「――『さんじゅうくどにぶ』!?」
告げられた数値の甚大さに、思わず声がひっくり返った。
ソファにもたれたままだるそうに虚空を眺めている当人は、「……るせえ、ちょっと黙ってろ」などというばかりだ。
「ぜんぜん……たいしたことねえよ。寝てりゃ治る」
「たっ……いしたこと、あるってばよォ!つかお前こんなとこにいないで早く寝ろ!ベッド行け!」
つい勢いでお姫様抱っこスタイルで抱え上げようとすると、馬鹿か、やめろ、と力ない拒否が示された。行き場を無くした両腕が、虚しい揉み手を繰り返す。
「いいからお前……早く、支度しろよ。集合時間、もうすぐだろ?」
そう言う声もなんだか頼りなく掠れ気味だ。乾いた薄い唇に痛ましさを感じたとき、壁の時計がカチリと鳴った。
* * *
サスケが風邪をひいた。
いや、風邪かどうかは正確にはわからないのだが、本人が『ただの風邪』と言い張るのでそう言わざるを得ない。熱もあるし、少し咳が出て喉もひどく痛むようだけれど他の症状はないらしいから、実に標準的な風邪の症状なのだろうけれど、それでも少し熱が高すぎるんじゃないだろうか。
「なあ……病院で診てもらおうぜ?」
遠慮がちに提案したが、即刻却下された。サスケは病院で診察されるのがあまり好きではない。
多分、触診が嫌なのだ。白い肌はとても敏感……いやいや、繊細な神経を張り巡らせているせいか、見知らぬ他人から触れられるのを彼は普段から嫌う。
「サクラちゃんだったらいいだろ?」
「あいつだって今日は任務だろうが。……いいから、俺の事はほっとけ」
ゴホゴホと軽い咳を混じえながらそう言ったサスケは、未だにソファに沈んだままだった。
ぶ厚い毛布を引っ被った中からすぽんと出された顔は、いつもよりも赤く火照っている。今朝飲んだ風邪薬が効いてきているのか、すごくまぶたが重そうだ。
「んーと、じゃあせめてベッド行かねえ?そんなとこじゃ体しっかり休まらないって。寒いし」
「いいっつってんだろ……早く顔洗って、着替えてこい」
お前が出る時に、一緒に移動すっから。枯れた喉から絞り出された声に「約束だぞ?」と念を押し、しぶしぶとソファの脇から立ち上がった。確かに、そろそろ仕度をしないと遅刻だろう。
今朝起きた時から具合が悪そうなのに、何故だかサスケはグズグズとリビングにあるソファから動こうとしない。きっともう、眠くて動くのが億劫になってきているのだ。奥の寝室で寝たほうが、寝心地いいし温かいのに。つい先程使用した体温計も仕舞われず、ころんとテーブルの上に転がしたままだ。
「メシとかさあ、自分で食える?オレ影分身置いてくかー?」
洗面所に引っ込みながら声を掛けると、掠れた声が「いらねー……」と返すのが聴こえた。気になりつつも顔を洗い、歯を磨きながら背を反らしてリビングを覗くと、毛布とソファの間に深く沈んだ黒髪が見える。
「……サスケ?」
そろりと足音を忍ばせて近づくと、掛けられた毛布がゆっくりと上下しているのが確かめられた。
そら見たことか。やはりもう限界だったのだろう。
伏せられた睫毛が熱に震えて、つくられた影が揺らめいている。
(うわー、まつげ、なっげぇ……)
しゃこしゃこと歯磨きを続行しながら、しげしげとその眠る顔をつぶさに観察してみた。
色濃く上品に生え揃った長いまつげは、いつもサクラちゃんが羨望のまなざしで見ているものだ。
うすくかぶさったまぶたは透けるようにしろく、練絹を刷いたような頬は熱のせいで、いつもよりほんの少し赤らんでいる。
乳白色の貝殻をかたどったような耳には、ごくごく淡い繊細なうぶげ。
鼻筋は素直にまっすぐ伸び、細くしまった顎は軽く引かれ、毛布に埋もれている。
……職業柄、人体ってよく出来てんなァと思わされる事はしばしばあるけれど、サスケのそれは、その中でも特に精巧に造られている気がする。丁寧に丁寧に、神様が丹精込めて作った、特別製のからだ。
(なんだろうなー、バランスの問題?いやいや、全部に手を抜いてない感じが違いを生んでるのか?)
