
首を捻り、反対側にある電光掲示板を見る。その下にある自動改札にふと思いついて、急いで踵を返した。
早歩きだった足が、知らず駆け足になっていく。
体内で警鐘のように打ち鳴らされる心臓の音が、ひどく耳障りだ。
定期的に流されるのんきな電子音が苛立たしかった。ひっきりなしに構内アナウンスが流れ、到着した電車のホームからまた新たに降りてくる大量の人々が、下りエスカレーターから支流のように構内に流れ込む。

「……あのっ……ここにっ、小さな子供が、来ませんでした?」

猛ダッシュから急停止したサスケは、息急き切ったままで改札前に立つ係員を捕まえると途切れ途切れに尋ねた。突然現れた中学生の荒い息にちょっと驚いた様子の係員は、それでも穏やかな物腰のままで「いいえ、見てないですね」と答える。

「五歳くらいで…金髪の男の子なんですが」
「外国の方ですか?」
「いえっ……そうじゃ、ないんですけど」

ツアーでいらしている外国の方の集まりでしたら、向こうでお見かけしたんですが、と少しだけ詫びるような声音を滲ませた係員は、「迷子のアナウンス、かけますか?」と進言してきてくれた。制帽の下から見下ろしてくる目は汗だくの少年を労わっているようで、苦しい息がほんのちょっと和らぐ。

「いえ……いいです、もう少し自分で捜してみます」

一瞬迷ったがすぐにその提案を丁寧に断って、サスケは軽く礼をしてその場を離れた。
今朝方出発する際、ナルトが自動改札や電光掲示板に興味を持っていたのを思い出して来てみたのだが、どうやら見当違いだったようだ。
ポケットの中にある二人分の切符を、そっと生地の上から確かめる。
切符がここにある限り、ナルトが改札を抜けて出て行くことはありえない。ということは、ここの駅構内をくまなく捜していけば見つかる筈だ。
少し落ち着いてきた気分で壁に掲示されている構内案内図の前にいき、その大きな地図を眺めたサスケであったが、すぐさまその自分の考えがとんでもなく甘いものだというのに気が付いた。
駅の構内には乗り換えのための改札が幾つもあり、更にその中のいくつかは他線への乗り換えをスムーズにするためか、今いる場所よりもかなり離れた場所まで新幹線の切符だけで歩いて行けてしまうらしい。これを元に、小さな子供を探し回るだなんてとんでもない。サスケ自身が目の前の構内案内図を読むだけでも一苦労だ。
――きっとこうしている間にも、ナルトはどんどん離れていく。
じりじりとした焦燥に思考を焼かれながら、ぽたりと顎を伝って落ちた汗がTシャツに丸い染みを作るのを見た。
そうだ、よく考えてみたらナルトが自分の足で歩いているかどうかだって怪しいではないか。
どこかの悪党にいいように連れていかれていたら?バカなあいつは飴玉ひとつで簡単に言いくるめられてしまうだろう。あんな小さな体だ。下手したら飴玉どころか、無理矢理にでもボストンバックか何かに詰め込まれて連れ去られてしまうかもしれない。
どうする……どうする?
考えろ、考えろ、考えろ!!

「…………にぃさん…………」

途方に暮れたサスケの口から、図らずも兄を呼ぶ声が漏れた。
いつも困り果てた時に唱える、魔法の呪文。
何でもそつなくこなし、この世に知らないことなどひとつもないような顔をした5つ年上の兄は、小さい頃からサスケのピンチの時には必ず現れて、鮮やかに問題を解決してくれるのが常だった。
こんなに大きくなったというのに、出てくる言葉に成長がないのが情けない。
……尻のポケットに入れたままの携帯電話に手を伸ばす。
何かあったらイタチに助けてもらいなさいと言った、母の言葉が蘇る。この旅を機に母親が用意してくれた真新しい携帯の、自分の体温で温まった表面が指先に触れた、その時――

「あっいたいた、サスケェー!」

おしっこおわった!?という大音量のキンキン声にどーん!とタックルされて、サスケは固まった姿のまま呆気なく横に弾き飛ばされた。ポケットから引っ張り出されてかけていた携帯電話が、衝撃から指をすり抜けガツンと硬い床に落ちる。

「ナ ル ト ……!!!」
「あれっ?どしたのサスケ、すっげー汗」

……どこに行ってたんだ?と低く問えば、「あっ、あのワープのエスカレターにのってきた!」と得意満面の笑顔が鼻高々に答えた。「ひとりでエスカレターのっちゃったもんね~スゲーだろ!」と胸を張るナルトに、つくった握りこぶしが震えるのを抑えられない。

