手紙

普段であれば決してそのようなことのない私が、珍しく聞き漏らしてしまったのは表の雨のせいではなく、そのお客がやってきた最初の晩からずっと、ひとかたならぬ無口な人物だったからである。

「え? すみません、もう一度」
「だから筆と――何でもいいので、なにか書きつけできるものを。貸してもらえないか」

墨を溶かしたような上下を着たその人は、静かな口調で繰り返す。受付の脇にある階段を使い、彼が二階から降りてきたのに当然私は気が付いていたが、でもまさか話しかけられるとは思っていなかったので完全に油断していた。宿帳に書かれた年齢を信じるのならば年は十七歳。でも雰囲気はおそろしく物静かで、黒ずくめの旅装や仕草は整然としているのに、なぜか頭だけは不精なのか、整えられないまま全体に髪が伸びるに任されていた。
改めてまじまじと、その顔を眺める。髪で上半分が見えなくなっているが、たぶん全然悪くない。
細い顎、小さな口。半端に長くなった前髪が隠すその瞳はよくよく見れば一方が黒で、そしてもう一方は澄んだ菫色だ。

「書きつけできるもの、というと、白い紙でよろしいでしょうか。それとも便箋のようなものの方が?」

一度は意表をつかれたものの、すぐに戻ってきた調子で確かめると、彼はなぜか口ごもり、やがて「……いや、いい。ただの紙で」と小さく言った。メモ程度の、そんなに大きくない紙で充分なんだが。そんなふうに続けると、どこか居心地が悪そうにまた黙る。

「メモ」
「……」
「メモに使われるんですか?」
「いや……そうじゃないが」

やっぱり歯切れの悪い言いぶりに(じゃあなに?)と首を傾げていると、そんな私に観念したのか、彼は小さな溜息をついた。……手紙の返事を、書かなくてはならなくて。開示された内容にちょっと目が大きくなる。へえ、意外だ。いかにも他人と馴れあうのは好まなさそうな彼なのに。

「ああ、そうでしたか! ではやはり便箋を」
「だからそれは要らないと言っている」

今度こそはっきりと言うお客に、番台の下に常備されている宿の便箋を、さっそく取り出そうとしていた手が止められた。飾り気はないが乱暴ではなかった彼の、存外強い口調に、腰を折ったまま思わずぽかんとその顔を見上げる。
こうして下から覗くようにして見上げてみると、やはりというか思っていた以上というか、その顔立ちはちょっとびっくりするくらい綺麗なものだった。口の開いている私に気が付くと、幼さの欠片がのこる唇がそっと噤まれる。そうして脇で自然におろされていた右腕が動くと、声を大きくしてしまった自分を恥じるかのように、所在なさげに揺れていた左の袖を掴んだ。――と、そこでようやく私は気が付く。この人、左の腕が。宿にやってきた時から見かける時はいつも黒い外套を着ていたから、情けないことに今までずっと気が付かなかった。

「……そんなに書くこともないんだ。だから」

小さな紙で、と言う彼はそこまでくると、これ以上はもう話すことはないとばかりに静かになった。固くなってしまった肩の向こう、開け放ったままの宿の入り口からは、薄いグレーで塗られた雨が跳ねる表通りが見える。
三日前から降り続けている雨は乾燥のきついこの季節にはうれしい『お湿り』ではあったが、閉じこもった人々をからかうかのように、強くなったり弱くなったりを繰り返していた。そういえばこのお客が来たのも、雨が降り始めた晩だった。手紙といっても滞在中に届いた気配は感じられなかった。となると返事を書くというその手紙はここに来る前から、受け取ったまま彼の懐で留められていたものなのかもしれない。

「――かしこまりました。では、こちらをお持ちください。返却はご出立の際にでも」

そう言って片手で持てる小さな盆に筆と墨壺、それから道を尋ねてくるお客に渡す時などに使っている比較的ちゃんとした紙でできたメモを数枚添えて差し出すと、彼は黙ったまま少し考えていたようだったが、結局はぺこりと軽く頭を下げ受け取った。
右の手でそれを持ち、用の済んだ彼がゆっくりとまた来た階段をのぼっていく。しばらくは私もサンダルの足が湿った木板を軋ませるのを聴いていたが、そのうちにやはり思い立つと、番台を飛び出した。
あの、という呼びかけに階段を半分以上のぼり終えようとしていた彼が、音もなく振り返る。

「次に行かれる先、決まっていますか?」

突然の問いかけに彼は一瞬怪訝そうにしたが、すぐに何かを警戒するようなぴりりとした気配に変わった。
いや、まだ決めていないが。
淡々と、むしろ突き放すような響きで返ってきた言葉に、ちょっと深く息をする。

「表の街道をそのまま南東に三里ほど行ったところに、交易で栄えている大きな街があります」

覚えやすいようにゆっくりと、ことさら明瞭な口調になるよう気をつけ、私は言った。

「その街の門をくぐって、目抜き通りをまっすぐ歩きながら二つ目の角を右へ曲がると、入ってすぐの所に文具店があります。目立たない店ですが少し特別なものや、珍しい商品を扱うのが得意な店です」

そこならば旅先でも持ち歩きやすい筆や、片手でも扱いやすい道具も揃っているかと。
そう伝えると、そこでようやく彼も私の意図したところがわかったようだった。ああ、でも…と少し曇る声で言いかけるのを遮って、もう一度私は深呼吸をする。

「お返事。たとえひと言だって、私ならうれしいと思います」
「……」
「そうしたらまた次には、そのうれしいっていう気持ちをのせた新しいお手紙が――きっとくると、思うので。だからいつでも返せるように」

あと、もったいないからその前髪ちょっと分けて流しましょう。絶対素敵だから。
最後にそう付け足すと驚いていたようなその顔がむうっと口を引き結び、次いでバレるかどうかというささやかさで、(…チッ)という舌打ちが聴こえた。雨にゆるんだ風がしっとりと外から入ってくる。そのままなんとなく動けないで階段の上下で対峙し続けていると、ややあっとしてから微かな溜息と、彼からの無表情を取り繕ったような声がする。

「――わかった。考えておく」

白い踵がまたきしきしと、残りの階段をのぼっていく。
やがて見えなくなってしまった後ろ姿に、惜しむ気持はすぐに湧いてきたが、ほんのりとした笑いで丁寧にそれを仕舞い、私はすっかり水浸しになった外に目を向けた。




【end】
ワンドロで書いたものをこちらに収納。お題はタイトルのまま「手紙」でした。
スケのあの髪、輪廻眼を隠すために伸ばしていたにしても、あの長さになるには途中があった筈だよなという妄想…アニオリの結婚式話の時に彼が「寿」だけ書いて寄越したのを思いつつ、最初はお返事書くのもすごい躊躇ったんじゃないかと。
利き腕を失ってからはしばらくは文字を書くのもたぶん練習が必要だったはずで、そこからの毛筆なのかな、とか。でもNにはそれを悟られたくなかっただろうな、とか。うまく書き込められなかったのですが、そういうところも含めての小話でした。