なんだか目を離せないままバックで洗面台に戻ると、俺は大急ぎで口を濯ぎ再び眠れる美人の元へと急いだ。お腹の上辺りで毛布を抑えるように乗せられた白い手のひらがゆったりと上下している。
すんなり長い指と形のいい爪先をよく見てから、ふと自分の手のひらを開いてみた。
硬くなった内側。無骨な節と厚みで確かな存在感を示している、オレの手。
太陽の光に容赦なく晒されて、冬だというのに日に褪せた色をしている。改まって彼に伝えた事はないけれど、色の違うふたつの手のひらが重なり合う瞬間がオレは好きだ。シーツの合間で溶け合う指と指を思い出すと、オレの鼓動はちょっと速まり、生理的な熱が集まってくるのを感じた。熱の息を吐く唇を見るとそこは普段よりも更に赤さを増していて、溢れる吐息を拾い上げたくなる気持ちを必死で抑える。
(ダメダメ……これから任務だし。てかこいつ病人だし。療養中だから)
自制心自制心、と念仏のように唱えながら壁に掛けてある任務服を取り、音を抑えながらそそくさと服を脱ぐ。かちゃかちゃと密やかにぶつかる、ベルトの金属音。病人のいる部屋というのは、どうしてこう閉じ込めたような静寂で満ちているのだろう。音という音が普段より、すごく際立って聴こえる。
ようやく慣れてきたカーキ色のベストに腕を通し、前を開けたまま静かに眠るサスケの横にしゃがみこんだ。
こんなに温かくして寝ているのに、全然汗をかいている気配がない。
きっとまだまだ熱が高いのだ。しっかり水分を取らせなくては。やっぱり影分身を置いていくべきだろうか。
(どうしようかな……一体位ならどってことないしな)
清潔な額に指を伸ばし、掛かる黒髪を軽く掬い上げるようにして手のひらをあてると、やはりそこにはまだ随分と熱がこもっているようだった。そのまますべらかな頬に曲げた指で降りていき、そっとひとつそこに触れる。
「――サスケ」
囁くように呼びかけると、「…ん、」という鼻を鳴らしたような甘い声と共に、うすいまぶたがふわりとあがった。長いまつげの下から、濡れたような黒があらわれる。
「寝てるとこ、ごめん。オレ、そろそろ行くから」と告げると、しばらくぼんやりと何か思っていたらしい彼が、小さく「……そうか」と呟いた。一旦開いた瞳は、早くもまた閉じようとしている。
「ほんと、寝室、行こ?ダメだってばよ、こんなとこで寝てちゃ」
「……わかってる」
「影分身、置いてっていい?」
「お前、しつこい……子供じゃねえんだ、ひとりで大丈夫だ」
これ以上重ねて言うのは更に彼の熱を上げそうだったので、オレは仕方なく見張り役を置いていくのを諦めた。サスケは女子供のように過保護に扱われるのをすごく嫌がる。……オレとの行為の役割分担のせいなのかとも考えたが、思い返してみれば同じチームになった頃から彼にはそういう所があったから、別に関係ないのかもしれない。もしかしたら、勇ましい彼は自分の女性のように美しい容姿に、変なコンプレックスに近いものをもっているのかなとも思う。
でも、だからといって世話を焼かれるのが嫌いなわけではないのだ。その証拠に、ほったらかしにされ過ぎると、彼は案外簡単に拗ねる。甘やかされるのは嫌いじゃないくせに、こちらからほらほらと手を差し伸べると、途端に素直に甘えられなくなってしまうらしい。損な性分してんなあとつくづく思う。
……まあ、つまり、対サスケに於いてはいわゆる『さじ加減』を見極めるのが肝要なのだ。