「えへへ、オレってば3回ものっちゃった。あれホントカッコいいってば!」
「…………エスカレーターだ」
「え?」
「――っざけんじゃねェぞ、クソガキが。もうお前なんか嫌いだ」

こちらの心配など全く気にしてない無邪気な笑顔が、どうしようもなく腹立たしかった。
まったくいい気なもんだ。たぶんサスケが突然消えた自分の事を探し回っていたなんて、思い付きもしないのだろう。
こめかみからまた伝ってきた汗を手の甲で乱暴に拭うと、サスケは言い捨てたきり何も言わずにスタスタと歩き出した。床から拾いあげた携帯を確かめもせずポケットに突っ込む。言われた言葉に一瞬意識が飛んでいたらしいナルトは離れていく黒いリュックにハッと気がつくと、「……あっ、待って、サスケ!」と叫び慌ててその背中を追い掛けてきた。
黙りこくったままで改札を抜けようとすると、さっき声を掛けた係員が(ああ、)と気がついたような目をした。後ろに続く金髪の子供を見て、「よかった、見つかったんですね」と親身な声が言う。
それには応えず凍てついた目のままで二人分の切符を差し出すと、キョトンとした顔のナルトがハサミを入れられた切符を戻す係員を不思議そうに見上げた。そんなナルトを無視したままで、受け取った切符を再び仕舞うとサスケは無言の会釈と共に改札を抜ける。
後ろを顧みることもなくずんずんと地下鉄の乗り換え口を目指して進むと、「……ねえっ、はやいってば!」と悲鳴じみた声が聴こえた。懸命に追ってきている様子のナルトに構うことなく、サスケは突き進む。目指していた地下鉄のホームにたどり着くと、すでに沢山の人が並んでいる乗車口の列にむすりと並んだ。

「ね……っ、サスケ、おこってん……の?」

ようやく止まれてホッとした様子のナルトは、無表情で立っているサスケの隣に来ると切れ切れな言葉で訊いてきた。ハァハァと上がっている息が苦しそうだ。たぶん幼児の足では、サスケの容赦ないスピードには付いてくるのがやっとだったのだろう。

「……」
「オレが、トイレでおっきい声だしたから?」
「……」
「ちゃんとまってられなかったから?」
「……」
「エスッ、エスカ、レター?に、かってにのっちゃったから?」
「…………うるさい、黙れ」

ようやく引っ張り出せた言葉はにべもないもので、しおしおと下を向いたナルトはそれきりそのよく囀るくちばしを噤んだ。やってきた地下鉄に乗り込んでも無言の行は続けられ、なんとも言えない空気のまま、イタチの下宿先がある駅に着く。以前来た時は父親が運転する車で両親と共に訪れていたため、ここにこうして電車を使って来るのは初めてだった。見慣れない駅の改札口を出れば、なんとなく覚えのある駅前の商店街。兄の住まいは、ここを抜けたところにある。
言葉をかけないまま再び歩き出したサスケに、ナルトはもう何も喋りかけてこなかった。只々遅れを取らないよう、必死でサスケの一挙一動を見張っている。その真剣な表情に先程よりは僅かに怒りがおさまってきたサスケは、ほんの少しだけ緩めた歩調で、古ぼけたアーケードを潜った。
いかにも学生街といった感じの活気ある商店街は、路上にまで沢山のワゴンが出され、色とりどりな品物が雑多に並べられていた。小さなスーパーの前では、どうしても店内に収まりきれませんでしたといった感じの色鮮やかな夏野菜が、一際通行人達の目を奪う。角の精肉店を曲がろうとしたら、中からふわんと香ばしい油の匂いがした。まだ三時前だというのに、無計画にやってしまった早弁のせいで既に腹はペコペコだ。付いてくるナルトも同様なのだろう、ぽっかりと開けられた口許から今にもよだれを垂らしそうな顔で、カウンターで山盛りになっているコロッケを見つめている。

「……着いたぞ」

脇道を折れたところで一言だけ言い捨てて顎をしゃくると、俯いていた顔を上げたナルトが、救われたかのように表情を明るめた。小さなアパートに備え付けられたコンクリートの外階段を上がっていくと、後ろから待ちきれない様子のハイトーンボイスが「イタチにーちゃんちはどれ?」と訊いてくる。

「……イタチんとこは一番奥だ」
「オレッ!オレがピンポンするってば!!」

ダダダっと駆けていったナルトは一気に剥き出しの廊下の端まで直進すると、重たげな金属製のドアの前で出ていない表札を見上げた。「なまえ、かいてないってばよ?」と不安げにする声に、「いいんだ、ここで合ってる」と素っ気なく答える。
それに安心したのか、ホッとした顔のナルトは腕を伸ばすと、サスケの肩程の高さにあるインターホンに指先を伸ばした。ほんのりピンクの指先が、ふるふると震えながらボタンに伸ばされる。しかし残念ながらあともう一息、といったところか。

「もういい、ナルト。オレが押す」
「やっ……まって、あと、もう……ちょい」

ぐぐっとつま先に更に力を込めて、ナルトが精一杯の背伸びをするとどうにかその指先がグレーのボタンに触れた。爪先で弾くようにそれを鳴らすと、小さな体が力尽きたようにくにゃりと膝を曲げる。

「やった、とどいたってばよ!」
「……反応がないな」

静まったままの玄関に無神経な呟きを漏らしたサスケにナルトは「ええ?」とがっかりした声をあげた。そんなナルトを余所に、サスケもインターホンに指を伸ばすと続けざまに何度かベルを鳴らしてみる。難なくインターホンを押せるサスケを、ヒヨコ頭が複雑そうに見つめていた。

「やっぱ、いないみたい?」
「――なんだよ、ここまできて留守かよ」

肩透かしに張り詰めていた糸が急に緩んで、サスケは「ハァ……」という深い溜息と共に反転してドアに背を預けた。そのままズルズルとリュックの背中を引き摺って、拍子抜けなまま床にしゃがみ込む。
ふと思い出して携帯を取り出すと、どういう理由か画面はブラックアウトしたままで、小さな端末は起動すらしていなかった。慌てて電源ボタンを押してみるが、真っ暗な液晶画面はウンともスンとも応えない。

「……けーたい、こわれちゃったの?」

そろそろと隣に座ってきたナルトは光を失ったままの画面を覗くと、何か言おうとした口を慌てて噤んだ。多分、これがさっき自分がサスケにぶつかってきた時に床に落ちたのを思い出したのだろう。さすがの能天気小僧も、未だ怒りを解いていない様子のサスケに、これ以上余計な事は言わない方がいいと子供なりに察したらしい。
(まいった……これじゃ母さんにも連絡できないじゃないか……)
母ならばイタチが不在な理由を知っているかもしれないと期待していたのだが、どうやらそれさえも叶わないようだった。ダメ元で携帯の裏蓋を開けてバッテリーと思わしき物を入れ直してもみたが、やはりそれが動き出す気配はない。
通ってきた商店街の方から、何やら軽妙なメロディが聴こえてきた。
ふとさっき嗅いだ肉汁と油の匂いが蘇り、15才の腹は他愛なく空腹の音をあげる。

「――おい、ナルト」
「はっ……な、なに?」
「お前、さっきオヤツ持ってきてるって言ってたな。出せ」

あっ、そーだそーだ、オヤツたべよ!とことさら明るくいったナルトは背中にあったリュックサックを前に回すと、ごそごそと中を掻き回してキャラクターのプリントが入ったビニールバックを取り出した。ざっかざっかと中身を揺らしながら「どれでもサスケのすきなのえらんでいいってばよ!」と笑顔で見せびらかしたナルトに、ビニール越しのオヤツを見たサスケががっくりと項垂れる。

「どれでもってお前……これっぽちしかないのかよ!」
「だってオヤツは100えんまでって、きまってるってばよ?」

小さな駄菓子が幾つか入っただけの袋を渡されて、サスケはううう……と低く呻いた。
目の前の幼稚園児は、自分のこの所業が久方ぶりのファインプレイであると疑ってないらしい。
更に間の悪い事に、袋の中にあるものはほぼ全てがチョコやクッキーなど糖度の高い品々で、アンチ甘党のサスケには惹かれるものがほとんどなかった。仕方なく一枚だけ入っていた小袋の歌舞伎揚げを摘まみ上げ、無言のままサスケはそれを押し返す。