一緒に暮らし始めて三ヶ月。ようやく最近、オレにもその配分が少しずつだけどわかってきた。
あれこれ手を焼こうとするオレがうるさかったのだろうか、しかめつらを咳で更にしかめさせて、それでもようやくサスケは場所を移動する気になったらしかった(約束だぞ、という言葉には律儀に従うのも彼の特性だ)。
大儀そうに立ち上がるのに手を貸してやろうとするが、「いい…平気だ」とすげなく断られてしまい、仕方なくちょっとふらつきながら寝室へと向かうその背中の後ろに、心配性のばあやのように付き従う。
「んじゃ、行くけど……」
きちんとベッドに入り首元までしっかり寝具を引き上げたのを確かめてから、オレはサスケを見下ろした。高熱にとろんと溶かされた目で見上げてくるサスケに胸をきゅんきゅん高鳴らせながらもそう言うと、「…ん、行ってこい」と掠れた鼻声が応える。
「たくさん寝てな?」
「ああ」
「オレ、今日はそんな遅くなんねえはずだから」
「そうか」
「なんかあったらすぐ式飛ばすかなんかしろよ」
「なんもねえって」
「……キスしてもいい?」
「だめ」
いつになく弱った外見でオレの庇護欲をがんがん掻き立てるくせに、口から出される言葉はまったくもっていつも通り。つれない恋人にちょっとガッカリしていると、「…うつるからな」とぶっきらぼうな補足説明が付いて来た。
……おお。いつもだったら無い反応だ。
やっぱりちょっと、心の方も弱ってるのかもしれない。こんなサスケをひとりにしていきたくないなと、布団の端からほんの少しだけ顔を出す、力無い指先を見ては切なくなる。
本当に、今日は早く戻ろう。今日の任務は確かキバとゲンマさんのスリーマンセルだったし、あのふたりとなら、問題さえ起きなければ大概の事はすぐに片付くはずだ。
――そう決意していると、サスケが重たげなあくびをした。
伏せたまぶたはすでにぴたりと閉じられている。もうこのまま、深い眠りへと落ちていくのだろう。
「……いって、きます」
眠りの世界にすでに半分行きかけているサスケを引き留めてしまわないよう、羽音よりももっと小さな声でオレは呟いた。条件反射なのだろう、言葉で返事をするのがもう難しくなっているサスケが少しつまった鼻の奥で「んん、……」と応える。
枕に散った黒髪にどうしようもなく心を奪われつつも、オレはそっとベッドを離れた。
足音を殺して玄関まで行きサンダルを履いて外へ出ると、静かに静かにドアの鍵を掛けた。
「……なぁ。なんか、この後に大事な用でもあんの?」
国境付近でも任務を終え、里まであと1里といったところで、木々を飛び移りながら森を抜けていたオレの後ろから、のんびりとした声が掛けられた。
「へ?」と振り返った先には、口に咥えた千本。ゆらゆらと上下するそれは、長閑な午後の太陽を受けて時折ひらひらと光を弾く。
「……なんでッスか?」
「んー?いやだって、なんか今日お前凄い集中してたし、今もやけに移動するスピード早いし。早く帰りたいのかなと」
千本を咥えたままそう言ったゲンマさんに、オレは「はぁ、まあ」と有耶無耶な返し方をした。下の方から、赤丸に乗ったまま地面を走っていたキバがここぞとばかりに、「あーっ、ゲンマさんオレ理由知ってますよ!」と大声をあげる。
「なんでかっつーとですね、サスケが今日、風邪で寝込んでンです」
「……サスケが?」