「サスケ、そんだけでいいの?」
「……いい。あとはいらねェ」

言葉の端々に止むことのない不機嫌の末端を見たのだろう、ちょっとしょぼくれた様子のナルトは残念そうにビニールバックを見ると、中からミルクキャンディをひとつ取り出し、くるりとそれをひねった。転がり出た飴玉をそっと摘んで、開いた口にぽんと放る。
ころ、ころ、とナルトの口の中で、甘い塊が小さな歯にぶつかりながら転がされる音が聴こえた。
それを聴きながら小袋を開けたサスケは、少しでも満足感を出すべく既に半分に割れてしまっている揚げ煎餅を更に小さく割って、もそもそと口にする。

「イタチにーちゃん、どこいったのかな」
「……」
「びっくりさくせん、まだできるよね?」
「……」
「かーちゃんたち、いまごろなにしてるかな」
「……」
「……ねェ、サスケ、まだすっごくおこってる?」

いつの間にか商店街からのメロディは止んで、「ぼり・ぼり」という音と、「ころん・ころん」というお互いの口の中の音だけが気まずく響いていた。
不安に彩られた瞳がおそるおそるといった様子で、前を向いたままのサスケを見上げてくる。

「……おこってねェよ」
「でも、さっきオレのことキライって」
「……そうだ、キライだ」
「……やっぱまだおこってるってば」
「うっせェ。オレは人に心配ばっかかけさせるようなガキは、キライだっつってんだ」

咀嚼する合間にぼそぼそとそう言えば、驚いたように目を見張ったナルトがポカンと口を開けた。桃色の舌の上に、半分程に溶けた白いキャンディがとろりと乗っているのが見える。

「サスケ、オレのことしんぱいしてたの?」
「……してねェよ」
「オレってばもうねんちょうさんだし、ひとりでもだいじょうぶだってばよ?」
「だからその妙な自信が危ないって言ってんだ」
「サスケってばちんちんはおとななのに、しんぱいしょうなんだな」
「……そのネタ、絶対によそで言うんじゃねェぞ」
「でもよかった、しんぱいしょうなサスケは、やっぱまだオレとおなじこどもだってば」

よぉし!と小さく言って立ち上がったナルトは、軽やかなステップで座り込んだままのサスケの前に立つと、細い両腕をすっと前に出した。
唐突で意味不明なナルトの行動に不審がるサスケの、力の抜けた頬を、幼い手のひらがぺちんと挟む。

「うわっ……なにすんだお前、手ェべたべたしてんぞ」
「……サスケ」

真剣なまなざしが、困惑する黒の瞳をまっすぐに捕まえた。
ミルクキャンディの吐息がふわりと鼻先を掠める。汗でべたついた手のひらが、吸盤みたいに頬に張り付いた。

「――しんぱいかけてごめんね。あいしてるから、もうゆるして?」

……舌っ足らずだけれど確かに届けられた純粋さに、サスケはしばし放心した。
無様なほど無防備になった唇に、途方もなくやわらかなものが「ぷちゅん」とぶつかり、離れてく。
唇に残る、甘い感触。
理解不能な事態をようやくのみ込み始めた体が、みっともない事に、カタカタと震えだす。

「おっ…まっ…なっ……!!?」
「ん?ちゅうしたんだってばよ?」
「なんだその、あいっ…あいして…って!?」
「だってとーちゃんはかーちゃんがおこってるとき、いっつもこうやってなかなおりするってば?」

(ミナトさァァァん……!!!)
声にならない絶叫を胸に、サスケはうちは家の隣りに住まう金髪のハンサムを思い浮かべた。
さもあらん、あの人であれば怒り狂う赤毛の烈女も、こうしてしれっと宥めてしまいそうだ。


「……けがれなき幼子になんという事をさせているのだ、愚かなる弟よ」

不意に唱えられた呪詛じみた言葉にゆっくりと振り向くと、そこには階段を登ってきたばかりらしい兄の、痩せた長身が音もなく佇んでいた。
全てを見透かすようなその瞳と放たれた酌量の余地のない言葉に、決定的瞬間を目撃されたことを瞬時に理解したサスケは、勢いよく両頬に添えられたままの手を振り落とすと、絡まりそうになる舌を叱咤して冷徹な視線を送ってくる兄に弁明する。

「ちがっ…オレがさせたんじゃない!こいつが勝手にしてきたんだ!」
「言い逃れは見苦しいぞ、サスケ」
「アンタ全部見てたんだろうが!?オレは被害者だ!」
「どちらにしても事実に変わりはないだろう。しかし被害者などという言い方は良くないな……くれたものはもっと大切にするべきだと、兄は思うぞ」
「くれたんじゃなくて、奪われたんだ!オレッ……はじ、初めてだったのに……!!」
「そういう事ならば、心配無用だ。お前のファーストキスなんて、赤ん坊の頃とうに母さんが奪っている」
「――は!?」
「あと……すまない、オレも奪った」
「……なんだと!!?」
「わっ、イタチにーちゃァァん!!」