「だからコイツ、早く家に帰って病人の世話焼きたいんスよ。そうだろ?ナルト」
上を見上げるキバにしかめつらを見せると、すぐ後ろのゲンマさんが「あーそっか、お前ら一緒に暮らしてるんだっけ」と納得したような声を出した。……別に一緒に暮らしてるのは隠してないけど(付き合ってるってのはサスケの命により箝口令が布かれてるので秘密だけど)、なんでゲンマさんまで当たり前のように知っているのだろう。そんなに有名な話になっているのだろうか。
「なんだよ、気になるなら影分身でも置いてくりゃいいじゃねえか」
「や……だって、アイツが要らないって言い張るから。無理に押し付けると、すげぇ怒るし」
あっけらかんとオレらしい解決策を提案してくれたゲンマさんにもごもごと言い訳すると、ユルい目尻にちょっとシワが寄せられて、優秀な先輩上忍は(さもありなん)といった表情になった。きっと中忍試験の頃の、生意気で突っ張っていた感じのサスケを思い出しているのだろう。
「そうか、サスケが風邪か。あいつ見た目だけだったら白くて細くて、いかにも病気に好かれそうだもんなァ」
そんなサスケ本人が聞いたらさぞ怒りそうなことを平気で言いながら、ちょっと宙を見つめていたゲンマさんは、そのうちにふと、「そういえば、さぁ」と何か思いついたかのように口を開いた。
なんとなく急げなくなった足がますます速度を落としてしまい、ちょっと苛々する。
「寝込んでる時って、なーんか変に心細くなるんだよな」
……ん?
「気が弱くなるっていうの?なんでだろうな」
独り言のような言葉に、斜め下で聞いていたキバが、すかさず「あっ、それわかる!!」と小さく叫んだ。
「オレも熱あってもなんかリビングでうだうだしちゃうんだよなー。んで、ねーちゃんとかにすごい怒られる。早くベッド行け!!って」
なんだキバ、お前結構カワイイとこあんだなと笑うゲンマさんと、「違いますって!」とちょっと顔を赤らめたキバとを見比べながら、オレの脳裏にはまざまざとあるワンシーンが蘇った。
………それ、うちで見ました。今日の朝。
面倒だったわけじゃなくて、本当はサスケも淋しかったんだろうか。心細かったんだろうか。
ふと弱々しい指先を思い出すと、オレは途端に自分の判断に自信が持てなくなってきた。もしかして、『さじ加減』を見誤ったのだろうか。やっぱり強引にでも分身置いてきた方が良かったのかな。
「でもなー、風邪だからってなめてると結構ヤバいらしいぜ?ほったらかしにしてて肺炎になったり、喉の炎症がひどくなって呼吸困難になったり」
どこから仕入れた豆知識なのか、赤丸に跨ったキバはいつにない物知り顔ですらすらと述べた。
喉の炎症?呼吸困難?……思わず今朝のサスケの枯れた声を思い出す。
「あと、菌が腹にいっちまって酷くなると、入院沙汰になったり。『たかが風邪』だなんて馬鹿にするなって、オレこないだ言われたばっかでさ」
だ、誰に?とついこわごわ尋ねると、一瞬きょとんとしたキバが、「サクラ。オレも先週風邪ひいててさ」とあっけらかんと答えた。とびきり優秀な医療忍者の名前の登場に、いきなり話の信憑性と、オレの冷や汗の量がぐぐんと増す。
「それに、脳に菌がいっちまう時もあるんだってよ。なんだっけ……細菌性ナントカ炎?」
「髄膜炎か?」
「あっ、それそれ、それっス!もしそうなると昏睡とか、意識障害が出るって」
――こ、昏睡?意識障害?
「ほら、そろそろインフルエンザとかもぼつぼつ出始める季節だし、病院も患者でいっぱいで。サクラもそっちに駆り出されてて」
「あー、確かに風邪っつっても、もしインフルエンザとかだったら怖いもんな。あれ本当に命に関わるっていうし」
――『命に関わる』?
大袈裟だけれども決して無視できない言葉が、頭の中をぐるぐると駆け巡る。
「まーでも、そんなのはあくまで『万が一』だからな。大概は家でゆっくり静養して、栄養あるもの食べてりゃじきに治んだろ。お大事にな」
――気がついたらいつの間にかくぐり抜けていた「あ・ん」の大門の内側で、ぽん、と肩を叩かれたオレはハッと気がついた。
目の前には、ニヤニヤ笑いの同期と苦笑する先輩上忍。
待機所への、帰還報告は?とうわごとのように呟いたオレに、「いーよ、オレらでやっとくから、お前は早く帰んな」と細められたタレ目に促された。「サスケによろしくなー」とからかいじみたキバのしたり顔にちょっと睨みを利かせ、かすかな目礼を残し踵を返す。
見渡した夕暮れ前の目抜き通りには大人も子供も沢山行き交っていて、色んな匂いと生活の気配に満ちていた。なんだか感覚の鈍い足で、家への道をふらふらと歩き出す。
早々と沈む準備をしている冬の太陽は生々しいオレンジに染まっていて、それはオレの目に酷く不安に映った。地を踏む感覚はだんだん現実感を伴ってきて、その一方で悪い想像は容赦なくどんどん頭に浮かんでくる。
前に出す足が、一歩一歩速まっていく。
そんなわけないと思いつつもありえない妄想は止められず、渦巻くように脳内から溢れてきた。
なんだか息がうまく継げなくて苦しい。ばかばかしい、んなわけねーじゃん、と否定するオレを、馬鹿げた暗い想像が侵食していく。
(――大丈夫。ただの、風邪だ)
……心臓が嘘みたいにどきどきしてきた。
いやいやそんな、だってアイツがどんだけしっかりしてるかってのはこのオレが誰よりも知ってるはずだってば。至極真っ当な声も片隅には確かにあるのに、『最悪の事態』を想像する頭が抑えられない。
(あいつ結構、見た目より頑丈だし)
式は来なかったけど、もしかして寝入ったまま昏睡状態に陥ってしまっているのかも……だから連絡がないだけなのかも。それとも頭が朦朧としすぎて印が思い出せなくなってるとか。サスケが印を忘れるなんてありえないってわかってるけど。
(いきなりそんな怖いこと……なるわけ、ないってばよ……)
でもまさか、ないとは思うけど、朝飲んでいた市販の風邪薬が体質に合わなくて苦しんでいるとか。アイツ大蛇丸んとこで色々薬使ってたみたいなのに全然注意とか読まずにザラザラ飲んでたし。飲み合わせに注意とか特異体質の人は医師に相談とか色々箱にも書いてあったじゃないか。血継限界のくせに(あれってきっと特異体質ってカテゴリーに入るよな?)あんな適当に薬とか飲んで良かったんだろうか。そうでなくとも敏感な体質してんのに。
(まさかサスケに限って、そんなわけねえって……でも、)
――いつの間にか全速力になっていた足は日が沈む前にアパートの前に着いた。
深呼吸して乱れた呼吸を整えつつ、汗で滑る指で鍵を取り出し玄関を開ける。
息をひそめ、足音を殺しながら寝室を覗くと、空気を孕んだ掛け布団がまあるく膨らんでいるのが見えた。緊張しながらそれを凝視して、そろそろと接近する。
仰向けで眠るサスケは、大きな二人用のベッドをひとり占めできるというのに、律儀にもいつも通り左半分だけをつかって横たわっていた。
枕に沈んだ頭を揺らさないよう慎重に手をつき、静かな寝顔にかぶさるように覗きこむ。