ぱっと向日葵のような笑顔を弾けさせたナルトは言い合う兄弟の中に躊躇なく割って入ると、駆け出したその足で穏やかに微笑むイタチに飛びついた。
「びっくりさくせんだってばよー!」と嬉しげに叫ばれたその声に、「ほんと、よく来たな。すごいぞナルト」と筋張った手のひらが金の髪を撫でる。

「びっくりした?ねえ、びっくりしただろ!?」
「ああ、驚いた。あとサスケがまだファーストキスなんてものに幻想を抱いている事にも驚いた」
「――てっめえイタチィィィ!!!さっきの発言はどういう意味だ!?まさかお前」
「ああ、母さんと一緒にちゅうちゅうしてやったぞ。赤ん坊の頃のサスケは、本当に天使のようだったからな」
「ちゅ……ちゅうちゅう……!!」

じゃれつくナルトをひょいと抱き上げたイタチであったが、間を置かず肩に掛けたカバンの中から、ブゥン・ブゥンというくぐもった振動音が聴こえてきた。「ちょっとごめんな」と断って慎重にナルトを下ろしたイタチが震える携帯を取り出し通話ボタンを押した途端、『イタチぃ!サスケそっちに行ってない!?』という明らかに気が動転しているらしい母親の声が響く。

「サスケですか?」
『あの子ったらナル君巻き込んでイタチのとこに遊びに行くなんて計画しておいて、全然今どこにいるかを連絡してこないのよ!マメに連絡入れるって約束してたのに!新幹線に乗ったっていうメールしてきたきり何も言ってこないから、心配になって携帯に何度も掛けたけど繋がらなくて……終いには通話不能って言われるし!』
「……なるほど。それはいけないな」
『クシナちゃんは心配で泣いちゃってるし、もしそっちに現れたらすぐこっちに電話するよう伝えて頂戴!』
「それにはおよばないよ、母さん。サスケだったらついさっき、うちの前で捕獲したところだから」

――ん、と兄から差し出された携帯電話を怖々受け取ると、すぐさま耳をつんざくような母の一喝がスピーカーから飛び出してきた。
じぃん、と痺れた耳の奥で、ひんひんとすすり泣くクシナの嗚咽が混じる。

『サスケ!!あんたいい加減にしなさい、連絡するって言ったでしょう!?』
「えっと、連絡しようと思ってたんだけど、そんな暇なくて……」
『何のために携帯買ってやったと思ってんの!』
「……いや、その携帯なんだけど、実はその……壊れちまったみたいでさ」
『なんですって!?壊した!?』
「おばちゃん!!サスケはわるくないんだってばよ、わるいのはオレで、トイレでオレがサスケのちんちんがおとなになったのを……」
「――うわァあぁナルトォォォ!!そんなとこから説明すんじゃねェェ!!」
「そうか、サスケのは大人になったのか。良かったなサスケ」
「……アンタいつか絶対にぶん殴ってやるからな、覚えてろよ……!!」

不敵に笑う兄と無駄な使命感に燃え熱心に説明を続けようとする幼児に、血が昇りすぎたサスケはくらくらと眩暈がしてきた。
遠のいていく意識の中で、『絶対に死ぬほど後悔するってばね』と告げたクシナの声が、天啓のように響く。
ふと丁寧に紡がれた「あいしてる」が鼓膜に蘇り、不覚にも色付いてしまった頬を目敏く見つけた兄は、全部わかったような顔して微かに笑い、再び小さな金色の頭を撫でた。






【end】
サスケ・イタチ・ナルトの掛け合いがどうしても書いてみたくて、勢いで書いた一品。
このクシナさんとミコトさんは大人になってからのママ友なので「ちゃん」呼びです。この晩本当は大人チームは揃ってビアホールに繰り出す予定でしたが、この一件のせいでそれも流れました。代わりにうちは家で缶ビール片手に、おうち焼肉したそうです。(肉を買ってきたのは会社帰りのフガクさん、そしてそれをミナト氏がせっせと焼いてはやけ酒するお母さん達にサーブしました)(東京ではイタチが牛丼をご馳走してくれたそうです)