鼻先が触れ合う程の距離で、彼の吐息と体温を丁寧に確かめる。
(………………生きてる)
だよな……当たり前じゃねえか。穏やかに上下する胸に、一気に力が抜けた。
当たり前なんだけど。でも、本当に……よかった。心底、そう思う。
耳を澄ませれば、確かに聴こえてくるかすかな呼吸音。
今朝見た時よりも随分と顔色が良くなっている。ようやく汗もかけるようになってきたのだろう、こめかみに張り付いた黒髪が、しっとりとした束になっているのが見えた。
伏せた目に掛かる前髪が邪魔そうでそっと払いのけようとすると、ふ、とその長いまつげが動いた。
ゆっくりと開けられた双眸はくろぐろと湿っていて、遠のいていた光がだんだんと焦点を結んでいく。
「――帰ったのか」
枯れた喉を震わせて、サスケがかさかさの声を出した。
目を開いたら、いきなり視界はほの明るい黄色で埋められていた。
その中で真剣な様子でじいっとこちらを見張っていたらしい滲んだ空色が、ひとつまたたく。
……どうなんだろうな、これ。この距離にすっかり動じなくなっている自分が、ちょっと恐ろしい。
「帰ったのか」
自分の声が鼓膜に変に響く。うお……声がガラガラだ。喉痛え。
「――うん」
緊張していた表情をほどいて、何故かほおっとした様子で返事をしたナルトに、ちらりと時計を確かめながら「早かったな」と告げた。まだ夕方前じゃないか。そんな簡単な任務だったのか。
「……近いぞ、ナルト」
とりあえずおもむろにそう告げると、至近距離のナルトは離れる事なく、「うん」とだけ答えた。
「うん」じゃねえだろ、「うん」じゃ。これじゃ風邪菌くださいと言ってるようなものだ。
「……そんな近くにいたら、うつるからな」
「うん」
「明日も任務入ってんだろ」
「うん」
「いいのかよ、うつっても」
「うん」
「……まあ、うつらないかもしれねえな、お前なら」
「うん」
「ナントカは風邪ひかねえっていうし」
「うん…………」
お前、さっきから、「うん」ばっかだな。
そう言ってカサカサな笑い声を上げたオレに、ナルトがもうひとつ「…うん」とはにかんだ。
すり寄せられてきた頬が、冷たくて気持ちいい。外はすごく寒かったんだろう。
だから、うつるっていってんだろ、と言いつつ、風に煽られてぱさぱさになった後ろ頭に、寝起きで緩慢とする指先を差し込んだ。日の光を沢山吸い込んだ、ナルトの持ち込む外のにおい。触れた先にしっとりとした湿り気を感じる。……また随分と走って帰ってきたんだろう。大丈夫だって言ったのに。
俺のすぐ横、枕に顔をうずめたナルトが、ずず、と鼻をすするのが聴こえた。
ほら、言わんこっちゃない。だからうつるって言ったじゃねえか。
呆れ半分、すまなさ半分で、オレは近くに置かれたティッシュに手を伸ばした。鼻を赤くするナルトに箱ごと渡してやりながら、今日いちにち空いたままだった、ベッドの残り半分をなんとはなしに見る。
(……明日はふたりして、欠勤かもしんねえな……)
まあいいか……たまには、それも。
鼻をかむナルトをぼんやりと見守りながら、熱でふやけた頭のまま、オレは思った。
【end】
リクエストで、「眠るサスケと、そんなサスケに後ろ髪引かれつつ任務に出かけるナルト」でした。
なんとなくこのふたりって外での戦いで死ぬ事はお互いまったく心配してなさそうですが、病気とか家の中で寝込んだ途端、気にかかってしょうがなくなりそうな気がします。信用の方向性が謎、とか周囲からは思われていそう。
「神は小さきところに宿る」、よい言葉ですよね。普段大雑把に生きているので、折々で思い出しては反省しています……